いまこそハイエクに学べ: 〈戦略〉としての思想史
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仲正 昌樹
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全体的に箇条書き的なメモで
印象として、
「自由とは」:
理性・設計思想懐疑からの創発民主主義的
民主制と憲法の考え方:
「自由」と自由のもとに作られた慣習・場のざんじ的制度を尊重し適時変えられるような余裕(バッファ)を担保しておくべき
cf.「きっちりとした規定ではなく漠然とした「精神」を共有しておくことで革命などによって憲法を中心とする公法が解体することがあったとしても民法と刑法を中心とする正しい振る舞いのルールの体系は保持されるだろう」
正義とは:
ときどきにおいて変化するものであるからそれを踏まえた上で予め設計的に理性や正義を敷衍すべきではない。
プロセス(手続き)過程の公正性を担保するように務めるべき。
しかし、人は合理的にできてないのでその自生性も誤ることがある。のでCGMによらない理性が必要な場面もある。
▼真の自由主義は多数決を万能としない。平等主義ではない。
民主主義は多数派の意見に基づいてその国あるいは社会の共通の行動を決定するという慣習に基づいているが、そのことは、多数派の意見が不可避的に、一般的に受け容れられた意見にならねばならない、ということを意味するわけではない。明日には少数派の意見が多数派の意見になっているかもしれない。民主主義はそれを前提にした制度である。
したがって民主主義が十分に機能するには、多数派の意見が全員を拘束すべき領域と少数派が自らの意見を保持し多数をは説得することが許容される領域の間に境界線が引かれねばならない。
これは現代の自由主義系の政治理論で「公/私」二分法と呼ばれている問題である。
真の自由主義は集合体としての人民の自由意志に干渉するものではない。
真の個人主義は現代的な意味での平等主義ではない。人々に対して一般的な規則を平等に適用すべきだという見地に立ち、特定の人に特権を与えたり、保護したりすることには反対するが、それは、人々の(経済的・社会的)ステータスを同一にすることではない。
cf.社会保障→BIをめぐる話、負の所得税、新自由主義を巡る話、配分的正義(cf.ミル「功利主義」)
部族社会と違って複雑化した「大きな社会」では各人の目的・幸福・貧困が異なるので一義的に「平等な配分」を設定できない
cont.→ アリストテレス「ニコマス倫理学」、ロールズ「正義論」、社会主義-設計思想、福祉国家論、所得再配分
民主(平等)主義の肥大化と多数決:
平等=社会正義の名のもとに議会の立法が強くなり、多数派の特殊利益が一般的利益とすり替えられ優先されがちな利益誘導型政治になることへの警戒
▼設計思想とその元としての理性への懐疑
<人間の理性的な合意=社会契約に基づいて社会秩序が形成される>
のではなく
<長年に渡る人々の経験や慣習を基盤とする『習慣的黙諾』によって社会が成り立っている>(ヒューム)
人の叡智は理性に基づいた単線の進化によるものではなく淘汰と適応
予めゴールや全体を設定・設計しそれに辿り着いたものではない。
「大きな社会」(スミス)もしくは「開かれた社会」(ポパー)は各人の好意を規制する一般的ルールのみを採用し、その下で各人の自由の余地を拡大していく。それは最初から社会全体の目標を設定しその実現に向けて人々を具体的に指示するものではない。
ex.法における曖昧さの設定
曖昧(cf.冗長性)を担保する法はかっちりとした決まりでルールを受けた行動の結果・パターンまで規定するのではなく、単に方向づけをするためのビーコン程度のものとして機能する。その際、ルールを受けて思考・試行錯誤・競争される場が公正に保たれているべきなだけであって、その結果までは関与しない。
理性はそのようなルールの発達を受けて進化するものとする。ルール(振る舞いのルール)は慣習、理性、情況の妥当な落とし所を受けて進化していく。
cf.慣習の叡智としてのコモンロー
▼エコノミーは理性に期待する言葉の含意があるため、カタラクシーが採用された。
経済(economy)← oikonomia ← oikos(家):「家を運営する術(家政学または家計)」:
一定の目的の実現に向け手持ちの様々な手段を「計画的に」利用するニュアンスがある。
カタラクシー(catalaxy) ← katallattein(交換する、コミュニティに入る、敵から味方に変わる(和解する)):「共通の枠組みのなかで利益調整をする」:
人々が理性ではなく自分の知らない知識(ルール)を活用することによって自生的に形成される市場の秩序
カタラクシーは分業、交換だけではなく、それらを介して生まれる無意識の協調的関係や秩序を表す。
カタラクシーはコスモス-ノモスの自由な創発が期待される。
ノモス(法)→慣習法
cf.コモンロー
テシス→立法の法
ただ、場の自由な志向に任せるだけではなく一定の規定が必要な場合もある。たとえば道路の右側通行/左側通行など
その場合、行政などによるタクシスが期待される。
テーシス / ノモス は 公法(憲法、行政法、税法、財政法…) / 私法(民法、商法) ぐらいの区分けイメージで可
タクシス(taxis):軍隊の編成単位、戦場での秩序、順序、配列 → 人工的秩序、指令的社会秩序、組織
コスモス:自然に成長してきた秩序 → 自生的秩序
※ただ、タクシスの領域のはずのものがタクシスとして区分けされずにコスモス領域を侵犯し始めることをハイエクは警戒する。
cf.国・政府と社会は違うものなのに前者と後者がイコールとされる(cf.全体主義)。新自由主義と生政治
▼自由主義における正義とは?
正しい/正しくないは人間の行為においてだけ有意味であって、自然の状態においては意味を成さない。つまり人間の生物的属性に起因する能力の違いのようなことそれ自体については正しい/正しくないは発生しない。
ある行為が正しいか正しくないかは「その行為がもたらした帰結」ではなく「その行為が正しい振る舞いのルールに適合しているか(フェアかどうか)」によって決定される
「大きな社会」にとっての「一般的福祉」は、各人の目的追求の機会を改善するための諸条件の創出、であって、個々人の満足の合計を社会全体の利益として増大させることではない
cf.「帰結を問うのではなくルールの公正さを問う」、「機会平等」(セン)
このときの「正しい振る舞いのルール」≠「正義」は時代・環境・情況によって変化していく。明示的なルールがないところでも人々を「正しい振る舞いのルール」へと誘導する「正義感覚」はある。
この感覚は言語化されざるものに従い言語化する能力「言語感覚」同様、明文化することのできないルールに従う「正義の感覚」とされる。
それは、アプリオリに存在する「正義」を発見し正確に再構成する、ものではなく、進化の過程で人々の現実的な集団的な振る舞いや言語活動と相関しながら徐々に発達する感覚、である。したがって絶対的で不変なものではない。
それは消極的に普遍化可能なものであり絶対的な「社会的正義」ではない。
cf.タクシスーテーシスとしての正義や法、ケルゼン
ハイエクはまずもって手続きと機会平等の公正(フェア)を目指し、その帰結の平等・設計をすべきではないとする。
ロールズの正義論は配分的正義的だけど、よく読んでみるとプロセスの公正性を目指してるようでもあり、そうであれば賛成、との見解。
また、ハイエクが想定するコスモスにおける個人は合理的ではなく愚かで迷いやすい側面もある。それを誘導することも必要でありタクシス的制度、「制度・手続き的正義」(ロールズ)が必要な場合もある。
タグ:自由


