2007年04月24日

<ヒロシマ>ということ

 まだ少しくすぶっているものがあるようだ。なにか、イライラしたものが頭の中にたまっている。とても微細でなにを対象としているのか明確な言葉で浮かんでこないので、もう一度、吐き出しながら確認してみよう。


 このエントリはここからの続きです


極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ


muse-A-muse 2nd: ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?



 そして、コメント返していただいたが、

この問題、パティキュラには以下にかなり思いを込めました(たぶん、伝わった人は少ないでしょうし、しかたありません)。
 
  極東ブログ 空想過去小説「チーズとバギウム」(2004.08.06)
  http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/08/post_5.html
 
仏教との関連、および平和思想という観点で言えば、非常に難しいのだと思います。この問題はダライ・ラマを責める問題ではありませんし、むしろ、日本に仏教があるのか?という問いも内包していると思います。



 なにか釈然としない、こちらのコメント欄にもいちおお返ししておいたが


リンク先確認しました。たぶんこのエントリが出されたときに読んだ記憶があります。ロシアとの関係も存じております。その上で外交的関係や finalventさんの思いのようなものも理解していたつもりです。仰るように極東ブログの今回のエントリにしてもメインは「日本に仏教はあるか?(その中に内包される善性あるいはその逆転としての悪とはいかなるものなのか?)」ということであるということは分かっています。

その上で「あんまりではないか」と思ったのです。

ダライ・ラマの発言がどういった影響力を持つか、どのように利用されるかは考えて然るべきなのではないでしょうか?(部分的に、都合の良いところだけ抜粋されて利用される危険性を)

ぼくはアメリカの一般(もしくは少しマシ)の知識層に対しては偏見を持っていますから、このような発言を彼らが良いように解釈し、利用する場面を思うと腹立ちを禁じえません。「原爆が落ちたことさえ知らない」あるいは「原爆を落としてもそれは仕方のなかったことだ」と真顔で、ヒロシマという場で言える彼らの無神経さを思うと、どうしても腹が立って仕方がないのです。

その言説はヨーロッパ人と話したときにも影響していると感じることが少なからずあります。(ぼくが会ってきた人々が特殊なのかもしれませんが)


影響力を持つ人が発言するときにはそこまで気遣って然るべきなのではないでしょうか?もしくは現在でも苦しんでいる被爆者(あるいは被爆者とさえ認められない人々)のことを思うぐらいの配慮があってもよいのではないか、とぼくは思います。



 それでもなにか釈然としないものがある。


 たぶんこれでも伝わらないのだろうと思う。



 
 finalventさんが過去に紋切り型の共産主義運動の力を借りた平和運動に参加されて、その暴力性に辟易したというのは知っている。だからこそ「平和」という言葉に敏感なのだろう。

 彼らが自分達の「平和」を押し通すためだけに「ヒロシマ」や「ナガサキ」の表象を都合よく利用し、その実、実際に被害にあった人や「オキナワ」や「トーキョー」といった同じように暴力を受けた人々に対しては無関心に近い態度を示していたこと、現在でも国内ではびこる暴力に対しては無関心に近い態度を示すこと、自分達の「平和(エゴ)」を押し通すために国際的なパワーバランスや経済バランスを無視した発言をすること・・・その無神経さというのはぼくも理解しているつもりだ。


muse-A-muse 2nd: バカサヨク、バカウヨクについて


 だからといって、「それは日本固有の善性への偏りであって特殊例だよ」(cf.<正義>という名を借りた暴力性)とか「実際にロシアが迫っていたのだから仕方がなかったのだよ(その中で日本の政府もロシアに助けを求めていたり)」と言えるのか。


 そのセリフを実際に死の床に瀕している被爆者を前にして言えるのか?

(あるいは「被爆者」としても認めてもらえない人々の怒りや不安、失望を前にしてそれを言えるのか?)



 finalventさんはダライ・ラマの言葉を引用しつつ、そこから思考実験をしようとしただけだし、なにか責任のようなものがあるとしたらダライ・ラマのほうにあるのかもしれない。

 しかし、finalventさんは「チーズ」の例を出して「仕方ないじゃないか?」というようなことを言っておられるようだが。



 本当に「仕方ない」ことなのか?



 よしんば「仕方ない」ことだとしても、それをあなたがたに言う権利があるのか?



 冒頭でも少し言ったようにこういうギロンの進め方、<ヒロシマ>という名(言説)を借りたギロンの進め方がある種の非対称性をはらみ、感情論に基づいた世間的共感を伴った一種の暴力性のようなものを持っていることは理解している。そして、そういった言説を用いることを心苦しく思うが話を続ける。


 というより、ぼくがいま感じている感情や行っている言説活動というのは「暴力」と言えるのだろうか?


 「暴力」とは、物理的力なり論理的思考力なりに基づいた一定の力の中での関係の非対称性を前提とすると思う。つまり、「相手が反撃できないような状況でこちら側の要求なりエゴなりを相手に一方的に突きつけること」、が暴力行為に当たる、とぼくは思う。


 翻って、ぼくがいましていることは「暴力行為」と言えるのだろうか・・・?



 「<ヒロシマ>の名(とそれに付随するイメージと共感)を借りている」、から?


 それによって「他者」を一方的にとっちめようとしているから?

 


 冒頭でも言ったように、ぼくはそんなつもりはない。




 ただ、心の中にある「もやもや」を確認したいだけだ。



 その「もやもや」を自分だけが感じるものなのかを。他者とは共有できないものなのかを。

 


 では、続けよう




 finalventさんは沖縄にある程度コミットされてそこでの惨劇や、それに対する沖縄の人々の気持ち、あるいは現時点での沖縄人のアンビバレンツな感情というものに一定の理解を示されているように思う。

 沖縄といえば最近教科書における歴史修正が話題になっているようだ


激高老人のぶろぐ: 教科書検定と幻想の共同体


 自民の「歴史教育を考える会」の影響で沖縄に関する記述が書き換えられるらしい。



 これなんかもfinalventさんから見れば、「そうはいってもうちなーはただ怒るだけではなくてびみょーな感情を持っているよ。ないちゃーが一方的に怒って政治(運動)的に利用しようとしているだけ」、という面もあるのかもしれない。


 しかし、それは「ないちゃー」が言うべきことなのか?

 「言うべき」というか言っていいことなのだろうか?



 そこまでは言わなくて単に「こういう歴史修正はうちなーにとってはキツイよね」ということになるのかもしれない。だとしたら同じことがヒロシマに対しても言えるのではないか?
(そこでの歴史的な事実関係についてはとりあえず置く)





 そして前段の「言ってよい権利」関連について。これは以前にmeruさんが少し考えておられた


Sound and Fury.::メルの本棚。 - 「恵まれた」人間は、社会批判をする資格がないのだろうか


 そういうことではなくて、単に鈍感な人間が言うと当事者の気持ちを逆撫でしたり、事実認識と異なることを言ってそれが余計に当事者の気に障るということなのだと思う。


 ここで書かれているように「恵まれた層」も「恵まれてない層」も共感し、共闘していくことが望ましいのだけれど、それ以前に「鈍感な人を受け入れられるかどうか」という当事者(あるいはある程度問題にコミットしている人)の思いがあるように思う。



 では「しろーとはすっこんでろ!」ってことになるがそういうことではなく、やはり少しは当事者の気持ちに配慮して欲しいということだ。



 
 たぶんこの「当事者の気持ち」というやつはなかなか伝わらないのだろうから、下品でためらわれるが、分かりやすい(共感を呼びやすい)と思われる例を挙げさせてもらう。

(※関係者の方々には申し訳ないが、続けさせてもらう)


強姦:特急内で暴行、容疑の36歳再逮捕 乗客沈黙−事件:MSN毎日インタラクティブ

調べでは、植園容疑者は、昨年8月3日午後9時20分ごろ、福井駅を出発した直後に、6両目の前方から2、3列目にいた女性の隣に座り、「逃げると殺す」「ストーカーして一生付きまとってやる」などと脅し、繰り返し女性の下半身を触るなどしたという。さらに、京都駅出発後の午後10時半ごろから約30分間にわたり、車内のトイレに連れ込み、暴行した疑い。女性は車両前方のトイレに連れて行かれる途中、声を上げられず泣いていたが、付近の乗客は植園容疑者に「何をジロジロ見ているんだ」などと怒鳴られ、車掌に通報もできなかったという。



 例えば、後日、付近にいた乗客が「彼女は自分から犯人に身体を預けて自分から付いていきましたよ」とか「犯人となんか仲良くなっていたみたいです」とか言ったとする。

 傍観者となること(ならざるを得ないこと)はセキュリティの問題であって自分がその場にいたら同じ行動をとるかもしれない。しかし、上記のようなことを傍観者の人が言ったとしたら、それは多分に彼らの臆病さを隠すための言い訳のようなものだろう。

 それが被害者の目や耳に入ったときに被害者はなんと思うか?



 もしくは、「○キチから多くの乗客を助けるためには彼女達が犠牲になる必要があったんです」とか「彼女達もそれを理解していてくれたはずです」とか・・。



 それを傍観者の口から語られたときに、彼女達はなんと思うか?




 「ロシアと秘密裏に通信していた」だの「多くの人を救うためには原爆は落とされる必要があったんです」だのも同じことなのではないか・・?



 はっきり言ってしまえば、こういった言説を使う人々はセカンドレイプと同じことをやっていることになるのだが、そのことには気づいてないのだろうか?



 それは感情論であって事実ではないのかもしれない。「事実は見ている人の立場(あるいは通念)によって異なってくる」、のだろう。では事実関係についてはどうか?


>「その時点ではそういった関係性の中からヒロシマやナガサキが犠牲になる必要があったということは歴史的事実ではないか」


 本当に、自信を持ってそう言えるのか?



 当時の国際関係を見れば蓋然性の高い論理ではあるが、本当に「原爆を落とさなければ戦争を早く終結させることはできなかったし、日本を足がかりとしたロシア(ソ連)の侵攻を食い止めることはできなかった」、といえるのか?


 「歴史に“if”はない」と言われるけど、原爆が落とされていなくても、戦争を終結させる方法はあったのではないか?たとえば戦争終結についていえば天皇の決断が早ければあそこまで事態は悪化しなかっただろう。

「天皇自身が様々な関係性に取り込まれた傀儡的な存在であったのだから仕方のないことだったのだよ」ということになるのかもしれないが、代表者などというのは少なからぬ組織の論理に押し流されるものであって、それを代表し責任をとるからこそ代表者なのではないか?

(別に天皇を責めたいわけではないので置く)






そういったこととは別にfinalventさんはよく、「あたまでっかちな論理よりも大衆性に還れ(大衆の現実に還れ)」、というようなことを言っておられるように思う。


 では、今回のこれも「大衆性」から発せられた思考ということなのだろうか?


 ぼくには論理的思考実験への欲望が優先されて当事者の気持ちは無視しているだけにしか見えないが、それはぼくが未熟なだけなのだろうか?



 あるいはそういった気持ちは単にぼくらの胸にしまいこんで耐えればよいことであって、それによって国際関係や世界経済がうまく回るのなら仕方のないこと、と言えるのかもしれない。ぼくらが怒りや復讐といった気持ちの防波堤のようなものになれば良いのかも。



 マリア様、そういうことなのでしょうか ?




muse-A-muse 2nd: 被爆のマリア



 
 
 
 


posted by m_um_u at 05:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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