2013年12月23日

細田守、2012、「おおかみこどもの雨と雪」



…冬それを眺めた時の異様な印象はただその通りに見るに堪えないということだけですむのではないかという気がして来た。

そういうものは我々の周囲に幾らでもある。それは見るに堪えないのであるよりも見るべきでないので人が裸になった時には目を背けなければならない。その池が裸の時に見たのだった。


そこに深淵が覗いていると思ったりするものは精神に異常を呈しているので誰も死ぬ時が来るまでは死にたくないならば気違いになることも望みはしない。


                            吉田健一、「東京の昔」








去年ぐらいからついったーのTLを賑わせていてようやくTVでやってたの見たので感想


おおかみこどもの雨と雪 - Wikipedia
http://bit.ly/1cfKGWF



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TL的には否定的な意見がちらちら見えたようで
https://twitter.com/kmm7/status/414013805736128512

TLやぶくまでも否定的なものが大勢を占めるのかと思っていたけど


おおかみこどもの気持ち悪さについて
http://anond.hatelabo.jp/20131221145625

映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません - デマこいてんじゃねえ!
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120723/1343052351

雷句誠の今日このごろ。 : おおかみこどもの雨と雪
http://raikumakoto.com/archives/7383462.html



そうでもなかったみたい

あれの監督の細田っていう男が
福井のド田舎から出てきて以後40過ぎまで
ずっと東京に一人暮らしでアニメの仕事だけしてきたんだよ。
で、母親を1度も戻らなかったド田舎に一人で死なせたの。
だからああいう映画を撮ってるの。

http://anond.hatelabo.jp/20131221171532


「おおかみこどもの雨と雪」を観たあとのもやもやをどうにかしたい人のためのインタビュー・感想まとめ - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2134486594697959101?&page=1


しばらく監督インタビューとかエントリのうちの一部を見入ってしまったんだけど自分の感想と同じ事言ってる人はいないようなので先にエントリすませてしまおう。北沢さんのはちょっと似てたけど。


母の不在 - 北沢かえるの働けば自由になる日記
http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20120810#p1




まずこの物語に対する批判とかアレルギーみたいなのについてぼんやりと


あのへんのアレルギーの言説の大きなものは「母性をあまりに過大評価するな」とか「あんな完璧な母親像押し付けんな(リアルな子育てわかってんのか?)」って感じのものだったようだけど、それはたぶんこの映画の主題ではない。

母性を強調してると感じたのはたぶん見てる人の中にその辺に対するコンプレックスがあるからで、そういうのを問題にしてない人からすると「なんでそんなに怒ってるのん?(´・ω・`)」てかんじになる。あるいは「普通に家庭を営んでることへの攻撃だ」とか言うのもたぶんその人やその人を巡る環境の中にそういった問題があるから、かなあ。

あるいは「シングルマザー」や「子育て」といったキーワード、マイノリティの隠喩とも思えるようなキャラクター設定からそれらにサバルタン的にアイデンティファイしてる人たちが「わたしたちの縄張りを犯すな!入ってくるなら話のツマにするのではなくもっと慎重に詳しく描け!」とでもいうことだろうか。「わたしたちと同じスティグマを持たない人はそういう領域を描いてはいけない」「作品の周辺を彩る舞台装置として使ってはいけない」とでも?(マイノリティとして「ふつー」に扱ってほしいと言ってる人たちが自分たちの「ふつー」(規範、同調圧)によって別の「ふつー」を遠ざける問題)。そういうのは作品が特に悪質な偏見の助長でもしてない限り不毛な縄張り意識にすぎないと思うけど。彼らがマイノリティ的な差別を嫌がるのなら、特にタブー意識を持たずにそういった問題を扱う事こそが彼らの望みであるはずだし、この物語がマイノリティ的な情況全体を背負うことで彼らの困難が楽観視され後景化されるといったこともないように思うが。却って彼ら自身が強烈なアイデンティファイで自身の言説強度や繊細センサーを上げ、エスタブリッシュとして規範化し狭量な排他性を生んでるわけだし。


こういうのはテクストをめぐるコードのズレのようなものが背景にあって、「シングルマザー」とか「子育て」とかのクリティカルワードが配された時点でそのコードを受け取る側に一定の期待(コード)が設定されて、そのコードに合わなければディスコミュニケーション的な感じになるのだろう。具体的には「シングルマザーというリアルな問題を出した時点でもっと丁寧に寡婦家庭の物語を描くべきだった(ファンタジーなのかリアルなのかよくわからない)」というような。

ただ、そういうのもおそらくは後付の理由で、一番のポイントは物語の冒頭で父親であるおおかみが無残に殺されてしまうところにあるのだろう。

「自分の夫が無残に殺されごみ収集車で回収されていくという最悪の悲惨を前にして主人公である花の悲しみがあまりにも人間味を欠いていた。あそこで花がもっと泣きじゃくり世の中を恨むような描写があれば納得できたのに」


父親おおかみが無残に殺されること、そこで受けた心理的なショック、「なぜおおかみは殺されなければならなかったのか?(死んでしまったのか?)」の疑問が回収されないまま浮いてしまい、それが「作者のご都合主義」という形で合理的に解釈され作品全体への怨嗟や批判となっていく。母性批判やシングルマザーのリアリティ批判、田舎暮らしに関するリアリティの批判というのはそういう合理化を後付けマウントをとり返すためのトリビアにすぎない。そういったコードにドライブされれば見方としてもそのコードを中心にした自分語りとなる。それは作品との対話とはいえない。


なのでこの作品を読み解くためにはまずこの「なぜ父親おおかみは殺されなければならなかったのか?」「そういった展開の作品における必要性は?」というところに還らなければならない。その悲惨描写はいたずらなセンセーショナリズムによる露悪だったのだろうか?


この疑問をとくためには逆に父親おおかみが生きていた場合を想像してみるのが良いだろう。

そうするとこの物語は「亜人間という特性をもつ父親と家族の都会暮らし」ということになっていく。簡単に言うと細田版パンダコパンダ


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そこではおおかみおとなとおおかみこどもは都会の人間社会にふつーに溶け込んでいく。少し変わったところはあるけどそういうのはアニメのファンタジー的お約束の中で回収される(「目の前でほうきに乗って空を飛んだキキを見ても、オソノさんが「ワァーオ!」と言って、それで終わりである」ように)

たまに変身してしまうこともあるだろうけど「わたしは元気です」って感じで、ちょっとした失敗として受け取られ冗談の元に回収されていく。(「動物病院に行けばいいのか人の病院にいけばいいのかわからなかった ><」「わははは」というように)


それはおおかみ人間として生きてきた父親の経験があるから。あるいはオタク/アニメーターというマージナルを生きてきた宮ア駿や細田守の経験。「パンダコパンダ」がそうであったように「おおかみこども」も細田個人の子育てメッセージの隠喩的表象である可能性があるから。




逆にそういったなにも事件の起こらない平穏な生活の中ではそれが「ふつー」になってしまって父親という存在の意義や蓋然的な役割やモデルのようなものはなかなか意識されないものかもしれない。


自分も母が離婚して寡婦家庭で育ったのでこの辺は意識するのだけど「こういうとき父親がいたら違ったのだろうか?」というのは自分の悩みでもあり、おそらくは母の悩みでもあった。

結果的にはそれは父性に対する過剰な期待であり言い訳的な意識の持ち方に過ぎなかったと思うけど、そういった形で父親の意義とか必要性みたいなのは「ないこと」によって意識されるところがあるように思う。物事の本質が差異と比較によってしかわからないように。「ふつー」になんの問題もなく子育てをしている間はそういった問題意識は生じにくいものだろう。あるいは、リアルな生活ではどんな「ふつー」の家庭でも地味にそういった問題を考える場面はあるかもだけど、その辺の地味なドラマを描いてもこの作品の舞台では目立たないものになってしまう(cf.「最も難しいのは『なにも事件が起こらない』物語を描くことだ」)。




つまりこの物語は「父性の不在」あるいは「母親が父親も兼ねる」ということを通じて「父親であることとは?」を逆照射、「親になる、子育てをするとはどういうことなのか?」ということについての話ということになる。


それもたぶん大々的に「これが正しい子育て像だ」と喧伝するものではなく細田監督の個人的なメッセージ、これから育てていく命に対してのタイムカプセルのようなものだったのではないか?


こどもが大きくなったときに作品を見ながら「おまえがまだ小さい時にはお父さんはこんなことを考えていたんだ」といえるような。あるいは、はっきりとそう言わなくても作品を通じて子供たちに何かを感じてもらえるような。




「おおかみこどもであること」というのはマイノリティとしてなにかを背負っている人の隠喩的でこの作品の主要なテーマとして受け取られがちであるけれど、おそらくは上記のような理由で主要なテーマというわけではない。そして「差別」についても。


― そんな場所で、花のふたりの子供、姉の「雪」と弟の「雨」は、人間とオオカミの中間のような“おおかみこども”であることに悩みながら成長していきます。これは、ゲイや特殊な趣味を持つ、「マイノリティ」の物語とも受け取れますが……。

細田 う〜ん。僕はマイノリティを描いたつもりはないですね。だいたい、マイノリティ、マジョリティっていう区別をする人自体が僕は信用ならない。自分はマジョリティ側に立っているって思っているからこそ、大津のいじめ事件のようなひどいことができるんでしょう? でも本当は、誰しもがちょっとずつ違った資質や趣味を持つマイノリティ。そのことを自覚し、「自分は人と違う。おかしいんじゃないか?」と悩みながら生きる人のほうが描きがいがあるというのかな。そのいじらしさこそ、人間らしいと思います。

http://wpb.shueisha.co.jp/2012/07/28/12951/2/


監督の言うとおり、主要テーマは「親子」であり「子育て」なのだろう。
http://www.oricon.co.jp/news/2004667/


そしておそらくは「健全な愛情」と「精神的自立」ということ。あるいは「ふつー」や「ただしさ」、偏見を巡ったバランス感覚のようなもの。



親子関係というのは不思議なものでこどもがある程度の年齢になって経済的に自立し、家計を分けて独立しても親は一生こどものことを「子供」として扱いたがる人もいる。


しかし本来「子供」という概念はそんなに当然なものでもなくアリエスなんかもいうように近代に入って出来上がった特殊な概念なのだろう。


〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活
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中世ではふつーに子供を「小さい労働力」として使役していた。義務教育とかもなかったし。単に「未熟な労働力」というだけで家計を支えるための労働力の一つとして考えられていた。


それは自然-動物の世界でもふつーのことでおおかみなんかも立って走れるようになればまず狩りを覚えていく。自分の食い扶持は自分で稼ぐために。動物の遊びはそのための訓練ともいえる。


母性というのは曖昧な概念だけれど蓋然的には「子供の生育期間、母親がほかの個体への親近や愛情よりも過剰な愛情を子供に持つこと」といえるだろう。つまり依存のひとつであり遺伝子のプログラムのようなものなのかもしれない。あるいは「<子供>の誕生」と同じく、近代以降に社会的に「ふつー」とされていった規範。その背景には性別役割分業の成立との関係があるのかもしれない。


本来子育て段階の異常であったものが母親全般の「ふつー」となったとき、その規範に後押しされる形で「母親は母性を持つべきもの」「親にとっては子供はずっと子供」とされていった。なのでそういった母性のようなものを持たず、周りからの同調圧で「自分は異常なのではないか?」と悩む人もいる。


「おおかみこども」を母性の物語と見る人もいるようだけれど自分にはむしろ逆のように思えた。母性や父性というフィクションに対してただ「親である」ということとその限界を示す物語。あるいは母性をはじめとした様々の「ふつー」の規範に対して「本来『ふつー』などはなくて人はどのような形でも生きることができる」ということを示すための物語。それが「おおかみこどもの雨と雪」という話だった。



物語の中盤でおおかみこどもの雨は狩りと山の世界に目覚め、そこに同調していく。


生まれつき繊細でそれがゆえにかなかなか人間社会の「ふつー」に合わせられなかったせいもあってか内向的になりいじめられ、段々と不登校になっていった雨は山の世界で先生に出会い山の掟、動物の理に目覚めていく。

対して雪はもともと生命力に溢れ活発で好奇心旺盛、人の社会の「ふつー」と自分がおおかみこどもであるという「異常」との間でコンプレックスすることもあったけど、ゆるやかに人間社会にシンクロしていく。


物語はその2つの選択、「自然の中で生きること」「人の社会で生きること」のどちらも押し付けず、その2つのあリ方を同時に是しとして行く。


ただ母である花と雨との別れの場面では大きな葛藤が生じたけど、亡くなった父親おおかみのビジョンを通して花も子離れに同意していく。



「あなたは動物の年齢で言えば十分に大人かもしれないけれど、人間としてはまだ子供なのよ!」



それは母性が言わせたものなのか、あるいは単に身近なものが離れていくことの痛みを嫌がってのものだったのか定かではないけれど、父おおかみの死に際して省略された花の葛藤、慟哭、人間的な感情がここで強調される。つまりこの物語が「親離れ/子離れ」をもって完結されること、それを巡る物語であったことがはっきりと示される。




花という人は不思議なキャラクター設定で「どんなに悲しいことがあっても微笑んで受け流していこう(道端の花のように咲いていよう)」ということなのだけれどその超人的前向きさが見ている人を置き去りにするところもある。


この辺りも含めて自分も「リアルだったらそれはないなー」とか思ったのだけれど、まあそういう感じの人がいることもある。それも「ふつー」から考えればイレギュラーなことで、世の中のほんとに「ふつー」なんかないので。



もともと花は東京の郊外の国立大学に通っていた苦学生で「奨学金とアルバイトで学費と生活費をまかなっていた」という設定になっていたのだけれどそこには最後まで親の影が見えなかった。

それはたとえば寡婦になった段階で「親の援助は?」という疑問としても表れる。うちもそうだったけど、シングルマザーというのは現代日本の社会構造的に親の援助がないとなかなかやっていけないものだから。

その部分が捨象されているのは物語的にそこを描いてしまうと花を主人公とした「シングルマザーの物語」のほうに流れてしまうからだったのかもしれない。あるいは「父性の喪失」という展開の意義と同様、花の母親が登場してくると既存の型をなぞるだけになるのであらためて自分の頭や体験を通して「親になるとはどういうことか?」で悩む場面がなくなってくる。

なので「互助の必要性」+「しかし親のモデルは不在である必要」という課題は物語中盤で「田舎暮らし」を通じて回収されていく。「都会で寡婦が現代日本を『ふつー』に生きるためには親族の互助が必要」+「父親のモデルがいない」 → 「田舎でゆるやかな互助」+ 「自然や学校が親の代替となり社会や自然のルールを教えていく」


ここで田舎暮らしの互助や自然に対してのロマンティシズムのようなものに傾く向きもあったのかもしれないが、細田監督はそれを慎重に回避しているように思えた。それは例えば「都会から自然とか田舎暮らしにあこがれて来る人はいるんだけど直ぐに音を上げて出て行ってしまう。あんたもそのクチだろう?」というような田舎の人達の視線と警戒。それもあって最初、花は住人から警戒され、仲間とは認めてもらえない。しかし花には「おおかみこどもは都会では育てにくい」という理由があったため田舎にとどまり続ける。その様子を見て韮崎の爺さんは試すように智慧を与え、その試練に合格した時、村人たちは花を共同体の仲間として迎え入れていった。


韮崎のじいさんの指導のお陰で実りすぎるほど実ったじゃがいもは近所の人たちにおすそ分けされる。それに対して過剰な「お返し」が為され、ここで金銭を中心とした高度資本主義社会という「ふつー」に対するオルタナティブが示される。「自給自足」や「物々交換」。


そこに焦点するならNAMとかヤマギシズム的な原始共産制への幻想となるところだろうけどここでも細田はそれを慎重に回避する。


自給自足や物々交換だけではどうしても現代社会的な生活は送り難いので花は職を探し、森林レンジャー見習いに就く。見習いなのでそこでもらえる金銭は高校生のアルバイトよりも低いものだったが、そこに飼育されているおおかみとの出会いや森林を通じた「勉強」が雨に「学校≠人間社会以外の世界」を示す回路となっていく。


郊外とはいえ東京の国立大学に通っていた花の人生はパートナーである父おおかみが死ななければわりとふつーのキャリアウーマン的なものだったのかもしれない。ダブルインカムで働いて「ふつー」に子育てして、都会生活を送って、彼と本の話やいろんな話をして…。国立大学に入るまでも苦学があっただろうしいろんな事情もあったかもだけど、そういったものに対して「わたしは本当はこんな貧乏ではなかったんだ」的な不安と怨嗟に陥ることもなく軽やかに低収入の田舎生活を選んでいった。学歴エリート的な自負があるとそういった切り替えはなかなかできないものだろうけど花の一番の強さはそういうところにあったのだろう。なにかを偏見したり差別することもなく目の前にあるものの本質を見て、それを選んでいく。愚直なほどまっすぐに。





この物語の主人公は花ひとりではなくおそらく3人で、雪も雨も主人公だった。

そしてそれぞれの選択が否定でも肯定でもなくそのまま示され是しとされていった。


物語の中盤で「人として生きる」ことを選んだ雪と「おおかみ(自然)として生きる」ことを選んだ雨との間で直接な衝突があったけど、最終的にはそれぞれがそれぞれの選択を是しとしてひとつの人格として認め、その人生の祝福を祈るように終わっていった。社会や自然の中に隠されている「ふつー」によって誰かを抑圧するのでもなく、自分は自分の道を歩み、それぞれの生き方を尊重するように(「森でいのししやうさぎにあっても威張って脅かしてはいけないよ?」)。


おそらくはおおかみとして生きることを選んだ雨よりも人として社会の中で生きることを選んだ雪のほうが心理的葛藤においてはこれからの道のりは困難で、同級生の男の子のようにそれをフォローしてくれるのではなく差別されてしまうこともあるのかもしれない。それでも、雪ならその差別自体も「ふつー」のこととして受け流していけるのかも。子供の頃はその率直さと「正しさ」でいのししたちを脅かすこともありもしかしたらそのこと自体を楽しんでいたのかもしれないけど、そういった「正しさ」の履き違えのようなものを雨やその他の人たちとの衝突から学び反省していった。


花の朗らかな笑顔、そのたくましさとやさしさ、無駄に偏見や差別をしないこと、屈託のなさ。

それをほぼそのまま受け継いでいくのが雪なのだろうし、それに対して父親の影のような屈託と繊細さを受け継いだのが雨だった。


父おおかみももっていたそれは差別されてきた過去によるものだったのかもで、それがゆえに他人に心を開かないように生きてきたのだろうけど、花の偏見のなさがその心を溶かしていった。



雪のこれからは花と同じように自分に足りない影のようなものを持った人と歩むものになるのかもしれない。あるいは小学校の最後に淡い初恋のようなものを予感させた草平のようなひとと。



いずれにしても雪の親離れも「寮に入る」という形でこの時期に完了していた。同時に花の子離れも。



それは世間一般からすれば早すぎる感もあるけれど、それも「ふつー」ということに対する細田監督のメッセージといえるのかも。




「これから先、きみは世の中のいろいろな差別や困難に出会い、それを巡って『ふつー』『人と違う』ということを考え立ち止まるかもしれない。病や死、別離も突然にやってくる。それを巡って悩むことがあるかもしれない。でも、その時には思い出してほしい。世の中には『ふつー』や『当然』なんてものはないんだ。あるかもしれないけど人を抑圧する『ふつー』なんてものはない。そして確実に約束された未来もない。だから、逆に言えばきみの前に広がる道は自由だし何を選択してもいいんだ。威張って人を怖がらせない限りは。ぼくは親というものが分かるとはいえないし、仕事が忙しくておかあさんにばかりきみを任せるようなところがあるダメ親かもしれない。でも、少なくともきみが自分の道を選択し歩めるようになるまでは応援していこうと思う」



それがこの作品を通しての細田監督のメッセージのように思えた。









(あと、そもそも音楽とCGを通じた疾走感、子供が喜んでる様子がなによりも印象的な作品だった。田舎に引っ越してきたばかりで子供がはしゃいでるシーンは「トトロ」を、「自然」と「人」との協調や葛藤は「もののけ姫」や「蟲師」を、シングルマザーの問題は「WOMAN」を想わせた)



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関連:
「おおかみこども」マネしたくなるあのシーン【ネタバレ】 - NAVER まとめ
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是枝裕和、2013、「そして父になる」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html



エンタメ、オタクコンテンツにおける自由の可能性と「ぼくらの。」世界、の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html

繊細センサー→繊細チンピラ関連で


タグ:家族
posted by m_um_u at 11:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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