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「JPOPだとかJ文学ってなんじゃ〜?」ということで、結論から言うとやはりマーケティングによって作り上げられたというところが大きかったみたい。
「若者の文学離れ」とか既存の歌謡的なものとは違った消費層を囲い込むための「J-POP」って言葉。J-POPの場合はカラオケの時期と重なったのが大きかった、と(「歌うための曲」)。
ってか、歴史的な経緯としては、「J」という言葉が使われ始めたのは87年の「JR」が最初らしい。んで、その次の年に「J-wave」ができて、それが「J-POP」という言葉に繋がっていった、と(@烏賀陽弘道『Jポップとは何か』)。なので「J-waveで流れてたような曲」とかなんとか。「J-waveで流れてたみたいな洋楽っぽい邦楽」、と。
んで、まぁ、「J」っていうからには対義語として外国(てかアメリカ)があるわけだけど、この辺がけっこう複雑。
まず、「英語ダッセー」問題がある。
アジア圏のPOPにありがちな「現地語の中でいきなり英語が出てきたぞ?」問題。ガイジン歌手がミュージックステーションなんかに来て首をかしげている例のアレだ。
んで、そういうのは日本の歌唄いも感じていて、「曲中にいきなり英語入れんのだっさいよね?」、的な雰囲気があったり・・。
これって遡ればはっぴいえんどの頃からの問題。(以下、小川博司さん本の受け売りだが)
アメリカの真似っことして伝わってきたポップミュージックのコード進行に日本語を当てはめるとき、どうしても間延びが生まれてしまう問題というのがあるんだそうな。んで、その部分を埋めるために「I LOVE YOU (ぅぅぅ)」だの「べいべー」だの「うぉうぉう」といった無意味なシャウトを入れざるを得なかった。
その辺を問題に思ったはっぴいえんど(細野+大滝+・・ほかいろいろ)が「俺達は純粋日本語のみでぽっぷ作ってやるけんね」ってがんばったわけだけど、これって当時はどれほど評価されてたんだろうか?
まぁ、ともかく、そんな意識が現在のにゅーJ-POPみたいな層に受け入れられてはっぴいえんど再評価みたいになってる(んだっけな?)
それとは別にカラオケ的需要を満たす音楽も必要なわけで、その辺で某ビーズとか某コーダががんばってるって感じか?(ってか、オリコンのチャートってカラオケ的だべなぁ)この辺とか
CDTubeβ - カウントダウンチューブ
関連で、竹田青嗣さんの井上陽水論(陽水の快楽)なんかも面白いので機会があれば読んでみるといいと思う。
んでんで、そんな感じで「英語だっせー」問題があったんだけど、そういうのに対して、現状としては「敢えて地雷を踏む」的スタンスの人が増えてるみたい。ミスチルがビートルズっぽいことをするのは「敢えて」ってことで、コードは同じでもメロディーはオリジナルなもので彼ら独自の世界観を作り上げてる、と(・・反省)。あと、シーナリンゴなんかも「敢えて」系ですわな。(英語でもなんでもおもしろければいいじゃん?)。っつーか、サニーデイとか中村一義とかイエモン、スガ、サンボマスター、ハイスタ・・・・こういうのは「ロッキンオン」とかその他それ系雑誌に取り上げられる人々ってことかな?
その流れを勢いづけるのが国内歌手の英語力のアップ。ボニピンさんとかデリコとか、古くはトミーフェブラリーが前にいたバンドとか、全部英語でそれほどカタカナって感じでもなく、彼(彼女)らの曲を聴いてると邦楽だか洋楽だかわかんなくなってる。(Charaなんかもそんなんか?)
「英語だか日本語だか分かんない」ってことでは古くはサザンなんかが思い浮かぶけど、これはちょっと特殊で、桑田さんは曲作りの時に「でたらめ英語で唄って曲を作っていく」みたいな話をしてた。小川さんの話にあわせると、英語メロディーのところに日本語を埋め込むときに生まれる齟齬をてきとーな感覚で乗り越えてきた、ってこと。・・たぶん野生で。
この辺がサザンが大御所はれる所以なんだろう(村上龍に言わせると「日本最初のポップミュージシャン」)
んで、まぁ、そんな感じで、現在では「敢えて英語も使うよ」派とか「日本語の価値で盛り上げていくよ」派とかいろいろあるわけだけど、やっぱりある程度わかって作ってる人たちにとっては「借り物メロディーに英語歌詞?」みたいな問題は乗り越えていかなきゃいけない課題っぽい。これが文学の場合ではどうか?
「J-POPの英語詞問題」に対応する形での「J文学の問題」というのはまずもって外国翻訳小説(あるいはフォーマットやテーマのパクリ)の問題がある。
その辺は「life」の前のテーマの「教養」とも被って、「昔の東大教養学部はオシャレ教養って感じで外国文学を身に付け箔をつけていっていた」って感じになるんだろう。文学だけじゃなく哲学方面(あるいは学術全体?)でも同じ。(cf.マルクス主義)
それに対して、同時期に日本の文学、日本の哲学という形で自分達固有の問題を考えていた人たちもいたわけで、文学のほうはよくわかんないけど(川端康成とか?)、哲学のほうは西田幾多郎なんかが当たるように思う。
んでも、そういう人たちの考えって当時でもありがたがられたりしてはいたみたいだけどその方向性について理解されていなかったみたい。当時っていうか、わりと最近、いまの団塊世代の教養として西田幾多郎が摂取されたみたいなんだけど、どうも彼らの理解はびみょーっぽい(ex.西田の善をそのまま道徳ととらえたり・・)。
そういうの見ると創作者のマインドと受け手のマインドが乖離してたんだなぁ、って感じ。
(ほかにも吉本隆明とか植谷雄高・・はびみょーか?)
それはなにも昔だけの問題だけでなくて、現代でもあることなんだけど。
そういう中で大衆的な嗜好にあわせつつ、自らの道を貫いた人もいて、美空ひばりなんかは一度きちんと評価しようと思ってるんだけど、けっこうムズイ
(cf.美空ひばりは歌謡以外のところでの歌唱をみたほうが実力が測りやすいかもしれない。jazzとか世界音楽系)
現代だと宇多田ヒカルがこのポジションにいるのかもしれない
んで、まぁ、そういうのを捨象する形で「J文学」とかいうオシャレ用語が何年ぐらいか前(90年ぐらい?)から出てきた。藤沢周とか赤坂真理なんかがその代表らしい。いまだったら綿矢りさとか平野啓一郎なんかもこの辺に当てはめられるのだろうか?
こういうのが生まれた背景としては、冒頭にもあったマーケティング的狙い(若年層の呼び戻し)ってことで、そのためにそれまでの「純文学」的なイメージを払拭した、若者の共感を得るような作品が求められた。この辺の関係はJ-POPと歌謡曲の関係にも似ている。
んでも、「共感」メインで増刷されてったJ文学ってテーマがないのよね。って、オレは藤沢周ぐらいしか読んだことないけど(しかも全ては読んでない)。彼の作品を見ていくと、「実存」ということに焦点を合わせてたっぽいんだけど、そのための枠組みの作り方が無骨というか下手というか・・んで、よくわかんない暴力表現とかが多くなって沈下していったり・・(沈下してないのかな?よくわからん)
いまだったら阿部和重とか当てはまるんだろうか?って、彼の場合はなんか狙いがあるっぽいのでよくわかんないんだけど(未だ「インディビジュアル・プロジェクション」しか読んでない)。印象としては黒沢清さん辺りの方向性と近かったように思う。
んで、番組中の指摘として重要に感じられたのは、そういう「J」って言葉が使われるときって「外国」に対しての「J」ってこと。たとえば世界標準で勝負できるようなものにわざわざ「J」なんて冠つけない。つまり、「J」って冠が付いた時点で国内勝負(ドメスティックにはけるもの)って性質がつけられてることになる。もうちょっと言うと、国内のポップに「日本でしか通用しないよ」的なネガティブイメージじゃない形で箔をつけるような。
で、
「ドメスティック」というところに絡んで、「それは新たな保守性を涵養する場として機能するのか?」って危惧がすこしされてたけど、(番組中でもいってたように)それはちょっと違うっぽい。
保守性というところに拘泥した場合、閉じこもった内向きのマインドになってしまって、同じ記号・同じ表現の繰り返しになり、結果的に悪しき循環が生まれることが懸念されるけど、現在のドメスティックという意識はそういうものではなく、自分達の表現したいもの(しなければならないもの)を理解して、それにあわせた記号(あるいはモード)を選び取っていっていっているように見えるので。
中段のJ-POPの「英語問題敢えて踏んでくぜ!」に戻るけど、そんな感じで「敢えて踏んでく」連中としてみれば外国との比較とかそういうのはどうでもよくて、どのような表現手段を使ったとしても、「それによって自分達の表現したいものが表現できてればいいじゃん?」、って感じっぽいので。そういうとき彼らはドメスティックということに誇りを持ってる。(cf.Mステで外タレの前で実兄と嬉しそうに英語歌詞を歌い上げる林檎嬢とか)
J文学にも同じような萌芽は見られるのだろうか?
なんとなく綿矢りさとか思い浮かぶけど、どうなのかなぁ・・下のエントリを見るともはや表現うんぬんの問題ではないような気もする
finalventの日記 - 物を書くということと、書いて食うということについては
なんつーか、「マーケットの計画によって始まりも終わりも決定されちゃってるよ」、って感じなのだろうか・・?
それとは別に表現者が自由に作品を発表して評価されるような回路があってしかるべきだと思うんだけど・・むずいよなぁ(マジックミドルの回路にその辺の可能性を見てるんだけど)
マーケットってやつは極悪だから、意識的にせよ無意識的にせよその影響力によって小さいところを潰しちゃうので・・。本来はこういうところがロングテールになるべきなんだろうけど、それはそれでちょっと違うしなぁ(たぶん、でっかいハブに繋がってないと意味がない)
話は変わるけど、そんな感じで、J文学に期待されるパフォーマンスが従来の文学に期待されていたものから変わった様に、ケータイ小説に期待されるものも変わってきてるんだろうか・・?
前にどっかで「登場人物になりたいみたい」ってのをみた気がするけど、そんな感じか・・。
メディア環境全体との関係を考えると、かつては紙メディア(文学)に投影することでしかあがなえなかった「共感」の部分がケータイとかメールとかで埋めれるようになったので、「小説」みたいなフォーマットに期待されるのはそれ以外の部分、ってことになってきてるのだろうか?
んで、そこでの物語というのはテーマパークのアトラクションのように進んでいく、と(「事件」とか「恋愛」とか分かりやすい目立った現象に終始する)。「TVドラマのような」小説。
こういうので涵養される感性とか精神ってどういうものかと思うんだけど、前にどっかで見た記述によると「ケータイ小説利用者はけっこう冷めてるみたいです」ってことだった。「ケータイ小説」は「ケータイ小説」として「文学」と同じだとは思ってないらしい。あたらしい遊びの一種、って感じ、と。
ってか、ケータイ小説家当人が「作家ってつもりじゃないです」って言ってるんだからそうなんだろうなぁ
パンダのため息 Yoshiという人 その1
パンダのため息 Yoshiという人 その2
パンダのため息 Yoshiという人 その3
ケータイといえば使用動態としてはこんな感じらしい
Earth::japan::usukey - love, move, enjoy, imagine for innovation - 2007/3/17 梅田望夫 Lingrイベントまとめ
それにしても「ケータイでレポート提出」ってすごいな・・(両手打ちにしても)


