この辺絡みで
ゼロ年代の「永遠」と終わりなき旅: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381638941.html
天使たちの輪舞(cont. おとなになること): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381807240.html
ゼロ年代の想像力、つか、ああいうヲタとニューアカ批評がくっついたあの辺以外、思想うんたら以外でも日本の公共性とか思考の軸みたいなのが枯れてしまったのだろうなあ(代表的とされる知識人の風景とか)って感じでぼんやりしつつ、「公共性」「fraternity」「徳」関連で「教養」とか知識空間掘ってる。
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竹内 洋
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いずれまた別項でまとめるかもだけどここから伺えるのは「昔の日本は明治の似非ドイツ観念論な教養の伝統を軸にマルクス主義とかポストマルクス主義と化していってたんだなあ」ってこと
つまり人格の発展を人類全体の発展的な史観となぞらえていた。そこでは悪とか善みたいな目標がはっきりしてた。あるいは、はっきりしないながらも人格とか徳とかそういう型や雰囲気の全体を先人から看盗っていた。そこで目指される「教養」や「人格」もはっきりとした内容のない空体的なものだったのに、なんとなくそれを目指すように人格的・品格的な文学が読み継がれその中で「主体性を持つように」と目標とされてきた。なにがどう主体的なのかもおぼろげなままそこから「逃げちゃダメだ」と走り続けてきた。
それらの価値や内容はおぼろげでもその受け皿としての就職口が安定していたのでそういったおぼろげな教養がユーティリティコードとして機能していたのだろう。
反面、ゼロ年代的なものとしては日常系とか空気系があげられてそこでは倒すべき目標とかそういう単線的な思考がない。それらを諦めた上での日常への停滞とループ的なものとか、そういった定形をいくつか重ねつつ「善も悪もない」的に敵味方入り乱れてバトルロイヤルする。
そういうのは時代精神というか、パラダイムのようなもの全体として日本を覆ってきてたのかなあって感じがする。日本は思想とかの言葉になると格好よく偽装してボカして分かったふりするのでわけわかんないとこあるんだけど、アニメとか小説とかの文学的なモノのほうがはっきりとそういう精神史が表れるような。
オタクの系譜としてはヤマトとかガンダムなんかが一期にあって現代は四期ぐらいにあたるのだろうけど、一期の富野が進撃の巨人をダメダメって言ってた
http://www.j-cast.com/2013/12/04190834.html
対称として進撃の巨人の作者のインタビューなんかを見つつ
http://white-screen.jp/?p=32621
「ARMSとかに影響受けて」「一番は「マヴラブ」の影響」ってとこでなんか富野が「( ゚Д゚)<あんなエログロダメですよ!」って言っていた違和感になんか納得したり。
エロゲな想像力ということで虚淵のそれにも通じるのだろう。そして「人間って何をするかわからない自然現象のようなものだと思うんです」って感覚。
このへんの感覚はポストモダン的な「なにも信じられない」なアレをデフォとしつつ旧来の品格とか徳とかなあれをデフォルトしたものなのだろう。
その上でサツバツの中から性や死についてあらためて考えていく感覚。
エロゲのエロは単なる釣りでありおまけ菓子のおまけ的なもので、その性描写は記号的に消化されたりスルーされるのがふつーになってるようで、
逆にそういうのに担保されてシナリオの部分で死や実存を巡る問いや暫定的な答えが深化していったのだろう。特にコミュニケーション面でのそれが。
あのあたりの文化系現代っ子の特性としてコミュ症と自嘲・自虐されるような自意識の持て余しとコミュニケーションの下手さやナイーヴさがあるわけだけど、その辺りの問題に焦点していったのがエヴァンゲリオンなんかだった。
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エヴァはロボ合戦的なストーリー的には大したことなくて、もともとはそのアニメーション的な動きやキャラデザインを魅せるためにストーリーはそれまでのアニメ・特撮のお約束と箔付けの心理学・グノーシス用語からコラージュされたものだったのだろうけど、その中で主人公たちの実存的悩み、コミュニケーションを巡るそれだけはホンモノだった。それは庵野の投影だったから。庵野の投影であり同時代の文化系の子たちに共通の悩みだった。言ってみれば現代版「若きウェルテルの悩み」。ただし、中間(社会)はなくコミュニケーション的問題だけに焦点される。コミュニケーション中心のビルドゥングス・ロマン。
TV版の最後のほう、ロボット大戦的なところは捨象してシンジくんがほかの登場人物たちと心のなかで語り合っている部分が真実で、エヴァはシンジくんのコミュニケーションに対する葛藤を巡った心象風景の具現ということになる。まどか☆マギカなんかもそういった意味合いでエヴァの系譜にあげられる。
あのあたりのゼロ年代アニメというのはだいたいにおいてこういった普段のコミュニケーション的な悩みを基本にしつつ、それを心象風景における戦闘状態の隠喩にすることでかわしたり(ブラック★ロックシューター)、敢えて触れない(日常系)ようにしてるわけだけど、「進撃の巨人」が変なのはエロゲの系譜からそういう背景もインストしつつもその部分にあまりナイーヴになってないことなのだろう。かといってガンダムタイプの古い形のビルドゥング・ロマンでもない。主要人物たちの葛藤や精神的な変化を見てるとビルドゥング・ロマンなことには変わりないんだけど、「人間は何をするかわからない自然現象」的な諦念とリアリズム、社会性動物としての人間の権力志向のえぐさみたいなのも見えてる感じ。あと、若い世代からは「男女ををふつーに同列にあつかってるから」ってのがある。まあそのへんはエロゲな性の記号性によるのか、あるいは作者世代のユニセックスな感覚によるのかわからないけど。絵はヘタウマだしコミュニケーション的な場面でなんか変な間がある。
そういった意味で「進撃の巨人」はゼロ年代的なあのあたりからすると「変」だけど、わりとふつーのビルドゥングス・ロマンの系譜に属するのだろう。
その辺りから「ゼロ年代の終焉」みたいなことを想う。
未だ読んでないけど「ニッポンの思想」で言ってるようにゼロ年代的なあの辺の特殊はこの期間に特殊なものになっている印象。竹内洋さんからすればヲタクってことだろうけど
ここ10年ぐらいで終わるのかもしれない
タイトルの「ニッポン」というカタカナ表記がまず目につく。具体的には、「ニューアカデミズム」発生以降、「ゼロ年代」というコピーがはびこる現在までが扱われているのだが、この前後において「日本の思想」の歴史には「切断」が存在していると考えられており、その「切断」で切り取られる期間が「ニッポン」と呼ばれている。
言い換えると、ニューアカ以降ゼロ年代までの「思想」は、ある種、異例な状態にあったが、その状態はそろそろ終わる(「切断」される)という主張が、「ニッポン」というカタカナにはこめられているのである。 表面的にはそれなりの「変遷」がありつつも、「ニッポン」で表象される「思想」を貫通していることとして、著者の佐々木敦は4つのキーワードを導入する。 「パフォーマンス」「シーソー」「プレイヤー」「思想市場」の4つだ。
「ニッポンの思想」は、「思想」の「内容(何を語るか)」よりも「パフォーマンス(いかに語るか)」によって成り立ってきたものであり、「シーソー」のようにギッコンバッタン極端から極端に振れているだけである。そこで重要なのは、その「パフォーマンス」を演じている「プレイヤー」であり、優劣を決めるのは「市場」すなわち売れたかどうかである。
要約すればそのような「変遷」がキーワードのもとに語られていく。俗に「論壇プロレス」といわれる見方にちかいが、佐々木は「舞台」「ゲームボード」と呼んでいる。 「ニッポンの思想」を「80年代」「90年代」「ゼロ年代」の三つに分けて、それぞれのディケイドでメインの「パフォーマンス」を張った「プレイヤー」数名を拾い上げていくというのが具体的な構成で、取り上げられるのは8人。
80年代=浅田彰・中沢新一・蓮実重彦・柄谷行人
90年代=福田和也・大塚英志・宮台真司
ゼロ年代=東浩紀
「ゼロ年代」の「プレイヤー」が東浩紀ひとりであることに注意されたい。つまり「ニッポンの思想」とは、浅田彰に始まり東浩紀に終わるギッコンバッタンだったということである。
それさえおさえてしまえば、「プレイヤー」個々の「思想」の「内容」にはそれほどこだわらなくてもよい。
http://bit.ly/1bruvVL
ニューアカというのは言ってみればJ-POPのようなもので、80-90ぐらいにでてきたそれまでの歌謡曲的古典の捨象と洋楽的憧れとテンプレによるものなのだろう。なので洋楽的普遍性がない。
まず、マルクス主義の話から始まり、それが日本の現状とズレてるのに、ゴリゴリやって空回りという前提話をやって、そこに消費文化の成熟で「なんとなくクリスタル」な時代となると、理性批判なフランス現代思想がやって来て、ジャーナリズムや広告などの影響下に「日本版現代思想」となりニューアカになると。んで、それが90年代には終焉に向かい、思想の「スター化」ガ「カンタン系デフレ・スパイラル」し「水戸黄門化」したとのこと。
http://bit.ly/1brukd5
ドイツ観念論・ロマン主義を軸とした教養は本来、キリスト教規範的な精神の修練の方向を目指していたが、明治に移入されたそれは宗教的情操と倫理という軸を理解せずに教養の上辺の部分だけを吸収してしまった。そしてそれは田舎の郷士や農家出身の「成り上がり」たちが格好をつけるためのツールとなっていった。そこに彼らのハビトゥスとしての品格やら作法のようなものが加わっていった。
それはそういったシステムがうまく機能していた時代には良かったのだろうけど、大戦や就職難などといったシステム崩壊によってそれらの範は単なる抑圧の装置となっていった。
「太陽の季節」に代表される戦後のアンチ教養主義の動きは音楽におけるロックな心性と同期するのだろう。どちらもアメリカ文化を範とするということで。
ドイツ観念論的教養に対向する形で経験と実践・運動の志向としてマルクス主義が取り入れられたのだけれど、それもいつの間にかエスタブリッシュとして若者たちを圧する教養となっていった。マルクスの思考に日本の教養的なエートスを加えて独自のものになっていたので。
丸山真男-大塚久雄-小林秀雄-福田恆存-吉田健一あたりの思考空間ではそれらを踏まえ、「より中立で学術的な知を」ということでポストマルクス的な思考としてヴェーバーが参考にされたり、ヴェーバーがモデルにしていたイギリス保守思想がなんとなくニックスされていたのだろうけど、そういった先進性を解しない学生たちは依然として当時の教養だったマルクス主義的なもの、あるいはドイツ観念論哲学や文学などの教養を積み、その上辺の窮屈を打破すべく運動へと突入していった。
音楽のアナロジーで言えばヴェーバーを基調としたそれは「UKロック発見」て感じだったのだろう。太陽族を始めとした大衆の感覚もアメリカン・ロックへと傾いていた。
しかし知識層に属する学生たちはフォークを選んだ。
フォークの歴史は未だ詳しくないけど、アメリカの運動系の学生たちが好んだ、ということからの真似っこだったぽい
http://bit.ly/1brxIEZ
いちお「民謡から『民衆のための』音楽が彼らの中で作られていった」ということになってるけど、その「民衆」というのは運動をする彼ら学生の範囲に限定されたものだったのだろう、fraternityのごとく。すくなくとも日本では。
ロックもフォークも若者がカウンターカルチャーするフェスとしては同じように集められていったけど、日本の学生運動の風景はフォークだったように印象する。それは機材の問題もあるだろうけど。
丸山からのUKロックな流れは丸山→小室→宮台で一応継がれていった。
鶴見俊輔ら思想の科学系がどの辺りに入るのかなあとぼけーっと思うに、あれはJ-POPにおけるはっぴいえんどからハナレグミぐらいに伝わってるオルタナなあのへん、、なのかなあ。そうすると丸山からのそれは歌謡曲かあ。日本的なロックな歌謡曲(アルフィーとかB'zとかそういう)。
マルクス主義が演歌→フォークで、観念論的教養が浪曲・民謡あたり。
小熊さんとかはそういうので感覚的に鶴見-はっぴいえんどな立ち位置かと思うんだけど(まあ小熊さんの音楽聞いたことないからしらんけど)、ライトサヨな人たちは鶴見ラインて感じでもなく・・ミスチルとか坂本龍一ぽい。ロックというかニューミュージックというか、、ポップミュージックな感じ。
なので坂本龍一+ミスチル - ライトサヨなところが浅田さんとかの歴史遮断ニューアカな80-90年台J-POPて感じなのだろう。渋谷系はその派生だし。まあロキノン界隈というか…
東さんはそういうのをまたポストモ断したゼロ年代的なアニメ歌って感じ。内田じゅはマルクス主義の現代版なだけで昭和歌謡リバイバルぽい
あのへんのダサさとかわけわかんないとこはだいたいこんな感じでマッピングされると思う。
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問題は丸山-大塚-小林-吉本-鶴見辺りであったあのあたりの思想空間とのつながりがどのように消えていったか、ということ。
仲正さんの本は未読だけどレビューからだとあのあたりを射程としつつその内実については自らが業界からハネられたことの怨嗟に基づく類推になってる印象がある。
たぶん、そういうのよりはもっと産業的な問題が絡むのだろう。J-POPにおけるそれと同じように。学生運動の失敗でマルクス主義ともどもロックな思考も総スカンされてしまった影響。
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著者によるとこれは音楽業界が作った言葉。「J」なんていう文字がここに使われた背景には、日本人が深層心理で抱いている国際志向ファンタジーが、ついに具現されたヽ(*'∀`)ノというニュアンスが含まれているのだそうです。ここでまず深く納得。しかし著者の検証はそれだけでは終わらなかった。次はハード面からのアプローチです。CDという記録メディアが誕生してそれまで記録媒体ごと(レコードorテープ)に分断されていた音楽分野・リスナーが統合された。この、あらたに統合された音楽に、なんと呼び名をつけよう? ここで用意されたブランド名が、ほかでもないJポップという言葉だった、というのです。このたたみかけるような論拠……。この結論づけ方はあざやかというほかないと思います(44ページあたり)。 Jポップにハード面の進化が与えた影響、テレビとのタイアップで発展した90年代、カラオケと自己表現、音楽産業として見た場合の日本の特殊性などなど、いろんなところにあらゆるソースから数字を引いてきつつ説明してあるので、容易にJポップの変遷をおうことができる本。
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自分的には福沢諭吉が先見していたイギリス的な保守のあり方がどのように潰えていったか、あるいは、どのように継がれているのか興味ある。
ヴェーバーのイギリスへの志向に基いて丸山真男の関心はそのあたりであったようだし、ヴェーバーを軸に大塚久雄も絡んだ。
小林秀雄も白洲次郎つながりでその辺りだろうし、吉田健一も絡む。
「ポストマルクス主義」ということで吉本隆明なんかも絡んだのだろうし、鶴見俊輔も同様だったのだろう。
それらのなんとなくの年代史は「民主と愛国」から見られるけど、
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自分の興味に近づくためには各論から掘っていったほうがいいのだろうな。いちお再読してみよう



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