2014年08月23日

トラン・アン・ユン、2010、「ノルウェイの森」


ノルウェイの森 [DVD] -
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少し前の日記で「村上春樹のテーマの中には『女の中には自分でも制御できないものがあってどんなに親密になってもそこは制御できないし分かり合えない』があり、ノルウェイの森もそういう話だったかもしれない」と思って借りてきたわけだけど、結果的にそういうことでもなく、むしろ「めくらやなぎと踊る女」に近かったのかなあと思った。


幼なじみ的に育った3人の男女、男女男の組み合わせの中で一方でカップルが出来て、死と性が近くて、喪失を通じて…。

そういうモティーフは他の作家にもあるけれど、村上春樹がそこにこだわるのは実体験的な何かがあるからなのか、それとも、このモティーフを借りると死-性-生-自分などのテーマが掘り下げやすいからなのか…。


そのへんはよくわからないのだけれど、「女の中のわけのわからなさ」というのも少し描かれていたようにも思った。



というか、「ノルウェイの森ってこんな話だったっけ?」とあらためて。


だいぶ前に読んだのだけれど「奔放な性を前面化したバブル的な通俗小説」なイメージもあったのか、なんか印象に残らなかった。「たしかにみょーにセックスシーン多いな(ストーリー的にセックスに至るための必然性があまり感じられなくいきなりセックスになる)」という印象があったようにおもう。

それで特に印象に残らずに「読んだ」的な物語だった。


なので、ほんとにこの物語を詳察するならば原作を読み直してから本作と比較して読むのが良い読者というものなのだろうけど、そういうのもめんどくさいので「トラン・アン・ユン監督の作った作品」として消化した。

そういうわけで以下の感想も映像作品としての「ノルウェイの森」に対するものとなる。



全体を満たしているのは最初の喪失、幼なじみの男の子の喪失で、その子と恋人関係になっていた直子に憑いた死の影を巡っての話。


早い話が「わけのわからない形で大切な人を失ってしまってメンヘラになってしまった女の子を巡っての物語」。


でも「メンヘラ女」として異化−その大変さをクローズアップするのではなく、主人公の青春期の性-自我の成長の揺れに合わせてそういった問題も重大事としてあった、という形で物語は展開していく。


全体を通じてセックスが多いように感じるのはその喪失を埋めるための方法がそれ以外になかったから、言葉だけでは埋めきれなかったから、というように解釈された。



たしかに、論理や正しさだけでは伝わらないものを肌の温度やそれを通じた自己肯定のようなものが埋めてくれることもあるので。




なので主人公と直子は必然的にセックスすることになる。

性描写もそういった背景を伴った緊張感や距離感をもったものに感じられた。

簡単に言うとAVなんかでよくある喘ぎすぎみたいなものではなく押し殺した吐息になるようなの。


そういったセックスを通じて、何回も肌を合わせて直子が回復していく、あるいはギリギリ保たれていく、というのがこういった物語の常道かなあと思えたのだけれど、主人公には新たな恋人の可能性も示唆される。

こちらの女の子は村上作品ぽい洒脱さをもった子なんだけど、この子も家庭の愛情に飢えていて、恋愛-性というのはその自己肯定感の喪失を埋め合わせるためのものとはっきりと言う(cf.「わたしが付き合いたいのはわたしがどんなにわがままを言ってもニコニコとそれを叶えてくれるような人」)。

それは自己肯定感の低いこじらせ女子のお試し行動として現在では知られてるものだけれど、小説を読んでいた当時はそういうのはわからなかった、かな。あるいはそういう描かれ方をされていなかったかもしれない。


ともかく、ふつーの健康な男子の性-自我の成長過程の物語における「ふつーの恋愛」的可能性としてそういった女の子が設定される。ふつーの女子っていうかちょっとこじらせは感じられたけど。



主人公の物語中間での迷いのようなものはその辺りにあったのだろう。


「直子を放っておけない」「でも気になる」「直子の精神状態だけではなく性的関係としても」「幼なじみとしても」「でも、自分の『ふつー』の性、恋愛も担保すべきなのではないか?」


主人公が慕っていた先輩、理知的に明晰で時にものすごく高尚なことをいうのにどうしようもない俗なところも併せ持つ、はそういった可能性の回路(モデル)としても設定されていたのだろう。


人間は理知だけではどうしようもないところがあって、それを一段高いところから俯瞰・相対化しているような視点を持ったもの。



しかし俗な部分、性的だらしなさがドライブしていくことのどうしようもなさについて陰で含羞を抱えているような。


その含羞さえ不要な自意識、ナルシシズムとして切り捨てようとするマッチョイズムみたいなの。


彼の恋人が彼に尽くしつつも裏切られていたことを留保していたのはその含羞の部分に期待していたからかなと思うのだけれど、だとしたら別れの理由はそのことについて問うたとき「そんなものはない」とはっきりと言われたからかもしれない。それも彼の美意識のやせ我慢だったのかもだけれど。




閑話休題




主人公はそのようにして性を通じて「女」と出会っていく。


あるいは、女を通じて性と自分を発見していく。




その道程で直子は結果的に死に引き寄せられていく。


「彼が死んだ理由が最後まで分からないの」「彼のことは本当に好きだったの。でも…濡れなかったの。彼とは何度も試したんだけどダメだったのよ。だからわたし口や手でしてあげてた」「キミとも最初の一回以降は濡れないの。痛いの…」


心では繋がりたいと思うのに肉体が開いてくれないというのは、人によっては運命によって自分が閉じられていくように感じられるのかもしれない。あるいは本当のワタシのようなものが自分の好きや進もうとしてる道を否定しているように。


逆にそういった情況で肉体が反応することで思ったよりも自信につながることもある。

そういうのは女性だけではなく男性もあることだけれど(老いも交えて)。



直子をとどまらせることができなかったのは俗には「濡れなかった」「セックスが出来なかった」からなのかなあと思える。


その部分で若い主人公としては悔恨のようなのを抱えていくのかなと思うけど。


喪失を埋めるべく一人旅でボロボロになって海際で叫び声をあげることで、そこもそれなりに区切りがついたのかもしれない。


あるいは直子を失ったもの同士がセックスという儀式を通じてそれを埋めることで。




もし直子が「濡れ」ていて身体の関係を中心にとどまらせていたとしたらどうだっただろうか?



そこでもかつての死んでいった恋人への義理のような申し訳無さが発生してけっきょくはダメになっていたかもしれない(彼には濡れなかったのにこの人には濡れてる)。


あるいは、そういう逡巡も割り切り、肉体的快(エロース)を踏み台に自らの生を獲得していっていたかも。主人公が慕っていた先輩のような俗(現実-肉体)と高尚(精神)の割り切り的なタフさを持つことで。




遺された主人公に最後にセックスや恋愛が提示されたのはそういう俗な部分からリズムを作って「生きろ」-「生きていこう」とする表れだったのかも。


彼がこの先、この問題をどのように消化していくにしても、とりあえず現在を生きていくために。






物語の構成としてはだいたいそんなことを思った。



それとは別に全体の色調、音楽、シーンの構成などから死と性と生のダンスが閑かに感じられて、自分としては心地よかった。






posted by m_um_u at 18:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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