2014年01月30日

ヘイトクライムと「民主主義」と内政干渉のしきい値、みたいな話 (モダニティの帰結)



移民の運命 〔同化か隔離か〕

藤原書店
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この本を読むきっかけにフランスの昨今の右傾化/人種差別みたいなのが気になったのがあった。

「新ヨーロッパ大全」と「世界像革命」、そしてこれを読んだ現在、それもパリ盆地中心の普遍・平等的価値観に対する地方(特にオック地方辺り)の差異主義の流入ではないか?だとしたらそれは現地の経済的不安とセットのリアリティを持つのでは?とか思ってたんだけどそれもちょっと違うみたい。

すくなくともトッドはそういうこといってなくて、「とりあえず1965ー1990ぐらいになんか変わってきたねえ」「そのぐらいから文壇エリートたちがアメリカにならって差異主義とりいれだしたんだけど、パリの現状とあわないだろうから慎重になったほうがいいよねえ」、て話だった。


1965というのは1945+20、つまり戦後世代が成人してからということ

第二次世界大戦後生まれ世代の特徴として


高等教育のテイクオフ
脱工業化
経済の第三次化
出生率の急落
カトリシズムの崩壊
イデオロギーの解体


初等教育はとりあえず読み書きできるようになることを基本とするんだけど、そこでは未だ書かれたものが無自覚に信じられている。そこに反省、相対化(いわゆる批判的読み)が生まれるのは中等教育以降。

1965以降あらゆる統計指標が変化し始め、社会構造全体が急変する。

ついでにいうとドイツが初期工業化失敗したのはの失敗したのは「直系家族の土地と家系を重んずる性格が都市への移動を妨害したから」ということだった。


脱工業化 → 経済の第三次化(後期近代)な流れはこないだ説明した感じ



日本だと「社会が豊かになったのでマルクス主義のリアリティがなくなった」といわれてたあたり。日本だけの話でもなかったのだなあ、て。


そんでフランスの問題だけど、具体的には以前にあったスカーフの問題や最近の黒人女性大臣への差別


ヘイトスピーチ規制論争の構図――規制の「効果」と「範囲」をめぐって | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/society/6706

フランスの共和主義とイスラームの軋轢から「市民性教育」について考える | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/education/6632

黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚 - Global Press - 朝日新聞社(WEBRONZA)
http://webronza.asahi.com/global/2013121300004.html


プラド・夏樹さんのほうは「リベラルな国のはずのフランスが嘆かわしい」て論調でふつーな感じなんだけどシノドスの鈴木さんのほう(市民性教育とライシテの)がわかりやすかった。


欧米ではこの辺りがもうアンタッチャブル的なアレになってるのだろうから法制度化して規制してるようで、なのでちょっとしたジョークにも敏感になる面があるのかもしれない。昨今のANAの付けっ鼻(゚⊇゚)ガイジソーのアレでもそうだけど。まあアレは背後に「日本ではいつまでたっても(゚⊇゚)ガイジソー―扱いなんだ。。」てのがあったかなとも思うんだけど。



結論から言うとこの辺りの問題は価値観/主観/その土地ごとの生きられた経験に基づく生きやすさ・ガバナンスの違いが関わるので当該コミュニティに対して国家的に法制度化する、正しさを規定すると言うのはそれ自体が規律権力的な側面があるように思う。つまり環境管理型権力とかアーキテクチャがどうとかいう議論の法制度版。つかこっちのほうが元々だろうけど。

差別というのはその土地のそれまでの歴史・文化を背景にした経験的な智恵なところがあり、たとえば「人が定住し家畜を飼っていると感染症が生まれる。カーストというのは感染を防ぐための側面もあった」(マクニール)とか。そして偏見/差別に関して突き詰めていけばわれわれは日常の細かいところで、とても洗練された形でそういうことはしている。誰かと誰かを区別したり/差別したり。暴力として糾弾されないように証拠が残らないように暴力的なことをしたり。

あるいはそこまでいかなくても家族型の違いで地域ごとに価値観が違ったりするのでそういうところに一概にアングロサクソンの自由・民主主義を押し付けるのも違う感じ。

「そういった些細な区別と個人の性質では乗り越えられないような力となってあからさまに過剰な暴力として振りかかるのとは違う」

まあたしかにそれはそうで自分もそういうのは問題だと思う。んでも「正しい」と思ってることでも権力関係してるのは意識しといたほうがいいような。


そんでそこにライシテをめぐる自由とか曖昧な部分、あるいは日本国憲法をめぐる曖昧さが関わるように思う。


リンク先にもあるようにライシテはもともとは「カトリックの教義の影響を無理やり受けないような自由を担保するバッファ」的なものとして設定されたようだけど、それが現在では「ライシテ≠政教分離なんだからスカーフを巻いてきてはいけない」という自由を阻害するための記号みたいになってしまった。

こういうのはポリティカルコレクトをめぐる冗談にも共通している。


ポリティカリー・コレクト(政治的に公正)という言葉は1980年代からアメリカ合衆国で使われるようになった言葉である。もともとは左翼の人々が「マルクス主義者の僕が4つ星レストランで食事するのはポリティカリー・コレクトではない」、「私はフェミニストだから、あまりポリティカリー・コレクトではないけど、今日はマニキュアを塗ろう」というように、自分たちのドグマ的態度を自嘲するために使っていた言葉だった。

 その後は、女性、黒人、スペイン系、ホモセクシャルなどのマイノリティーを擁護する左派の多文化主義をもさすようになったが、保守派はそれを逆手にとって、左派の人々のマイノリティー擁護が度を越すことを「ポリティカリー・コレクト」と言って批判するようになった。フランスでは、1990年代から米国と同じ意味合いで使われるようになり、前出のエリック・ゼムール氏がショック発言をするときの決まり文句は、「ポリティカリー・コレクトなことばかり言っていると論議が発展しない」というものである。

黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚 - Global Press - 朝日新聞社(WEBRONZA)
http://webronza.asahi.com/global/2013121300004.html


ポリティカルコレクトのそれは冗談にしても一旦正しさが教条化して記号化すると一気に人を責めるための道具になる。赤狩りの道具ぽく。


なので、このへんの話で大事なのは「正しさを最初から設計するのではなく、その場のそれぞれの人が快適(自由)を感じられるようにする」ということなのだろう。それも「とりあえず」な感じで。完全を設計するなんてできるわけないのだから問題が生じるたびにすぐに修正できる体制のほうが大事なので。


中国やインドの例もそんな感じ。


習近平政権が恐れているものは何か。 - 梶ピエールの備忘録。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20140128/p1

現代インドにおける女性に対する暴力 ―― デリーにおける集団強姦事件の背景を探る | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/3730

インドは「世界最大の民主主義国家」か?――競合的多党制のもとでの政党政治 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/6345



「アジア三国志」の雄二つなんだけど、諸外国が気にするのはガバナンスで、アメリカを中心とした民主主義国はそれを「民主主義が定着すれば落ち着くはず」としてアフリカをはじめとした低開発国への支援方針としてそれを掲げてた。しかし、けっきょくそれは民主主義という正しさの押し付けで、経済的なパートナーとして最初から目していた中国が結果的にアフリカの生活を底上げし強いパートナーシップを結ぶこととなった。


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この辺りの話はDV、児童虐待家庭への内政干渉に似ていて「押し付け的な『正義』はダメ、とはわかっていてもあるしきい値を超えたら放っておけない」というのはある。スーダンのジェノサイドみたいに。

なので「その場のそれぞれの人が快適(自由)を感じられるように」というのは意識しつつも普遍的な指標、しきい値のようなものはあるようにおもう。

あと、「与えるばかりが援助ではなく自助的に努力できるように寄り添う」的なあれも。


開発援助の場合はモダニティに通じるとりあえずの経済発展を目指すこと、貧困・虐待・共依存的な家庭・カップルの場合は当人たちが健康で文化的な満足を感じられるような基礎的な経済基盤への橋渡しをすること。


そういうとき、ただ与えるよりも「当人たちにとってなにが本当の満足≠自由につながるのか?」という見極めをするほうがコストがかかる。時間を始めとした、じっくり付き合っていくコスト。それぞれの性格の見極めとか。情勢の変化の見極めとか。



インドの場合、北部が外婚制共同体家族で南部が非対称共同体家族になる。


父系権威なので直系家族の異型に思えがちだけど平等家族とのハイブリッドと考えたほうがいいのかもしれない。北部は男性権威共産主義、南部は母系共産主義。。かなあ。

インドと言う場合、思い浮かべられるのは北インドが主で、ムンバイなんかもギリギリ北インドに属する。

おーざっぱにはインドはもともと住んでいたドラヴィダ人をアーリア人が侵略、ドラヴィダ人が南に移り、その際の支配の階級を固定するためにカーストが発案されたぽい。それにヒンドゥーが紐づく。

なので南インドの人にとってはヒンドゥーとかびみょーだろうけど右派のbjpなんかは「ヒンドゥーの元にインドを統一!」な感じらしい。まあケルト≠ドラヴィダとしたらイングランドにおけるローマ・カトリックがヒンドゥーなのだろう。そんでイスラームはヴァイキングというかプロテスタントというか。

そんで最終的にオランダ・イングランドというアングロサクソンに統合されたのでコモンウェルス的性格も有する。実際イングランド移民の30%はインド人だそうだし、英語領になった影響が大きい。

この「英語圏」が「アジア三国志」でも中国に比べて評価されてたんだけど、それと民主主義あるいは自由主義というのは直接には関係しない。

家族系から言えば北インド、中国は共産主義的な地域で、中央集権で設計思想して行くのが適したところなのだろう。

ただ、インドの場合、南インドは母系の巨大共同体ぽく、そのあたりの価値観が将来的にどう絡み、内部で止揚されていくのかなあとかおもうけど(ライシテみたいなのできるのかな)。内部で価値観の対立があるにせよとりあえずはモダニティが価値観とガバナンスの平均的な落とし所となるのだろう。

トッドが指摘してるのはたぶんそういうこと



モダニティというのはアングロサクソンが作り上げた自由主義的価値観とヴァイキング・商人的プラグマティズムに基づく楽観的集約なので。商人の利益集約的な価値観というのは一昔前のマルクス主義な頃なら個人主義(ミーイズム)としてなじられた。


ただ、このへんも言語化がめんどい部分で、モダニティの真髄は単なる個人主義というか自由主義なところにあるように思うので。自由主義に基づいた創発民主制。つまりハイエクが指摘してたあたり



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そういう「設計できないような自由をどのように設計するか」みたいなのは必要になるのだろう。


中国の文脈も同様でアメリカほか「自由主義国」が外部から民主主義を押し付けてくるのにはイデオロギー闘争的な警戒をし、国民もそれに同意してるようなのではねつけやすい。そういうなかで内部でも海外とつながらずに内部から人権拡張をする流れが出てきていて、当局としてはこういう流れだと一概に否定出来ないのでこっちのほうが怖いみたい。



なんか散漫になったのでいちお要点もっかいゆっとくと「『正しさ』みたいなのは現地の人の事情によってそれぞれだから外部から決めつけできないし情況によるんだけど、それでも普遍的・最低のしきい値みたいなのはあって、それを可能にするような制度設計はできるだろうし、制度というのはそういうバッファを意識して設定したほうがいい」みたいな話。


人権とか「最低限の自由」に関わるそれも現地のもともとの価値観(エートスや家族型、それらに付随したハビトゥス)などのほうが優先される場合もあるだろうけど、それでもなお平常状態で人類普遍に最低限共通するものはありそう。「暴力で痛めつけられるの嫌」とか

インドの集団暴行なんかは猫の大虐殺と同じ前近代的な幼稚・低能さを想わせる。教育というモダニティの導入によって内省→精神的成長が期待される。






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関連:
たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html




posted by m_um_u at 19:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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