2013年12月26日

竹内洋、2011、「革新幻想の戦後史」


革新幻想の戦後史
革新幻想の戦後史
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竹内 洋
中央公論新社
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全体の印象とまとめから。

「教養主義の没落」でもちらっと出てた「戦後の思想・教育は論理・内容イカンではなく経済 → ライフスタイルの変化、ハビトゥスや雰囲気によって浸透していった」「岩波文化とは?」という部分をより詳細に語ったもの。つまり市民宗教としての革新幻想の歴史。全体の分量としては「<民主>と<愛国>」のオルタナとして読んでいくといい感じ。(以下、関連リンク読まなくてもいいけど文脈としてはこんな感じ)


竹内洋、2003、「教養主義の没落」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382681253.html


「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ」→「<民主>と<愛国>」→「革新幻想の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382686567.html


赤い狐とこぐまのマーチ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383177504.html



「諸君!」への雑誌連載ということで定年教授が居酒屋で語ってるといった風情の思い出話がちらほら、たとえば当時の教育学部の権力うんたらについての内部事情とか、当時話題だった論文の内実とか。なので「革新幻想の歴史」という主題から少しそれるところもあったけど、それが単にテキストを切り貼りしたものではなく実際にその時代を生きてきたひとの実感的な思い出話という感じで面白かった。そのぶん主観もあるだろうけど。



最後のまとめ的感想から、竹内は

「日本の伝統社会(世間)的な圧や陰鬱さ、全体主義的戦争への悔恨と嫌悪から近代的都市民のあり方(モダニズムとそのハビトゥス)がモデルとされ、その要素として個人主義 = 主体の確立が模索された」、が、「それは圧がある時代の対抗言説としての有効性であって、その圧が失われた現在、ミーイズム的側面を吹き出した」

としていたけどこの部分は首肯しかねた。

全共闘世代、というか作る会→カウンターとしての小熊まとめの一連のキーワードとなるのが「個人主義」「公共性」「ミーイズム」「主体の確立」その上での「民主主義」辺りだろうけど、<「みんな都会化して圧が外れたのでエゴイスティックになった」=「お客様至上的になんでもかんでもクレーマー」するようになった>とするのはびみょーに思った。それだとよくいる急進的ウヨクぽい人の「最近は何でもかんでも『権利』『権利』と叫んで甘い!自己責任をしれ!」的な論理につながるだろうから。まあういう心性な人もいるとはおもうけど。



んじゃ以下詳細。








敗戦を巡る複数の感情とそこから生じた共同体の類型



           (戦前日本の否定)


      悔恨(革命)共同体 /  罪悪(自虐)共同体     

(対自性)                       (即自性)

      復興(皇国再建)共同体 / 無念(遺恨)共同体



           (戦前日本の肯定)




この簡易図は丸山真男「近代日本の知識人」の悔恨共同体 / 無念共同体辺りから。サヨク的なものが悔恨と罪悪、ウヨク的なものが復興と無念。

サヨクの中でも「二度とこの過ちをおかさない」としつつも行動する平和志向的なそれは革新幻想の中核をなしていった。自虐は行動力低め。

ウヨクの中でも無念共同体は東京裁判などへの割り切れなさや遺恨を出発点とする。復興(皇国再建)はそれからもう少し進んだ新人類的なバックラッシュ、日本人のアイデンティティの再構築を目指すもので実務家や保守政治家に見られる。


丸山的には「戦前の知識人は狂熱的な行動イデオロギーにはコミットしていなかった」としていたが、竹内が調べたところによると昭和10年代のキャンパス文化では国家主義団体がけっこうあった。丸山がよしとする「本来のインテリ」が多かった帝大や官立高校のほうにむしろ多かった。


これは丸山の<残虐志向・行為をしたのは百姓たち><そういった大衆をはじめとした内面性の弱体、主体の無さが全体主義を生んだ>という大衆蔑視 → <大衆の主体性(近代)の確立によって全体主義的問題が超えられる>を説く話の根幹に係る問題であり、小熊の<吉本隆明は大衆を代表するものとして保守的であったが、吉本はひとりよがりであった>というような言説にも影響を与えているものと思われる。戦前からの西欧教養主義データベースシバキズムの係累といえる。


岩波の雑誌「世界」はそういった悔恨共同体、革新幻想の共同体の牙城となっていった。


それまでは特にそういう傾向もない総合雑誌であったが岩波茂雄逝去後、編集長吉野源三郎を組織者とした平和問題談話会が創立され、丸山真男、清水幾太郎、久野収、都留重人などが集い平和思想の牙城となっていった。


「世界」は農村部の若者にも支持され読まれたがそういった若者は「クチばっか達者になって手が動かない」と敬遠されがちだった。


1957年頃、社会主義国や共産党神話の崩壊を目に革新幻想は陰りを見せていった。丸山真男を中心としたそれはマルクス主義-社会主義、共産主義や天皇精神構造的なものを乗り越えるべき批判対象としていたが、消費社会の到来も相まって勢いを落としていくマルクス主義を前に「なにかがっかりして気が抜けちゃった」状態になっていった。革新幻想の陰りと行き詰まりの時期だった。


同時期(1960ごろ)「中央公論」は現実主義路線をとり左派からは「右旋回」「ニューライト」といわれたが中根千枝の論文を掲載するなど中立を保っていた。



安保反対運動は最初世論とは関係のないものだった。「直接に台所(家計)とどう関係するのかわからない」という世間の空気の中、「暴力的な反対行為による阻止はしない」という立場は1960年の春頃まで世論には受け容れられやすかった。それもあって総合雑誌「自由」などはそういう立場をとった。安保反対運動に一般学生の他に一般市民が参加するようになったのは1959年11月27日の全学連の国会構内内乱のあとからであった。市民運動としてのうねりが急激にたかまったのは1960年5月19日の強行採決の日、デモのピークが東大生の樺美智子の死(6月15日)を招いたことからだった。

安保反対運動の高まりはその内容への危惧というよりも、岸首相のなりふりかまわない強権的な手法への反発からだった。

こういった流れを受けて盛り下がり気味だった革新幻想、その牙城である「世界」族の気運が高まっていった。


しかし「世界」は吉野源三郎を中心に平和問題に力を入れは始めた時から読者の数は大いに減らしていた。ではなぜ「世界」あるいは岩波文化のプレゼンスは高く感じられたのか?



岩波は「世界」を中心に「思想」「岩波講座」「岩波全書」「岩波新書」をはじめとする刊行物にメディアミックスならぬ刊行物ミックス的な「進歩的文化」感をまとわせていた。

たとえば岩波新書などには「平和にして自律的な民主主義日本の建設」「世界の民主主義的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること」「封建的文化のくびきを投げ捨てるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇せ」るなどの言明が付されていた。

こういったブランディングの成果か世界の読者の半数は30歳未満の学生だった。戦後の東大生の愛読雑誌調査をみると「世界」はほとんど一位だった。その傾向は京大でも同じだった。


こういった傾向の背景には「左翼キャンパスの解体が軍国主義の昂進を招いた」とする通念があった。

上記した丸山真男の誤謬でも明らかなように学生キャンパスの雰囲気は国粋主義なものがありそもそも「左傾キャンパスが解体した」というのはおかしい。あるいは左傾キャンパス文化と軍国主義の昂進には直接の因果関係はなく同時期の共変関係であったがそういった通念が蔓延した。このように内容自体の真偽はともかく明確に言語化できないような漠然としたムードや・感情といった通念を「背後仮説」という。竹内によると左傾理論はそういった内容以前の雰囲気に左右されやすく、保守理論はそうした雰囲気・背後仮説と不協和を起こしたため論理以前に拒絶されやすかった。





「世界」を中心とした岩波文化は共産党と距離をとるゆるい立ち位置にいたこそ輝けた。共産党神話の崩壊とともに政党と無関係な市民派サヨクの居場所となっていったのである。


岩波の平和思想は東大教育学部を通じて世間に浸透していった。その尖兵となったのが日教組-教師たちだった。進歩的教育学者は岩波知識人にお墨付きをもらった。


このころは未だジャーナリズムで活躍する評論家の論壇界と大学を中心とした学者界の拮抗のようなものがあり、マルクス主義を巡って知のヘゲモニーの振り子現象が生じていた。

「専門分化した学問と官僚主義的な大学教員は楽で独善的だ」とする風潮もあった。そういった大学の知に対する後ろ盾が知を統べる総合科学理論としてのマルクス主義だった。

このように「官僚主義/官僚独善」として大学人を批判する向きは東大全共闘議長だった山本義隆の言明にも表れている(cf.「知性の叛乱」)



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アマゾンのレビューや以下のリンク先の様子みるとけっきょくは当時の山本さん個人の教授会に対する私怨が元になってたような印象あるけど

ひまわり博士のウンチク: 山本義隆『知性の叛乱』
http://himawari823.no-blog.jp/unchiku/2010/04/post_bc58.html

Sightsong: 山本義隆『知性の叛乱』
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=2963376




福田恆存は「平和論の進め方についての疑問」において平和論者や文化人的な思考様式を批判した。文化人たちは何事にも一家言ある人種で「自分にとってももっとも切実なことにだけ口を出すという習慣を身につけてはどうでしょうか」と福田は叱る。これなどは今日のコメンテーターがその裔といえる。


その上で日本の平和論は正月などに使う屠蘇の杯だという。屠蘇の杯は小さな杯は順次により大きな杯の上に乗っかっている。平和問題論者は基地における教育問題を日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして、資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる。小さな杯を問題にするためにはどんどん大きな杯を問題にしなければおさまらなくなる。

最後に福田は「日本のような小国は強大な国家と協力しなければやっていけないはず」と進歩的文化人の現実離れした平和論を批判している。




野田宣雄「『二つの戦後』から何を学んだか」によると日本の第二次大戦後の雰囲気は同時代のヨーロッパよりもむしろ一世代前の一次大戦後のヨーロッパと共通するところが多かった。

第一次大戦後、ヨーロッパは史上空前の悲惨な経験から平和主義と軍縮の教訓を引き出した。民族自決や議会制民主主義、社会主義革命などの崇高な理想主義に走った。リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーによる「汎ヨーロッパ主義」もそのような理念に棹さす運動だった。


ヨーロッパは平和と統合を目指しフランス社会党は「安全保障は軍備ではなく軍備縮小によってヒトラーを国際世論のなかで孤立させることによって得られる」とした。

イギリスもチェンバレンの1930年代までは対独宥和政策に付随した。チャーチルになってから対独挙国一致の戦争内閣を組閣した。1940年のこととなる。

第二次大戦は第一次大戦よりも大規模なものとなり、こレを経験したヨーロッパ各国は今度は打って変わって大きな理念や理想主義に不信感を持つようになり、極度に現実主義的な政策がとられるようになった。第一次大戦後を教訓として


第二次大戦後のヨーロッパ各国と日本の雰囲気の違い、現実主義と理想主義の違いはソ連の外交政策に対する誤解として悲劇された。
1950年、日本の知識人は平和主義、理想主義の範としてソ連を捉えていた。悲劇はここから生まれた。

1950年1月コミンフォルムから発せられた「日本はアメリカ政策主義の植民地政策のもとにある」というメッセージを日本共産党のシンパたちは国際橋主義の進展というタテマエ通りに受け取った。

日本共産党は中核自衛隊などの武装組織を作り火炎瓶投擲などの武装闘争方針をとりはじめた。共産党主流派にヘゲモニーを握られていた学生運動も武装闘争路線に従い山村を軍事拠点にすべく工作隊になったり農民オルグ活動にたずさわった。

共産党の1956年のスターリン批判からはソ連崇拝の陰りが見えたが、60年安保闘争の敗北後も論壇を中心とした知識人界と大学キャンパスでは平和主義と理想主義、社会主義そのものへの幻滅はなかった。





理想論的平和主義とマルクス主義によって全体を覆われた日本の知識空間の変化は全共闘への失望を基点とするように思われるところもあるかもだが、全共闘以前に知の編成は変化していた。

1960から1970にかけての高度成長 → 後期近代への以降により消費社会的傾向が強まっていき、「目の前の生活がだんだんと豊かになりいろいろ消費できるようになってるのになにに対して運動するの?」といった雰囲気が高まってきていた。

そういった雰囲気の中でマルクス主義は時代遅れなものになっていき、それに依存する形で作られていた岩波-日教組的な革新幻想も陰りを見せ始めた。

このような風潮の中、会社空間から期待されたのが実務的な知識だった。従来の教養・インテリは「観念インテリ、思想インテリ」とされ「実務インテリ、政策インテリ」という対抗コンセプトが掲げられ相対化されていった。

松下圭一(1965)「知的生産性の現代的課題」を嚆矢とし、堺屋太一、日下公人、長谷川慶太郎、大前研一などがあらたなテクノクラート型オピニオンリーダーとして期待されだした。司馬遼太郎もこういった流れを受けて人気を博した。それまでの明治観はマルクス主義的な階級史観による暗いものだったが司馬の描くそれでは日本人がハツラツとして輝いていた新鮮なもうひとつの近代日本死として話題になっていった。



また、1965年ぐらいまでは企業の採用方法は学部(専門)指定制が主だったが、指定校(偏差値)制へと変化していった。つまり「大学の専門的知識を職種に活かす」ではなく「とりあえず採用して、偏差値=地頭に期待してトレーニングし直す」という方式に移っていった。




革新と保守、岩波-日教組 と 文部省、モダニズム(近代主義)と伝統(日本)主義をめぐる軸の実質は「戦争」と「世代」、「主体」、「西欧」などであった。

戦後の思想は特に「戦争で負けたこと」「戦争へと突入したこと」を軸に回っていたが、この反省を「前世代の考え方が悪い」として責任を押し付け欧米思想を中心に近代的なものを是しとする姿勢が罪悪・悔恨共同体を基本としたマルクス主義や革新幻想的思潮であった。


そこでは旧来の日本の考え方は全て「悪いもの」とされそれに代わる形で「民主主義」などが志向されたが、それは内容イカンではなく市民宗教的な信奉に依った。
http://twitter.com/m_um_u/status/415693879115927552


たとえば戦前にマルクス主義が若者を中心に広がった背景はそれが欧米の先端思想であり、都市のインテリの思想だったからだった。理論などの内容ではなく「都市の垢抜けた若者が洋書や翻訳書を持ち歩き、クラシックレコードを聞き、カフェで談話する」という「モダンなスタイル」が憧れられ若者を吸い寄せていった。それは田舎の若者の都市(モダン)なハビトゥスへのあこがれだった。モダンに対して封建は旧世代のものとしてわけもなく嫌われた。


モダニズムを人口に膾炙したのは学生に対しては総合雑誌などであったが大衆においては小説や映画だった。石坂洋次郎はその代表的ないひとりとされる。

石坂作品では「青い山脈」などが有名だがこの作品は現代で言えば「金八先生」「鈴木先生」のような感じ。あるいはそういった一連の熱血教師者の原型だったのだろう。それまでの「授業とは教師が書いた板書を必死にノートするもの」というスタイルではなく生徒と問題を話し合って解決していくスタイルは民主主義の実践であった。そういった形で大衆の道徳的な部分や内省部分が涵養されていった。このへんはフランス革命時のルソーの影響を思わせる。




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1960年代前半までの日本社会論は欧米を極度に理想化し、美化し、日本を蔑むものだった。しかし高度成長を境に日本人論の論調は変わり「日本人の特性が急速な近代化に大きな貢献をなした」とするような日本人論が書かれ始めた。


消費社会の到来を背景にマルクス主義も流行遅れとなり、時代の先を行っていた石坂作品のモダニズムも流行らなくなっていった。


学生運動はそういった時代の流れに逆行するように起こっていった。








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関連:
ロバート・ダーントン、1984(1990)、「猫の大虐殺」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382911771.html



『グロテスクな教養』 - leeswijzer: boeken annex van dagboek
http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20050619/1119108573

日本の大学教育以降の実学偏重 / 反面としての教養の冷遇。結果として教養主義界隈の閉じたコミュニティができそこで特権的友情共同体ができていった。これはドイツ教養市民層の排他性 / 隔離性とその明治教養層への影響を想わせる。ニューアカはここで涵養された「教養」のバロックを受けた奇形だった

野田宣雄、1997、「ドイツ教養市民層の歴史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382529159.html


posted by m_um_u at 18:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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