2013年12月24日

弱者の矛と同調圧力  冬に深淵を見つめるもの


昨日けっこう長いエントリをしてしまって


細田守、2012、「おおかみこどもの雨と雪」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383370375.html


ほんとはそんなにおおかみこどもヽ(´ー`)ノマンセーてわけでもなく単に「田舎に引っ越してきた時の子供のはしゃぎ具合とおおかみ化したときの雪原なんかでの疾走感やら湖の様子やらきれいだったなあ」ってぐらいの映画だったんだけどおおかみこども批判な人たちに対してきちんと説明しとこうと思ったら長くなってしまった。まあ年寄りくさい話の長さというか


昨日のエントリでもちょっと言ったけど集約すればあの人たちはオタク臭いのだろう。ここなんかでも「リア充はふつーに愉しむかスルーするけどヲタはなんか文句言う」ってあったし


VIPPERな俺 : 【ネタバレ注意】おおかみこどもの雨と雪 ←これ結局どういう評価だったの?
http://bit.ly/19cQKOo


はてなのみょーに溜まってるひとたちも含めてあのへんはタメの議論て感じで、文句をいうことそれ自体が楽しみになってるようだからまともな議論とか対話とか内容検証ではなくたんになんとなく消費するだけなのだろうし、自分たちもその祭りの躍動感のなかで消費されてくのを是しとしてるのだろう。


あと自分たちでつくった檻に自ら囚われてる感じ。それはあの作品の中にありもしない母性の前景を見、その幻影を批判してたひとなんかに顕著だったけど。ほかにもみょーなマイノリティの影をうつし、自らのアイデンティティの檻をチラつかせるためにギャーギャーと吠え立てる感じの…。


サブカル、ヲタ、あるいはLGBTがどうとかな空間でもいいけど、ああいうところで「自由」を叫びなんらかのプロテストを表明すると「あなたがたが求めるものはなんなんですか?」ってなりそれに対する「正しい○○(サブカル、ヲタ、LGBTなんでもいい)」のリストを提示すると却ってそれがそのクラスタの規範となって硬直化し新規参入者を阻害して行ったり。イデオロギー先行になってごく一般の価値観や生活感から遊離していって「繊細チンピラ」みたいなフックをかけて一般人を怯えさせたり、過度に反感を買ってしまうことになったり。 なので、ああいう領域での公共性というか、空間における規範と自由のバランスを保つためには、求めるものを規範-制度として固めることが大事、なのではなく、なんとなくの漠然とした自由な感覚を覚えておくことが大事なようにおもう。 そうしないとエスタブリッシュへのカウンターカルチャーとして立ち上げたものがいつの間にかエスタブリッシュとして壁になって立ちはだかることになる。自分たちの味方になりそうなひとに対しても、自分たち自身の生き方にも。

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html

あのへんのアレルギーの言説の大きなものは「母性をあまりに過大評価するな」とか「あんな完璧な母親像押し付けんな(リアルな子育てわかってんのか?)」って感じのものだったようだけど、それはたぶんこの映画の主題ではない。 母性を強調してると感じたのはたぶん見てる人の中にその辺に対するコンプレックスがあるからで、そういうのを問題にしてない人からすると「なんでそんなに怒ってるのん?(´・ω・`)」てかんじになる。あるいは「普通に家庭を営んでることへの攻撃だ」とか言うのもたぶんその人やその人を巡る環境の中にそういった問題があるから、かなあ。 あるいは「シングルマザー」や「子育て」といったキーワード、マイノリティの隠喩とも思えるようなキャラクター設定からそれらにサバルタン的にアイデンティファイしてる人たちが「わたしたちの縄張りを犯すな!入ってくるなら話のツマにするのではなくもっと慎重に詳しく描け!」とでもいうことだろうか。「わたしたちと同じスティグマを持たない人はそういう領域を描いてはいけない」「作品の周辺を彩る舞台装置として使ってはいけない」とでも?(マイノリティとして「ふつー」に扱ってほしいと言ってる人たちが自分たちの「ふつー」(規範、同調圧)によって別の「ふつー」を遠ざける問題)。そういうのは作品が特に悪質な偏見の助長でもしてない限り不毛な縄張り意識にすぎないと思うけど。彼らがマイノリティ的な差別を嫌がるのなら、特にタブー意識を持たずにそういった問題を扱う事こそが彼らの望みであるはずだし、この物語がマイノリティ的な情況全体を背負うことで彼らの困難が楽観視され後景化されるといったこともないように思うが。却って彼ら自身が強烈なアイデンティファイで自身の言説強度や繊細センサーを上げ、エスタブリッシュとして規範化し狭量な排他性を生んでるわけだし。

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383370375.html

そしてそういった心理機構というのはどういったものかといえばルサンチマンなのだろう

つまり「アファーマティブ・アクションに通じるような弱者の矛をもって強者のスキを狙う」的な心理。在日特権の話題でもそうだけど「迫害されてるマイノリティだから」ということで与えられた権利あるいは配慮を盾にその影に隠れてやたらと人を攻撃したり要求したりするような心性。そして相手はそれが弱者の正論、聖域的な正論なので否定しづらくなる。

そういった状態の不公正さ、フェアじゃない感じというのはある程度大人になれば分かるものだと思うけど、多分あの辺りの人たちにはそれがわからない。


たしかに実際にマイノリティとして、サバルタンとして迫害を受けている人もいる。そしてそういったひとたちの現実の困難をマジョリティの言説が覆い隠し、結果として彼らの困難が「ないこと」にされていく言説空間のヘゲモニーという事態も考えれるだろう。


しかし、それが今回のおおかみこどもみたいな作品にあったか?ということ。


そういった弱者の鉾の暴走は今回だけのことではなくあのあたりの人たちの悪い癖としてちらほら見られる。LGBTパレードにおける「ただしいゲイ」の定義によるゆるいゲイの排除とか、ありもしない「産婦人科女医が怒った事例」への反論とか

http://t.co/AZoRcVUipM
http://t.co/Cgg5O8nkcO
http://t.co/YM58VUka4M
http://t.co/AROFxzeRTW

あげく「(将来の)注意喚起のためにやった」的な言で終わる(目の前の実際ではそんなこと起こってもないのに)。



こういうのはサヨクの悪い癖の伝統で福田恆存が「屠蘇の杯問題」と呼んだものだった。

屠蘇の杯は小さな杯は順次により大きな杯の上に乗っかっている。平和問題論者は基地における教育問題を、日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして、資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる。小さな杯を問題にするためにはどんどん大きな杯を問題にしなければおさまらなくなる。


そうやって目の前の各論への現実的対処はなおざりにどんどん抽象的に問題を大きくしていって理想論を振りかざし収集がつかなくなる。


gottya.jpg



おおかみこどもの話に戻れば「母親としての現実を語るのは現実的対処ではないの?」という疑問も出るかもだけど当該感想エントリでも言ったようにあの物語はそもそもそういう話ではない。


「子育て」というモティーフを通じて「子離れ/親離れ」を描いたものだし、子育ての内容として「どんな『ふつー』もないんだよ?」と伝えるためのもの。マイノリティということさえも。


なので、そういった「ふつーはないんだよ?」というメッセージの作品に対して各界の「ふつー」の規範をもって同調圧的に批判を繰り返してること自体がお笑い草なのだ。

それでもまだ信じられないならいちおこのへんの紀要でも見ればいいとおもう(PDF)
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DO/0034/DO00340L079.pdf

83ページ辺りから「子供をいつまでもかわいがる」という母性や「ただしい子育て」といったものが性別役割分業による近代の変異であることがわかるだろうから。(そして「おおかみこども」という作品がそのオルタナとしての農村や自然を描いていたことも)




…そういうことがまるで通じないのがゲンナリする(作品云々より)


いちお言っておくけど「同調圧力」や「世間」といったものは複数あるものだから自分たちが「世間」と思うものからの同調圧力だけ批判するのはナンセンスになる。自分たちも一定の規範にしたがって「ふつー」という同調圧を発しているのだから。


鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381455793.html
http://diamond.jp/articles/-/43992





彼らのサヨク的教養による繊細チンピラな同調圧が却って彼らの檻を茨で囲み娑婆の人間を遠ざける。そういうのはフェミニズム界隈の一部の先鋭的な人たちの様子で特に顕著だったけど、それがほかのサヨク的教養領域でも見られだしたか。あるいはそういうところとマジョリティな「世間」「大衆」的ふつーの感覚との差や乖離が結構見え出したのか。

そして、そうすると昔ながらの教養主義を受け継いだサヨクたちは「( ゚Д゚)<勉強が足りないんですよ!問題意識が!」とかいうのだろうけど、そんなの現実に生じてないものをみょーに屠蘇の杯してるのだからトートロジーだったり。。



「言説を巡るへゲモニックな争いに対する戦略的対峙」「マジョリティの規範を脱構築するのです!」とかいうのであってもそもそもアイデンティティの設定位置が間違ってたり、みょーなところで意固地になると自爆するということを知らなそう。
http://bit.ly/KPJcoC


あの界隈の人は「脱構築」という言葉を「戦略」的方法として使うけど、そもそも脱構築のつもりが檻を強固にし構築してるわけだから何の意味もない。


何か勘違いしてるのかもだけど、もともと「脱構築」-「解体」-「Destruktion」は存在あるいは現象の神秘を現象学的還元かなんかでより透明に感じるために自分の檻を解体するものだから、、わざわざ檻を強固にしてどうするんだろう?とか思う。まあ単に言語行為論の衣装をまとっただけでその本質的なところはマルクス主義と何も変わらないのだろうけど(デリダ自身はどうか知らんけどねマルクスも



なのでやりたいことや結果としてやってることは「既成の何かを破壊したい」ということでマルクス主義を受けた全共闘のノリと何も変わらない。あるいは全共闘のときと同じように単に文句言いたいがまずあってそのツールとして「正しそうなこと」を借りてるだけ。


自分のスティグマや生まれ持って譲れないアイデンティティも関わってる人もいるかもだけど、それもみょーにいらない部分で強固し強度を高めすぎ。その証拠に娑婆の関係ないところに繊細チンピラしかける…。(今回のおおかみこどもでもLGBT界隈でみょーな批判みた)


かれらは「平等」の名のもとに破壊し、あらたな権威となるだけなのだろう。


フランス革命や明治維新、全共闘のときと同じように


自由主義の歴史が無い社会の陥穽に関するトクヴィルの論メモ | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2994




そうなりたくないのだったら自分たちを守るための最小限の行動だけを、現実的に、各論でやっていけばいいように思う。あるいは「自由とはなにか?」ということをイメージし続ける。




最後に、ついでにいえばこのエントリの冒頭エピグラフの意味は「冬にたち枯れた池の悲惨な様を見て殊更にそこに深淵を追求しないようにする倫理(けじめ)」ということ。


細田守、2012、「おおかみこどもの雨と雪」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383370375.html


つまり、自分たちのいいたいことを中心にみょーに作品をねじ曲げありもしない深淵を見つめようとする人たちへの嫌味だよ。



(まあサヨクだけでもなくネトウヨ界隈もヲタにもにもルサンチマンタメてる人達はいるだろうけど)










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関連:
うそつきサヨクの杞憂曲: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381957375.html


東京ハ夜ノ七時: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/383000042.html
posted by m_um_u at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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