2014年01月05日

たったひとつの冴えたやりかた


「読んだ本4冊さらっとまとめたいなあ詳細ではなく(´・ω・`)時間かけずに」と思いつつまた時間かかるのかなあと思うんだけど、まあ二冊ぐらいは今日見たエントリと関連するところがあったのでそれにかこつけてさらっと日記にしちゃおうかなあ


はじめて読むフーコー (新書y)
中山 元
洋泉社
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性暴力加害者の心理 - キリンが逆立ちしたピアス
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20140104/1388817931


女性の立場からすると真剣にキモいしセキュリティな問題なので加害者側に反省し修正して欲しいのだろうけど、たぶんこのレベルは病気だから病気・中毒・依存としての対応が必要だと思ったんだけどコメント欄見るといつもながらのfont-daさん節でたいへんそうだなあ、とか

こういう話は生物学的に男性という形質をとっている自分からするとどうしても「カッパはセクハラ問題に鈍すぎる」みたいなこと言われるんだろうけど、自分も人文系の嗜みなアレでもともとはフェミなところがあったりする。名誉女性というか。

そういうのはもともとサヨクだけどいまはわりと保守っていうのとも似てるんだけど


前文の【自分の悲劇をわかってくれる人などいないことは明白で、ほんとうのことを語ろうものなら、非難され、さげすまれる】という一節では、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(彼女は34歳の時、戦争の残酷さに抗議するハンガーストライキで餓死する)を思い出す。

この本は子ども時代に性暴力を受けた女性22名の独白である。近親相姦、知人から、見知らぬ者から…ぎょっとするような体験が並ぶんだけど、すべて現実なのである。

『心の傷を癒すとは出会っていくことです。闇をかかえた他者と出会うこと、自分の中のもう一人の自分を出会うこと、自分の中の自然に出会うこと、生きたいと欲する自分の激しい生命力に出会うこと。

誰もの内にある混沌とした豊かな“自然”にいのちを吹き込んでいくことだと思うのです。何者かに【成ろう】と懸命に励んで知識や技術という服を幾重にも着込んでいくのではなく、逆に着ぶくれしている服を一枚一枚脱いでいき、自分の生命力の源に触れることです。裸足で地面をしっかり踏みしめ、大地の生命力を吸い上げることです。 』

と、森田ゆり氏は述べる。泣きながら、読んだ。

…いつの間にか、性暴力事件のおっさんではなく、高校生のとき関係を悪くしてしまった人を思い出した。今まで、自分が何に傷ついてきたのか、自分が誰を傷つけてきたのか、すこし振り返る時間ができたのだ。去年の秋、その人と二年ぶりにきちんと顔を合わせ、謝罪した。自分の弱さを受け入れ、自分に正直に生きてみようと行動してみると、自分の性別や他者接触に対する恐怖が少しずつやわらいできた。他人に触れさせまいとして分厚い膜で必死に心を覆うのをやめた。防衛のためでなく、ただしく、人に触れることができるようになってきた。そうすると、事件のとき、抱きしめてくれた恋人のそれがどんなに、やさしく、あたたかいものだったことがわかった。

だれも私を助けられないという希望のようなもの - blog.922
http://bit.ly/KrcZak



少し前についったで仲良くなった人とオフで会ってお話したらけっこう壮絶な家族な過去があって、それとは別に会社でセクハラ受けて辞めた話を聞いた。「壮絶な家族の過去」のほうが重いのもあってかセクハラのほうはわりとふつーにさらっと語ってくれたけど、たぶん感情移入すると泣いてしまうというのもあったからかもしれない。あとは重いのでこちらにあまり負担にならないように気を使ってくれてたいうか。そんで自分も指導教官のセクハラ事件に巻き込まれて人生の転機みたいなのがあった話をしたり。あれはけっきょくどっちがどうだったかはっきりしないんだけど、そのとき大学の自由というのは学生を守るためではなく彼ら教職員のためにあるのだなあと実感した。あと普段は倫理がどうとか思想や正義がどうとか言ってる人もこういうときは日和るのだなあ、と。自分が単純な正義、教条的で世間的な正義に対して懐疑的なのはそういうことも関係しているのかもしれない。子供の頃からそういった建前的なものに対して自分のホントのところは外にやっとくみたいなところはあったけど。


言説や思想というのは武器だから、それは社会的な暴力に対していく時には強力なツールとなるけど、それを単に自分を有利にするためだけに使ってるとなんかズレるのだろう。


「サベツ」って言葉は本当に使いづらいな。 - blog.922
http://bit.ly/KrcNYp


なので自分は人や社会を裁くためだけに言説の型を使用する人には懐疑的になる。同時に自省の回路を持ってる人でないと


「たとえそれが自分に不利になるようなことであっても真実を語る」ということ。フーコーはそれを「パレーシア」と言い主体確立のために必要なものとした。

「パレーシアがどのように主体確立と結びついたか」「フランス革命と教会やルソーを通じた告解 → 内面の成長がどのように関係したか」「それと愛やfraternityとの関係は?」

概説本なのでそこまでは突っ込んでないけどその辺りが自分がこれからフーコーを読んでいく際のポイントなのかなあと思ってる。


共同体における宗教的情操と倫理やら徳やらの原型について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382123924.html




「ディスクールのドライブやディスタンクシオンの優越ゲームに巻き込まれず、パレーシア(フォース)の導きに従う」

ソフトスターリニズムにも似た世間的な似非正義とは関係のないところで己の実存に基づいた言葉を紡ぐ」

「彼らに言葉や感情を盗まれたり消費されたりしない」


そういうつもりでホッテントリ的なもの、単に丁々発止したいだけの優越ゲームにはなるべく関わらないようにしてる。それで自分が成長したり自分の生活が変化したりするわけでもないし、学ぶことややることが多すぎて手を広げすぎても時間が足りない。

自分にとってウェブ以前から続けてきた日記的なものというのは自分との対話であるし自分を削るための作業だった。日記の初期では格好をつけようと大仰な文体を真似したりもしたけど、それが段々馬鹿馬鹿しくなってきて、そういうものをなるべく削ることを心がけるようになった。いま思うとそれは自分なりの告解のようなものだったのだろう。

ウェブにうつってから、目立ちたい欲・承認欲求的なものを反省してからは誰かへの手紙のつもりでいる。なので万人に理解されなくてもいいしアクセスとかあってもめんどくさいこともある。


誰でもない誰かに向かって誠実には書くけど理解できない人には理解できなくていい。



Marginal Soldier: まとめサイトに私たちのこころはまとめられない
http://bit.ly/Krex47


物語を完成させる - 添い寝原体験 - blog.922
http://bit.ly/KrcKvR


「フランシス子へ」を読んだ - blog.922
http://bit.ly/1axkoez



「なにかを裁いて自分が偉くなった気になる」「そのためにいろいろなポリティカルコレクトをまとってどんどんレバレッジを上げて窮屈になっていく」「ウェブではそれがわかりやすくアクセス数で可視化され承認欲求が満たされて錯覚する」

そういった過程を馬鹿馬鹿しく思うことはフーコーも同意してくれるかもしれない。


もともと臨床心理に就いていたフーコーは目の前でロボトミーされた患者を見て心理学や学問全体に懐疑的になった。


想像するに「性的マイノリティである自分もいついきなり頭をドリルで繰り抜かれロボトミーされるかわかったものじゃない」という不安を実感したのかもしれない。


なのでフーコーが目指したのはそういった社会的常識の解体だった。その具体的対象としてローマ・カトリックを中心とした教条主義があった。あるいはそれをベースとして作られてきた法制度・行政。



「エピステーメー」というのは知や思考の型のようなもので、たとえばイマジネールと教会の教えを中心とした時代は類似と啓示がエピステーメーの中心だった。


「その事象の名前があるということは存在の証であり、存在とは神そのものである」


哲学なんかでも言われる本質論の元のところ、唯名論・普遍論争として伝わるこの辺りは神学的命題としてずっと語られてきた。


けっきょく中世ヨーロッパのエピステーメー(思考様式)は「己が独創性を発揮しようとするな。神は完璧なのであってその神の啓示を探すように心がければ良いのだ」というものだったけど。なので思考や誰かを裁くときの根拠もまず「神の定め」がありそれを読み解くような過程をとった。重石を抱えて浮かび上がってこなかったら「神の恩寵がなかった」「魔女だ」とし、「笑いはダメ」と定められれば「なぜ笑ってはダメなのか?」と問うのではなく「ダメな笑いとはどのようなものか?」「笑いがダメなのは○○な理由だ」とする思考をした。根源や本質を目指して「なぜ?」を問うのではなく、教会が言ったことをまず是とし、それを証拠立てる枝葉を足して行くのが知の在り方とされていた。そういった思考様式は近代化の初期でも分類学として続いていった。

リンネ的植物学の時代、「一定の様式にしたがって分類すること」が一義としてあり、その分類が済んでしまえば知としては完結したものとされていた。それに対して生物・動物の本質を探るために「なぜ?」を突き詰め、要素をさらに分解し、分類から機能へと移っていったのが動物・生物学だった。つまり南方熊楠の時代。


社会学をちょっとかじった人、あるいは社会学にかぎらず経済学でも心理学でもなんでもいいけど、学問を少しかじった人はそんな感じで定まったフォーマットに沿って分類し、裁いてくだけで満足しその本質を問うことには無反省なように思う。便利で汎用的な理論や名言を道具的に使ってなにかを分かった気になったり裁いた気になったりする。そして誰かに優越するためのツールとする。そしてけっきょくは言説に自らが囚われていく(あるいはアジェンダのようなものに)
http://twitter.com/m_um_u/status/419664956829614082
http://twitter.com/m_um_u/status/419665230612803584
http://twitter.com/m_um_u/status/419667756888248320


このへんなどはそもそもフェミ/ヲタという二項対立するのが阿呆らしい話しだし、

そしてオタクたちは、また迫害されていく - 狐の王国
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20131231/1388453783


そもそも「少子化だから子供増やさないと」て議題設定自体が権威主義的というか「生権力への疑いとかまるでないのかなあ」って感じなのだが、、


少子化問題の本質は、魅力的な男性がいないから - 狐の王国
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20140101/1388543317


(まあこのひとは宗教についても曖昧だったし、めんどくさそうだからあまり関わらないほうがいいのだろうけど)


個人の自由の拡張的な話以外でもいちおいっておけば近代化の指標は識字率と避妊率が関わる
http://twitter.com/m_um_u/status/419652574099173376
http://twitter.com/m_um_u/status/419652728160141312
http://twitter.com/m_um_u/status/419653376410800129


「人口が増えること」がそのまま殖産につながるわけでもないので



「うそくさいなこのひと」ついででいっておけばこのひともなんかあれだった


細田守、2012、「おおかみこどもの雨と雪」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383370375.html

弱者の矛と同調圧力  冬に深淵を見つめるもの: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383480126.html


10万年の人類史に「取引」の真髄を学ぶ/マット・リドレー『繁栄』感想 - デマこいてんじゃねえ!
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120613/1339601274

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んでも結果的にリドレー読む機会に恵まれたのは俺得だったけど。



リドレーは経済学系の人かと思ってたら動物学プロパーでエコノミスト勤務経験な人だった。感触としてはジャレド・ダイアモンド的なペーパーバック感。まあそれは「繁栄」のほうが動物・生物学よりも経済学的な語りになってたせいもあるのだろうけど。


「なぜ性別があるのか?」ということについては自分的にも関心があったのでジャレド・ダイアモンドのそれ系の本を図書館に予約してるけどこちらはみょーに人気があってなかなか届かない。代わりにリドレーの「赤の女王」読んでる。



赤の女王―性とヒトの進化 (翔泳選書)
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「多様性を導入することによってシステムの停滞へのカンフルとしているのではないか?」というのが自分の考えだったけど、二章まで読み進めて雑駁にはそういうことぽいけどなかなかそこに落ち着き難い印象。「二重らせん構造があるのは保険のため」ってところもあるみたいだけど、それがそのまま「男女の性別があること」「異性性交の必要性」というところにつながらない。あと「種として生き残ってきた合理性の集積(群淘汰) / 個が生き残るために取ってきた戦略の合理性の集積(個体淘汰)」、どっちが正しいのか決着ついてないみたい。

「多様性を導入するため」としても性交にはリスクやコストがある。「相手を探さなければいけない」「相手の了承を得なければならない(人間の場合特に)」という探索・コミュニケーションコストがあるし、性交時のキケンもある。性交 → 妊娠までの確率の問題もあるし、妊娠 → 出産まで活動性が落ちたりする。「多様性の導入」といっても必ず良い方の多様性が導入されるとは限らない。そういった意味では単為生殖のほうが簡単だし「100%自分の遺伝子を相続できる」「単純に数が二倍になっていく」ということでは合理的だったりする。少なくとも種の利益(群淘汰)的には。


なのでおそらく性別・セックスがあるということは進歩ではなく変異(イレギュラー)なのだろう。


「イレギュラーだったけど当時の周りの環境と偶然マッチして結果的にうまくいった」


リドレーが「この論争は遺伝学的にというよりも生態学的にみたいほうがいいかも」と締めていたのもそういうニュアンスだったのかもしれない。




人の愛というのもおそらく似たようなもので、人の社会を中心とした人間中心主義としては「万物の霊長たる象徴だ」みたいに語られがちのように思うけどたぶん変異であり結果なのだろう。近代的な愛、あるいはヒューマニズム的なものというのもここ最近のものであるわけだし、家族のあり方や子育てに対する考え方ひとつとっても地域によって異なるし前期近代と後期近代とでは違う。


それをもって「全部嘘っぱちだから意味ないじゃーん」ていうのも拙速で、その逆に擬制であるからこそ大事にしていく面もあるかなあということでその辺の成り立ちを自分なりに掘っていくつもりだけど。おそらくその程度のものなのだ。「正しい愛」も「正しい家族」も、あるいは、「正しいセクシャリティ」みたいなのも。



フーコーが思ってたのもそういう感じだったのかなあと思いつつ、プラトンが3つの性(男男・女女・男女)を想像してたのもそんな感じだったのかなあ、とか。



独占しない関係について - blog.922
http://bit.ly/1axknHv



自分はわりとポリに近いところがあるように思うんだけど、それは理知がそうさせてるのかなあと思うところもあって、実際に付き合ってみると嫉妬も生まれたり。あと乱交とかスワッピングには抵抗あるのでたぶんポリというよりはオープンリレーションシップに近いのかなあと思うんだけど、これも相手がそうだった経験もないのでよくわからない(そういう契約みたいなのを説明して付き合いだしたことはあったけどけっきょく怒られたことあるし)。


けっきょくは「嫉妬」が問題で、それは「自分は持ってないのに相手(もしくは誰か)は持ってること」に起因すると思うんだけど、「だったら両方とも付き合ってる相手とは別の人とセックスするなりちょっと付き合うなりの機会があれば『片方だけ』ってこともなく嫉妬心生まれないんじゃないの?」って提案したら「そういうことじゃないんだ」って返された。「理性ではわかるけど感情としてダメ」ってことみたい。


まあそういうのは家庭環境とかにも依るのだろうから一概に何が正しいとも言えないのだろうし、自分も相手に依ってはそういう考えが違ってくるのかもだから一概に言えないんだろうけど、ついったなんかでもポリ宣言して実践してる人いるし、オフでもオープンリレーションシップな感じで生活してる人とおともだちだったりする。なのでわりとふつーというか、そういう人が増えてるのかなあッて思ったり。




まあけっきょくは「制度で決まってるから正しい」ってことでもなく「自由なのがおしゃれじゃん☆」って行き過ぎることもなく相手の気持ちに依るかなあとかおもうけど。



「なにが正しい」とかもそんな感じで目の前の相手と真摯に向き合うことがまずあって、その「相手」をどんどん拡張していくことなのかなあ。大上段にポリティカルコレクトするんじゃなくて、自分と相手との真摯な付き合い、選択の集積、結果であり淘汰として。







sentaku.jpg






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髪の毛付きフーコー
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Can You Tell the Difference between the Peoples? : 蜜蜂を弄ぶ
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http://on.wsj.com/1llX0c1




社会全体での恋愛・結婚・出産・子育ての最適な形について - lestructure's blog
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タグ:家族
posted by m_um_u at 20:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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