2007年04月09日

関係性と経済合理性の協調可能性について (あるいは中間共同体の可能性)

 しばらくぶりに小田センセのとこに遊びに行ってみたら近頃関心を寄せていた領域への言及が多くてちょっと興奮。んでもけっこう複雑なのでエントリに起こしてみることにした。そういうわけで以下は主に自分用の理解のためのマッピングになる。

 
 まずは小田センセのところでのギロンに対して、自分なりのマッピングとしては以下のエントリの後段で示したまとめのうち(3)が当たるように思う。


muse-A-muse 2nd: 雇用流動におけるアイデンティティー不安と協調の可能性に関して


 いちおおさらいとして、格差社会関連の解決策(あるいは軟着陸の方向性)としては


(1)格差を是正するように保障を充実させるべき(※でも保障受ける側は「ラベリング」の自己言及みたいなのに嵌っちゃう罠があるので注意)

(2)固有のイデオロギー(思想)をもって浮き草生活を貫徹すべき

(3)「正社員/非正規雇用」、「世代間格差」みたいに分かれて対立するのではなく、それぞれの悩みを理解して協調すべき


 の3つが考えられるように思う。


 このうち(3)のような「連帯」を促進するためには中間共同体のようなものが必要になってくるように思う。

 「中間共同体」ってのは、「会社」とか「教室」のような定まった場所とは違う層にある逃げ場というか生き抜き場のようなもの。いじめの逃げ場とか、じっちゃんばっちゃんの茶飲み場とかダラダラしゃべる部室とかそんなの。そういういわば「バッファ(緩衝地帯)」的なものが必要だねーってことなんだけど、これがなかなかうまくいかない。

 放っておいて勝手に発生してくれるならいいんだけど、特に最近ではこういう場が減ってきてるようだし・・。んで、なんとかならないかなぁって思ってたところで先日、大阪センセからいただいたコメントが面白かった


muse-A-muse 2nd: 地方の交通問題に関して(+地域活性化について少し) ※欄

小田さんや分裂勘違いさんがいわれている点は、福耳さんとのやりとりでは忘れていたのですが、個人的経験でも外部からはどろどろゲマインシャフトに見えるような地域の共同体の人間関係とか、そこで生活する人の合理的計算に驚いたことはあります。ただ、私のイメージでは、割と外の市場から切れた集団のイメージというのは、小田さんがいう「人々が同質で、すべてを共有しているというイメージ」というより逆に、そこでの知恵なり、合理性なりルールは、個別の状況にチューニングされているというイメージを持っています。これは完全に経済学に毒されたイメージかもしれなくて、企業の中の関係特殊的な能力のようなものとして、共同体における知恵というか合理性をイメージしています。



 個人的に、ここで言われているように地域共同体のルールが「個別の状況にチューニングされているイメージがある」というのは面白いように思う。

 そうすると、「しきたり」的にゆるがないものではなく、個別の共同体(あるいは個々人の合理性)によって変更可能になるかもしれないので。だとすると、外からの論理(金融やtech系の技術)によってその合理性を支援することができるかもしれない。

 
 金融的な工夫については疎いのだけれど、tech系としては例えばこの辺りが考えられる。


國領研究室公開論文

 
 もしくはもうちょっと絞って、「地域情報化と地方自治 / 共同体の回復」みたいなの


ITmedia Biz.ID:町役場で使うSkype――「チャットはメールより使いやすい」

47都道府県「情報化政策」一覧:ITpro


 この辺は「地域情報化の促進」ということで中間共同体からは逸れるけど、「組織をネットワークによって繋いで活性化させる」という視点では共通しているので参考になるように思う。ただ、行政主導でやるとけっこうおーざっぱになって地域の声のようなものが潰されることあるかもしれないのでその辺は注意が必要だろう。


 んで、こんな形で<「関係性」に関する問題は経済(経営)・技術的なテクニックによって解決(あるいは軟着陸)可能かもしれない>という期待が出てくる。

 
 でも、その際、当該コミュニティにおける「関係性」のプロトコルと経済合理性的なプロトコルに齟齬が生じないか、ということが心配の種になっている。その辺について小田センセのところから吸収してるわけだけど。やはりシンクロしてきているみたいだ。


小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「アダム・スミス問題」と真正性の水準


 
 経済合理性と道徳(あるいは関係性の前提条件としての社会的ルール(公共性))の齟齬の問題というのは個人的にもけっこう課題だったんだけど、その辺もなんとかできるということか。

 (以下、アダム・スミス「道徳感情論」からの部分的解釈による)例えば、愛する人を失った人に対して経済合理的な説得(「子供はまた生まれるから安心しなさい」)は何の意味ももたない。そういう時には他者との共感を通じて相手の境遇に身をおき、その上で適切な言葉(タイミング)を選んでいく必要がある。

 それを可能性にする条件として「境遇の交換可能性が必要」ということらしい。「境遇の交換可能性」とは<顔>のある関係によってもたらされる、と。つまりシステマティックじゃない付き合いからもたらされる他者への想像力ということなるみたい。


 この<顔>のある関係の場というのに中間共同体が当てられそうな気がする。あるいはムリに外部に新たな中間共同体を作らなくても、現在ある組織をもうちょっとゆるい関係にしてみるというのもいいかもしれない。(ゆるいかどうかはさておき、もうちょっと関係性を促進するような組織に)

 これ関連では仲俣さんのところでみたこのエントリが気になった


【海難記】 Wrecked on the Sea:ユリイカ」特集号での米澤穂信の名言


  市民の後に来るのがまた国民だとは、思っていませんでした。漠然と、会社員だと思ってましたから(笑)。

なるほどねー。いまネオリベ的なナショナリズムに対抗できる論理があるとしたら、それは「市民」の論理などではなく、むしろ正しい職業倫理としての「会社員」の論理かもしれない。



 なるほどねー。そんで、その際の「会社」のイメージは「結社」とか「アソシエーション」に近いものだ、と。

 
 その辺については言外に小田センセも触れておられたような気がする(参照)(勘違いかもしれんが)


 んで、「ワーキング・プア」とかフリーターといった労働現場の民族誌的研究や、会社員や大学生といった普通の若者たちの民族誌的研究とかということなんだけど、女性の労働関係だとこの辺が参考になるみたいです。


 Economics Lovers Live:玄田有史・斉藤珠里『仕事とセックスのあいだ』


ジェンダーとメディア・ブログ - [性]だれも書かなかった真実


 っつーか、「働きマン」のほうが面白いらしい


少女漫画的日常 - 『働きマン』男性誌で女の正体を暴く


 ・・実際おもしろかったし



 あと、エリートサラリーマンというか大企業への就業意識みたいなのとしては最近の梅田さん(+コミュニティの皆さん)のギロンが参考になるように思う。


 My Life Between Silicon Valley and Japan - 直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。


My Life Between Silicon Valley and Japan - 「好きを貫く」のはそんなに簡単なことではない。意識的で戦略的でなければ「好きを貫く」人生なんて送れないよ。


My Life Between Silicon Valley and Japan - 「好きを貫く」ことと大企業への就職


My Life Between Silicon Valley and Japan - 自らの傾向や「向き不向き」に向き合うこと


My Life Between Silicon Valley and Japan - 勉強になる反応(トラックバック等の中から)のご紹介


My Life Between Silicon Valley and Japan - 「「個」として強く生きること」と「ウェブ・リテラシーを持つこと」の関係


My Life Between Silicon Valley and Japan - 「何かの専門性」と、「好き」を共有する友達のネットワークと、そこに働きかける「営業力」


My Life Between Silicon Valley and Japan - お金のリテラシー、「路頭に迷う」、「向き不向き」「好き」と競争力の関係



 ギロンの前提として、ちょっと前のエントリでも言ったように若年層の一部は「東大 - カンリョー(あるいは大企業)」なんてコースにはそれほどの希望を抱いてなくて、自分なりのスキルを身につけ企業におんぶに抱っこしない生き方を目指そうとしている現状がある。

 梅田さんの主張というのはそういうのを踏まえたうえで、「でも入れるんだったら大企業を経験しとくのもいいもんだぞ?」、って話なんだろう。そして、そこで得られるものとか、得たものを活用してサバイバルしていく術をなんとかして伝えようとしているように思えた。


 こちらのギロンの流れに戻すと、そういった大企業における就業意識というのは仲俣さんが言うような「アソシエーションとしての会社」(もうちょっと言えば「<構築されたゆるがない機構>ではないものとしての会社」)への意識があるものなのだろうか?

 具体的に言えば、働く個人としての自分と会社を分けて、会社のほうを単に「給料をくれる」「命令をする」機構としてとられていた場合、会社からの疎外意識とか、反対に過剰な依存意識が生まれるように思う。これとは逆に会社を(暫定的な)アソシエーションとして捉えていた場合、そこに自分が含まれると同時に自分が作っていくという意識があるので、依存というよりは積極的に参加している意識が芽生える。そこでもらえる報酬というのは給料以上のなにかなのだろう。(この辺は最近の近藤さんが短文でつぶやいてた内容とも被るのかな? 参照参照2


 仲俣さん的にはこの辺のエントリと被るのだろう

【海難記】 Wrecked on the Sea:出版社以外で本を出すには



 つまり、得たものを利用して独立を考えるという道筋。(あるいはもうちょっと踏み込んで既存のルート(交換様式)に頼らない姿勢とか)


 そういうのは就職面接時などに「キャリアパスについてはどうお考えですか?」って散々言われてきた若い層(あるいはその背中を見てきた層)が一番学んでることなのではないか? 自分の父親世代の境遇を見ていても、これから先日本の会社や経済に期待できるかどうかわからないのだし・・。

 これから大学に入るような年代のコには経済知識もなにもないのだろうけど、そういうのを肌で感じているように思う。



 ただ、ポイントなのはここでも仲俣さんが指摘されてるように、そういった独立的ルートを選ぶ場合でも「会社」の経験は邪魔にならないということ。あるいはアソシエーションの経験といってもいいかもしれない。単なる「きゅーりょーをもらうとこ」として会社に参加してる限りはそういったスキルなんか身に付かないだろうし。



 
 で、話を戻すけど、



 そんな感じで「会社」もアソシエーションの一つとして捉え、スキルを吸収していった場合、そこから新たな関係性というか、自分達なりのやり方のようなものが見出せるのではないだろうか? それは例えば仲俣さんが模索してるような感じの。


 こういうので参考になるよう思うのが以下のエントリ 


小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:交換の四角形
 
 
 要約すると、「関係性のバリエーション」というか、その元となる交換関係には4つのバリエーションがあるらしい。

 分配、再分配、贈与交換、市場交換の4つ。


 通常、一般的な交換形態として考えられている貨幣をメディアとした「労働 - 対価」の関係性というのは交換のバリエーションの一つに過ぎない。そう考えると新たな交換形式が模索できるように思う。

 別にいきなり「贈与交換だけやれ」とか「今日からお金禁止ね」とかいうわけではなく、いろいろな組み合わせというか、場によって最適な方法を模索するって感じ。流通しているお金というメディアが足りない場合はほかの交換財があってもいいわけだし。(cf.パットナムが「関係資本(social capital)」と呼んでいたものとも絡むか?)


そんで、話を続けると上記した4つの交換様式のうち2つずつを座標軸として設定して、交換のマトリクス(4象限モデル)が描けるみたい(あとで図示する・・かな?)


 まだよくわかってないけどいちおメモ的に



分配:?よくわからん?




再分配:
ex.天下り(かな?)

Economics Lovers Live:遅れて支払われた報酬仮説=「天下り」の合理的説明

Economics Lovers Live:天下りの合理的説明その2(ラムザイヤー・ローゼンブルース仮説)


池田信夫 blog 天下りの経済学


(※従来、カンリョーになる人は労働の時点での報酬ではなく、退職後の報酬(インセンティブ)を見越してカンリョーになってたみたい。でも、その部分も変わりつつある↓の一番最後のほうでも示したとおり)

muse-A-muse 2nd: 戯画化する教育環境と教育に関する意思決定の分権化について



贈与交換:
マリノフスキーとかの例のアレ(クラとか)

「労働 / 対価」みたいな形ではなく、「贈与」が円周する形で自分に還って来る。お歳暮とかもこれに当たるのかなぁ


(※あとで図示するかも)



市場交換:
経済合理性を中心としたヤツ。メインメディアは貨幣






このときの「分配」と「市場交換」の違いがよくわかんないんだけど、これは後で読み直そう(それか調べる)




 そんな感じで、人類史的に見た場合は交換様式も多様なのでいろいろ考えられるなぁ、と。

 んで、その際、交換様式の合理性というのは通常考えられているような経済合理性(市場合理性)だけではなくて、もうちょっといろんなルールに則ってる。思い浮かぶのは「しがらみ」っていうか「絆」とか、「信頼」とか。個人的にはその辺のルール要素を腑分けして、あとは交換の流れについてきちんと図示してみようかなぁ、と(そうすると資源交換に関する一般モデルみたいな感じになりそうなので)

 
 一般モデルにしたところでそこからもれるものがあるのだろうけど、とりあえずの指標ってことで。(っつーかモデルなんかむしろそこから漏れるものをとらえるために作るものだしね)





 あと、補足的に



 関係性に関して、ぼくが「ウザイしがらみ」としてして捉えているのはこんな感じでした。


ぷるぷる (内田樹の研究室)


 「事実的言明」とは、「これは明らかに事実です」という事実に基づいて立てられる言明、忠告のようなもの。

「遂行的言明」とは、「事実」に沿ってではなく、その人にとって「そうでなければならないこと」「そうであるべきこと」を「事実」として前提条件とし、それを元にしたクダまき言明、忠告のようなもの

 この2つを混ぜる人がいるとウザイなぁ、と思うわけです。


posted by m_um_u at 23:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 経済このエントリーを含むはてなブックマーク
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