2007年04月27日

芸術的なものへの参加資格について (関係性の再構築 承前)

The artist is a receptacle for emotions that come from all over the place: from the sky, from the earth, from a scrap of paper, from a passing shape...
-- Pablo Picasso



The significant problems we have cannot be solved at the same level of thinking with which we created them.
-- Albert Einstein, (attributed)



In heaven all the interesting people are missing.
-- Friedrich Nietzsche



I'm tired of all this nonsense about beauty being only skin-deep. That's deep enough. What do you want, an adorable pancreas?
-- Jean Kerr



All animals are equal but some animals are more equal than others.
-- George Orwell, "Animal Farm"



There are two kinds of light--the glow that illuminates, and the glare that obscures.
-- James Thurber



Derive happiness in oneself from a good day's work, from illuminating the fog that surrounds us.
-- Henri Matisse




A gentleman is a man who can play the accordion but doesn't.
-- Unknown






 関係性の再構築に関して。<再帰的近代の課題を越えて関係性をもう一度構築することは可能か?(関係性の脱構築 / 構築)>、<その際模索する関係性はなんらかの歴史的なつながりを前提としないと成り立たないのか>という課題についていくつかの線から考えてみようと思っていた前段階として小田センセにちょっと質問してみた。

 んで、お答えいただいて、その答えがなんか別ルートにつながったなぁということで、今回のエントリは<関係性の再構築>の前段階として、「関係における相互理解の前提条件とは?」みたいなことについて。

 あるいは関連として、相互理解を可能にする<器>についてちょっと考えてみたいと思う。



 んじゃ、まずここから

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:オリエンタリズムと対話的自己について


ぼくは「メタな位置をとることによって対話の可能性を排除してしまうことの損失は情報力が少なくなることにある」ように思うのですが、……「対話(あるいはそれを通じた対話的自己)を排除することによって自己の代替不可能性を否定する」というのはどういうことでしょうか?『対話的関係からしか生まれない』とされているのですが、これは「自己の代替不可能性は他者との関係性によってのみ浮き上がってくる」ということでしょうか?

ぼくはそのあたりは少し慎重な態度をとります。前提として、自己の確立(あるいは情報収集)のために他者との対話が有効なことは分かるのですが、その際、ただ「おしゃべりしとけばいいやー(ともだちいっぱいのほうがいいよー)」というのもどうかなぁ、と。、と。他人との関係を重視しすぎてそちらに流されてしまうんじゃないか、と思ったりします。んで、ある程度自己が確立したもの同士でないと対話は成り立たないように思うのですが・・・どないでしょう?



 そんで、お答えの内容を要約すると、

「“自己の確立”って言ったってその“自己”自体がひどく曖昧なもの。質問の前提としては“自己が確立してないと他者に引きずられてキケンでは?”というものがあるように思うけど、むしろ自己を定めてしまうことによって比較の対象ができてしまうからいろんなコンプレックスが出てきてしまうのではないか? <私>っていうのはそんな確立したものではなく、他者との関係の中で浮き立つもの(交差する場としての<私>)ぐらいの認識のほうがいろいろ楽なのでは?」

 とのこと。


 まとめながら気づいたけど、これって蟲師に出てたナガレ橋のことだ


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 川が増水するたびにいつも壊れてしまう橋があって難儀してたんだけど、「水流にも負けない強い橋を作らなきゃ」というところから発想を変えて、『増水してくれば渡し板の片方を外し 水の流れるままに泳がせ 水が退いたら元に戻す』ことによって壊れない橋を作った、っていう話。


 この話自体も兄の才能に自分比較して悩む男の話だった(それでナガレ橋を作ったことによって開放された(?))。



 ポイントとしては2点あるように思う


 1点目は「ナガレ橋のようになにかに対して定まった自己を作るのではなく、ナガレの強さを受け流すことが必要」ということ

 2点目は「主人公がなにかを作ったことによって開放された」ということ


 “なにか”というのは兄の才能に勝ったということではなく、なにか、自分で納得できるものを作れた、ということなんだと思う。



 もしくはちょっと違うかもしれないけど、サイバラさんの上京ものがたりなんか思い出したり



上京ものがたり
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 東京に踏んづけられ蹴飛ばされるだけだった「私」、他人にコンプレックスをもっていつも周りに悪口ばっか言ってた「私」が、自分の好きなことで仕事をもらうようになって自信をつけ「東京にありがとう」っていえるようになった、って話。

 その仕事はエロ本のちいさなカットっていう仕事で、自分の絵がうまいわけじゃないっていうのもよくわかってるんだけど、そこから出発していろんな仕事が入ってくるようになってちょっとだけ自分に自信を持てるようになって、読者の中には「しんどい気持ちが救われる」って言ってくれる人もいて・・・そういう中で<私>ができあがっていったというか、<私>の場所というものができていった。

 
 なにかを発信することによって人と繋がり(business)、「世の中から必要とされている」(役に立ってるのかも)ということの目に見える形の対価としてお金とかファンレターとかをもらうっていう。これが自信につながっていったのだろうなぁ。


 ってか、やっぱお金って大事だ。


 「お金が全て」ってわけじゃないんだけど、現代日本である程度心に余裕を持つためにはやっぱりお金が必要なわけで、その部分を「自分の力」でなんとかしたってところが自信に繋がったんだと思う。





 で、最初の話に戻るけど、


 では、関係性(あるいはコミュニケーション)の前提条件としては「自信」というものが必要になるのか? その前段階として、お金とかファンレターみたいなメディウムを通じて「信頼」を実感する必要がある、と?


 そこまでいかなくても日常生活レベルでも「信頼」を媒介するなんらかのコミュニケーションがあるように思うけど、ちょっとその辺は保留で。


 「創作と自信」、「創作と相互理解(コミュニケーション)」関連でこんなエントリが目に留まったのでちょっと繋げてみよう。



日日ノ日キ - いい子ちゃんわるい子ちゃん

 

 全体の主旨としては、

「今の時代。この最適化された世の中で生きにくいと足掻いている人たちに向けた何かが圧倒的に足らない」



 ってこと。

 連想するのは「スーパーフラット」な話とそれに対するサンボマスター的なもの。


 ぼくの理解的にはスーパーフラットさんは、「世の中、元々サブカルチャーってよばれてた下のほうからせりあがってきて、上も下もないような価値基準になってきてるよ」、って言って、自分のお仕事(というか交渉)を正統化しようとしているように思われるんだけど、「それってどうなの?」って思う。 

 「下からせりあがってきてる」のも確かにあるかもしれないけど、君達が属する「上」(?)の部分が落ちてきてるんじゃないの・・?


 「下からせりあがってフラットになってきてるからもー“楽しければいいじゃん”なんスヨ。“楽しく”て“かわいい”。これッス! 実際売れてるわけだし」、とかいうのは単なる言い訳にしか聞こえない。

 たしかに「売れる」ということは重要だし、それはそれとして努力が必要なこともわかる。でも、それは「売れる技術」(交渉術)であって、「なにかを作る技術」ではない。


(※こういう言説を弄すると売れない人間のルサンチマンのように見えるかもしれないけど、別にオレこの分野で金稼ぐ気ないから勘違いはやめてね)




 っつーか、スーパーなフラット氏がなぜこういうことを言っているのかよく分からないのだけれど、


反『芸術起業論』 村上隆のビジネスコンセプトを反転してみる。 - アート資本主義


 それはぼくの勘違いということか? フラットさんも最初から「売れればいいじゃん?」なんて言ってない、と?


・・彼の言説とその活動内容(あるいは周囲の声)をずっと追ってきたわけではないのでよくわかんないけど、まぁ、とりあえず「評価基準は“金”以外もあるゼ?」、と


 ・・ふーん


 個人的には売れてる人が若手(あるいは売れてないけどなんか持ってる人)を応援するシステムに還元すべきだと思うけど、まぁ置く。




 んで、そういう「売れるもの」(人気のあるもの)以外で創作活動っていうか人の営為(Art)を評価する基準とはなにか?

(※いちお註。Artってのは元々「お芸術」だけじゃなくて人の営為によって出来上がった作品・あるいは術理全般をさす言葉なので。うちのサイトではArtという言葉は、「 営為活動、あるいはそれによってできあがった成果物全般」、として用います)


 この辺は前にここで検討した限界芸術的なものなんかが当てはまるように思う。


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム


 別にmarginalなところになくてもいいんだけど、なんらかの想像性や創造性の痕跡がみられるようなもの。そういうものがArtとしての新規性に当たるように思う。

(※想像性と創造性についてはこちらを参照ください)


muse-A-muse 2nd: 「クリエイティブ」とはなにか?(「センス」、「想像力」、「創造力」について)



 そんで、そこにビジネス的なものが関わり、世間の評価というか要求仕様というか、そういうものに対するプロとしての責任意識が重要なように思う。
 
 ケツをまくらず修羅場や土壇場をいくつ越えてきたか、というところで真価が決まる。それによって創作者自身にも実力がついていき、それが自信に繋がっていくわけだし。



 創作物がある特定の人々を対象としていてなんらかの配慮が必要な場合、そういうことができる(配慮と創作(発信)のエゴを調節する)ということが発信する側の責任であり、なんらかの創作物というメディウムを通じてギロンの場に参加する際の最低限のマナー(資格)であるのだろう。

(※創作者の資格についてはこちら)

muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(2.1): Sound and Fury




 で、


 そういういわば「プロフェッショナリズム」のようなものとは別に、吉田アミさんが言うような「悪い子ちゃん欲求」っていうのがあって、これはこれで重要だなぁ、と。


 それはなにも責任放棄とかそういうことではなくて、なんらかのpure artみたいな創作物の場合は特にそうなんだけど、創作者のエゴをなんらかの形でアウトプットするということがオリジナリティに繋がるところがあるように思う。

 元々、創作業界なんてのは社会全体からすればヤクザな商売で、publicな圧力(ステレオタイプ的な世間知)に対して、自分の中の欲望(エゴ)をどう叫ぶか(表出するか)というところに主眼があるわけで、そういったエゴの部分というか魂の声のようなものが聞こえない創作なんてのは単なる模倣に過ぎない。


 その際、エゴをそのままむき出しの形で出してると単なる○キチ扱いされてしまうので、自分が定めたなんらかのルールに則って表出することが必要になる。ここで見られる蓋然的なルールとエゴの緊張関係のようなものこそがこの領域での評価ポイントとなるように思う。



 そういや宮台さんもちょうど似たようなエントリ出してたな


「悲劇の共有」と「叙事への意志=叙情否定の意志」の関係について記しました - MIYADAI.com Blog



 「劣化コピーが多くなってきたね」、と。んで、「やっぱ他者性(エゴ)がないとね」って感じか。でも、映画市場全体は「上げ上げ」らしい。


 宮台さんとしては郵便的偶発性みたいなものをもったものが他者性(≠独創性)に繋がるって感じだけど・・さて、どうでしょうねぇ

(あと、art的なものが増えるためにはきちんとした評価が必要、と)




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関連:
インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - ハンス・アビング『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』(grambooks)


※っつーかpure artを含めてart活動全体にはお金がいるわけで、その辺は考えないとね、と









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追記:
それで吉田アミさんもちょこっと言ってたけど、「お芸術」とか高尚なものではなく、けっきょく「そうせざるを得ないもの」というのがあるように思う。


別にやりたくないけどそうしないと狂ってしまう、っていうか、なんか苦しいのでそういうものを固まりにして吐き出さずにはいられない人々、ってのがいる。(雑誌なんかに載ってる「ホントノジブン」みたいなのを目指して自己を確立するというよりは、自己に向き合い、そこに還って来る人々)


草間弥生なんかもそんな人みたいで、「生きる歓び」(保坂和志)にそんな話が出てたな。



なので、こういう人々は「えらい人」ってよりはマイノリティって感じで、そういう人々が生きやすいような環境、そういう人々が共感できるような創作物が交換されるような環境を構築・維持することが必要なのだろう



あと、スーパーフラットだけど、「全てがフラットになる」というよりは「でこぼこになる」ということだと思う(グローバリゼーション  ⇒ フラット化みたいに)



タグ:関係性 art 責任
posted by m_um_u at 11:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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