2014年02月15日

上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」



TLに流れていて「そういや読むのやめてたなあ。。あの頃はスカートの中の秘密の生活ぐらいの軽いエッセイがよかったんだよなあ。。」とかおもってナツカシス+オヌヌメもあったのでほかのよむよむの息抜き程度に読み始めたら案外に面白くて、積年の自分の課題にもつながる所あったのでエントリ


スカートの下の劇場 (河出文庫)
上野 千鶴子
河出書房新社
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ニューアカ時代の雑誌向きの知的センセーショナルて感じで「オマンコシスターズ」とか「カント」とかセックスに赤裸々なフェミぽい引きが散りばめられてて、わかりやすい共通理解・印象に残る箇所としては「女のパンツは隠すために着けているのではない。着けることでむしろエロスを強調しているのだ(細いパンティが出てきたのはストリップのバタフライパンツの影響ではないかと私はおもう)」「子供は下着を通じて母親に性器管理をされている。女性は初潮の段階で自分で下着を洗うようになるが男性は母 → 妻と下着≠性器管理されていく」「シスターフッドは男の貸し借りをするぐらいになる」というところだったように思うけど自分的にはセクシャリティをめぐるアイデンティティやトポス、疎外に対する言及箇所がおもしろかった。

そんなことを思いつつあとでエントリ起こそうかなあと読み進めてたらあとがきにも「スカートの下の劇場というのはヒキなタイトルでおかげさまで本書もたくさん売れた秀逸コピーだったのですが、本書にシリアスなタイトルをつけるとすれば『女性の自己身体意識の構成について 下着の歴史を通してみた』になるように思います」みたいにあった。


なので、本来ならその辺が本書のポイントで、きちんと書くのだったらその部分についてもっと頁さいて解説していく必要があったのだろうけど、「この時期は忙しくて、『スカートの下の劇場』も本来別の企画でポシャっていた14枚ぐらいの原稿だったのですが、それを編集の方がおもしろいと膨らませてくれたのです。でもいそがしかったできちんと書くのは無理だったんだけど『だったら聞き取りで。わたしが上野さんにインタビューしたものを文字起こしする感じで』ってことで」(要約)、てことでできあがったらしい。

真っ昼間のラウンジで、けっこう赤裸々な話を。時期は昭和天皇崩御→御大葬の2月。同年宮崎勤事件もあった。



さて、自分が興味を惹かれた部分について。主に4章「鏡の国のナルシシズム」で展開されていた。

女性の自意識・身体イメージ・セクシャリティを「欲望される(ディザイアブル)客体としての身体」を基点に論じてるんだけど、ここにおける性的疎外とリアリティうんたらて二村フトシ-森岡正博が課題にしてたところのように思えた。つまり「女性のほうが快感が高そう」「男性はどうあっても女性と同じ快感を得られない(ことへのコンプレックス・憧れ)」「ポルノビデオなどを見ている時の感情移入先は男性か女性か?」などなど。



森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html


感じない男 (ちくま新書)
森岡 正博
筑摩書房
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二村さんなんかもけっこう女性のほうに感情移入してるみたいだし女性も女性のほうに感情移入するみたいなんだけど、そうすると視線の先の男はどうなるんだろ?とかおもったりする。てか、自分の場合は実際にセックスしてるときなんかもちょっとそういう感覚がある。目の前で乱れてる女の「乱れ」の統制・同調に専心するので「物理的快感部分で昂奮高まって勝手に進める」みたいなことがない。それもあってか相手からは「よくなかったの?(´・ω・`)」みたいな事言われて不安感じさせちゃうんだけど、、そのたびに自分のセクシャリティというかこのへんの感覚を説明する。

でも、そういう場面だと女性の乱れのほうが先にいって、勝手にどんどん昂まっていく女性を冷静に見つめつつ少し取り残された感があるのも事実だけど。でもそれをもって「本当に相性の良い相手に出逢えば本当の快楽で我も忘れられるはずなんだ―」的なオーガズム原理主義な性の探求みたいなのするのもなんかめんどくさいのでコレはコレでいいかなあとか思ってたりする。

こういう取り残された-疎外な感覚というのは「セルフ」にも近いかもしれない。





モテ男というわけでもないけど「男(ペニス)は女の快楽のための道具なんだなあ」みたいなとこが。


「でもそれは男性側が責め-運動を主に担当し、女性が言ってみればサーブされるほうだから快感に専念できるというのもあるのでは?」

では、この部分で男性が主に女性の役割とされる方、セックスにおける受け身を担当したらどうなるか?

「たぶん、だいたいの男性はそれでも女性のような満足は得られないだろう」


身体構造上の規定もあるだろうけど、社会・文化装置的にしつけられた「欲望される身体」「見られる身体」としてのしつけが女性側に染み付いているから。端的には女性のほうが相対的に最初から「エロい」(あるいはエロくなれる条件が整っている)ということ。「男性が能動のほうだったら男性がエロいことをしてるんだから男性がエロいんじゃないの(´・ω・`)?」てのはあるんだけど、それは社会・文化装置的につくられたエロの幻想の踏襲ぽい。対して女性の方はもっと自己発生的にエロ幻想を自分内部で作れる(オートエロティシズム)。

さっきもいったように性的場面における「見る」視線には男性側だけではなく女性側の了解もある。セックスにおいて「女性ならばこういうふうにして当然」というような了解(ex.喘ぎ声のミーム)、と、そういった「女性」の仮構を特定の時場(トポス)で女性自身が囲ってるので。ポルノを見るときはその視線/認識がポルノという場に降りてくるだけなのだろう。

そして女性側に元からある仮構の性的身体と男性がポルノとして構築した女性の性的身体(あるいはそれを作り出す一連の流れ)との間でしばしば齟齬が生じる。ベタには女性は物語・雰囲気を、男性は即物的な性的快感につながる象徴を求める。なので男性的な性表現はしばしば裸を中心とした性的場面にのみクローズアップされがちだし、性的場面の中でも性器部分をクローズアップし、なんだったら性器部分の表象だけで性的スイッチが入るようなフェティシズムとなる。

下着や服装、女性の身体描画などにもそういった違いが象徴的に表れる。女性はわりと身体全体を覆う「かわいい」「きれい」「つけ心地の良さそうな」デザインを下着に求めるけれど男性は「セクシー」なものを求める。性器を包みつつ強調するような。

そしてそういった男女における性-セックスの「当然」が市場を通じて再生産され再帰していく。



「アダルトビデオは幻想で現実とは違う(のでアダルトビデオでやってるようなことを、当人が嫌がるなら、本気でやるのはやめておこう)」みたいな話もこういった文脈と関連する。



その辺の幻想と実際のセックスの場面で修正されていく。あるいは修正されない人でそのままエロ産業的な幻想・昂奮を持ってる人もいるかもだけど。というか、だいぶぶんの男性はそういった幻想にドライブされてるうちに果てるぽいのでそのへんの齟齬について自省する時間もないのだろう。


そういうのを超えた時にいわゆるスローセックス/ポリネシアン・セックス-「コミュニケーションの一つとしてのセックス」 → 「なので無理にインターコースとかオーガズムに拘る必要はない」て感じになってくるし、自分も基本的にはそういう感じなんだけど、、それとは別の部分で「セックス時に取り残される自分」みたいなコンプレックスは依然として少しだけある。そんなに深刻でもなく。
それは「最高に興奮した状態でのオーガズム。女性のそれに匹敵するような。失神するような忘我のものとしての」みたいな話への引け目とあこがれが未だちょっとあるからかなあとも思うけど。


たぶん、その部分には単純な物理的快感だけではなく幻想-精神-心理的な昂奮が大きく関わってるので、その部分を変えていけばなんだったらそういうことも可能なのかもしれない。


まあ端的には「M男の才能」的なアレ。


そういうのとは別にひとりよがりのセックスの果てに受け身な男性もいるようだけし、そういう人たちは物理的快感に終始してる印象がある。オトナなコミュニケーションとして社会的に認知されてるだけでやってることはオトナの授乳ぽい。

「インターコースもめんどいから女性に口技を要求して、されてるうちに寝てしまう」「性的快感の交換もめんどくさいので頭を撫でてもらっておく」

とかはまさにその表れだろう。




自分的にはM男になるのもひとりよがりも嫌なのでとりあえずはこのままでいい。んでもセックスをめぐる身体イメージの位相みたいな話は面白いのでもそっと続けていく。



受け身のセックスの才能-M男の才能というのはそんな感じで物理的な快感だけではなく心理的な開放 → 変化によって可能になるのだろう。そこでの心理上の身体は「欲望される / 性的にいじめられる / 受け身で何かされる」ということを当然とする。

なので、たぶん性的場面 / 表象において男女の役割を単純に逆転させただけだと違和感が生じてミョーなことになる。


「バイク雑誌の表紙で女性がセクシーポーズを取ってるのは何故?」を考えさせてくれる男性グラビア「MotoCorsa」 − えん乗り
http://ennori.jp/news/article/1344


ゴフマン世界の再構成―共在の技法と秩序 (Sekaishiso seminar)
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ヴィジュアル表現の社会学へ(下)
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大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))
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なので「大奥」もその部分では単純に役割を交換しただけのSFといえる。



ただ、「性的に欲望される身体の許容 → 性的場面における<女性>のイメージの共有(それによるリアリティの確認)」というのは文化装置としてのエロ-女性イメージに依存的になるのではないか?いくら「社会・文化装置が男性優位で進んできてその結果なのだから現実は現実としt受け止めるべき」とはいっても「女性とは歴史的にそういうものだ」ていうのはフェミ的に怒られそうだなと思うんだけど真フェミだとそういうこといってるわけだし、、セクシャリティを通じた性的アイデンティファイとトポスが絡む話なので単純な「男女差別」みたいな文脈から批判されても表層的なことになりそう。

そもそもそこでは物理的身体はむしろ邪魔で、それがゆえに「同性の親友が落ち込んでる時、なんだったら男(ペニス)を貸すことができたら楽だろうなあとかおもう」という発想がでてくるのだから。そういった「異性を貸す」「穴兄弟」「風俗に一緒にいく」というのはホモソーシャルな男性コミュニティでもちょこちょこあって批判されるけど、単なるマッチョ/セクシズム的なものでもなく「精神的に繋がれたらなあ(´・ω・`)(肉体なんかたいしたことないのに)」て発想からのひともいるのかもしれない。


SMとかクィアのような世間一般からすると「倒錯」とされるようなところもそういうのが絡む。

ただ、その内容が形式化して、この部分の感覚が忘れられてしまえば形式のほうに進められ新たな疎外が生じるのだろうけど。初対面でいきなり「俺のことをご主人様と呼べ!」「(´・ω・`)」みたいな。





というか、本書では「性的場面における<女性>=エロい」「欲望される身体のイニシアティブを握っているがゆえにオートエロティシズムも可能」ってことになってるけど、「女性全般がエロい」というのは立ち止まったほうが良いような。女性全般というよりも性的なトポスで「欲望される身体」がエロいということなのだろう。

「欲望される身体」あるいはそういった場面でのエロスというのは男女で作り上げ共有されていくものだろうけど、なぜかそういう場面に関わる以前に社会・産業的に基底され女性側に片務されてるので。その幻想との齟齬が生じて当然のような。


ただ、現代の<女性>はそういった歴史の総体として淘汰→作られてきたものなので、結果的に「欲望される身体」を当然として引受け、そのイニシアティブを握っているがゆえにオートエロティシズムも可能、ということになるのだろう。



なので、それまで男女分けられずに育てられてきた女子が女性になる段階でそういった役割とそれに付随するコミュニケーション様式、ステレオタイプイメージ、欲望のまなざしもセットにして受け容れなければならないということに対して違和感やアレルギー的な反応を起こすのではないか?

そして、そういった女性性の受け容れの不時着がこじらせ女子という形、あるいはヘタしたら拒食症などの形で表れる。



健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
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オートエロティシズムにはナルシシズムが関わるようだけど、それには「女性的に理想の身体」という表象イメージが絡んでくる。

それらをうまくクリアできた女性なら「ステロタイプとしての理想の身体=エロイことをしても当然のわたし」にアイデンティファイでき、わりとすんなりと女性性を受け容れられるのかもしれない。








とりあえずセクシャリティとそれによるリアリティ/疎外/アイデンティファイをめぐるこの辺りの話はもっと心理学的なアプローチが必要なようにおもう。


たとえば「女性はオートエロティシズムできるほど生来エロエロ」といっても女性によって出来ない人もいるし、才能のあるM男のような人もいる。

才能のあるM男の場合は一般的な女性と同じく性的場面で受け身の役割を担うわけだけどいじめられることを性的快感につなげるので従来の性規範からは外れる。

ベタなM男性イメージとしては「ふだんはエリート・権威的な役割を社会的に分担させられているが、そこで生じるコミュニケーション的な疎外を埋めるために刺激として過度に被虐的な性的役割を求める」という理解も成り立つ。でもそういった理解から外れるM男もいるだろうし、その場合、どういう心理機構なのか考えてみる過程を通して一般的に受け身な役割を担わされてる女性のその辺りの心理機構もわかってくるかもしれない。(後者はMな役割なはずだけど「倒錯」としてでもなくふつーに暮らしてるわけだし)

そして「いじめる / いじめられる」というところにセックスをめぐる暴力性が関わる。

人の暴力性、「エログロを覗きたくなる」みたいなものはネガティブな欲望として忌避されるけれど、それがどういう心理として措定されるのか、偏見なく探っていくのも良いようにおもう。


また、女性一般 / 男性一般のセクシャリティ-アイデンティティから外れる人たちの内部では男性成分的なところと女性成分的な割合が世間一般と外れているところがあって、それがゆえに一般の性役割には違和感をもつのではないか。

内部の男性 / 女性のグラデーション、ユングのアーキタイプ的なものとの関係。

家族関係が権威的で性的禁忌が厳しいほど、そのわりに早くから男性側からの欲望の視線に覆われてくるほどエロくなる。タブーとインモラルと不全感。セックス時の昂まりで統制が効かないところにはその反動も関連してるのかもしれない。

性的禁忌が厳しい → インモラル / 不全感のとこでは森岡正博さんの悩みも関連するかも。森岡さんはそれを「射精のみ重視すること」「女性のオーガズムに対する引け目 → コンプレックスの裏返し → 女性(性的身体)的なものに対する暴力的願望 → それを自分の内部で受けることで半身が傷つく」みたいにしてたけど。

そういうのを総合してフロイトな関心を再編成してみるのもいいのかもしれない。







そいやこの部分にジンメルの生の哲学が関わるみたい


ゲオルク・ジンメル - Wikipedia http://bit.ly/1mivHCh

彼の哲学は、ニーチェ、ショーペンハウエルと共通点をもつ生の哲学だが、大学の世界で薫陶を受けているため、それをカント以来のドイツ観念論の系譜で一般的な用語法を持って語るという、なかなかユニークなもの。「断章」などにも本人が書いているように、知的遺産の後継者には恵まれなかったが、彼の思想は彼の提唱する形式社会学に結実した。形式社会学に含まれるその考え方はアメリカにわたり、社会学のシカゴ学派、そしてシンボリック相互作用論に大きな影響を与え、定性的研究の源流のひとつとも言われるようになった。

また、近年では、ドゥルーズ、ガタリ以降の生気論再評価の文脈で、社会化以前の生を捉えようとする後期ジンメルの論が新たに注目されている。



形式社会学 - Wikipedia http://bit.ly/1mivKy3

初期ジンメルが形式社会学を提唱することになった背景は、オーギュスト・コント以来の総合社会学が、学問としての独自性を確立することなく、すべての学問を包み込む総合科学としての立場を強調していたことに対して、社会学以外の専門分野からの批判を強く受けていたことが挙げられる。つまり、社会学は他の学問分野をつなぎ合わせただけで実体がないという批判を受けていたのである。

19世紀後半より資本主義社会の複雑化・高度化が進んでいく中で、学問もそれに伴って専門化の傾向が顕著となってきており、そのような状況にあって初期の総合社会学は時代遅れの学問とみなされるようになってきていた。


このような背景にあってジンメルは、他の学問にはない社会学独自の研究対象を模索する中で、人間相互の関係の形式(社会化の形式あるいは心的相互作用)に注目し、これを社会学が扱うべき対象であると考えるようになった。

社会化の形式あるいは心的相互作用とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係などが挙げられる。これに対して、政治、法律、経済、宗教、芸術などは「内容」から分類された学問分野だとして、「形式」の観点からそれらに横断線を引く学問として社会学を位置づけた。


ジンメルの後期の著作を読み解くと、生の哲学と形式社会学とが緊密なつながりを有していることがわかる。生の哲学者でもあったジンメルにとって、人間存在の唯一究極的な原理である「生」の本質は、一方で生が現前する自分自身を絶えず超えていくという「自己超越性」とともに、他方でその生が自分に対立する「形式」を通してでなければ己を表現することができないという「自己疎外性」に求められる。

そして、創造的な生は、社会制度や芸術作品、科学的認識といった形式を作り出し、一方で生それ自体はその形式を乗り越えていくものの、形式はその母たる生とは自律的な動きをもつ。そして、ここにジンメルの言うところの「文化の悲劇」が生まれる。すなわち、形式が客観的独立性をもち、それが生を囲い込み枠づける生活形式となる。この傾向が頂点に達するのが、貨幣経済の完全な浸透がみられる近代社会である(『貨幣の哲学』)。近代人はもはや客観的な生活形式を内的に消化することができなくなり、生の手段が生の目的となる。そこに、生と形式をめぐる完全な「軸の転回」が出現するとジンメルは診断する(『現代文化の葛藤』)。

当初ジンメルは、特殊科学としての社会学の確立を目的として形式社会学を提唱したが、晩年に著した『社会学の根本問題』(1917)において、一般社会学、特殊社会学(形式社会学)、哲学的社会学という3つ分野から成る、より大きな社会学の体系を構想するようになったのである。しかし、その中心となる分野はあくまで形式社会学であり、彼が残した研究実績は形式社会学の方法論に基づいたものである。



形式と内容の問題(形式を通じた疎外と形式を通じてしかコミュニケーションできない人の矛盾をどうつなぐか?)というのはベンヤミンを通して見ていこうと思ってたけどジンメルもやってたみたい。つか、同時代だから同じような関心が湧いたのかもしれない(近代による疎外)。

シンボリック相互作用論にも通じるようだしなんだったらこっちものぞいてみていいかもしれない。




ジンメル―生の形式 (現代思想の冒険者たち)
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関連:

こころ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/226411328.html


たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html




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やおい / ショタ(ペド)、ロリも物理的身体を離れた身体イメージ(トポス)における性的身体とエロスイメージの了解、自由編制の表象と言えそう。男性によるロリコンの場合は男性性への期待からの疎外、ボイコット → 安全な漂白されたエロへというところもありそうだけど

なのでやおいの初期のものは現在のBLのようなセックス中心よりも精神的交換が重視される



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上野さんおもしろかったのでもそっとよみすすめていこう






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posted by m_um_u at 20:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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