2013年12月12日

野田宣雄、1997、「ドイツ教養市民層の歴史」


啓蒙主義時代のドイツ教養市民層の歴史として



ドイツ教養市民層の歴史 (講談社学術文庫)
野田 宣雄
講談社
売り上げランキング: 701,624




はじめに


<教養市民層が大きな比重を占めるドイツの宗教社会学的構造がナチズムという現象を生み出したのではないか?>


という大きな仮説が立てられる。


具体的には「宗教倫理なき教養を中心とした教養主義の構造がナチズムを生み出した」ということ。


ここで「宗教」としているものの内容はヒューマニズム的なものでも代替できるように思った。


ヒューマニズムなき知識によって鎖国的に作り上げられたエリート空間から紡がれる機械的な決定。それは昨今「凡庸な悪」というタームで切り取られて一部で話題となっているアイヒマン問題(アレント)の具体となる。


彼らがどのような文脈で「凡庸な悪」にどのような意味をもたせているのか確認していないけど、ナチスにおける知識空間の構造的問題としてのそれは民衆と一部のエリート層の教養やハビトゥスが断絶していることを前提とした。それを想うと「凡庸な悪」なるテクニカルタームを「アレントが言っていたから(正しい)」というように切り取って使い、その内実が一般社会と乖離してるかもってのはなんだか戯画のように思われる。


まあ確認してないのでどういう内容で使われてるのかしらないけど。閑話休題



フランス革命でもそうだったけどドイツの教養的な知識はフランスよりももっと民衆から隔絶したものだった。

それも仕方ないところはあって当時の民衆というのは下品でガサツで野蛮だった。娯楽としては年に一度のカーニヴァルで乱痴気することだったし、そこでの狂騒はキリスト教的な倫理とハビトゥスを身につけた上流階級は眉をひそめるものだった。

当時の民衆の野蛮さが分かる例として猫の大虐殺の話がある。



猫の大虐殺 (岩波現代文庫)
ロバート ダーントン
岩波書店
売り上げランキング: 56,106





この本も面白いので別項でうんたらするかもだけど、猫の部分をいうと当時のフランスの民衆が娯楽的に猫を殺していたということ。カーニヴァル的な乱痴気ムードで。猫は「性・女」を象徴するものでありキリスト教な性禁忌のせいか「わるいもの」だった。なのでしばしば魔女狩り的にネコが駆られ日頃の鬱憤晴らしの代償とされた。

木にくくられ火炙りにされ鳴き叫ぶ猫の様子を民衆はゲラゲラと嘲笑いながら見ていた。彼らの娯楽だったので。


それはフランスの例だけどエルベ川以東の農奴たちはもっと野卑だったらしい。そういった当時の民衆の野蛮さや残酷さは民話の真の姿として残っていたりする。



なので、フランスのブルジョワやドイツの知識層が民衆をバカにし差別するのも当たり前のようには思うんだけど、フランスにはルソーがいた。彼を中心に、民衆に寄り添う形で倫理を問うていったことはフランスとドイツの知識空間が異なった要因の一つに思われる。

もちろんそれ以外に識字率の違いなどのハード面での構造的な違いもあったけど。




<一部の教養特権層に囲い込まれたヒューマニズムなき教養>という問題。


「仁愛は民衆の間から期待されるのか?」「そうだとしてもどのように接合し涵養していくのか?」については項を改めよう。



んじゃ、以下詳細。







「教養」あるいは「教養市民層」とはなにか?



18世紀末ないし19世紀初頭、当時も「教養理念と何か」はっきりしなかった。しかしドイツ知識人の間でにわかに「Bildung」なる言葉がもてはやされるようになった。


それは

敢えて短い文句に要約すれば、「各個人がそれぞれのかけがえのない個性を真善美の各面にわたって多面的かつ調和的に発展させ、自己完成の域に到達することをめざすところに人生の意義がある」



とするもの。


(17-18)
「教養」の語源にあたる Bildung やその動詞形であるbilden あるいは sich bilden が人間の精神的領域にかかわる概念としてもちいられるようになったのは18世紀末がはじめてではない。その源をたどれば中世の神秘主義にゆきつくし、時代をくだって経験主義の著作家たちもこれらの語を神の人間にたいする働きかけを表現するために使用した。そして、18世紀半ばころになると、こえっらの一連の言葉は神との関係をはなれて世俗的な意味でももちいられることが多くなり、折からの啓蒙主義的思潮の高まりのなかで、Bildung は人間の知的実際的能力の指す言葉として「教育」Erziehung とほとんど同義的に使用された。

 だが、18世紀も最後の2,30年になるとBildungなる概念の自立化がすすみ、それは「啓蒙」Aufklrungや「教育」Erziehungとは区別される、より高次の次元を獲得していった。



こういった宗教的情操に基づく自己完成のあり方が本来の教養理念の目標とするものであったが、そこから宗教な部分が抜け、そのハビトゥスやエートスとしての「自己完成」部分だけが「教養」として伝わっていった。

「自己を完成させること」を漠然とした願望としたものの例としては「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」などが挙げられる。

(「ここにあるがままのわたし自身をまったくそのままに完成させてゆくことが、わたしの若いころからの漠然とした願望であり、意図でもあったのです」)


いわゆる教養小説(ビルドゥングス・ロマン)はこういったものとして受け継がれていった。




では「教養市民層」とはなにか?



「大学教育を受けている」ことを条件とし職業で言えば、

大学教授・ギムナジウム教師・裁判官・高級行政官僚・プロテスタント聖職者をふくむ広義の高級官僚

医師・弁護士・著述家・芸術家・ジャーナリスト・編集者などの自由職業

などがそれに当たる。


教養市民層の後継世代は彼ら自身の子弟から再生産されていく(とりわけ官僚周りが著しい)

ドイツ教養市民層と非教養市民層との隔壁は動かしがたいものになっていった。


19世紀初頭ベルリン大学やボン大学が設立されていく。そこでは功利主義的で実用主義的な学問を排斥した。つまり「学問は何らかの実際的な目的に奉仕すべきではなく、純粋に学問のための学問として研究さるべき」とするもの。


この辺りの「教養 > 実学」的な構図は「ギリシア的頭の学問 > 手の学問」の観念を思い出させる。

山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html



19世紀のドイツ官僚たちはこういった教養と専門的能力を身につけていった。そのため国民の間に倫理的な意味でも信頼性を勝ち得た。



1880年頃から「文化」Kulturなる言葉がもてはやされるようになる。この背景には教養知識層の危機感があった。


工業化による大衆社会の出現、中央党(カトリック中心)・社会民主党(社会主義労働者)の台頭、自然科学・技術の発達に依る既存教養主義の優位への脅威、学問の細分化・専門化(精神的凝集としての教養理念の崩壊)…


そういった背景の中で旧来の知識層の威信、「教養」Bildung への信頼は崩れつつあった。こういった状況に対して新たな言葉として「文化」Kultur が用意された。それによって教養知識層を中心とした「一つのドイツ」を目指された。が、それもうまくいかず分裂はますま進んだ。第一次世界大戦は「このような分裂を統合するためのもの」として教養市民層から熱狂的に受け入れられた。


余談だけど、こういった歴史があったのにそれを反省材料にするわけでもなく日本も戦後に似たようなことをやっている不思議(cf.文化鍋、文化住宅)。真似をしたわけでもなく偶然に旧来の「教養」という言葉の失墜を補うべく「文化」という言葉にあいまいに知性のハビトゥス周辺の希望を込めている。あるいは「伝播するわけでもなくそういった流れになったところにこそこの辺りの知識の構造における必然的な法則性があるのだろう」といえるのかもだけど





教養市民層の教養と文化はヒューマニズムや宗教的情操、生活に対する実践性といった内実を欠いたスノッブなシンボルとなっていった。これにより教養市民層に属する官僚の内面・倫理・道義性・主体性も空虚なものになっていった(cf.アイヒマン的な「凡庸な悪」)。


ヴェーバーはこういった空虚な官僚に対抗し統制するような強烈なカリスマによる指導者民主主義を期待した(カエサル主義)。


イギリスの腐敗した官僚制に対してドイツのそれは「倫理上非の打ち所のない機械体系」をなしていたが、それがゆえに官僚制化にともなう社会の硬直化の危険性がちらついていた。


イギリスのジェントリ支配は腐敗した官僚制に対するように、あるいは補完するように機能していた。ジェントリは地方の有力者として十分な収入を得、金銭に絡む腐敗から自由な名望家たちだった。


イギリスジェントリにおける貴族的なハビトゥスやエートス(ジェントルマンシップ)はノブリス・オブリージュ的なものを伴って民衆の範となっていた。逆にドイツの成り上がり的な教養主義は民衆を優越し隔絶するためのツールだった。


イギリスの知識空間の土台はピューリタニズムにあり、それは農民たちの間にさえ深く浸透し上流知識人と大衆をつなぐユーティリティコードとしての教養として機能していた(ヴェーバー、「宗教社会学」@「経済と社会」)。

このあたりはドイツの上流知識人が本質的に宗教に無関心だったこと対照となる。


イギリスでは王室派と議会派(ジェントリ側)の抗争がそれぞれの側に弁護士を発達され、国家的な規模でも弁護士のギルドが形成されていった。対して、ドイツではイギリスのような弁護士のギルドが存在せず、くわえて司法と国家行政が官僚制化されていたため、ローマ法の進出する道がひらかれた。


結果としてイギリスでは裁判官も弁護士出身者から輩されるようになり、「判例を厳守する」という仕方で「計算可能な」依法的支配をうちたてていった。対して、ドイツではローマ法に基づいた合理的な法律体系が整備され、そのもとで裁判官はあたかも「法律条項の自動販売機」のごとき機能をはたし、国家行政もまた官僚たちによって「純技術的に」処理されることになった。


ヴェーバーは近代の政治家の供給源として弁護士の方が官僚よりもはるかに好ましいとみなしていた。そしてイギリスの政治の強みは名望家としてのジェントリのほかに、弁護士が政治家の重要な供給源をなしてきた点にあると考えた。具体的なモデルとしてはグラッドストン内閣。



硬直化した官僚と庶民の知識の断絶、官僚やエリート知識層の界を固め再生産していくためのツールと化した教養の姿をヴェーバーは中国に重ねた。エリート知識層における道具的知識としての儒教と科挙、またその空間内部で近親相姦的に再生産されていく閉鎖的で排他的な知のあり方。




ヴェーバーの当時、すなわちナチス台頭以前のドイツは3すくみの構造にあった。すなわち、カトリックを中心とした中央党、社会主義労働者を中心とした社会民主党、そしてブルジョワ諸政党。

ナチズムはこの部分、つまり政党がプロテスタント名望家たちのギルドと化し精神的にも教養市民層の影響が多く残っていた領域、においてもっとも顕著な成功をおさめた。


それは硬直化した知の残骸とプライド、他国や自国内の優越感ゲームから生じるコンプレックス、その裏返しによる傲慢と怨嗟が煮詰まった混沌のスープだった。


戦争-国家幻想はそういった空隙に一体感と愛を用意し宗教幻想の代替となった。


ヴェーバーでさえ戦争における一体感と高揚感に熱狂し積極的に戦争に参加していった。そこでは人々は失われた愛の一体感を国家幻想に見ていた。





愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)
村上 龍
講談社
売り上げランキング: 92,772


愛と幻想のファシズム(下) (講談社文庫)
村上 龍
講談社
売り上げランキング: 157,108





--
関連:
「カラス事件」歴史を変えた18世紀フランスのある老人の冤罪死 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=3045


「ヒトラーを支持したドイツ国民」ロバート・ジェラテリー 著 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2985


近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html





posted by m_um_u at 17:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 世界史このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。