写真について考えるシリーズとして
スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html
写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想
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ほんとは「明るい部屋」読みたかったんだけど図書館になかったので「まあ仕方ないかあ」と借りてみたら予想外に良かった。写真家とか人文なおっさんたちのマロンあふれる衒学文体かと思ってたんだけど。
よく「写真は真実を写してるとおもう人へ、写真というのは現像の段階から構成されているのです」みたいなのがあるし技術的にはそういうことではあるんだけどバルトはそこで「写真が真実を写していると思わせることが大事なのだ」と逆説する。
<写真は過去の存在を存在の意味を媒介することなく直接われわれに経験させる>
ここで言う「意味」は現象学的な事象を認識するためのいくつかのフレームのこと。もともと「客観的」「他人により」付されている意味-物語-ものの見方によってわれわれは事象を認識できる。反対に言うとふだんはその意味のフレームによっていくらかの偏向がかかっている。
たとえばりんごの見え方にしても人と昆虫では異なる。それは器官的な構造上の違い→規定にも依るのだけれど人の生きられた経験-その集積としての文化からリンゴそのものを感じる以前の意味が付されていたり。「分裂病患者の手記」なんかだとそういうのが剥ぎ取られたあからさまな世界が対照化されたりする。
そういう視線のことをベンヤミンなんかだと土星の験のもとのまなざしとしたようだけど(メランコリーな土星人のまなざし)。
なのでベンヤミンが見ていた感覚、あるいはたまに訪れるみょーに覚めたまなざしというのはこの辺りの感覚だったのでわ?とされる。
アレゴリーの方法というのはそのための多義性の導入。アートの世界でよくやるぼんやりと複数の解釈を残しておくような手法のことだったのだろう。まあなので脱構築がどうとかいうところとも必然として絡む。
フッサールなんかにも興味持ってたようだから当然といえば当然なのだろうけど
ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html
ただ、ベンヤミンはそういった関心はあってもそれを表すのには失敗したぽい。それは「複製技術時代の芸術」での描き方にも表れていた。
あそこでアウラという概念を導入したのは、もともとはこういった感覚が先にあり、それをあとづけるために「(こういう感覚をもたらす真のアート的なものには)アウラがあるのだ」という論理展開をしようとしたため。
ただ、そこでいわれてるアウラという概念は曖昧で、その概念からだとベンヤミンの主観的な好みによってどの芸術作品にアウラがある/ないが決められてしまうのでびみょーって話だった。
ショーレムがベンヤミンにツッコミ入れてたのも「写真については褒めてるけど後半で映画について貶してるのどうなの?(この論理展開だとみょーに恣意性とか主観性とかないかい?)」みたいな感じだったように思うけどベンヤミンの答えは「大衆に依る革命が生じればそれも解決するって」って話だった。まあ「映画がもっと限界芸術的なものになって大衆それぞれが作れるようになれば既存の大衆芸術的な形式(マンネリ)は打破される」という意味だったのかもだけど、それだと「複製技術」におけるアウラによる説明ってまったく用をなさなかったり。。
まあなのでベンヤミンというのはその論の内容をそのまま受け取ってもあまり実のないものぽい。
デリダとかフーコーとか?が着目したのはその発想が当時にしてはおもしろかったからということだろう。J-POPとかではっぴいえんどとかの古典聞いて「参考になる」というのと同じ感じ。
まあそのへんはいちお確認していくけど
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ちなみに「写真の存在論」でも「複製技術時代の芸術」は意識され「明るい部屋」で提出された思考材料をもとに補完されていた。
話しそれたので戻すと
「人の認識→まなざしというのは先験的に一定のフレームがつかざるをえない、先験的な意味のフレームによって事象を認識できる」わけだけど、写真というのはその意味以前に存在を実感させる力がある。
「この力はなんだ?」というのがバルトの発端。
もっともすべての写真にそういう力があるわけではなく特定の写真にまれにそういう力がある、という話なんだけど。
なんとなく気になってしまう写真。
「かつてそれはあった」と否応なしに実感してしまう写真。
そういう写真を「刺のある(プンクトゥム)写真」とバルトは呼んだ。
自らの意味のヴェールに刺を打つ写真。刺から穿たれた穴から土星のまなざしが舞い降りる。
そういった写真は通常一定の商業的形式によって覆われている。バルトはその商業的形式をいくつかに分類しストゥディウムと呼んだ。
ストゥディウムを必要条件としたアート・商業写真のなかでたまにみょーなものが写り込んでいることがある。あるいはみょーなアングル、肖像の中のなんとなく気になる実感。
それがプンクトゥム(刺)となる。
バルトの場合、母の死後に荷物を整理していたときに見つけた5歳の少女の頃の母の写真がそれだった。ほかにも母の写真はあったのだけれど、なぜか少女の頃の母の写真にもっとも「母」を感じられた。
そこから人の本質-存在の実感、写真が照射する有無を言わせぬ実感、意味以前の実感についての考察がはじまり結果的に「明るい部屋」としてまとめられた。
「明るい部屋」は「暗い部屋」-「暗室」-「カメラオプスキュラ」の逆。
「真の写真は、暗い-覆う、のではなく、明るい-さらけ出すのだ」
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関連:
スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html






