2007年04月16日

ジョナサン・カラー (著), 荒木 映子 (翻訳), 富山 太佳夫 (翻訳) 、2003、「文学理論」  (前編)

文学理論
文学理論
posted with amazlet on 07.04.16
ジョナサン・カラー 荒木 映子 富山 太佳夫
岩波書店 (2003/09/06)
売り上げランキング: 46505



 をちょっと前からもさもさと読んでいる。

 が、なかなか読み進まない。異分野だからかなぁ・・ってか、平易な文体で書かれているのに読み進まない・・。

 気合が足りないのかなぁ。中だるみというか


 そういうわけでちょっと気合を入れなおすためにまとめてみることにした。まだ途中(p122まで)だけど、とりあえずこれまでのまとめってことで。


 本サイトの関連エントリとしては以下


muse-A-muse 2nd: 「<批評>そのものへ」?



 まず、この本・・というか「批評理論のようなものがあったら習得したいな」と思った理由としては、どうもぼくの批評というのは間テクスト性に頼るところが多いように思ったので。

 なにかを批評するとき、「その作品を精読する」というやり方よりも「その作品の周辺情報から作品を読み解く」というやり方をすることが多いように思う。この本を見ていくとそういったやり方も一つの方法として「有り」っぽいんだけど、やっぱどうも「逃げ」っていうか、なんかしっくり来ない。

 んでまぁ「直球ストレート」というか、テクストそのものから批評していくやり方ってないかなぁ、と。

 その際期待したのは、前のエントリにもちょっと書いたように、「方法論のみによって批評は確立するか」、ということ。


 こういう考えについて本書ではきちんと名前がつけられていた。精読によってテクストそのものから意味を見出すような読み方(あるいはそれに基づく批評)のことを「詩学」、間テクスト性やテクスト以前の視角などといったテクスト周辺の情報を中心とするような読み方のことを「解釈学」というそうだ。(p.91)

 「詩学」においてはテクストを読み込むことによって見えてきた「テクストの意味」に基づいて、「なぜそのような意味が頭に浮かんできたのか」という視点からテクスト内部の表現方法を検証していく。つまり蓋然的なゴール地点から表現方法の有効性を検証していく、というやり方。
 「解釈学」においては反対に「それぞれの表現方法からどのような意味が構成されるか」という視点をとる。あるいは表現方法のみならず、テクスト周辺の情報(コンテクスト)も加味して、「どのような意味が成されるのか?」ということを問うていく。その際に重視されるのは、社会的コンテクスト(あるいはそれ以前のテクスト)との関係から「そのテクストは何について語っているか」、ということ。テーマ的には「実存」とか「ジェンダー」とか「ポストコロニアル」とか、そういった「大きな物語」が絡んでくる。

 対して「詩学」的解釈ではテクストが「何を」述べているかについて検証していく。もうちょっと言い換えれば、「大きな物語」とか関係なく、テクストそのものの面白さとはなにか、ということを問うていくのが「詩学」的アプローチのように思う。
(cf.ストーリーわかんなくても面白かったからいいや)
 

 これはどっちが正解ということでもなく「どちらとも有り」ということなのだろう。


 個人的にはもうちょっと「詩学」的な見方を取り入れたいと思う。ぼくは作品というかドラマとかその他のお話を見ても「面白い」と思うことが少なくて、どちらかというとその周辺情報のほうが気になるし、「その周辺情報からその作品がどのような意味を持つのか」というところに興味を持つ傾向がある。そういう見方をすると「作品自体の面白さ」とかいうのはどっちかというとどーでも良いのでネタバレとかどーでも良い派なのだが(ってか、大体のストーリーは見る以前に周辺情報から結末が分かる)。そういうのは解釈的な見方だったんだなぁ、って。

 それに対して詩学的な見方というのはテクストに誠実に向き合うことで、作品自体の面白さへ没入し、作品の価値を認めるということなのかなぁ、と。


 この解説をまとめながらそんなことを思った。


 
 あと、「詩学 / 解釈学」ってもうちょっと言葉変えると「意味論 / 記号論」の違いみたいなもんだろうか? この辺はあとで調べとこう



 んで、こういう「解釈学 / 詩学」的アプローチの違いギロンの延長としてカルスタと文学理論におけるテクスト分析の違いがあるように思う。


 カルスタの場合はテクストそのものの意味というよりもテクストの背景にあるコードと、テクストを読み取る際に用いられるコードを重視するので。んで、そのコードが接続していると思われる階級関係とか。あるいは妥当な階級が思い当たらない場合は、新たに発生している階級とか矛盾(葛藤)のようなものをそこから読み取っていく手法がとられるように思う。
 
 そのやり方は社会科学との接続としては有効なんだけど、注意点として「コードへの接続」ということ自体が合目的化することがあるように思う。具体的に言えば、「背景にはマルクス主義的矛盾があるんだー」とか「明示的に語られてないけどフェミニズム的問題が含まれてるんだー」とかいうのが与件として組み込まれていて、その結論に向かうためにカルスタの方法論みたいなのが使われる、というケース。これは某センセも指摘していた問題ですな。

 っつっても、いままでの説明を見てくれていれば分かるように、本来のカルスタアプローチというのは解釈学的なものに近いように思う。なので、先験的「意味」を設定するのではなく、方法論的視点を重視してコードを読み解いていくやり方をとるのが妥当な方法なはず。


 でも、それはカルスタアプローチの狙いの一つに過ぎないみたい。そういう視点(テクストの従来的意味の背後に隠されたコードを探る)とは別に、「テクストそのものの中になんらかの新しい価値があることに期待する」みたいな視点がある、と。

 分かりにくいのでちょっと引用


(68) カルチュラル・スタディーズは、文化を、それまでの興味から人々を引き離し、新たに持つにいたる欲望を創造するコードと実践の集まりとして分析したいという分析者の欲望と、もう一方ではポピュラー・カルチャーの中に価値の本当の表現を見いだしたいという分析者の願いとの緊張関係から生まれてくる。ひとつの解決法は、資本主義とそのメディア産業によって押しつけられた文化的素材を、人々が自分の文化を作るために使うことができることを示すことである。ポピュラー・カルチャーはマス・カルチャーから作られる。ポピュラー・カルチャーはそれに対抗する文化的資源から作られているので、闘争の文化であり、その創造性はマス・カルチャーの産物を使いこなすことにある。



 別の言葉で言えばブリコラージュということなのだろう。現代風に訳せばCGMと言ってもいい(あるいはもうちょっと進んでハッキング)。「民衆の創造力の可能性」に関するこの辺りの議論として、日本では「限界芸術論」(鶴見俊輔)がある。水越さんの「メディア遊び」というのもこの系統に属するものだと思う。


 

 ほか、気になったところとして。「言語はなにかを表す道具(影)として機能するだけではない」というような話があった(89)。つまり、「言語の戯れ自体があらたなリアル(あるいは言語と言語の接続)を作り出す」ということ。詩の目的(詩の前景化)とはそういったものなのだろう。もうちょっと言えばアバンギャルド(前衛)ということ。

 言語や理論がそのものによって硬直(構築、ステレオタイプ)化されてくる自体に対して、詩は言葉遊びのような形で構築を迂回し新たなリアルを築く(脱構築)。それは合目的的な機能論から見ればはなはだ実践性に欠けた理解しがたいものかもしれないけれど、そこで展開されている接続(意味)の豊かさそのものが構築された世界観のそれと比べても遜色のないものならば、その2つの世界が並存するによってとても豊かな世界が実現するように思う。

 反対に「機能的文学」というものが重視された時代もあった、と。


 「想像の共同体」的な感じで国民国家というフィクションを成り立たせるための物語として使われた文学(あるいは国歌)みたいなのもそうだし、「アンクル・トムの小屋」のようにあるコードを前に押し出すことによって当該コミュニティ(階級)に属する人々の意識を駆り立て、戦争のきっかけとなったようなものもあった(59)。


 そういった「機能的文学」というのは社会科学的に見ても理由が分かりやすく便利なものだけれど、やはり「道具的」という感じがする。すくなくともそこには文学やそれに準ずる作品そのものの自由はない。(そしてそれに関わる人々の自由度もひどく狭められてしまう)


 んで、「文学的な自由とか言語や文学にとっての美のようなものはそういった抑圧とは反対の方向にあるもの(テクストと解釈に自由を!)」、とするのが現在の流行なのかもしれない。


 でも、こういうのってやっぱちょっとびみょー。


 それはやっぱりネタというか、ベタ(シン)の部分があってこそ機能するもののように思えるので。脱構築だけに傾いて構築物(規範)がなくなっても脱構築し続けてたら何にも残んないし、シロアリだけじゃお家は建てられない。やっぱ両方のバランスだと思う。

 詩学に傾倒する人はその辺のこと分かってんのかな、とか思う(おせっかいながら)



 あとはそうだな。生成文法との関連みたいなのが頭に浮かんだ。


 生成文法ってのはチョムが左回転する前に成し遂げた仕事で、言語学系の人はいまでもその方針に従って「言語以前の言語認識能力を開発するためにー」ってがんばってコーパスってるんだと思うんだけど、この「言語以前」の「言語を認知する型」みたいなのって哲学だと「イデア」、心理学だと「型」(ユング)とかいうやつだっけ?


 んで、そういうのって詩学における「方法論以前の蓋然的な意味」というところに通じると思うんだけど、そういうのを認識するための「型」というか「器」についての分析手法とかって文学的には確立してるんだろうか?


 やっぱ他分野に任せる感じか?(スキーマとか)




 それならそれでいいけど、だとすると文学研究の目指す方向ってなんなんだろう。詩学(表出系)などにおける自由と規範のバランスみたいなのかな?




 まぁ、もうちょっと読み進めてみよう


タグ:文学 CGM
posted by m_um_u at 23:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。