裁判制度うんぬんについてはそれほど参考にならなかったのだけれど、なぜいまの段階で裁判への市民参加が要請される(認められる)ようになったか、の説明が参考になった。
裁判所のような機構(institute)はある専門性を期待されて成り立っている。でも、代わりに専門的過ぎて内部の動向が見えないって問題がある。
マスメディアなんかも同じ。
その部分に対して、不信感が持たれて公開化要請のギロンが起こってくるわけだけど、こういう問題意識が起こってくるのはなぜか?
どうやらそれは情報の非対称性に関することっぽい。
いちお説明しとくと「情報の非対称性」とは、専門家と素人では情報量に差が出る状態(情報量が非対称になる状態)のことを言う。その結果、<需要と供給の合理的判断に従えばユーザーは安くてもっとも機能が高いものを買うはず>という完全合理性を前提とした市場が成り立たないことになる。たとえば中古車(レモン)市場の例なんかが有名。
ここではディーラーのほうが情報量が多いので購買者にてきとーな品をつかませてうまいこと儲けたり・・ちなみに、あまり質の高くない中古車がでこぼこしててレモンに似てるから「粗悪品の中古車」=「レモン」っていう(んだっけな?)
あるものに対する問題意識というのは同様のものとの比較の上に成り立っていくわけだけど、従来だったら機構を利用する側(ex.市民)は情報量が不足していたため比較のしようがなかった。
具体的に言うと、裁判所のような機構を比較検討する場合、検討の対象は諸外国の裁判所に求める必要があるんだけど、従来だったらそういう専門的な情報は市民の目には触れないものだった。
でも、いまはネットやらなんやらの影響で市民が情報を得てきている。その情報量は機構側と同等か、限定された情報では機構側をしのぐこともあるかもしれない(情報の非対称性の解消)。
そうすると経済学的には「ユーザーの合理的判断うんぬん」な話になってきて経済学者はちょっと嬉しい展開になって来るんだけど、機構関連ではちょっと違うみたい。(機構関連っていうか制度論か?)
ここで、機構側が市民の要求を呑んだり、あるいは市民側を機構の中に組み入れて裁判なりなんなりに参加させるのは「責任の分散」が目的っぽい。機構側の意思決定が元でなにか問題が生じたとしても「市民側の要求でしましたー」とか「市民の人たちが意思決定してやったことですー」とか言って言い逃れできるので。
そう考えると「参加型」っていうのびみょーだねってことになる。
んで、以上を踏まえて考えたいのは以下のエントリ
アンカテ(Uncategorizable Blog) - 公開できる5W1Hの量が会社の価値を決める
アンカテ(Uncategorizable Blog) - 本音ベーション(本音+イノベーション)
こちらでは先日のNHK「ためしてガッテン」の対応の早さを受けて、「アカウンタビリティ系って早いほうがよくね?っつーか、機構はどんどんopenにしていくことが求められるねー」って主張がされているわけだけど、上記のギロンを踏まえるとちょっとびみょー。
要するにオープンソースってことなんだけど、この部分に参加型の要素が入ってくると責任逃れの材料に使われかねない。(っつーかessaさんは単にオープンソースのとこまでしか言ってなくて、参加型までは触れてないけど)
んで、次
池田信夫 blog 市場を創る
<制度設計には人々の利己的行動を考慮する必要がある>というエントリ。でも、ここでの問題設定的には「情報の非対称性」というよりも「人々が合理的判断をしない」というとこがポイントのように思う。
たとえば正しい情報が行き渡ったとしてもなんかしらないけど行動を起こさない人(正しい選択をしない人)っていうのはけっこういるし、世間的にはけっこうな割合でそれがふつーだったり。
こういうのは経済・機能合理性からするとはなはだ非効率・不可解で「衆愚?」とか思ったりするんだけど、文化人類学的にはそうでもない感じがする
小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:なぜ帰宅後にすぐ手を洗うのか
「手を洗う」ということについて。日本社会では「外はばい菌がいっぱいだからお家に帰ったら手を洗いなさい」っていうことになってるんだけど、実は外も中もばい菌の数は変わらなかったり・・。ここでの「手を洗う」という行動の選択にはそれほどの合理的な理由がないことになる。「合理的でない」っていうか、機能的合理性がない感じ。ほかの意味での合理性はあるのだろう(「手を洗う」=「きれい」とか「お家に帰った徴」とか)。
そう考えると経済・機能的な合理性(言い換えると明示的な分かりやすい合理性)ではない部分の合理性を持っていわゆる大衆(?)は(分かりやすい)合理的判断をしていないことになるのではないか?
先日の石原都知事当選なんかもそんな感じだったのかなぁ・・(単なる惰性とか怠慢とかいう見方もあるだろうが)
んで、まぁ、制度(あるいはシステム)論的にまとめると、「構成要員のエゴみたいな不確定要素(多様性)も考慮しないといけないだろうね」って感じになると思う
そんで、次
The Cathedral and the Bazaar(伽藍とバザール): Japanese
閉鎖と公開・・というか、ピラミッド型トップダウンな意思決定方式からバザール型の水平的な意志決定方式への変化についての有名なアレ。たぶん「どっちが優れてる」とかいうことではなくて環境に応じて変化していくものなんだと思う。その好例として
kawasakiのはてなダイアリー - iPodは何を変えたのか?
iPod作りにおける意志決定過程について。
「いろんなところからいろんな人を引き抜いてきてうんぬん」ってくだりはバザール的だけど、製品設計に関してはjobsのイメージによるトップダウン(カリスマトップダウン)っぽかったのでこの辺はモロにカテドラル(伽藍)っぽい。
両方の間って感じもするけど、このエントリだけだと「伽藍」のほうが強いかな
っつーか「伽藍」を選択した際の基準みたいなのが示されているとわかりやすかったんだけど・・渡辺さんのエントリ的には「リソースの問題」ってことになるのだろうか
CNET Japan Blog - 渡辺聡・情報化社会の航海図:制度運用コストと制度メリットのバランス
あとはリスクヘッジのバランスみたいな感じだろう(リターンとリスクの天秤みたいなの)。リスクは個々人のエゴ(色)と絡むのかな?
あと、興味があるのは「このパターンって一回決めると変えられないのか?」ってことだけど、どうなんだろ?(っつーか変えにくいよなぁ)
あと、オープン型+参加型で思い浮かぶって言ったらやっぱりアレ。OhMyNewsの意志決定過程(記事の採用基準)とか
これはまぁもはや「どっちらけー」って感じになってるんだけど、いちお。記事の採用基準についてはこの辺とか分かりやすい
オーマイニュース編集部に行ってきました。(上)-Parsleyの「添え物は添え物らしく」
オーマイニュース編集部に行ってきました。(下)-Parsleyの「添え物は添え物らしく」
っつーか、佐々木さんの批判に採用基準の傾向が表れていたか
CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:オーマイニュースの記事への批判に答えて
ニュースの現場で考えること : オーマイニュースの佐々木氏に対して
AnotherB - オーマイニュース--ようやく平野日出木さんを釣り上げた佐々木俊尚さん。おめでとうございます。
本サイトにおける先日のエントリ的には典型的「バカサヨク」なわけだが、こういう人たちは言ってもわかんないので「壁」はなくならないと思う。
ってか、文化人類学的視点を用いれば「その人たちにはその人たち独特の合理性があるんですよ」ってことになるのかもしれない。
でも、その合理性ってどんなのなんだろう?(「参加型」と銘打っているのに実質は「特殊閉鎖型」ということの合理性)
ちょっと思うのは「バカサヨク」的言説を「参加型(特殊閉鎖型)」という形でいちお意見を集めることで、「自分達の意見ではないよ」と責任逃れする方向かなぁとか思うけど、それはあんまりにも子供だまし過ぎるしなぁ・・。
っつーかおーまいにうすの体質っておーまいの星こと音羽さんに関するこのエントリに全てが表れているように思えた
お帰りなさいませご主人様 OhmyNews。音羽さんの削除記事1。音羽さんを理解しよう。
やはりバカサヨクとバカウヨクは似たようなものなのだ(ウロボロスの蛇のように繋がっている)
そしてコメント欄での音羽さんのこの一言
貴方はそう書いて、ネットで公開してどうしたいんでしょうか?読んでもらいたんですよね。
読んでもらってどうしたいんでしょうか?何らかの効果を発揮したいんですよね。それはぼくや鳥越さんが間違っていて、自分が正しいのだと、そう主張したいはずです。
それで人というのは間違っているものに向かっていって、正しい方向に背を向けるものでしょうか?違いますよね。
貴方は正しい方向に読み手を誘導したい。というか貴方は何にも考えてなくても文章を書いて公開するということはそういうことだ。
これは相手の論旨を慮ってという形式をとってはいるけれど音羽さんの中の「記事を公開することの意義」を反映したコメントのように思える。つまり「自分は正しい」と主張したいがために記事を書いたりエントリを出したりしてるわけだ・・。
・・なるほどね(なにも言うまい)
それにしても渡辺さん的な視点を用いるとおーまいにうすはリスク背負いまくりだな(「リスクもアクセス数のうち」、か)
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追記:
essaさんとこでこんなの見つけた
ised@glocom - ised議事録 - 9. 設計研第5回: 共同討議 第2部(2)
プロプライエタリ(商業的)とGPL(非商業)の間みたいな感じか
つまり、閉鎖と公開の間
個人的にはIBM4象限モデルに通じるな(動画市場の未来予測)
あと、誰かさんのところも「市場合理性」を重んじるなら特殊閉鎖型にしている意味がよく分からないけど、それはなにか特別な思いからの実践のようなものかもしれないのでそっと見守っておこう(社会主義的統制ってやつかな?計画経済?)