2013年12月18日

東京ハ夜ノ七時



仲正さんの現代思想あんちょこ本のまとめがなかなかにおーざっぱでなんかちがうんじゃねーのそれ?ってひどさなのでちょっと愚痴言っとこうと思っていちお調べるに。。


仲正昌樹 - Wikipedia
http://bit.ly/1flUNcf


「いまこそアーレント」とか良かったけどなあ。。おかしいなあ。。あと「<情況>」のひとかあということでなんか納得しつつ、んじゃ廣松渉の思想解説はまた改めて読みなおしてみようかと


情況出版 - Wikipedia
http://bit.ly/1flVken



[書評] 集中講義! 日本の現代思想 / 仲正昌樹(2006) | digi-log
http://bit.ly/1flV52G

まず、マルクス主義の話から始まり、それが日本の現状とズレてるのに、ゴリゴリやって空回りという前提話をやって、そこに消費文化の成熟で「なんとなくクリスタル」な時代となると、理性批判なフランス現代思想がやって来て、ジャーナリズムや広告などの影響下に「日本版現代思想」となりニューアカになると。んで、それが90年代には終焉に向かい、思想の「スター化」ガ「カンタン系デフレ・スパイラル」し「水戸黄門化」したとのこと。

と、上の説明で分かる人には分かるだろうし、分からない人は本書を読めばよい。著者はニューアカに拾うべきものがあると考え、拾っていてそれは「大きな物語を無くしたポストモダン」「今は大きな物語生成過程」という話になるだろうか。ついでに君が高校生ならば丸山真男『日本の思想』でも押さえておくとよいと思う。






アマゾンのレビューにもあるようになんかこの本はどうも変な感じがした。あるいはあのレビュー読んでたから読み飛ばしってとこもあったのかもだし、これはこれで通史な概説としてそれなりのクオリティあるのだろうし、拾ってけるところ拾ってけばいいのだろうけど。

少し前まで「革新幻想の戦後史」読んでたので「(´・ω`・)その日本マルクス主義の受容の捉え方おかしくない?」ってところがチラチラ目についてなんか「うそくせー」ってかんじに。。


革新幻想の戦後史
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竹内 洋
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この本はおもろかったのでそのうち別項でエントリするかもだけど、全体としていえば「<民主>と<愛国>」を受けて「教養主義の没落」をもっと厚く伸ばした、というか、居酒屋かなんかで「いやあ、あれはちがうよ。ほんとはねえ」って感じで当時の話をしてたのを編集者のひとかなんかが「あ!それおもしろいからそれでいきましょう!先生」つて雑誌連載するようになって当時を振り返った回顧話って感じになってる。


竹内洋、2003、「教養主義の没落」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382681253.html



「革新」は非東大系教育社会学アカデミックおもひでぽろぽろな感じではあるんだけど「戦前から続く教条的な教養主義」 ⇔ 「それへの対抗としてのマルクス主義」 それらの間に入る形での市民的知識人(岩波アカデミズム→日教組)、ベ平連辺りの位置づけが同時代を生きたおっさん語りとして面白い。

けっきょくはマルクス主義-サヨクを中心に駆動してきたのが戦後日本の知識・教養空間で、そこからすると丸山真男を中心とした岩波アカデミズムはリベラルなつもりだったんだろうけどそれは日本の特殊なリベラルで、ロック-ハイエクなリバタリアンラインみてもなんか特殊ッて感じなのだろう。なので日本で「リベラルってなに?」ってはなしすると歪んだり、国際的には自由主義な話してても「( ゚Д゚)<保守!ウヨク!」とかいわれる。それはマルクス主義全盛の1950-60年代に竹内さんが「吉本隆明もいいけど福田恆存はもっといいぞ」っていったら女学生に「このひと保守よ。ウヨクよ」って以後紹介されるようになってハートブレイクした話を思い出させる。

そんなこといったら丸山真男だって福澤とヴェーバー研究を通じてだかなんだかでイギリス保守の流れを目標にしてたぽいんだけど、丸山の場合は当時のマルクス主義的な豪風に対してうまく日和るというか、風よけな修辞として「主体確立」という言葉を全面に出してたぽい。あと天皇制打倒(あるいは「天皇制を考える」)。

天皇制は言ってみれば日本のエートスに関わる部分でそれがプロテスタンティズム(カルヴァン-ピューリタン)のエートスと機能的等価物として目測されていたのだろうけど、まあそういうのっていうか言語とか風習とか暦とか歌とかそういうところのハビトゥスがけっきょくは日本人のエートスに関わってくるんだろなって予感はある。


まあ竹内さんにしても仲正さんにしても丸山真男あんちょこ出してるみたいだからそのうち読むけど(あと丸山真男自身のテクストもそんな感じでガーッと読もうかな


丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)
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話少しそれたので戻すと、竹内さんの「革新」的なまとめだとけっきょくはあの時代の思想ってのは内容の論理性ではなくそれを信奉してた人たちがまとっていたハビトゥスによって決まったみたいだった。


たとえばマルクス主義系の女子や男子たちが都会的な服裝や礼儀、洒落た感じを醸していたってこと。それがなによりも未だ農民層が圧倒的に多かった日本人にとって魅力的に見えたっぽい。


現在だと革マルゲバ棒みたいなイメージでなんかダセエマルクス主義界隈なんだけど、そんなふうにシャレオツな時代があった





「黄色い本」の風景ではそういう思想的なうそくささからは離れつつも当時の都会的なもの・近代的な友愛精神に憧れをもった一人の女の子の様子がうまく切り取られてたけど。


あるいは「コクリコ坂から」でのコーラスのシーンや学生協議的な雰囲気、「風立ちぬ」全体を覆う雰囲気とか


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思想の内容うんたら以前にそういう雰囲気へのあこがれや「正しいことをしていくこと」に対する公共心の共有みたいな意識があった。コミュニタリアニズムといってもいいかもしれないけど、もっと日本的なエートスに根ざしたものだったのかもしれない。



なので、思想界隈でのテクニカルな修辞というのはあまり意味が無いものに思うし、そういうところを説明しようとしつつもそれぞれがわけわからん論理になってる、けど、そのわけわからんさをはっきり「わけわからん」って指摘するわけにもいかん(同業者として)というところでのびみょーな踏み込みの浅さが仲正さんのあんちょこ本のびみょーな空気を醸しているのだろう。あと、日本の主体性論を基軸にフーコーも主体性論をカウンターするために構造的視点とった、みたいなこと仲正さん言ってたけど、フーコーはパレーシア辺りのお話で個人の内面の強化の必要性みたいなのは説いてるようだしなあ。。それはたぶん「猫の大虐殺」におけるルソーを通じた大衆の内面強化の話と通じる。


ロバート・ダーントン、1984(1990)、「猫の大虐殺」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382911771.html



まあ仲正さんのウィキペディアからもポスモダン界隈は得意じゃなさそうだからそこは期待せずにドイツ思想と廣松渉界隈に期待すると良いのだろうなあ。(疎外論なんかも内容ではなく貧乏農村国が都会な消費社会に移ってきた時勢を読んで生まれたぽいけど)





あと、別件でこのへんの話見つつ


賢者は歴史に学ぼうとして偏った歴史の類推に執着する | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=3068


「政策決定者は歴史から学ぼうとしてもしばしば偏った範囲の歴史を恣意的に選びそれに囚われる」「現代日本も太平洋戦争期の全体主義アナロジーするが、ほかの時代や環境も参考にしてはどうか?」って感じの話なんだけど


竹内さんあたりの話にもあったようにおもったけど日本の現在、あるいは、全共闘に突入した時のそれは第一次大戦後のイギリスの感覚に近いところがあるぽい。つまり、未だドイツの全体主義に対して協調外交の路線をとってて本格的な打倒な体制になってなかった。

本格的に対独を進めたのはチャーチルからで、その姿勢と意識を受けて他国も戦争に参加していったのだろうけど、日本の安全保障や軍備-国家という領域に対する意識のなさというのは一次大戦が終わってもまだ空想的宥和意識が残っていたイギリスを彷彿とさせる。軍備とか対外意識(特に対中と対露、その焦点としての北朝鮮や台湾)の意識が抜けてるのはそういった情報をメディアが流さないせいもあるのだろうけど、「視聴者がそこまで望まないからだ」ってことになってトートロジーになったり。。

別に戦争を志向するわけでもないんだけど、ふつーにどういった軍備がどういった場面でどのように効力を発揮するか?たとえばイージス艦の意義とその総量の対外比較、独力での日本の軍備の位置、アメリカほかと協調したときの日本の位置づけの妥当性ぐらいは簡単に共有されててもいいだろうし、そういう情報を基本として流すべきだと思うんだけど。。(あとその辺への税金の使われ方の詳細とか)



まあそれはともかく


そんな感じで全共闘時代から政治や行政に関するリアリズムというか、コモンセンスみたいなものの時計が止まってしまってるのが日本なのだろう。


全共闘の群れの心性はフランス革命の大衆性でそれがそのまま昨今の脱原発と秘密保護うんたらにおけるライトサヨクなあれにあたるだろうけど、知を覆う全体の環境は19世紀後半のドイツにおけるエリート/大衆寸断を基本に下部構造だけ後期近代しちゃって、その「消費な浮かれた感じに合う」ってことだけでポストモダンのおされなガワだけが移入された。


フーコーなんかもポストモダンとかいわれるけど学生運動に関わったときは現実的な感覚持ってただろうし法律や政治に対してもふつーのコモンセンスとバランス感覚持ってたように思うんだけど。。まあこのへんはこれから見ていくか。



そんな感じで現実感覚失ってみょーなシュプレヒコールだけ前景化してると却って地味な部分が後景化してしまってうだうだ進んでくことになる。軍備にしてもアイロニカルに進む可能性だってあるわけだし、法制度だってそんな感じ


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「かれらは各論ではなくより大きな問題へ物事を抽象化しすぎるきらいがある」みたいなことをいったのは福田恆存と丸山真男だったようだけど、その癖は未だ治ってないのだろう。(ベ平連なんかはマルクス主義的打倒とは手を切ってシングルイシューで打ち上げてくようになったようだけど


そんで政治経済の大きな部分のコモンセンスが浮いた分、あるいは、「思想とか社会とか政治とかに思考容量つかっても無駄」ってシニシズムでビジネス特化していったせいか知らないけど社会について考えることとか、実存について考えることとかも全てそういうところにガワだけ回収され分断されてしまった。たとえば自己啓発書やスピリチュアルやラーメン愛国みたいに。



司馬遼太郎の小説群が受け入れられるようになった過程は当時の後期近代の立ち上がり → 会社圏に新たな指針が必要ってとこでビジネス・リアリズム的思考体系が必要になったところにマッチしたからだったみたいなんだけど、昨今の大河ドラマ界隈のネオ時代劇の風潮、つまり「ハゲタカなどのビジネスドラマとカメラの演出や作品思想も似てる」というのはそういう流れを無意識に受けてる感じがある(「坂の上の雲」もそうだったし)


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ビジネス小説やリアリズム的思考が求められるようになった知政学的背景は「マルクス主義 → 岩波サヨク」の空想的アイデアリズムが現状に対してピンぼけになり、これに代わる実務主義(「これからは経営学とか経済学だ―リアリズムだ―」cf.ロストウ-衞藤瀋吉、村上泰亮)な流れ求められたからみたい。

ロストウの「経済成長の諸段階」はマルクス経済学のようなイデオロギーがついた史観に対するもそっと中立なところからの近代化論として注目された。


んでもそこでも旧来の教養主義的エートスはhackされないまま無意識されてたので、ビジネス書の棚に自己啓発本が残っていったのだろう。つまり、あれは明治以来の教養主義におけるビルドゥングスロマンの名残り。あるいはビルドゥングスロマンのロマンの部分を抜いたhow toの抽出が自己啓発本。まあなので実存主義系やキリスト教エートスのガワだけって感じになる。


それらはかつてマルクス主義を中心とし、そのカウンターやヴァリアントとして出てきた主体性論(近代化論)や実存主義の課題を日本の思想界隈が教養教条主義的な雰囲気で衒学するだけで消化できなかったために80年代にはシラケの対象になってしまった領域といえる。


しかし、そういった志向はもともと宗教的情操というか、その元となる人と世界、存在に関する了解部分であるためずーっと残ってるものなのだけど、それが「全共闘の失敗 → 現実的に後期近代の繁栄がある」という現状を通じてシラケの対象となることで前景化するとミョーな感じになるので脳みそ容量多そうな界隈では流行遅れとされ語る対象から外されていったのだろう。



んでもそういったものは元々人が志向するものだからラーメン愛国オヤジとかウヨサヨとか、スピリチュアル、自分探し島ぐらしとかでみょーな形で分断されて表象されてる。


そういったものを奇行種としてピンセットで留めて収集 → 分類するのではなくきちんと向き合い昇華していくのが知識人の務めのように思うけど、そういった人たちはもういないのだろう。(まあこのへんはリンネ的な分類学へのエピステーメーのバックラッシュみたいなものなのかもしれない)



ネオ時代劇がサツバツビジネスドラマと同じ思考とエートスでつくられつつもそのロマン-わざとらしいヒューマニズムについては無自覚過ぎるというところは、、まあそんな感じで「ビジネス本とかリアリズム出自だから」ってことになるんかねえ。。「3丁目の夕日」とかの歴史修正ハイパーリアルも。

バックラッシュはウヨク的思考にだけ注意喚起されるように思うけど、こんな感じでサヨク、というか、中立に想われるビジネス界隈とか、それを求める大衆のエートスの部分全体が右左問わずバックラッシュしてる印象はある。だって、ああいうリアリズムと拙速なウヨクジャンプみたいなの、あるいはサヨク的拙速ってモロに全共闘の少し後ぐらいの感じだから。なので「半沢直樹は時代劇と同じじゃん」て感じになる(逆に言うとネオ時代劇が単にあのへんのビジネスドラマのコスプレだから


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AKBを国際フォーラム的なセレモニーで使うことについて「オリエンタリズムの内面化うんたらがあるんじゃねーの?」みたいな意見見たけど、オリエンタリズムの内面化ってことだといまいってきたような時代劇界隈 - 会社公共圏界隈のほうが深刻な感じがする。ウツクシイニホンに関わるエートスを内面化し表象し再帰し強化する。


なのであのへんの政治家のひとたちみょーに明治維新とかロマンするわけだし >偽歴史ロマンとハイパーニホン感にもとづいた「ウツクシイニホン」 → クールジャパン



ビジネスドラマとか小説が悪いってわけじゃなく昨今のそれ系ドラマで後ろに隠されて「当然」とされてるコモンセンスの歪みみたいなのがなんか気持ち悪い。。ビジネスなところを前景としてるのでその部分は後景になって無前提で当然化されてしまうって感じで。


そういうのは小説版にはないけど映像化するときに生じるものだったりで、特にNHKドラマやNスペ界隈はそういうのなんとなく感じる。。無縁社会論にしても。まあそれは意思決定に関わる責任層がそんな感じだからだろう。岩波「世界」系からのビジネスあたまへの転向組。そこにはなんの内面的hackもなかった。






あ、もうすっかり「夜になったねえ」













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関連:
ゼロ年代批評とJ-POP  ロックはどこへ逝った?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382169743.html


「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ」→「<民主>と<愛国>」→「革新幻想の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/382686567.html



【第48回】『不毛地帯』(山崎豊子)前編 |新しい「古典」を読む
https://cakes.mu/posts/4029

https://cakes.mu/posts/4060

posted by m_um_u at 19:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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