「ナウシカ読み返してみようかなあ」と思ったのはなんでだったっけ?・・設計思想≠社会主義≠全体主義と思ったから、だったかな。
それでハイエクアンチョコ本読み終わったあとにナウシカ読みなおしたり、ナウシカの該当エントリ見返したりしてみた。
風の谷のナウシカ全7巻セット ―アニメージュコミックスワイド判 (アニメージュコミックスワイド版)
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宮崎 駿
徳間書店
徳間書店
ナウシカ解読と正義の審級 ユートピアとベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/164690250.html
若いエントリなので「なんでベンヤミン?」「たまたまTLで転がってて読んでみたらテーマとマッチしたから」ってことだったけど、読みなおしてみたらたしかにこれはこれで面白かった。なので図書館にベンヤミン予約して「ベンヤミンはじめました」的なことしようとしたり。後述するところにも繋がるけど、マルクスを設計主義としたとき、その違和感をパサージュの生活感から払拭し拾い上げていこうとしたのだとしたらやはり見るところがあるのだろうなあとおもう。(そしてその部分でナウシカとつながったり)
エコ(自然)還りしたアニメ版と違ってナウシカというのは全体的には社会主義的な設計思想についての是非についての話で、なので終盤は何度もその辺りについての是非が内省される。「森≠自然に還る?」「チガウ」「いまより進んだ文明がつくりだした<神>に管理される?」「チガウ」って感じで。
どちらも生活の福利厚生自体は現時点のナウシカの暮らしよりは良くなるんだけどナウシカは拒否する。まあ前者は自分一人だけしか迎えられないという条件もあったからだろうけど。後者は量子コンピュータによる完全管理社会(オーウェル的管理社会)にもつながる設定。MATRIXでもいいけど。
そういうものを拒否し「生命は良いことだけではなくて闇と汚濁を抱え変化、成長していく光だ」としてナウシカは風の谷とともに歩もうとする。
それは社会主義的設計思想に対する宮ア駿からの拒否とか変化であり自由主義的な考えへの着地だったのかなあと「ナウシカ解読」のあとがき的インタビューを見ていて改めて思った。
(194)「宮崎さんの中にはそういった計画的なもの、過去のプログラムによって未来が規定されてしまうことに対する徹底した嫌悪感のように感じたのですが…」
「生きるということはプログラムされてるから生きるとか、結末を知らなければ生きられるという類のものではないんじゃないか。生きるということと、理解するということは違うことなんじゃないか。ナウシカは、理解をしよう、問題をつきつめていこう、見届けようという意志を強く持っていたにしても、彼女を支えているのは、その意志だけではなくて、なにかを感じとる能力だろう。実にささやかなきざしのなかに、生きることの意味を直感する力というのか、その能力を彼女が失わなければ、気が狂わないだろうと思ったんです」
結末ではなくその場その場にある何かを感じ取り、選択していく力(そういった「生きる」「生命力」のテーマはジブリのライトモチーフとして何度も出てくる)
(201) ただ、僕は「正しいこと」はあるんだと思っているんですよ。でも、「正しい人」はいないと思っています。「正しいこと」をやっている瞬間、その人は「正しい人」だけれど、じゃあ、その人がずっと「正しい」かというとなんの保証もない。愚かなことも、間違ったこともする。「正しいこと」をやった人が、そのあとくだらないことをやったからと言って、その「正しいこと」までくだらないというのをやめよう。「正しいこと」は一人の人間のなかに何度も現れたりするし、その人がくだらないことをやったりもするんだと。「正しい国」があったり、「正しい党派」があるとか、「正しい人」がいるというのは言うのはやめよう。
「正しいことをすれば間違ったこともするものとしての人間」
それらをどうやってモデレートしていくかについてはその後、宮ア駿の作品からは伺えなかったけど、おそらく
<仏教的無常感にも通じる悠久の時の流れのなかでの「人」 + そのなかでイデオロギーではなく適時選択し生きていく(「生きる力」のもとに)>
みたいな感じに落ち着いたのだとおもう。宮ア駿が堀田善衛に心酔してたのは鈴木敏夫も言っていたことだし。「最後に『方丈記私記』的なものを作りたいんです」と言っていたのも知れ渡ってることだろし。
社会主義に対する考え
東映動画入社の志望動機書には「米帝ディズニーに対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたと岡田斗司夫が著書[53]で述べている。実際に入社後は激しい組合活動を行った。その後も長らく左翼的思想を保ち続けていたが、中国やソ連などの現実の社会主義国への批判的発言も少なくない。特に1989年の天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に、思想的修正を余儀なくされたとする向きもある[54]。
宮崎の強権的「国家」に対する批判的姿勢は、宮崎が尊敬崇拝する作家の堀田善衛や司馬遼太郎らからの影響から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する、宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
しかし、これに対しては別の見方もある。宮崎はもともと統制的・強権的な社会主義には懐疑的であり、ソ連や中国の社会主義に対する批判は以前から行っている。また近年においてもアメリカ公演で毛沢東語録から言葉を引用したり、「若い人たちがまた独立系の労働組合をつくったりしているようですけど、いろんなところで立ち上がって革命をおこしたほうがいいんです。」[55]と発言するなど、労働運動や革命など左派的な概念に関する肯定的姿勢は変わっていない。またインタビューでマルクス主義について問われた際、「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言をしている[56]。
サン=テグジュペリの思想
フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。後述のNHKのテレビ番組の中でははっきりと「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった航空郵便の飛行機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。NHK『世界わが心の旅』(1998年放送分)の企画でサン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。
中尾佐助の思想
宮崎に深く影響を与えた思想に、植物学者中尾佐助による「照葉樹林文化論」がある。ヒマラヤ山脈南麓から中国南部・日本本州南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色を持つ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、国家の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に『もののけ姫』に強く表れており、その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。
反原発
スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は東小金井で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、鈴木敏夫、河野太郎、大西健丞、川上量生による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちにトトロなどのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている[61]。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている
宮ア駿 - Wikipedia http://bit.ly/MpQNy8
基軸のところに社会主義・マルクス主義ほか社会思想的に世間への関心があり、それが生活や社会情勢の変化を介して徐々に変化していき、60年代の後期近代への変化における革新幻想の後退を通じて反悔恨共同体志向としての日本文化論や司馬遼太郎的なものも吸収していったのだろう。網野善彦ほか教養への関心もその一環な感じ。
反原発アピールはエコ脳というよりはの反政府-設計的な文脈なのではないかとおもう。ただデータや生きられた経験的に違うので出てきた結果が違うということ。なのでアニメ版ナウシカイメージからジブリ=エコだからというのもちょっと違うとおもう。あるいは、ジブリはそういうイメージでお子様売りしてもいいかもだけど宮崎の戦車・軍ヲタ的なとことエコの違和感というのはこういう文脈のように思える。
反設計思想と「生きる力」、このテーマはハイエクとフーコーにつながってくる。あるいはロールズ。
真の個人主義は現代的な意味での平等主義ではない。人々に対して一般的な規則を平等に適用すべきだという見地に立ち、特定の人に特権を与えたり、保護したりすることには反対するが、それは、人々の(経済的・社会的)ステータスを同一にすることではない。
cf.社会保障→BIをめぐる話、負の所得税、新自由主義を巡る話、配分的正義(cf.ミル「功利主義」)
部族社会と違って複雑化した「大きな社会」では各人の目的・幸福・貧困が異なるので一義的に「平等な配分」を設定できない
cont.→ アリストテレス「ニコマス倫理学」、ロールズ「正義論」、社会主義-設計思想、福祉国家論、所得再配分
正しい/正しくないは人間の行為においてだけ有意味であって、自然の状態においては意味を成さない。つまり人間の生物的属性に起因する能力の違いのようなことそれ自体については正しい/正しくないは発生しない。
ある行為が正しいか正しくないかは「その行為がもたらした帰結」ではなく「その行為が正しい振る舞いのルールに適合しているか(フェアかどうか)」によって決定される
「大きな社会」にとっての「一般的福祉」は、各人の目的追求の機会を改善するための諸条件の創出、であって、個々人の満足の合計を社会全体の利益として増大させることではない
cf.「帰結を問うのではなくルールの公正さを問う」、「機会平等」(セン)
このときの「正しい振る舞いのルール」≠「正義」は時代・環境・情況によって変化していく。明示的なルールがないところでも人々を「正しい振る舞いのルール」へと誘導する「正義感覚」はある。
この感覚は言語化されざるものに従い言語化する能力「言語感覚」同様、明文化することのできないルールに従う「正義の感覚」とされる。
それは、アプリオリに存在する「正義」を発見し正確に再構成する、ものではなく、進化の過程で人々の現実的な集団的な振る舞いや言語活動と相関しながら徐々に発達する感覚、である。したがって絶対的で不変なものではない。
それは消極的に普遍化可能なものであり絶対的な「社会的正義」ではない。
cf.タクシスーテーシスとしての正義や法、ケルゼン
ハイエクはまずもって手続きと機会平等の公正(フェア)を目指し、その帰結の平等・設計をすべきではないとする。
ロールズの正義論は配分的正義的だけど、よく読んでみるとプロセスの公正性を目指してるようでもあり、そうであれば賛成、との見解。
また、ハイエクが想定するコスモスにおける個人は合理的ではなく愚かで迷いやすい側面もある。それを誘導することも必要でありタクシス的制度、「制度・手続き的正義」(ロールズ)が必要な場合もある。
仲正昌樹、2011、「いまこそハイエクに学べ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/386797337.html
「絶対的な正義」や「絶対的に正しいルール(法)」は存在しない、だろうけど、なんとなく普遍的な正義感覚というものはある。たとえばアングロサクソンの良心と言われるようなアレとか。アングロサクソンじゃなくても日本人でもふつーに「良心」となんとなくいわれるもの。
その感覚は宮崎が「生きる力」という際にセットにしている良心的な部分にも共通するようにおもう。あるいは小田実が「世界人類、みんな異なるけれど普遍的に共通するところもある」といっていたところ。
それはいつでも正しいものではなく間違ったりもするけれど、生活と環境、歴史を通じて淘汰されてきた結果の集積、叡智だったりする。
そういったものに対してタクシス-テーシス的なものはあらかじめ幸福な結果・帰結をぶら下げそのアンシンをエサに人を釣ろうとする。
ミシェル・フーコーとベーシック・インカム / ル・モンド・ディプロマティーク
http://www.diplo.jp/articles13/1305foucault.html
「負の所得税=ベーシックインカム」は間違い : アゴラ - ライブドアブログ
http://agora-web.jp/archives/1461535.html
ここでフーコーが批判していたのはハイエクが言っていた「あらかじめ帰結を設定してフェアを度外視すること」に通じるのだろう。その短期的・具体的問題は『部族社会と違って複雑化した「大きな社会」では各人の目的・幸福・貧困が異なるので一義的に「平等な配分」を設定できない』あたりで、長期的問題としては生政治/生権力が関わってくる。
短期的な方は端的に言えば「生かさず殺さず」的な問題。
フーコーはいわゆる新自由主義を「権力の所在を分散させて隠蔽するイデオロギー装置」として論じるが、結果的にはそれが生政治によって人々を直接コントロールする「内政国家」を否定したことを評価する。その根底にあるのは、ポストモダンにも通じる超越的真理や特権的主体の否定である。
しかし、このように極度に脱中心化された統治形態は、自己否定的な存在である。それは(アロウの不可能性定理に示されるような)非決定性をはらんでいるからだ。したがって逆説的なことだが、自由主義と市場によって合理化された国家は、再中心化としてのナショナリズムや国家理性を必要とする。政府は限りなく合理的な主体として「国家戦略」を立案することを求められる。経済的自由主義をとったサッチャー・レーガン政権が、攻撃的な外交政策をとったことは偶然ではない。
池田信夫 blog : 生政治の誕生
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51294224.html
全体として何いってんだかわかりにくいんだけど、ハイエク的語彙からすればオイコス的なエコノミクス(古典主義的な合理的・設計的な経済設定)によって人の生が疎外されることの危険性ということになるとおもう。
「新自由主義」という言葉はバズワードで、その実態がなんともわかりにくいところがある。
ステレオタイプな見方としては「自由放任を題目にした政府による無責任主義」「貧困なんかかんけーねーから自己責任の名のもとに( ゚Д゚)<氏ね!」というもの
「どん底からでも努力次第で再スタートできる」なんて嘘に決まってる - 長椅子と本棚
http://d.hatena.ne.jp/dergeist/20130602/1370193810
ただ、そういう文脈で語られる「市場原理」というのはおそらくオイコス-タクシス-テーシス的なものであってカタラクシー(交換と自生)のほうではない。アンチ資本主義的文脈で語られるものもたぶん同様。
「フーコーが新自由主義を批判した」ということが記号化してて新自由主義批判の文脈でフーコーが使われることがあるように思うけど、そういうときしばしば上記のような勘違いがあるように思われる。
ついでにいえば負の所得税についても同様のようだし、
つーか、BIだとたぶん現在の福祉政策、福祉関係省庁をそのまま残す前提だろうけど、フリードマンが唱えた負の所得税は健康保険まで含めて一切合切福祉関係に政府が関係するのを辞めて、金と自由市場で解決する。
サッチャーについても誤解があるみたい、
サッチャー自身も誤解を受けた。「社会など存在しない、あるのは男女とその家族だけだ」という発言はあまりにも有名だ。孤立した個人の自己責任を重んじる主張として受けとめられた。『サッチャー回顧録』で、彼女は嘆いている。「私のいいたかったことは、当時は明解であっても、後に見る影もなく歪(ゆが)められてしまった」と。サッチャーは、むしろ人々の相互扶助精神に期待していた。批判の矢を向けたのは、国家を最初の避難所とみなす立場に対してであった。ハイエクのいう「真の個人主義」も同様で、国家よりも「社会的なるもの」を重視する。社会の再興を通じて、豊かな個人が育まれるとみなす新自由主義のこの含意は、これまでほとんど無視されてきた。
サッチャーの遺産 橋本努さんが選ぶ本 - 橋本努(北海道大教授) - ニュースの本棚 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト http://book.asahi.com/reviews/column/2013060200002.html
ハイエクとか自由主義についても同様の文脈で誤解があるのだろう。
未だ調べてないけどサッチャーが目指したもの、フリードマンが目指したものを文脈切除して政府が利用してしまった感がある。そしてそれも全体的に権力の大きな流れであり誰かのはっきりとした意志でもないような。システム-タクシス-理性から象った神の暴走みたいなの。
フーコーと三つのリベラリズム? - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090612/p1
国家によって規定され、いわば国家による監視の下で維持された市場の自由を受け入れる代わりに――経済的自由の空間を打ち立てよう、そしてそうした空間を国家によって限定させ監視させよう、というのが、自由主義の最初の定式でした。オルド自由主義者たちが主張するのは、この定式を完全に反転し、市場の自由を、国家をその存在の始まりからその介入の最後の形態に至るまで組織化し規則づけるための原理として手に入れなければならない、ということです。つまり、国家の監視下にある市場よりもむしろ、市場の監視下にある国家を、というわけです。(143頁)
タクシス-オイコスに依る管理
新自由主義者たちにとって、市場における本質的なものは交換のなかにはありません。(中略)彼らにとって、市場における本質的なものは、競争のなかにあります。(146頁)
カタラクシー(交換と自由競争)ではなくハイパー・メリトクラシー的な設計された競争
マルクスは、一言で言うなら資本の矛盾した論理のようなものを定義し分析しようとしました。これに対し、マックス・ヴェーバーの問題、そしてマックス・ヴェーバーがドイツの社会学的考察、経済的考察、政治的考察のなかに同時に導入したもの、それは、資本の矛盾した論理の問題よりもむしろ、資本主義社会の非合理的合理性の問題です。(中略)そしておおざっぱに言うなら、フランクフルト学派もフライブルク学派も、ホルクハイマーもオイケンも、この問題をとり上げ直したのだと言うことができます。ただし、二つの異なる向きへ、二つの異なる方向へと向かって。(中略)フランクフルト学派の問題は、経済的非合理性を解消するようなやり方で定義され形成されうるような新たな社会的合理性とはいかなるものでありうるのかを定義することでした。これに対し、資本主義の非合理的合理性の解読という、フライブルク学派にとっての問題でもあったこの問題を、オイケンやレプケのような人々は別のやり方で解決しようと試みることになります。すなわち、社会的合理性の新たな形式を再び見いだし、発明し、定義しようとするのではなく、資本主義の社会的非合理性の解消を可能にするような経済的合理性を定義したり、再定義したり、再発見しようとするということです。(130-1頁)
非合理的合理性(設計され得ないカタラクシー的な自生の中にある益を設計)、新古典的暗黙の設計
資本主義社会、ブルジョワ社会、功利主義社会、個人主義社会に関してナチスによってなされた分析については、それをゾンバルトに関係づけることができます。(中略)ブルジョワ的かつ資本主義的な経済および国家は、いったい何を産出したのだろうか。それらが産出したのは、一つの社会、即ちそこでは個々人がその自然的共同体から引き離されて大衆といういわば平板で匿名の一つの形態のなかで互いに結合されているような一つの社会である。(中略)ゾンバルトには、実は一九〇〇年代から既に、その分節化と骨格とがどのようなものであるのか定かでないような思考の決まり文句のうちの一つとなってしまった周知の批判が見られます。それはすなわち、大衆社会、一次元的人間の社会、権威主義社会、消費社会、スペクタクルの社会などに対する批判です。(中略)以上はまた、ナチスが自らのためにとり上げ直したことです。(中略)
しかし、と新自由主義者たちは言います。よく見ると、ナチスは、その組織、その政党、その総統支配によっていったい何をやっているのだろうか。ナチスがやっているのは、実は、あの大衆社会、画一化し規格化するあの消費社会、記号とスペクタクルからなるあの社会を際立たせることに他ならない。(中略)これはなぜだろうか。なぜナチスは、自らが告発しようとしているものを継続することしかしないのだろうか。それはまさしく、それらすべての諸要素が、ゾンバルトそして彼の後にナチスが主張していたのとは異なり、ブルジョワ資本主義によってもたらされた効果ではないからだ。(中略)大衆という現象、画一化という現象、スペクタクルという現象、こうしたすべては、国家主義、反自由主義に結びついているのであり、一つの商業経済に結びついているわけではないのだ、と。(139-40頁)
市場経済-資本主義の「欲望」-「内需」ドライブの社会的反映としての消費・スペクタクル・大衆・画一化という課題。ただ、これは後期近代の社会的課題であって市場の結果であり課題とはいえない感じ
まあいずれも稲葉さんとか池田さんの切り取りだからわかんないとこあるのでそのうち自分で見ていくけど。
ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)
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ジブリ、あるいは宮ア駿の課題というのはこの部分につながっていて、「生きる」となんとなくキャッチコピーで言っていたのはこういった生政治とその社会的反映の部分。スペクタクルな消費社会的な情況における人の疎外の問題。それは経済(カタラクシー)的レイヤーからすれば「帰結」「結果」であり、いわば老廃物的なものともいえる。
「経済」「社会」というレイヤーは異なるレイヤーなのでコードも異なる。なので本来は2つのレイヤーを一緒くたに扱うべきではない。
ほんとなら反設計思想の次にこの部分を課題として政治経済→社会的な落とし所を見出していくべきだったのだろうけど、それは商業的にも宮崎の体力的にも無理だったのだろう。
仕方ないのでその部分は自分的に脳内補完してジブリの「生きる」の部分での進行に期待したい
(たぶん生政治的なところはなんとなくセカイ系的に飛ばして「日本人の元からの精神はー」みたいなところに着地するだろうけど、それが出来ただけでも御の字といえるのかもしれない)
ハイエクのとこにも書いたけど単に自由というだけでもうまくいかないし、「自己責任」な厳しさだけが正しさでもないだろうからその部分でカタラクシー以外の福祉という制度設計的スパイスが必要になるだろうし、そこがロールズやフリードマン介してお勉強してくところ。
そんで「正義感覚」同様なんとなくの「普遍的な良いもの」としてのモダニティの良い側面なんかも(cf.開発とモダニティ)
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関連:
ついでにいっとけば「ナウシカ」もそんなに最初から成功が約束されたものではなく、最初は「なんか映画作りましょう」「アニメで」「原作がないのはダメ」「じゃあアニメージュで原作つくろう」になり金の引っ張り方も徳間康快的なエッシャエッシャがあったみたい。(「博打だからおまえも片棒担げよ」「あの絵のごちゃごちゃしたマンガですかぁ」、的なの)
「ナウシカ誕生秘話」
http://bit.ly/1bjmMXc
セカイ系イズムに飛んでないお金周りのリアルが面白い





