2007年04月23日

ヒロシマに原爆を落とすべきだったか?

 少し腹が立ったのでこんな時間だがblogのほうのエントリを上げとこう。トリガーはこちら


極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ


 要約すれば「多数の便益のために一定の犠牲は止むを得ないか」ということ。社会システム系ではよくでてくる踏み絵。そして、仏教においてはどうなのか?、というエントリ。


 結論を言えば、「それアリなんじゃないの?(状況によって)」、と。


 現時点での仏教魂を代表するダライ・ラマがそんなことを言っていた、ということらしい。(付け加えて言えば、ダライ・ラマの流派は怪しい呪術系じゃないよ、と)


 finalventさんは、「日本人の仏教観すればありえないだろうし」という留保を入れつつ、慎重をギロンを進めておられる。

 実際、このエントリの文意を見ても、finalventさん自身が少なからず衝撃を受けた、ということが伝わってくる。


 その上でこれか(※孫引き)


ロバート・リビングストン 日本への原爆投下のケースはどうなんですか。あの行為をした人たちは、それで一〇〇万人の命が救えるからっていわれてやったんですよ。
ダニエル・ゴールマン あれは菩薩の行為と言えるのですか。
ダライ・ラマ むずかしい判断だが、理論的にはありうる。もしそれが大勢の人の命を救うための行為だったとすればだがね。



ダライ・ラマ(中略)ボブ、あなたの提起した長崎と広島の原爆投下の問題に戻ると、その行為の善し悪しは、歴史上の一時期ではなく、長期的な結果をみて判断すべきでしょうね。今日世界じゅうに核兵器が拡散している事態をみれば、原爆投下は反倫理的な行為だったと断言できるんじゃないかな。そのときにはよい動機があったかもしれないが、それ以来、さまざまな悪い結果が生まれたことはまちがいないし、恐怖も増大しましたから。



ダライ・ラマ 二つのことを天秤にかけて考えるのです。いっぽうには殺人のようなよくない行為、もういっぽうには状況をのせます。つまり、その状況ではどっちが重要なのをつねに考えるということですね。状況によっては、たとえよくない行為でも、その行為をすれば大きな利益が得られ、行為を避ければ害が生じる場合があります。このバランスの原理は、もっとも基本的な仏教の倫理を解いている律蔵にも説かれているし、菩薩の倫理にも貫かれている。一般原理と状況の二つを天秤にかけて、特定の状況を判断するわけです。(後略)




 頬が引きつってしまうが・・冷静に・・。



 ダライ・ラマ自身もいくつかの留保を入れているのは分かる。チベット仏教が単なる妄信的な教えではなく対話ができるというところも示さなければならない(というかダライ・ラマ自身がそういう人)のだろう。そして、やむを得ずそういった決断を下すときにも「慈悲心をもってなさなければならない」とされている。


ダライ・ラマ あなたのみつけた悪い性質や悪徳が、さらにもっと大きな害をもたらす恐れがあるときは、それを抹殺してもいいのです。しかし、ここが重要な点なんですが、それには、大きな害を避けたいという慈悲心が動機になっていなければならないということです。悪徳を消すには暴力に訴えるしかないと悟った場合は、その悪徳をもっている人間の命を奪ってもよいのですが、その人間にたいして慈悲心をもって、その任務を受けることが条件になります。





 が、



 やはりあんまりだろう。



 ヒロシマのことを例に出してそんなことを言うのか? アメリカ人の「ヒロシマによって多くの人が救われた」言説に乗って・・。


 それはやはりあんまりだ



 もっと早くこのエントリを見ていれば、去年講演に来たときに問いただしたのに・・。




 <多数を救うために少数(あるいは明らかに必要と思われる)犠牲は止むを得ないか?>、ということがずっと昔から考えられてきたテーマだということは分かる。


 極東ブログ的にはこの辺りに繋がるか


極東ブログ: 造悪論ノート


極東ブログ: 無門関第十四則南泉斬猫を愚考す



 そして、そういった話が原爆関連だけではなく、たとえば精神異常者による凶悪犯罪に対する抑止をめぐる是非にも絡んでくることなども理解できる。付け加えれば、そういった問題に対しては被疑者に対するケアをもっと強いものにしたほうが良い、と思っている(それに加えて社会システム的に同様の事件が起こらないように対策・統制を強めるべきだ、と)。

 しかし、今回の問題は違う。


 「ヒロシマに原爆を落としてよかったのではないか」などというのはアメリカの政治的正当性を担保するための言説であって、公案とかそういう次元の話じゃない。


 そのテーマ自体が魅力的であっても、その発言がどのような影響を与えるか(どのように利用される可能性があるか)、ダライ・ラマは考慮して然るべきであったように思う。


 はっきり言えば、「ヒロシマに関しては絶対悪です」、といえば良かったのだ。それが同じ仏門に帰依した、藤井日達上人の魂に報いるということではないのか?



(※って、極東ブログの切り抜きしか見てないので、同書の全体の文脈ではどのように言っていたか分からないけど)




 なんか、「チベットとインドだからか?」とか邪推してしまうけど、それは置こう。



 それで、それとは別に「ヒロシマによって多くの命が救われた」言説について。これはアメリカの中高生(あるいは大人?)を始め、けっこう世界的に信じられている考え方みたいで、たまにそういうのをガイジンから聞くとピクピクっときて無意識に頭頂部の血管が浮き上がったりしてるらしいんだけど、ここでもそんなのが見れて腹が立ったので少し反論しとこう。


 以下、 「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」(鳥居 民)より



原爆を投下するまで日本を降伏させるな――トルーマンとバーンズの陰謀
鳥居 民
草思社 (2005/06/01)
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 前置きとして、この本で書かれていたことに対して、まだウラとってない。なので事実なのかどうかびみょーなところがあるけど、個人的な印象としてはそういう線もあったのではないかと思う。というよりも、ヒロシマの犠牲によって多くの人が救われた」みたいな言説と同程度かそれ以上の確度はあるだろうし、なにより、そういう言説を弄する人々の思考よりかはなんぼかマシだな、と思っている。


 後者は価値判断であって事実認識ではないが、歴史も人が編集したものなのだからパフォーマティブなところがあってもおかしくないだろう。


 前置きはこのぐらいにして、以下論点箇条



(1)原爆投下の経緯として<終戦時の首相鈴木貫太郎が「ポツダム宣言」を黙殺したことが原因>と見る向きもあるが、そうではなく、実際には日本政府は原爆を落とされる前に無条件降伏をする準備を進めていた



(2)降伏において、日本政府が気になっていた点は降伏後、天皇陛下を守ることができるかどうかだった。



(3)中・ソ共産勢力の日本への侵攻が気になっていたアメリカは原子爆弾を使うことによって、その侵攻を食い止めたかった。



(4)アメリカと日本との秘密裏の交渉(通信による)において、<降伏時に天皇を守りたければ、無条件降伏の承諾の時期を延ばせ>、というような要求があった。



(5)日本政府は天皇を守るために無条件降伏の時期を伸ばさざるを得ず、結果として2つの原子爆弾が日本に投下された。




 ポイントは、<アメリカが実験(+ソ連への示威)のために原爆を落としたかったので、日本に降伏をさせないようにした(爆弾を落とすまで降伏の時期をずらさせた)>、というところ。

 

 もし、これが本当だとするとけっこうキチクなわけだが・・(欧米人と話すと良く出てくる、「原爆投下によって戦争終結を早められて良かったんじゃないの?」、なんて二度と言えなくしてやれる)

 Amazonのレビューにもあるように確定ではないみたいなので、レビュー先で紹介されている文献も読んでみようと思っている。 (以下、Amazon.co.jpレビューの一部より全文転載)


この本は、中国近現代史に詳しい歴史研究家の鳥居民(とりいたみ)氏が、アメリカが、広島と長崎に原爆を投下するに至るまでの経緯を、一つの読み物として書き下ろした、ユニークな一書である。著者が、中国近現代史に詳しい事を反映して、戦争末期における中国大陸の政治、軍事状況が、アメリカの原爆投下決定のプロセスにいかなる影響を与えたかを考察して居る点は、秀逸であり、私個人は、これまで、他書では読んだ事の無い考察、分析に溢れて居る。--中国大陸の情勢と原爆投下決定のプロセスを関連ずけて考察した本書のこうした点は、重要な問題提起であると考える。具体的には、日本軍が、中国大陸で、1944年4月18日に、南方からの補給路確保を目的に開始した「一号作戦」が、アメリカの戦後の東アジア構想に影響を与え、それが、ひいては、アメリカ政府内部の対日融和派(グルー、スティムソン、等)と、対日強硬派(トルーマン、バーンズ、等)の確執に繋がったとする分析など、非常に興味深い考察である。--ホプキンスのモスクワ訪問についての分析も興味深い。
 しかし、鳥居氏のこうした分析、考察は、鳥居氏の解釈に依る所が多く、はっきり言へば、鳥居氏の想像と言はれても仕方の無い部分が大きい。裏を返せば、この事は、当時のアメリカ政府が、原爆投下を決定するまでの過程を記録した公文書の公開が、不十分である事の反映とも言へそうだが、本書を読む読者は、本書の記述が、何処までが資料によって裏付けられており、何処からが著者(鳥居氏)の解釈であるかを注意深く読み分ける必要が有る。ガー・アルペロヴィッツ(Gar Alperovitz)の大著『原爆投下決断の内幕』(上下/ほるぷ出版・1995年)と併せて読む事をお勧めする。

(西岡昌紀・内科医/広島と長崎に原爆が投下されて60年目の夏に)






 繰り返しになるが、これが歴史認識として妥当かどうかはびみょーだろう。評者の多くも「歴史を踏まえた上でのフィクション」としている。しかし、欧米(特にアメリカ)の若者のヒロシマということに対する鈍感で無思慮な態度とそれに基づいた行動に対して、このぐらいの抗弁は許されるのではないか?

 それが例えフィクションであるにせよ、彼らの鈍感さがこれ以上の犠牲を生まないようにするためには。
(※一部ハーヴァードのエリートとかにも「ヒロシマの犠牲は必要だった」というのを何の留保もなく真に受けてる人がいるみたいだし)




 (ダライ・ラマ流に言えば)それが情況を理解するものの配慮というものだろう




タグ:ヒロシマ
posted by m_um_u at 09:15 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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Tracked: 2007-11-18 08:58
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