2014年01月27日

アルミニウス主義 → イルカ → 「明日、ママがいない」

「ヨーロッパ大全」の上巻で気になってたところ「親子関係も兄弟間も不平等な直系家族が形而下では自由を形而上では不平等に納得してプロテスタントに行くのはわかったけどイングランドはどうなるの?」について。下巻で確認したところ「イングランドはアルミニウス主義に行ったから」ということだった。


アルミニウス主義はpdfにもあるようにエラスムス vs. ルターの流れから出てきたもので、エラスムス的なギリシア人文的な自由に連なる。あとここでたぶん人道関連絡んでくる



絶対核家族であるアングロサクソンは自由主義的傾向が強い。なので形而下の世界で教会に支配されるのはまっぴらだし形而上でも自由でいたい。カトリックでは前者がきついしルター派プロテスタントでは後者がきつい。結果としてオランダ → イングランドではアルミニウス主義が受け容れられた。


ヴェーバーはアングロサクソンの宗派を一口にプロテスタントといったようだけどドイツとイングランドのプロテスタントは違うし、名誉革命以後のイングランドの中枢はオランダの流れだからオランダの影響ぽい。そんでアルミニウス主義の影響が出てくる。

(※プロ倫のこの部分はこのエントリ用に確認しとこうかと思ったけど今日はつかれたのでメモ程度で >マックス・ヴェーバーは論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理)


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予定説だと努力無駄になっちゃうし形而上でも縛られちゃうので自由主義な絶対核家族圏では合わなそう。なのでアルミニウス主義。


 私がグッドウィンに目をつけたのは、彼の考え方に特異なものがあったからです。それはアルミニウス主義です。アルミニウス主義については、日本はもとより、海外でもひじょうに研究がすくなく、おまけに、その内容がじゅうぶんに理解されることなくことなく、現代のインターネット上ですら、アルミニウス主義をヒステリックに非難する論文を見ることができる始末です。
 この原因は二つ考えられます。一つは、アルミニウス主義がカルヴィニズムとまっこうから対立したことです。イギリス革命の推進者としてピューリタンの存在が強調され、彼らの正統的教義がカルヴィニズムでした。カルヴィニズムは、ふつう宗教改革者ジャン・カルヴァンの教えとされ、十七世紀初頭のヨーロッパでは、カルヴィニズムこそプロテスタントの正統的教義だという風潮がひろまっていました。アルミニウス主義は異端的教説として弾圧され、イギリス革命研究においては、長いあいだ、反革命のイデオロギーとしてかたづけられてきました。
 もう一つは、マックス・ヴェーバーの影響です。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)によれば、カルヴィニズムは近代資本主義の精神である禁欲的生活態度や合理性を支えてきたものであり、一方、アルミニウス主義はそんな精神とは何のかかわりもない、むしろ反動的な教えでした。戦後日本の社会科学におよぼしたヴェーバーの影響はとても大きく、歴史研究の分野でも、ヴェーバーの見解にひきつけた研究やカルヴィニズムに関連した研究が多く出ました。アルミニウス主義など見向きもされなかったのです。



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近代イングランドの心性史関連でこの本できれば読みたいんだけど、、専門書過ぎて近くの図書館にない。。



そんで、アルミニウス主義を受けたのがメソジストバプテスト、つまりアメリカの二大宗派はこの流れぽい


アナバプテスト - Wikipedia http://bit.ly/1lgfU6q

メソジスト談義2 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/592527


自分的にはアメリカのアングロサクソン的な自由主義的な価値観のところで平等主義に連なる人道主義が出てくるというのは不思議感があって「フランスからの影響か?」と思ってたけど、アルミニウス → バプテスト/メソジストが最初から人道主義をインストしてたというのなら納得感ある。(まあそれを幼いうちからどれだけインストさせてるのかはわからんけど

あと、疑問としては人道主義的なエートスが最初からインストされてるのであれば南部の差別というのはどう処理していったんだろ?ってことだけど(´・ω・`)そのへんはまた別の話だったのかな



そういや最近キャロライン・ケネディ女史のイルカ漁非人道発言が軽く話題になってたけど、あれもこの文脈のように思う。


捕鯨問題、あるいはイルカ問題というのは欧米人(アングロサクソン)にとっては人道問題と不等号で、それはその人種 / 民族に固有の属性の違いから生じる問題というかたぶんエートスの問題に連なる。宗教的価値観として幼いうちから血肉になってるものなので。

あと、この問題を「食をめぐる文化の違い」として対抗言説張るのも間違い。彼女たちにとっては正しく人道的問題なので。


昔から「文明とは何か?」を問うときに「文字を読めること」「同じ言葉をしゃべること」で判断するところがあってそれができなければ「野蛮人(バルバロッサ)」あるいは「人非人」として扱われてきた。南部、あるいはプランテーション農場における黒人の扱いなんかはそんな感じだったのだろう。


それは現在からすると「非人道的」ということにはなるんだけど根本的な価値観とかエピステーメーが違ったのだろうから仕方ないところもある。そういう価値を幼いころから血肉にしていたらそれが当然になるだろうから。


なので南部の人間たちにとっては北部の価値観でいきなり自分達が「人非人」「非人道的」扱いされたのは憤懣やるかたない所があったのではないか?


もちろんそれと奴隷へのひどい仕打ちとは別だけど。


話がそれたけど「言葉をしゃべる」というのが「自分達と同じ仲間」「人道的に守るべき」ということの指標になるところがあるようで、イルカやくじらは「言葉をしゃべる」ぽいので人間の仲間なのだそうな。豚は喋らないようだし家鴨も喋らない。なのでブータンノワールやフォアグラは別。


といってもフォアグラの「残酷」な作り方は問題にされてるみたいで、残酷でない作り方みたいなのが工夫されてるようだけど。ここも文化帝国主義的な文化をめぐるヘゲモニー的な問題が関わってきたり、あるいはその背後にオトナの事情的な経済的なホンネが隠されてたりする。フォアグラの場合は単にワインをめぐる代理戦争になってる面もあるようだし。(「フォアグラを馬鹿にするならアメリカワインは輸入しないぞ」←カリフォルニアワインに負けた腹いせぽい



とりあえず「言葉をしゃべる仲間」に加えて「残酷」な漁の様子を恣意的に切り取った映画を見せられて憤った、ということ。

人道的に怒ってるところに「これは伝統的な漁だから」といっても「人を大量に狩るのが文化なの?」的な反応になるだけ。




まあそういうめんどくさい話以前に「残酷なシーンを見せられた」ということによる心理的動揺がメインだったのだろうけど。さいしょに動揺・憤りがあって「人道的」という言葉は後付けしただけな感じ。そしてそれに対する「文化だから」も同様。クジラ漁が禁止されて1970年代から再開したものの何が伝統なんだろって感じだし。



露悪的表現をめぐるうんたらについては最近話題になっていた「明日、ママがいない」うんたらでも少し考えた。

いちお2話だけ見てみたけどいつもどおりの野島伸司節で自分的にはこの枠でやっていた「家政婦のミタ」のあざとさ・わざとらしいつくりと同じエグミを感じた。あるいは「家なき子」でも「聖者の行進」でもいいけど。つまり「ベタなフィクションだなあ」てこと。

そのベタさをファンタジーとして流せるか否かというところがちょっとした争点になってるぽい。


擁護派は「表現の自由だから」「ファンタジーだから」とするんだけど否定派は「やり過ぎ」「現実はあんな感じではない」「誤解される」「実際に『ポスト』といっていじめられた施設の子がいる」とか。


1話を見た段階での抗議はこの『ポスト』というあだ名のエグさに関するものが多かったみたい。

まあこれもあざとい演出なところで実際にそんなアダ名付けられる子がいるのかな?とか思うけど、、あざとさといえば施設長が子どもたちを「お前たちは犬だ。ご主人様に気に入ってもらえるように可愛くほえろ」みたいなことを散々言ってるのもなんかわざとらしい。

創作関連のとぅぎゃったまとめみると「そのわざとらしさがしきい値超えるぐらいに設定されるのでファンタジーとして観客を納得させられるはずだ」ってことだったんだけど、それで「ファンタジー」として納得できずに抗議なストレスが残った人たちがけっこういた、と。

このへんは「おおかみこども」をめぐるアレでもあったように、それぞれの生きられた経験やアイデンティティに基づく主観的な感覚の違い / コードの受け取り方の違いがあるのでなんとも言いがたいんだけど、、実際に「耐えがたく不快に思った」とか「いじめに発展した」という事態が生じてるのならそれには真摯に対応すべきなように思う。

だいたい放送前から養護施設の代表的な団体にマスターテープかなんか送ってフィードバックもらって、そこでも抗議受けてたのに構わず修正せずに放送したっていうのだから確信犯といえば確信犯だったんだけど。。



まあこのドラマの制作スタッフはそういう落ち度があったとしてここでも出てきた「あざとさ」「演出」「敢えて露悪的に表現する」「見せちゃいけない部分を見せる」ということについて。


他者の苦痛へのまなざし
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「これはアートだから」「アートというのは人を不快にさせるギリギリの境界を取り出してみせるものだから」みたいなのを免罪符に人の神経を逆なで釣りしてる表現というのもけっこうあってそういうものは好かないんだけど、人はそういうエログロ露悪的な部分に惹かれるところがあるみたい。

バタイユはそういう人間の陰の部分を否定するのではなく寄り添おうとして百刻みになった中国人の写真をデスクに飾っていたらしい。そこから感情移入を通じて引き起こされる苦痛が一定を超えると変容し得られる高揚を期待して。


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このへんはバタイユの変態的なところ、SM的なアレも絡んで最初から「苦痛」って感じでもなかったのではないかと思うんだけど真面目なソンタグとしては「敢えて他人の苦痛を見ることの意義」として考えていた。

この本は全体的にそんな調子で「写真論」におけるエッセイのいちテーマを引き伸ばしたような長さとゆるさだった。

結論的には「他者の苦痛でさえスペクタクルの素材となるのだ」ということになり、そこから出ていけなかった感だけど


スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)
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「スペクタクル」という言葉は現代のネット、ついったなんかだと「人をコンテンツとして愉しむ」といったほうがしっくりくるのかもしれない。あるいはネット時代になってスペクタクル感が自分達の課題として降りてきて実感できるようになった。



他人を楽しみつつも自分もそのマトリックスに含まれてるわけだからそのマトリックスの審級の是非を問い、そこから自由になることを考えたほうがいいように思うんだけど、そういう視点もなくマトリックスに没入していく人たちはけっこういる。承認欲求がどうとか言うのもそんな感じだし。




そういう問題というのはけっきょくは自分の立ち位置と「他者を他者として認めること」「認めた上でコミットすること」「コミットとはどういうことか?」というのを考え真摯に対応していくということで済む話のはずだけど。

他人を「他者」として認められない部分が消費されたりてけとーにつきあったりってことで流されていく。


その消費の現実にナイーブになるなら速度をゆるめて対応していけばいいと思うけど、そこでのナイーブさというのは人によって異なるから「どれが正しい」とか本来は言えないことのようにおもう。

われわれは日々ネットやテレビで他人をコンテンツとして消費するし他の生物を食べて生きているので。本来それ自体が残酷でグロテスクなものだし。


そういう本質的なところがあるにせよ細かい違和感というのは残るのか。だったらイルカを殺すうんたらが気になるならその残虐な現場を見なければいいしフォアグラが残酷だと思うならそれを食べなければいい。「明日、ママがいない」というドラマがリアリティがないと感じるなら見なければいい。


それだけのことだと思うけど「不可抗力的に見てしまった」「摂取してしまった」みたいなこともあるのだろう。あるいは「たまご生産の現場で数量調整のために長靴でヒヨコを踏み潰してるなんて知らなかった / 知りたくなかった」みたいなの。そこで自分達のすばらしく理性的/文化的な生活の化けの皮がはがされるわけだから。

彼らが憤るのは本当はそういう部分、外部からいきなり自分の化けの皮が剥がされそれに自分が気づいてしまうことに対してなのだろう。その不安と動揺、あるいは羞恥の回収。

こういう問題はプライバシー権をめぐるあれと似てる。「自分が装いたい自分を演じられる権利を他人が無思慮に剥がすべきではない」というアレ。同様に自分達が本来残酷なものであること、あるいは世界に悲惨があふれていることをことさらにつきつけられたくはない、ということ。スカートめくりにも似てる。

ただ、そういった穿った見方とは別に単純に他者の苦痛に対して同情する気持ち、やさしさみたいなのがあってそれを否定すべきではないと思うけど。


「知らなかったこと」と純粋な善意みたいなものからの衝撃と憤りというのはだれでもあることだから鈍感になってしまった立場からバカにするのはそれ自体がハラスメントでありセカンドレイプ的なものに思えるけど、まあたしかに、「馴れろ」とは思う。他人に修正を求めてもキリがない問題なので。

そういう場合、自分だと日記とか書いたり、立場的に自分と対等な相手とフェアな話し合いをするなかで自分の中の感情のざわめきを見つめ、収めていくように思うけど。そういうことが出来ない場合、「よりまっとうな料理で口直し」みたいなのが妥当だろうか。


わざとらしくことさらに露悪的な、人工甘味料のようなベタつきを忘れられるような


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イルカの人道話関連でフランスにおける差異主義の流入とヘイトスピーチ/クライム、規制についてうんたらもしようかと思ってたけど、さすがに長くなったしネコも「寝よーよー」て感じなので今回はこの辺で





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関連:

松本大洋 インタビュー - Time Out Tokyo (タイムアウト東京)
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/7599



Mangaka Interview & More by Misaki C. Kido | 松本大洋インタビュー(日本語版):Mangaka Interview by mckido
http://mckido.com/post/53883268138/mangaka-interview-by-mckido


マウイの Whalers Villege ショッピング・センターには、捕鯨博物館があり、そこには捕鯨の歴史が淡々と綴られている。鯨油や鯨蝋(げいろう)が石油の代わりを果たし、鯨ひげがプラスチックの代わりを果たした時代に、その商業的価値のために、大量の鯨を虐殺して来たこと、ラハイナの待ちが捕鯨で発展して来たことなどを、歴史の一コマとして描いている。

捕鯨博物館の出口には小さな映画館があり、鯨がダイナミックに泳いだりジャンプしたりするさまを映し、鯨の生体や、ハワイの観光産業にとっての価値を説明している。

そこにあるのは、捕鯨という「過去」と、観光資源・人類の宝としての鯨の「現在」の対比だ。

つまり、米国人にとっては、捕鯨は「奴隷」「人身売買」「ネーティブ・アメリカン(=インディアン)の虐殺」「女性差別」などと同じく、すでに過去のもの、人類が野蛮だった時代に犯した過ち(もしくは必要悪)の一つでしかないのだ。

それは人身売買と同じく、現代では許されない「野蛮な行為」なのだ。

米国では、今でもごく一部だけネーティブ・アメリカンによる捕鯨が認められているが、これは米国政府が彼らから土地を取り上げた際の契約に基づくものであり、決して「ネーティブ・アメリカンの文化を守る」ためのものではない。

Life is beautiful: 米国人にとっての捕鯨・イルカ漁
http://satoshi.blogs.com/life/2014/01/japan.html

イルカはあなたが思うほど賢くない - WSJ.com http://on.wsj.com/1fjonyn


posted by m_um_u at 22:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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