2007年04月20日

ジャーナリズムとはなにか?(2):批評としてのジャーナリズム

 一個前のエントリで出てきた論点だけど、なんか長くなってこれ自体の説明が希薄になった気がするので新しくエントリ作っとこう。ちなみに一個前のエントリはこちら


muse-A-muse 2nd: ジャーナリズムとはなにか?(1):世論と世論を形成するもの


 っつーか、今回ネタ元にする栗原さんのエントリをそもそも見たきっかけはこちら


切込隊長BLOG(ブログ): WEB2.0の知(笑)って、集合してるんだろうか?


 んで、こう来た


おまえにハートブレイク☆オーバードライブ:ウェブ2.0的集合知(愚)が“批評の死”をヴァージョン・アップする



 と、その前に。今回のエントリの目的としては「批評はしろーとにも可能か?」を通じて「批評活動の社会的意義とは?」「そもそも批評とは?」ということを考えたい。なので、批評活動に関するビジネス的、システム的な面への記述は薄くなる(あるいは全く触れない)と思う。とりあえず、そんな感じで

 前置きはそんな感じで、栗原さんのエントリに戻ると

 要約すれば、「シロートの書き殴りの集積が集合知的批評として幅をきかせると、活字の批評が駆逐されたりしませんか?」という質問に対して、イーグルトンの批評史観を引きながら批評の死の危険性を説明。

 栗原さんの論旨は「コーヒーハウス的な出版の文芸公共圏がCGMに毒される」ということだけどこれはちょっとびみょーに思う。

 イーグルトンの論旨は、「知が道具化され、商品化されて一部の機構に囲い込まれたことによって本来の力を失った(因果)」(あるいは「大衆化によって知がコモデティティ化した時期と同じくして大衆産業が発展した(相関)」)ということであって、その場合出版も大量生産によって生み出されたものであったはずだから。ということは出版の公共圏というのはコーヒーハウス的な牧歌的なものではなかったように思う。
(この辺の論旨は鶴見俊輔さんの限界芸術論に通じる)


限界芸術論
限界芸術論
posted with amazlet on 07.04.20
鶴見 俊輔
筑摩書房 (1991/06)
売り上げランキング: 463723



限界芸術論
限界芸術論
posted with amazlet on 07.04.20
鶴見 俊輔
筑摩書房 (1999/11)
売り上げランキング: 54182



 限界芸術論とは、こちらを参照してもらえば分かりやすいが


『限界芸術』について


 簡単に言えば、専門知的な「お芸術(Pure Art)」でも商業文化的な「商業芸術(Popular Art)」でもなく、生活の場から生まれてくる遊びであり、創作物を指す。芸術と生活の境界線上(Marginal=境界、限界)にあるということで「限界芸術」と鶴見が命名したもの。

 具体例としては昔ながらの子守唄とかかくれんぼみたいな子供の遊びとか労働の歌とか民話とか、そういう生活の場から生まれた創作物が挙げられるように思う。 小難しい言葉を使えば商業的(あるいは文化的)に構築されたものではない創作物。文化的規制から脱構築した創作物と言えるように思う。(つまりブリコラージュ)

 初めてこれを読んだときにはその意義があまりよく分からなかったがいまなら少しは分かる。人々が自分の頭で考え、自分自身の言葉を使ってなんらかの創作をしたり、創作に対する創作をするというのは言語動物としての人間にとって当然の活動だから。それを封じたり、抑制したりするのはなんらかの管理の機構と同じように思う。そして、そういった言説を支持するのも。



 でも、栗原さんの言いたいことは分かる。「雑誌文化はサブカルって感じ」ってやつだろう。「サブカル的な雑誌文化には牧歌的な創作性があった」、と。そんで、その雑誌文化が2chとかmixiのコミュに代表されるようなCGMに代替されつつある。


cf.muse-A-muse 2nd: ミクシと2ちゃんとblogと少しおカネの話



 そこでは「批評」(質)ではなく「情報」(量)が中心的価値となる。


 ミクシの中でも一部のコミュでは批評が盛り上がってるところもあるみたいなんだけど、それほど質の高いものにはお目にかかったことがない。もしくはアマのレビューとかが思い浮かぶけど、これも概要というぐらいでなら参考になるけど、「読み解き」という面では読みが足りない感じがする。(bk1とかのほうがいいのか?)


 似たような指摘は雨宮さんのところにも出てたな



雨宮まみの「弟よ!」

神山健治 たまに2ちゃんの書き込みとかを見てたんですけど、面白いことを思いつく人っていますよね。ただ、そういう人間がプロになってこない。現場を見ていても、いまクリエイト行為よりは、消費行為のほうがエレガントになってしまっているのかもしれないと思っちゃうんですよ。極端な言い方をすると、いまほど消費者に対してプロのほうが頭悪く見えていることはないんじゃないかと。数人で創ったものを数万人が見るわけだから、数人がどんなに強度を高めても相対的には負けてしまう。



 引用という形をとっているけれど、けっこう雨宮さんのホンネだろう(ちなみにこちらは上記引用部分についての雨宮さんのコメント)


「エレガント」という言葉の正しい使い方を、久しぶりに見たような気がしました。汗水垂らして作った挙げ句ボロクソに言われるようなクリエイト行為よりは、そりゃあ買って観てどこからどう読んでも正しいクールな意見をブログとかに書いている消費者の方がエレガントなわけで。



 ユーザーも汗水たらして稼いだ金をかけてるんだから当然だと思うが、そういうことではなく、「一部の不労暇人ヲタがアタシの好きな攻殻にゴチャゴチャレベルの低いこと言ってんじゃねぇ!(あるいはエレガントでクールな正論)」、ってことなのかもしれない。

 そんなこといったってやっぱ金払ってるわけだしなぁ・・。「金払えば何してもいい」ってことではないんだけど、プロだったらその辺は意識して然るべきだと思う。例えば、もし不労ヲタだとしても、その人がどういう思いでそのお金を稼いだり貯めたりしたのかなんか誰にも分からないわけだし。って、けっこう苦労した金で買ったものに対しては思い入れがあるはずだから安っぽいコメントはしないものだが。



 まぁ、それはいいとして


ってか、下の説明様式って「公共性の構造転換」(J.ハーバーマス)じゃん?


『批評の機能』でイーグルトンは、18世紀にイギリスのコーヒーハウスで誕生した近代批評が、資本主義、大衆社会の成立により機能不全に陥り社会性を失い、大学(アカデミズム)に自閉していった様を論じている。コーヒーハウスに集う人々が交わす文化談義から批評は生まれたのだが、そこで要請されたのは、階級という現実社会における差別を棚に上げて、いかなる人の言説も平等であるとする仮構だった(イーグルトンはこれを「ブルジョア公共圏」と呼ぶ)。公共圏の教養を前提とする代弁者として職能分化したのが批評家の元祖だ。批評能力はあらゆる人に備わっているとするこの仮構はしかし、誰もが文字を読む大衆社会の到来により破綻を来し、公共圏および批評家はイニシアチブを市場に譲り渡す。以後の批評の歴史は、大衆との葛藤の歴史であり、批評は一度としてこの闘争に勝つことなく、大学という同じ言語を話す仲間だけの共同体に自閉していくのである。




Socius_リフレクション19:第五章 コミュニケーション論の視圏――〈反省する社会〉の構造原理三 市民的公共圏の理念


もともと「市民的公共圏」(die bu`rgerliche O`ffentlichkeit)という概念は、近代初期の西欧社会に成立した歴史的現象をさす歴史概念である。つまり「あるべきこと」ではなく「すでにあったこと」をさすことばである。ハバーマスによると、公共圏の考え方は古代ギリシャにあったものだが、それが初期資本主義による商品と情報の流通の発達のなかで、公権力に対抗するために、公衆として集合した民間人(市民)によって形成された社会的空間である。▼17 具体的には一七世紀後半から一八世紀にかけてサロン・コーヒーハウス・会食会などに集った市民たちの議論がそれである。そこには共通の基準があった。第一に「そもそも社会的地位を度外視するような社交様式」「対等性の作法」。第二に「それまで問題なく通用していた領域を問題化すること」。教会や国家による上からの解釈から自由に討論する。第三に「万人がその討論に参加しうること」つまり原理的な公開性。▼18 これらの基準に則って文芸・演劇・音楽作品が自由に批評され(文芸的公共圏)、その焦点はやがて政治的問題に移っていった(政治的公共圏)。新聞などのジャーナリズム活動はこの市民的公共圏から派生したものである。政治的公共圏はやがて国家機関として制度化される。公共圏が国家機関の手続き上の組織原理になったのである。しかし一九世紀になると、市民的公共圏が前提していた私的領域と公権力領域の分離の構図がくずれて、近代の基本原理だった市民的公共圏は操作的公共圏へ構造転換することになる。「批判的公開性は操作的公開性によって駆逐される。」▼19今日わたしたちが経験するのは市民的公共圏の変質したものである。




 これを見ても分かるように「批評」や「社会に対する批評としてのジャーナリズム」というのは同時期に「しろーと」から作り上げられていったもの。「しろーと」って言ってもいわゆる「文化人」って感じの人たちのサークル活動だったのだろうけど、そういう意味では一部サークルってことで代表的具現の公共圏的意味合いもあったのかもしれない。いまだったら一部論壇とかネット的には「ニュースサイト」とか「アルファブロガー」とか(?)



 栗原さんや雨宮さんの言い方だと批評というのは「こういう人たちだけでやるべきもの」ということになるのかなぁ?



 そこまで言うつもりはなくて、単にレベルの低い悪口をやめさせたいだけなのかもしれないけど、やっぱCGMとかしろーとの批評全般を否定するような言い方はどうかと思う。(そういうつもりではなかったのかもしれないけど)



 まぁ、とりあえず、そんな感じで「質的に正しいジャーナリズム」のようなものがあるとしたら「すぐれた批評」というところと重なるのだと思う。梅田さんじゃないけど、「正しく褒める(あるいは批判する)技術」みたいなの。そうしないと為政者(あるいは創作者)もヤル気でないし。

 ってか、この辺メディアリテラシーと重なるわけだけど、そうするとメディアリテラシーの目指すものは批評的ジャーナリズムということになるな


 んで、そういう論評系ジャーナリズムって職人技なんだと思う。ちょっと前に映画であってそろそろDVDも始まった(?)カポーティ(「冷血」)なんかもそういう職人系ジャーナリストの一人。

 いまの時代、そういうものの復活はあるのかなぁ・・。武田さんとこの授業方針はわりとこういうのを目指してる感じがしたけど(教科としては「あらゆる分野に対する基礎的知識を持つ必要性」みたいなのを前提に編成されてたように思う)・・。



 ってか、ちょっと思うのは、批評的ジャーナリズムが職人気質なジャーナリズムで質的に見るに耐えるようなものであるとすると、そんな感じで日本の代表的ジャーナリズムを作ってきた人って文学部出身だったりしないのかな・・?


 っつーか、新聞なんか政治・経済部を頂点にするもので、文芸・社会は軽んじられてるけど・・。でも、優れたジャーナリズム作品を残した人は少なからず文芸マインドがあったんじゃないか、ってちょっと思う。



 ・・こんど調べてみようかなぁ




--
関連:
muse-A-muse 2nd: 「<批評>そのものへ」?



muse-A-muse 2nd: ジョナサン・カラー (著), 荒木 映子 (翻訳), 富山 太佳夫 (翻訳) 、2003、「文学理論」  (前編)





--
おまけ:
雨宮さんとこにガンダム話でてたのでガンダム関連で。

以下、「ガンダム」の原作者富野由悠季さんへのインタビュー(@「ビッグイシュー」vol.63)から。ポイントとしては富野監督も商業的なものに対してそれほどの過信はなかったってこと(「あれは仕事」って感じでこなしていた、と)。そして「お仕事」としつつもその責任を引き受けていたということ。責任を引き受けたことによって成長があった、と。

要約すると「元々、ファーストガンダムはスポンサーであるオモチャ屋の宣伝番組として嫌々受けたものだったんだけど、予想外にヒットした」、と。そして、「そのヒットの要因はなにかと問われれば自分の能力(個性)を過信しなかったことにあるのでは?あと、最低限ウソをつかなかった」、という内容。以下、気になった箇所抜粋。



(4)「ファーストガンダムは、あくまでもスポンサーであるオモチャ屋の宣伝番組。最初からリアルな戦争や人間ドラマを描こうなんて、100%考えていません」


(4)「僕の理想からすれば、デザインは最低でも『スターウォーズ』か『2001年宇宙の旅』。なのに、ガンダムでは船の形をしたホワイトベースが宇宙空間に浮かぶ。そんなの、僕にとっては許しがたい暴挙なんです。ムサイなんか、もう本当に腹立たしい。冗談じゃないよ、こんなもん世に出せるか!って。科学的にそんなデザインがありえるわけないのに、当時のアニメ関係者や視聴者も含めて、誰も何一つ不思議に思っていないことがものすごく嫌だった。でも、現実にスポンサーはオモチャ屋なわけだから、そこは落とし前をつけなければいけない。あー大衆とかオモチャ屋に迎合するっていうのはこういうことか、大衆娯楽なんていうのはこんなレベルなのか、ほんとに嫌だよね、と思ったのが僕にとってのファーストガンダムだったんです」


(5)「すでに結婚して子供もいたし、せめて子供が高校を卒業するまでは何としてでも生き延びなければいけない。でもこんなオモチャ屋の宣伝番組を担いで生き延びられるのか、そんなのできるわけないよって。ほんと、もう瀬戸際。だから、『キミは、生き延びることができるか』っていうあのキャッチフレーズは、僕にとってはレトリックでもなんでもなく、まさに自分の“本気”そのものだった」


(5)「今でいえば、頑張ったフリーターみたいなもんです。いつか絶対に自分のラーメン屋をもってやるみたいな感じで、劣等感を振り払うには、とにかくなりふりかまわず仕事するしかなかった」


(5-6)「こちらが紙芝居のような陳腐な物語と思っていても、どうしても騙されて観てしまう子供たちはたくさんいるんです。それなら、騙されてみる子供たちに、せめておもしろいとか、タメになるお話をつくって見せたい。でも、自分には作家的な才能はない。そう悩んでいた時に見つけたのが、本当にいい児童文学は作家が大人向けに全力投球して書いた物語であって、初めから子供向けに書かれた児童文学はくだらないものにしかならない、という言葉でした」


(6)「つまり、僕が公人として意識したのは、自分の話を聞いてくれる子供が目の前にいる時は、とにかく一所懸命話さないといけない、ということ。一所懸命話せば、たとえばそのお話が理解できなくても、この人は自分にとって大事なことを喋っているらしいという印象は絶対に残る。そして、子供は、いつかその話を思い出してくれる。作家的な才能があるかどうかの問題ではなく、劣等生の僕が曲がりなりにも放送という足がかりを手に入れて、自分が演出する立場になった時、社会人として、三十いくつの大人として次の世代に嘘だけはつかないようにしようと思った。それが、公共に対しての最低限の責任だと思ったんです」


(6)「60歳を過ぎて思うのは、あの時、自分の好きなものだけをつくらなくてよかったなということ。さまざまなものを外界から取り入れて、凡人の文殊の智慧でできた作品が、結果的に自分の能力以上のものになった。だから、僕は個性を全否定するんです。いきがって好きだけで作品をつくるなと。世の中には一つの個性だけでつくって許される才能というものがあるんだ。それは天才だけなんだって。どだい自分の世界観なんてたかがしれている。自分一人の個性だけでつくったような映画はその時代だけで終わる。ファーストガンダムから、僕はそういうことを教えられました」





こういうのを見ると創作者にも「お仕事用」と「ほんとに作りたいもの(本気の自分語り)」モードの使い分けがあるわけで、ユーザーのほうもその辺を理解して評価できるようにならないとダメなんだろうなぁ、って思う。もしくは「お仕事」の中にちりばめられている「本気(魂)」の部分に対する評価。



あと、お金的バックアップとかか



っつーか、世の中の玉と石の割合なんか2:8ぐらいなんだろうから、そんなもんかって感じで構えとけばいいんだと思う


もしくは「お仕事」じゃなくなんか書く場合は「自分の理解のために書く」とか、そんなもんだろ








posted by m_um_u at 22:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。