2013年12月07日

共同体における宗教的情操と倫理やら徳やらの原型について


「銃・病原菌・鉄」の下巻をいちおまだ読んでいるんだけど、

文庫 銃・病原菌・鉄 (下) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
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やはり上巻に比べてインパクトはない感じ。まあ本書全体の内容は上巻でほぼ言い尽くされていて、その仮説を裏付けるためのよもやま話的なものが後半なので知的興奮は特になくダラダラと話が進んでいる。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381807240.html


そんで全体としては「西欧の発展は偶然、地理的・環境的偶然(あるいは生物の植生的な)」の繰り返しになってる。まあ主に生物学+歴史な視点。


なので「人」の特殊性に関わる部分の記述は薄いように感じた。つまり文化人類学なんかでいわれる「機能主義的説明では説明しきれない部分」なあれ。人は機能的合理性で「この国の文化はこの国のものに対して○○になった」だけでは説明できない形で文化を選択していっている。たとえば「地べたに座ること」なんかがあるけど、機能的に考えれば地べたに座ることはどうということもないはずなんだけど世界的に見て地べたに直接座ることはなぜか嫌がられてる。胡座とか正座なんかも特殊だし。そういうのは文化的志向(嗜好)ということになる。機能的に考えれば「わけわからん」部分。


おそらく交換の形が贈与経済的なものから市場経済的なものに切り替わっていった際にもこれが関わっている。マーケットの話、あるいは銭をめぐる呪術性については赤坂憲雄さんあたりの民俗学的な話でもうんたらされてて「銭を使った交換は特殊なものなので都市の外で行う。司祭が間に入ることで」みたいな話があったと思うんだけどああいうの。「金銭というメディアがまだなんの信頼も持たなかったときにその信頼を共同体のビッグマン的な人が代替した」ともいえるんだけどそのときに選ばれるビッグマンは宗教的属性を帯びていた。

というか、それ以前、文化的なものが作られる以前に人は宗教的なものをもっていたみたい
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/03/gbekli-tepe-c82.html


「最初に歌があった」というのは「不思議な少年」だったけど






歌にせよ音にせよそういった機能的ではな価値は宗教も含めて「文化」なカテゴリに入るのだろう。システムや文明に対する文化。




贈与経済ヽ(´ー`)ノマンセーな人たちは「原始共同体の最初には贈与があった」みたいな話になりがちだけど、人以外の動物、たとえばサルなんかは人に近い組織をつくるけど単純な交換や互助は見受けられない。
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20131204/1386181351


「互助≠友愛≠fraternity≠贈与交換的な志向の名残」として贈与経済からfraternityや弱者救済の習慣への可能性はあるかもだけど、それは動物に汎用・起源なものではなく、人が動物として特殊・異常なものになってからできあがっていった文化ぽい。


「なぜ人は特殊なのか?」といえば「人は死を知る」から。


人は自我かなんかの関係で自分が永遠でないこと、あるいは世界の中の自分というものを自覚するようになり、そうやって自分の死や限界を悟るようになる。


宗教というのはまずもってその部分への恐れを払しょくするために生まれたのだろう。個体としては死を乗り越えるため、共同体全体としては共同体に振りかかる死(災厄)を祓うため。


道徳というのはそういった宗教的情操、というか死を「みんな」で分かつ文化の中で出来上がっていった特殊な価値なのではないか?


物々交換、というか「誰かに与える」「(タイムラグがあって)そのお返しがある」という交換の約束もまず「与える」というのがあるのであって、そのとき「そのお返しがある」というのは期待されていたのかな?とおもう。


たとえば動物でも母子であれば子供には食物を与える。この部分は利己的な遺伝子のプログラムだろう。しかし通常その範囲は母子以上には広がらない。動物の場合、父子であればそういった関係はないのが当たり前だし、利己的なプログラムによって遺伝子強者によるハーレム的な状態がふつーな動物界においては自分の子以外は殺すのが当たり前なので。
http://gitanez.seesaa.net/article/21068553.html


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(この本はまだ読んでないけど)「排卵を隠すのは乱交上等にすることで誰の子かわからなくし、子供に害を与えないようにするためだった」というのは民俗学方面の「日本でも乱交上等→誰の子かわからないけど共同体全体で育てる文化があった」あたりが思い浮かぶ。

利己的な遺伝子のプログラムに従ってるだけの動物だとハーレム状態が当たり前で、つまり交換財としてのセックスが1頭に独占された状態が当たり前かつ合理的になる。

では財としてのセックスの機会がほかの雄にも振り分けられるようになったのはなぜか?

遺伝子の優生学的プログラムに基づけば「どの雄も同じスペックを持つようになったから」ということかと思うんだけど、そういった生物学的視点だけではなくこの部分に文化が関わるのだろう。


ここでもダイアモンドが叙述していたように「猿人の女たちは、排卵を隠すことによって多くの男たちに性的恩恵を分け与えることができるようになった」ということ。「女たち」がそれを選んだ。


ダイアモンドはその説明を生物学的な合理性にもとめるのだろうけど、ふつーの動物ではそういった子殺しを嫌がったとしても止められないし、たとえば我が子を殺されたとしても人のような情緒的な痛みを長期的にひきづるとは想像しにくい。

ここでふつーの動物よりもシンボル-思考において進化した人間が動物よりもより長期的な展望を臨める思考エンジンを発達させ、それと同時に死を知り、情緒のようなものを発生させた可能性がある。



「人は死を知った。しかし、その恐怖と不安を払しょくすることを情緒的に我が子に仮託する」


その拡がりがfraternityぽい。



それが宗教的な価値の原型、あるいはそういった価値や志向がなんとなくあったものにかんがみて宗教的な規範に容れられていった。


キリスト教の原型、ユダヤのそれでは弱者救済的志向や規範があったのかびみょーなんだけど、11cヨーロッパでキリスト教に告解などの要素が表れ、宗教的価値体型や規範もさらに分岐し以前よりも大宗教化していった頃、行政のアウトソースとしての弱者救済の役割を引き受けるようになった跡がある。

ローマカトリックが普及していった時期、貧者の救済などの動機として。法人的免除特権の代わりに貧者救済。ローマは社会保障と司法権の一部を教会に分担させた。
http://bit.ly/bRfiOJ




なのでこの部分の宗教的規範、弱者救済に関わる宗教的価値や規範というのはもともと「死を共同体で分化させるため」のものだったと思われる。つまり死をフォーカスしたもの。

そういうところで実存哲学とか文学における存在と死に対する関心、あるいは実存哲学が帯びる「教養を積んで人格を形成する」という暗黙が関わってくる。

教養-Bildung とはもともとキリスト教的なお勉強知識を指し、それを研鑽することだった。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381900726.html


教養小説(ビルドゥング・ロマン)のもっとも代表的なものとして「若きウェルテルの悩み」なんかが挙げられるけど、ゲーテの位置であるロマン主義的なものというのは死と生に関わる耽美として形成されていった。あるはトマス・マンなんかにしても。


それはもともとのキリスト教的な教養体系から生と死の思考をより自らの生活に即して考えるために分岐したものだった。



なので、日本における徳の役割というのもおそらくその辺りなのだろう
http://bit.ly/1dWqxbo


日本の徳が儒教的道徳との関わりで広まっていった、それがそれぞれの共同体の富者の教養として身に付けるべきものとされ、また共同体に対して効果があった背景はそういったものと思われる。


日本のその辺りの感覚、あるいは近江商人的なそれがしばしばプロテスタンティズムの倫理と比較されその相似を謳われるのはこういった背景だろう。


なので正確に言えば「プロテスタンティズム的なまじめさが資本主義を駆動した」というよりは「(死への不安を背景とした)宗教的な互助の価値(教養)への志向がまずあり、互助の精神に基づいた規範を共同体のビッグマンたちが体現していたことが再帰的に共同体の統治・取引における信用の担保として役立った」ということ。


当時のボロボロなドイツの情況からヴェーバーが憧れ理想としていたイングランド産業機構と統治の内実というのはこの辺りになるのだろう。


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国家を官僚という機械が操るようになったように、産業を商人たちが統べるようになった。

その巨大な2つのエンジンによって19-20cの資本主義的な政治経済体制は駆動していた。


官僚というエンジンの手綱を握るためにチャーチルのようなマキアヴェッリ的、あるいはカエサル的なカリスマ政治家が要請され、さらに権力がそれらに集中しないようにカントリージェントルマンたちが政治的公共性を担っていった。




それらを日本的に移入しようとしたのが福沢諭吉であったし、丸山真男だったぽい。(吉田健一とかも





タグ: 公共性 贈与
posted by m_um_u at 18:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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