2014年01月07日

トること / トられること  「承認欲求」以前のお話



最近たんぶらーをチューンナップしたこともあってかなりたんぶられるようになった


高速Tumblrライフを快適に送る(2012年Google Chrome版) - UDONCHAN
http://d.hatena.ne.jp/UDONCHAN/20120102/1325467088



firefox時代にもできてなかったのにいまごろになってできたので嬉しくなってやったり。


「dsbdをLDRize+minibufferで高速化、てきとーにpでピン留め、jで進みkで戻る。そしてピン止めしたpostをリブログする。その体験はこれまでのTumblrとは異質なものだ」

そういう話は前からあってなんとなく理解してはいたんだけど試してみて実感した。

高速化する前のたんぶらーが雑誌なら高速化後のTumblr(ダッシュボード)は雑誌とテレビの中間のような感じ。jとkで手動で足(手)漕ぎするテレビ。pとピン解放で双方向的に情報の流れに参加できる。


その体験はpushメディアとしての受動性を主にしているのに対して、自分でオリジナルポストをしたりどこかから引用したりするのはPull性が少し強い。ただ「引用で済む」ということでtwitterよりも敷居が低いけど。あんなてけとーなことをpostしてるついったでもたんぶらーよりも敷居が高い。


「それでコピってメモったものはどうするの?」ってのはあって、megaediterややTumblrビューアーを使えば個別のたんぶらページよりは一覧性が高いのだけど、それでも検索性は低い。「あとで見る」のだったらタグなりgoogleなりをページに埋め込んでおけばいいのだろうけどそこまでするのもめんどくさい。なので自分としてはなんとなく気になったもの、「後で使うかも」なものははてぶでぶくましてるけど。自分としてはとりあえずは「一日分のメモ」であり「一日ノート」って感じ。



「だれでも簡単にoutputできて表現できるようなもの。簡易に表現者になれるようなものがウケる」ってアレなのかなあとも思うし、dsbdみててもそんなことをたんぶらーの利点としてリブログ回覧してるひとがいるけど自分としてはたんぶらーは「表現」って感じでもない。単純にクリップしていく愉しみがあるというだけ。


そういうのは「後で使うかも」とか「誰かに見てもらってリブログを集める」とかの機能性、「○○のため」という話からするとコンサマトリーな、行為それ自体が目的みたいな感じなのかな。



んでも最近たんぶらのアクティビティに気づいて、そこで自分が1stリブログされたものが広がっていくことの快感を感じてしまったけど。それで「やっぱキャッチーな画像強いよなあ。。自分も栗山千明とかの画像を1stリブログしてリブログ数稼ごうかなあ。。どっかから流れてきたやつをロンダリングして」とかさもしいこと思って試してみたら元ページはすでに消えていた(´・ω・`)画像は特にそういうのあるみたい。

「1st引用 / postロンダリング」みたいな話は最近twitterでもちょこちょこみるんだけどTumblrでもふつーにされている。



まあ自分の場合は「もうちょっとアパートメントの記事読まれないかなあ。。」ってアレで、「キャッチーなポストでフォロワー増えれば普及力高まるかな?」とか思っただけだけど。そういうのもなんかめんどいのでてけとーにやっていくことにした。




そういうアクセス数とかRT数、リブログ数がうんたらいう話とは別に「たんぶらー的な体験というのはどういうことなんだろう?」って思ったりする。


大きく分けて「リブログという形での回覧」と「オリジナル引用という形での切り取り」みたいなのがある。しょせん引用なので「オリジナル」っていう言い方もなんか変な感じだがまあそこは置いておいて。


回覧のほうはさっき言った感じで未だちょっとわからない。自分みたいにウェブメインでやってる人はmegaediterとか利用して一覧表示すればまだ「一日ノート」って感じはあるだろうけど、それ以外の人の場合は「一日」ってスパンでもなく「とりあえずのfav」みたいな感じだろうか?twitterで言うなら。あるいは、「リブログしたものを見直す」ということさえせずに「リブログそのものが快感」みたいになってるひともいるのかも。


「昔のエロ雑誌とかだと考えられないほど裸画像が簡易に流れてくるので気に入ったものをどんどんリブログしてるとアドレナリンがドバドバ出てくる」みたいなことを安田理央(@rioysd)さんか誰かが言ってたように思うんだけど、そこでの感覚は「新聞・エロ・グラビア雑誌の切り抜きみたいなのが簡単にできる」ってことなのだろう。キノコ狩りとかいちご狩りに行ってアドレナリンドバドバというのと同じ感じの。「そんなに採ってどうすんの?」って言われても「わっ!ここにも あそこにも!」って感じで、「採ること」「狩ること」そのものが目的になっていく。


「オリジナル引用という形での切り取り」もそういう点では同じところがあるような…。

「引用の範囲のセンス」みたいなのにこだわるとかそういうの。「そのエントリの本質部分を端的に見出す」「そのエントリのおもしろ部分を引用/切り取り方で自分が演出する」みたいなの。


そこでも対象(ソース)となる文章そのものの内容よりも「狩る」こと、「引用の角度」みたいなもののほうが大事になってきたり。運動会で子供の写真を撮るお父さんが「いい写真を撮る」「記念にする」ということそのものが目的になっていってしまって子供の楽しみがなおざりになる、みたいなの。「スマホで写真を撮る前に料理とソースを愉しんでください」



smartphone.jpg


cookmen.jpg





「目的と手段が逆転する」っていうそれはインターネッツで承認欲求を集めるときにも生じる。



最初に日記を始めた時には単に「日記にする」「日記になるようなネタを探すような視角が日常に取り入れられる」「日常にそういう視角・刺激が入ってきてたのしくなってくる」というだけだったものが段々と「ネタになるようなことを探さなきゃ」「もっとアクセス数稼ぐような書き方しなきゃ」みたいになってきて窮屈になっていく。あるいは、気づかない間に物言いがセンセーショナリズムを帯びて下品になっていったり、自分や家族の実存をコンテンツとしてバラ売りするようになる。
http://t.co/dzaeyGvOCL

そこまで行かなくてもネットの当該コミュニティ独特の常識みたいなのに自分が染まり、その界(世間)における倫理の型にハマっていく。そして自分ではそれが正しいと思って気づけなくなったり…。


「こないだはてなで人気のひとたちとオフで会ったんだけど彼らはオフでもホッテントリがどうとかな話をふつーにしてて、なんかキモかったよ…。ある程度そういう話してもまあそれはネットも日常の一部になってるから当たり前かと思うんだけど、ほんとにそのことしか話さないのね。『○○さんのこないだのエントリは▲▲で…』『あれは裏では○○で』とか。こっちはそんなの知らねーっつーの。なんか、、病んでる感じだった。はてなーってオレにとってそういうイメージ」

某人から聞いたそういうのは論壇とか芸能人みたいなのがネットを介してコモディティ化したということなのだろう。そして彼らは自分でワイドショーの記者も兼ねる。



アクセス数への意識と「それに見合うような記事・ネタ」という視角、ホッテントリというマトリックスを内面化することで自らを生から疎外してるのだろう。フーコーなら「まなざし(監視)の内面化」と言うだろうアレのこと


たったひとつの冴えたやりかた: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384420579.html


「自由になるため」のはずの知識が却って枷となって自らの自由を拘束していく。

ストーリーよりもディテールにフォーカスしてしまう。

料理を愉しむことよりも写真を撮ることを優先してしまう。



せせこましい倫理・教条化でネット内での徳・自分の正しさみたいなのを喧伝していった人たちはレバレッジがどんどん高まって、あるときそれを回収されて萎んでいった。あるいはそういった視角にドライブされている自分の日常の虚しさに気づいて


こもこ(@komoko)さんなんかも少し前に「日記でなに書いていいかわからなくなってきました(´・ω・`)」みたいなこと言ってたけど、彼女はけっきょくそういうのに囚われない方向を選んだ。



どこかで「他人の承認欲求を笑う人は、自分もアウトプットすることができなくなる。笑われるのが怖くなるからだ」みたいな話が湧いてるみたいなんだけど、これも「承認欲求・アクセス数目当てでセンセーショナルな飛ばしやる糞ブログ」批判の予防線に過ぎない感じ。


「アウトプットするのが怖くなる」「日記をつける気がしなくなる」みたいなのはブログやってるとやってくるけどそれは単に承認欲求絡みなだけの話でもないし、「他人の承認欲求を笑う」にしても承認欲求への依存度によって話が変わる。

「アウトプットするのが怖くなる」のは誰かを傷つけたり、よくわからないはてなのモヒカンとかメディアスクラム的な罵詈雑言に襲われ辟易するからだし、同調圧力同様、承認欲求それ自体は悪いことではない。マズローの5段階欲求なアレでも「金とか地位とかいろいろ集めて最終的に欲しくなるのは名声」みたいな話もあるし(つってもマズローの話もそんなに正確なものではなく心理学方面だとエッセイ程度の扱いみたいなんだけど)。


「誰かの目を気にして誰かに良く思われたい」というのは独善的に振る舞うよりは自分を開く良い契機になるのだろう。んでもそれを気にし過ぎるとそれに囚われることになるけど。


承認欲求、他者による評価を気にすることというのは自己実現のための要素のひとつにすぎないのでそれに囚われすぎることもない、程度の話。酒とかドラッグと同じで、依存になると良くない。日本人だと世間的な承認、「アンシン」に傾くところもあるのだろうけど、自分で地図を作成していく能力も持ったほうがいいように思う。



山岸俊男、1999、「安心社会から信頼社会へ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380874839.html


鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381455793.html



ついでにちらっと言っておけば「他人に認められたい」「正しく認められる」「それによって自信につながり困難な問題に立ち向かう心の糧となっていく」という話は「全能感人間」なんかに書いてある。


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これも心理学的には証明された話でもないのだろうけど、「他人の承認欲求を嘲笑うな」とか尻切れトンボしているよりは有益だろう。

「承認によって全能感を正しく誘導される」「自信をもつ」という過程は大事だけど、それは「困難な問題に立ち向かうため」であってその全能感に酔いしれるためではない。承認欲求が叶えられたことによってネット上でみょーに調子に乗って行く人というのはちょこちょこ見るんだけど、たぶんそれは目的なく承認-自信が膨らんだ結果なのだと思う。カオナシみたいに

あるいは、それだけ愛情や承認に飢えていた/慣れていない、ということなのかもしれないけど。



こういう問題、「他人からの注目をあつめるためにセンセーショナリズムに寄る」「その界でキャッチーな言葉(言表)で組み立て形式的修辞に寄ることで内容がなくなる」「結果として対象を傷つけていく」「精確性を欠いていく」という問題はイエロージャーナリズム的なものとしてジャーナリズム界隈で昔から問題になっていた。

それでジャーナリストとしての倫理観と誠実性に自覚がある人たちはそういうものに対して距離をとり、「しっかりと調べて書く」という調査報道の基本を意識したり、「取材対象を単なるネタ元として扱わない」「対象とコミットメントをもつ」ということを意識しているように思う。そうやってまともなジャーナリズムは作られていく。「コミットする」というのは例えば「一方的に撮る / 盗る」ということではなく参加し共同し一緒にやっていくということ。「他人ごと」としててけとーに消費しないこと。

「承認欲求・アクセス数を目指すのがダメならなにを目指したらいいんですか?」「はてぶほかで多孔化されてアクセス集まって嫌になった」というのはその前段階、イエロージャーナリズム的な問題を自分の問題として実感してきた段階なのだろう。「マスコミがする悪さ」ではなく「自分もそういうことをする / される立場にある」ということを通じて。

芸能人やワイドショー(芸能人批評)だけではなくジャーナリズム(社会批評)的なものもコモディティ化したのがネットなのだろうからそういう帰結になるのは当然だろうけど、「表現の自由と他者への配慮」「自分がマーケットにドライブされること(市場の審級(まなざし)に囚われ流されること)」がマスコミだけの問題ではなく自分達の問題として実感されてきたのかもしれない。

そういう意味では承認欲求ゲームの虚しさに気づいてそのゲームから降りていく人のほうが誠実な印象がある。




こういった「対象を切り取りネタにすることに対する倫理性」あるいは「他人を一方的に見つめるまなざしの暴力性(そういったものを内面化していることの是非)」ということはソンタグが論じてきたことだった。


ソンタグの感性・写真論(まとめ) - 雑記置き場
http://d.hatena.ne.jp/nowherezen/20121205



彼女の最初のエッセイ「反解釈」では「形式に傾いて内容がなくなる」と問題を逆に「形式の意義」の面から省みていたようだけど、「内容と形式」というのは自分もずっと関心ごとだった。


そして「写真によって他者を切り取ること」や「どこか遠くの国で戦争が始まりぼくらはそれをテレビやネットを通じて消費していく」ということの是非。


現在も南スーダンの内乱の状況がたんぶらーでちょこちょこ回覧されてきたり、自分もまとめの断片を流しつつ「こういった関わり方は『消費』ということなのかな?」と少し思ったりする。



未だ読んでないけど、彼女の問題意識やスタンス(固定観念にとらわれないこと・『まなざし』を意識すること)というのはフーコーのそれをエッセイ的にした感じなのかもしれない。


たんぶらーで「切り取ること」の感覚と「写真で切り取ること」の感覚の類似に期待して読み進めてみよう






cameraeye.jpg









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関連:


ソンタグ、

「すぐれた映画は必ずわれわれを、解釈の欲求から完全に解放してくれるところの直接性をもっている」。映画には「内容以外に、手がかりになるものがつねにそこにある」。それは「たとえばカメラワークとか、編集[モンタージュ]とか、画面の取り方など」、いわば「外形の語彙」とでも言うべき手がかりである。
 『反解釈』においてこのように述べられている「芸術作品」を写真に置き換えてみれば、DHが「イメージをその形式的な個別性において認識」(「黒い塊」の重要視)して、それをトリミングしてしまうことを批判している点にも通じているだろう。意味=理性に依らない感性と認識の前景化、という点ではDHが参照したアーレントによるカント解釈とも類比的にみえる。しかしソンタグは写真を論ずる場合、ある種の葛藤を抱えながら「映像のエコロジー」を主張するようになる。


に寄せて。映画と公共性関連で


フランス革命の背景とか要因について(暫定) 公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html




反解釈 (ちくま学芸文庫)
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posted by m_um_u at 16:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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