2014年02月10日

ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり)




ベンヤミンちょっとやってみようかなあと思ったのはソンタグで触れてあったからか。



スーザン・ソンタグ、1977(1979)、「写真論」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/385423814.html



それで写真のテクニック的なことではなくて写真というメディアを通じて(あるいはそれに代表される)リアリティの変化を改めて考えてみたいと思ったのだった。そもそもアートとしての写真がピンと来ないので、自分的に。


なので、この系列で行くとバルトの「明るい部屋」とかベンヤミンの「写真小史」を読み進めるべきなんだろうけど、まあその前段階として。てか、「明るい部屋」はなぜかそれの解説本(あるいはそれを踏まえたタイトル)は図書館にあったけどバルトのそれはなかったのだった(´・ω・`)。

ついでに「複製技術時代の芸術」もなんかよくわからんかったし、んでもベンヤミンの射程てけっこう自分の関心と関わってくるのかなあ、てことでベンヤミン見直し


ナウシカ再読 ジブリと生政治と新「自由」主義周りの勘違い: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/386902947.html



ヴァルター・ベンヤミン―近代の星座 (講談社現代新書)
高橋 順一
講談社
売り上げランキング: 616,872



その程度のモチベでのアンチョコ本当たりなので本来ならこれが一番エントリにする必要ないんだけど、なんか、よくわからんけど今後のために現時点での理解や理解の方向性をメモっとくのもいいかなあと思ったので。まあでも未熟な理解メモということで。


最初に、ベンヤミンの生きた時代というのはビスマルクの鉄血政治の少し後からナチスの時期だった。つまりナポレオン→ウイーン体制の後、プロイセン側からドイツが統合されていった時代。

オーストリア側の経済・政治情況の概観はこんな感じ


シェーネラーとルエーガー〜ヒトラーが範とした二人の反ユダヤ主義者 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/5913


神聖ローマ帝国の終焉とナチまでの背景として。「十九世紀中盤までのオーストリアの経済成長を支えたのは勤勉なユダヤ系の人々であった」が不況の反動で当時の民族主義につながっていった。

自分的に今ひとつピンと来なかったのは、当時の民衆の精神史的な生活感が表されてなかったからか。カトリックではなくプロテスタント多い中でのエートスとイデオロギーとか、汎○○的民族主義の隆盛とか、ユダヤ金融の強さ。その辺は自分で調べるか


プロイセンはビスマルクを中心として官僚・近代化


『ビスマルク』 by 出口 治明 - HONZ
http://honz.jp/37910


その際にドイツ教養市民層 / 大衆の分断がどのように編制されていったか


野田宣雄、1997、「ドイツ教養市民層の歴史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382529159.html



それがナチの問題でありロマン主義的形而上学と生活の分離、政治の美学化の是非というベンヤミン的課題につながる


ベンヤミンを政治化するさいの注意書 - 試行空間
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040210#p2
http://morutan.tumblr.com/post/76176032073

言うまでもなく、アウラなるものはそれ自体として物象が持ちうるような属性ではなく、「アウラが喪失されつつある」という喪失の認識=観察のなかで、「喪失以前に、かつて−あった」ものとして再構成された理念である。それは、複製技術の登場によって世界の舞台から姿を消しつつある何かではなく、むしろ、複製技術が生み出した漠然とした喪失感を説明する操作変数として新たに−近代によって−作り出された《出来事》なのだ。「意図の伝達」などという人間的なコミュニケーションの論理を強引に変質させてしまう(複製)技術。人間が「意図的」に操作できるよう社会的に馴馳する時間を与えず、まずは直接的に我々の身体を揺さぶりをかけてくるテクノロジー。その耐えがたい不気味さへの人間の不安が、「アウラの喪失」という危機意識として現象する。だから「アウラがあって、それを反アウラ的機能を持つ複製技術が消していった」のではない。複製技術が、そのものとして「アウラ/アウラの喪失」という観察図式を作り出していったのである。
アウラを実体視しその再興を図る解釈学的な「政治の美学化」が、こうしたアウラの歴史的本質を見逃したものであることは言うまでもない。しかし重要なのは、技術を宣称する未来派的な「政治の美学化」にかんしても、同じようなことがいえるということだ。
ベンヤミンは、先のマリネッティの言葉を受けて次のように言う。「戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を制御するまでに成長していなかったことなのである」。
未来派の文脈において重要なのは、あくまで人間の論理のなかに技術が上首尾に収まりをつけること、人間-社会に寄与する第一契機として技術を位置づけることにすぎない。技術は社会的に馴馳された「機能(反アウラ的機能)」ゆえに肯定される。一見解釈学的な「美学化」の対極にあるように映る技術主義=未来派にあっても、技術そのものの強要によって変質しつつある人間(社会)−技術の関係性、あるいは、技術そのものが「アウラ/アウラの喪失」という観察図式を生み出したという歴史的事実は、やはり決定的に見逃されているのである。
ベンヤミンは、アウラの喪失を嘆いていたのでも、近代技術の反アウラ的なあり方を無条件に肯定していたわけでもない。アウラ/反アウラという二項対立が生成・実定化されるとともに、二項の同根性・共犯性が不可視化されていく「政治の美学化」に対する危機意識−そうしたものが、彼の複製技術論を貫いている。
だから、「政治の美学化」に対置される「芸術の政治化」とは、この共犯性に亀裂を入れていく作業とならざるをえないだろう。現在と過去の記憶とを想像的に結ぶ《後ろ向きの美学》はもちろんのこと、技術と人間との入り組んだ関係を技術主義的に清算してしまう《前向きの美学》も同時に解体していく契機。それこそが、「物質が人間といかにして共演するかを示すことができる、史上はじめての芸術手段」−すなわち映画であった。人びとの身体性を触覚的・集団的に構成し直し、意味なるものを個人の意図・メッセージという「ブルジョア的」な縛りのなかから解放していく契機=映画。
おそらくは、ベンヤミンのいう「芸術の政治化」とは、政治的芸術を製作するといった作業に還元されえない、美的にも政治的にも貪欲で、志向的存在=人間にとっては困難きわまるプロジェクトだったのである。



形而上学的な空間、アート的なそれはしばしば生活から離れてしまう。生活から離れて抽象化されたものが操作され新たな発見がある場合もあるんだけど、それがあまりにも当然として形式化してしまうとその暴力、権力のようなものが発生する。ハイエクでいうタクシスの暴走、ベンヤミンなら法などの神話的暴力の暴走というところか。

アートは祭祀-<聖なるもの>の系だったのだろうけど、それが近代化-大量消費→スペクタクルの要請にともなってたましいを抜かれて形式化していく。

ベンヤミンが課題とした観念論、あるいはロマン主義における形式化というのもそういう問題意識と射程だったのだろう。


人には理性とは別のところでの思考みたいなものがあるのだけれど、それをすべて理性のもとに合理化していく暴力がこの時代のモダニズムだった。


それへの反動としてロマン主義的な関心は生まれたはずだけど、それ自体がいつしか形式・ルーチン化し、最初の感動のようなものが失われていった。



「理性・知性とは別の所の思考」を仮に感性とか精神とする。感性で受信しいくつかの経験を経て、身体と「なんとなくそう思った」的な実感が積もっていったものが精神。

文学やアートの役割のひとつとしてそういった心の領域を広げ研鑽し措定していくところがあるだろう。それらを通じて内省し精神を育てていく。ルソーの語りが告解の役割を果たしていったように。


ナチスを喚んだドイツの土壌はこういったもののバランスが崩れてしまっていたぽい。


権威主義的な不平等直系家族文化圏で教養はスパルタされるのだけれどそれは家を継ぐ「ため」のもので個々の内省 → 実存的な救済にはならなかったのではないか?

そういった情況のなかでロマン主義的教養はエリートのツールとしては交換されても精神の深みや自省には結びつかず、ビスマルクを象徴とした国家の官僚化が並行して進んでいった。キリスト教に変わるエリートの嗜みとして教養小説、の理知を中心とした「用の学問」。それらは交わらない線で、結果的に人の精神や感性面での留保を考慮しない決断主義で理知-タクシスの暴走を許したのがナチス・ドイツだったのだろう。

そこでは美学や<聖なるもの>、感性や精神が拙速で即物的な功利主義のもとに統合され収奪されていった。



ベンヤミンの射程というのはそういった理知だけでは語りきれないもの、語ろうとすればするほど零れていくもの、をなんとかして言語化する試み、あるいは、語ろうとすればするほど零れていく、ということの立証だったのではないか?柄谷、ヴィト、デリダあたりのあれと同じく。


ベンヤミンはロマン主義文学の批評を専門としてて、そこでは内容と形式的には形式的なもの、レトリックやクリシェの可能性を肯定的にとらえているようで、だとしたらポモ的いい加減さを思ったんだけどどうも違うぽい。


形式化されつつも感性-精神の領域として残っているアレゴリーの部分。

それは中世ヨーロッパの民俗学的想像空間を想わせる

バロック → ロマン主義的ドラマトゥルギーという形で継がれてきた物語の形式。その形式化が極まれば極まるほど失われていくアレゴリー、多義性の問題。そのなかで際立ってくる<聖なるもの><アウラ>の喪失感という物語。それはどうやらコスモス-イマジネール-精神世界の未熟が未熟と理解されないでタクシス-政治空間に統合されていくときに同時に生じるものぽい。(cf.システムによる生活世界の侵犯)

その前段階として認識(エピステーメー)の変化が近代化を通じてぢわぢわと押し寄せてくる。(cf.生権力の生活世界への侵食、「悲劇」の当然化、「感動をありがとう」ほかコンテンツを通じた喜怒哀楽の感情消費/tuneの当然化)



それが近代化の必然なのか?想像空間の自由さを復活し設計していく方法はないのか?というのが「アレゴリー」というキーワードを介したパサージュ論における関心だったのではないか?




まあこのへんがなんとなくのベンヤミン理解の投網になるけど、冒頭言ったように「こんな感じかな?」て予想的なものなので未確認。んでも「アレゴリー」は形式化をめぐるキーワードぽいのでぢみに理解していきたい。




最後に最近の物語/スペクタクル消費をめぐったうんたらに関連付けてメモ。



現代の日本的に最もわかりやすいのは「泣ける」映画「感動を有難う」とかで、昨今の偽装クラシックや明日ママがうんたらをめぐる物語消費もその文脈だろうけど。そもそも悲劇や喜劇など人の感動を誘発するように物語が構成・要請されるのが近代消費社会の特殊って感じ(機能合理性からするとそういうものは本来必要がないはずだから)。

「複製技術時代の芸術」というのはホントはそういう文脈、「近代」の合理性と生の物象化-疎外についての是非を背景にしたもので、アウラという特殊用語もその辺りの文脈を踏まえたものになる。複製技術がどうとかというよりは大量消費社会と近代の是非がメイン。「アウラの喪失」は「悲劇」と同じように条件付けられたものなのだろう。

悲喜劇の形式・語りの当然・再帰化によってそういう形式での感動・認識が当然化し回帰していく

物語-ナラティブとドラマトゥルギーはその「民族」の言語・間・時間・死生観と関わってくるだろうから「悲劇の形式」とその変化と言語の変化に相関するところがあるのかもだけどこの辺りはまだよくわからないので保留。

同様な理由で原日本語(日本古語)的な感情・機微のうんたら(cf.本居宣長)というのが現代的に意味あるのか自分的にはよくわからん。まあ保留。



いちお偽装クラシック・明日ママの話にもう一度還ると、「大量消費的スペクタクルの要請によってつくられたコモデティ(複製品)なアングル」「駄菓子のようなもの」だとしても駄菓子自体に特別な思い出を持つ人もいるだろうからそれは受け手次第というのはある。

ただ、全体の構図としてこんな感じだろうから誰かを悪者にして落ち着ける話でもないだろうなあ本来は。偽装とかやり過ぎとか怒ること自体が偽装でない複製品に認識を馴化されてることの証左なのだろうから。

それはたぶんナチやオウムが自分達の理知を「当然」としていった回路と近い。




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関連:
キットラーにおける読書の変容の概説(歌声喫茶的なみんなで読書 → 母の音読 → 個人的黙読)むーたん
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

ここからするとルソー的読書体験は音読期を過ぎて黙読段階に入った時の初期、あるいは移行段階ぐらいにおもえる。



書評空間:UMATフォーラム@書評空間: 『書き込みシステム1800/1900』(未邦訳)フリードリヒ・キットラーFriedrich A. Kittler, 1985=1990
http://bit.ly/pYBQc




神的暴力
http://morutan.tumblr.com/post/75672011502
http://bit.ly/1lA82wF

悲劇(ギリシアの祭礼から)、アレゴリー、ニーチェ
http://bit.ly/1lA8c7m http://bit.ly/1lA8c7o http://bit.ly/1lA8c7q
http://morutan.tumblr.com/post/75672256313/isbn-4121600622
posted by m_um_u at 18:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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