2013年12月01日

ゼロ年代の「永遠」と終わりなき旅


「ウェブ社会のゆくえ」をまたぼんやりと見なおしている。イメージ的に心残りになりつつ論点拡散するのでエントリで触れなかった場面があったので


鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381455793.html


分断化される共同性-公共性、「わたしたち」の意識や記憶、社会性に対する危機感から「共同体の持続可能性はどのようにして可能なのか?」という命題が設定された後半、それを考えていく端緒としてアンリ・ルフェーヴルから引用した村落共同体の再生産の話。

「持続可能性は共同体の再生産のはたらきと関わっている」
「共同体においては、子を産み育てるという人の再生産、農耕を通じて行われる食の再生産など」
「狩猟においてもとらえた獲物の処理、骨を神に返すといった儀式を通じてそれらの再生産を願った」


「農耕や狩猟による糧」という社会経済的な部分を文化的・宗教的な儀礼がつなぎ、「性 → 産み育てる →人口」が具体として投入される。

それらを通じて再び村落共同体に実りと命が還ってくる。円環の時間(理)は繰り返す。

この部分周辺の注にもあったように、社会経済的な側面、つまり「震災や被爆の記憶を継ぐにはまず金の問題が重要だ」というギロンはあるにせよ、その金が国家や地方行政を通じて出される場合それを出動させる大義・理由付けの納得が必要となる。その部分の納得への回路として文化的・宗教的な儀礼がかつては必要となっていた。宗教的というと現代だと非合理とされるかもだけど墓参りなんかは儀礼としつつも毎年してるし卒業式や成人式みたいなイニシエーションも毎年ある。それは論理的につきつめれば意味や機能性のないものかもしれないけれど、そういった儀礼的な「区切り」を通じて人はなんとなくそういった記憶の定着を納得するところがある。

結婚や葬式もそういったものなのだろう。


いささか論点先取になるけれど、今回のエントリは論点が膨らみすぎたので2つにわける。そのうちの後半では結婚についてや、あるいはその前段階としてのfraternityについて触れようと思う。fraternityはたぶん社会資本のひとつ、アソシエーションや弱い紐帯な辺りに属するのだろうけど、そういった互助のありかた、村落共同体や都市の郊外(ブール)に住んでいた無産階級たちの互助がどのように市民の論理に接合していったか?あるいは最終的にnation-stateとして回収されていったか?について考えていく。

さて、ルフェーブルの話にもう一度戻ろう。以下、同書でルフェーブルが共同体の再生産、「循環」の感覚について語っていたという箇所の孫引用


 このような<秩序>ー農民の秩序、というのは各階級、各社会組織は、それぞれの秩序および秩序の観念を持っているのだからである―を保つために、人間は自然と協力する。人間は現実的な労働と魔獣tの効力(虚構の)の双方によってエネルギーを維持し、規制する。ところで一つの大きな危険が、まさに繁栄のさ中にある共同体を脅かす。共同体を世代から世代へと伝え、その仕事と秘密を相わかち、共通の遺産を受け継ぐべき子孫が必要である。出生の過不足は調和を損ない、扶養人口の過多や土地を耕す人での不足が起きると、共同体は飢餓に瀕することになる。民俗学者が多くの場所で見出す迷信では、<魂>の数は農民たちの考えている<秩序>の中にあるものである。その深い、――つまり実践的な――根拠は、今日われわれの認識に従えば、極めて単純な、どこでも同じようなもののように思われる。出生と死は宇宙法則の一部であり、妨げられない限りは規則的であるはずのものである。人間の数は自然によって定められているように、かれらには思われる。したがって出生とはすべての死者の魂が再び他の肉体に宿ることであり、集団が自由にし得る貯蔵の中から或る魂が再び現世にもどってくるのである



これを見たときに福島聡が描いていた共同体の話がイメージされた。

役場の人がどこかの辺鄙な村に税金と人口調査しに行ったら車が事故にあってしまって泊まり込み、そこでは死体が処理されずに新たに産みなおされるのを待ってることに気づき、同時に自分も死んでしまって産みなおされることになるって話。

少年少女 (1巻) (Beam comix)
福島 聡
エンターブレイン



(産み直しについては蟲師にもあったなとぼんやり眺めつつ)

蟲師 (5)  (アフタヌーンKC)
漆原 友紀
講談社




福島聡のマンガを検索しつつ「みかんスープもそういえばそういう話を元にしていたのか」と気づけた。地底人の世界に潜っていくんだけど、そこで死と生と時間が狂って、死んでまた同じことを繰り返す、ってはなし。

鵺の砦 (BEAM COMIX)
鵺の砦 (BEAM COMIX)
posted with amazlet at 13.12.01
福島 聡
エンターブレイン




同書では恋人に撮られた親密な写真がインターネットに流出した事件をもとにした作品も所収されていた。
http://bit.ly/bpUoqy


「恋人同士の写真がネットに流出してしまって永劫回帰する」あるいは「昔の同級生の写真を偶然にネットで見かけてしまってふだんのポルノのそれに触れるのとは違ったタブー感を感じてしまう」ということはわりと身近な事になってしまった。「身近」といってもそれにヒットする偶然性はまだあるわけでだれでもそういった事態に遭遇するわけではないだろうけど、「そういったことがあってもおかしくない」という状況に。

そこで倫理観のようなものが問われたり、その変化に自分で気づいたり、「ネットネイティブはその辺の感覚が違うねーやっぱ」ってことがあったりなかったりしつつ「リベンジポルノへの呼びかけと対策」みたいなものが叫ばれている昨今、「そもそもネットネイティブっていうか全体的なあのへんの倫理観というか公共性とか共同性とか親近性、あるいは精神のあり方(大人の認識)みたいなのがズレてるんじゃないの?」みたいなことをおもったり。ネットの影響以前に親密性やそれに紐付いた倫理観みたいなのが変わってきているのかなあ。


特に自分的によくわかんない「あの辺」は「ゼロ年代」でくくられてる「あの辺」。自分的な偏見からするとラノベとか深夜枠のアニメの想像力のように思うんだけど、その出力と再帰の場としてネットが設定されているように思う。それを見て、その少し下の世代もそのコードをなぞっていったり。すべてを吸収するわけではないけどその中でも何度も繰り返されるライトモチーフな部分があれば「世間的な常識」と無意識に吸収するところがあるのではないだろうか。

特にこないだの「自分が自殺したら1000PVぐらいつくかなあ?」ってニュー速でアピールして実行しちゃった子とか。


あの子だけではないし自殺ってところまで行かなくてもごくふつーにそういったコードを常識としている子たちがいるのではないかと思う。


では、「そういったコード」とはどういったものか?


なんとなくマインドマップでお絵かきしてみたんだけど、


zerokoukyou.jpgzerokoukyou.jpgzerokoukyou.jpg


「ネット世代」「リアルでPCやネットを使えない世代や層」「ケータイ族」、ネットを中心に見た場合は大きくこのような区分けになっていると思う。

「リアルでPCやネットを使えない・使わない層」は50代以上の管理職クラスでこの辺りの感覚と旧世代的な倫理観やノリ、理知の幅がセットになる。「ケータイ族」はヤンキー的なところと親和性高いかもだけどヘタレヤンキーとかヤンキーになってなくても社会からドロップアウト的に「うちらの世界」にこもってる層とか。いわゆる文化資本が低い層。

ネットはそういった「メジャー」が追いついてなかった頃にはマイナーな価値観やつらみ、ちょっとした話をはなせる空間だったのだろうけど最近はtwitterでもキャズムを超えてしまったのでその辺りのことが気軽にできなくなったり。すこしのことでみょーにつっかかってくるひとやいわゆる空気的な前提が読めてない人、この程度の知識量もないのかと唖然となる人やコミュニケーションでの引き際を心得てない人、ネット的儀礼的な無関心や作法みたいなの、あるいは、昔に比べて「釣り」の質も変わったりして「シャレが通じなくなった。なんでも調べなきゃいけなくなってきた」「空気がきつくなった」とか。

そういうのは「アーリーアダプターが飽きてメジャーが流入してきて、そのコミュは前衛性を失い、あたらしもの好きのアーリーアダプターは次の遊びに移る」ということの繰り返しのようにも思えるけど。それよりももっとネット全体のユーザーの母数が増えて、ネットもリアルの延長的なところが強くなってきたのかもしれない。それでも選挙の結果なんか見るとその温度差を感じたりもするけど。


リベンジポルノをやる層、流出ポルノをしてしまう層というのはリテラシーやリスクに対する意識のあり方から冷蔵庫にはいって目立とうとするアルバイトとそんなに変わらないように自分からは思えるのだけれど、冷蔵庫バイトが意図的に「うちらの世界」で目立ととするのに対してリベンジポルノ層は「うちらの世界」の倫理意識をもとに外の世界に他人のプライバシーを晒して制裁しようとしているという点で違うといえば違うのか…。どちらにしてもどちらにしても「狭い(うちら)世間」もしくは「広い世間」に報告することでなにかを得られた気になるというところは変わらない。自分より上位の審級に言いつけたり承認してもらうっていう構造なので、その内容の是非を自分では問うことはないのだろうし。


対して、「ゼロ年代」でくくられているあのあたりの精神性というのは深夜枠のアニメやゲーム、ラノベなんかから作られ、再帰し再生産していて、それらは具体的にはセカイ系とか日常系とか呼ばれる辺りなのだろう。


政治経済社会といったハードな構造についての認識-説明といった「中間を省き」現実との接点を省いていって自分たち、うちらの世界観の中で「永遠」をブリコラージュする。

セカイ系は「社会領域(中景)を消去し、主人公の周辺の狭い関係(近景)と世界規模の大問題(遠景)を直結させる想像力」をさすが、評論家の前島賢は、セカイ系の興隆の影響下で誕生した新しいオタク文化での想像力(ポスト・セカイ系)のひとつとして、空気系を挙げている[56]。『けいおん!』はセカイ系の図式において中景だけでなく遠景までをも消去し、近景しか存在しないという構造をつくっている作品として言及されることがあるが[57]、いずれにせよ中景にあたる社会領域は消去されており、空気系のヒットは若者の社会に対する関心の衰退と関連づけられることがある[58]。空気系と呼ばれる作品の中には、意欲的に社会領域との繋がりを描こうと試みた例もあるものの、このような作品で広い人間関係を描こうとするとかえって現実感が損なわれ、受け手が疎外感を感じていくことを指摘する意見もある

http://bit.ly/hhuAsI

2000年頃から「セカイ系」と呼ばれるサブカルチャー作品が多く生まれた。具体的作品名としては高橋しん『最終兵器彼女』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』、新海誠制作の映画『ほしのこえ』が挙げられる。家庭や学校でのなにげない日常を生きる主人公が、国と国との争いや世界の危機に関わる。小状況と大状況が直結し、中間にあるはずの社会が描かれない作品群を指している。  このような作品が流行した背景にはなにがあったのか。90年代にバブルが崩壊、1995年には阪神・淡路大震災、そしてオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。つぶれるはずがないと信じられていた大手銀行がつぶれ、大学を卒業していても就職難にあえぎ、非正規雇用で日々の糧をつなぐフリーターが急増した。良い学校に入り良い会社に入れば一生安定した生活を送れるという「福祉社会」の神話が失われた時代だった。  21世紀初頭はまだ、このような変化が浸透していなかった。団塊世代の親たちは就職難にあえぐ子供世代を理解できなかった。ロスジェネ問題、リーマン・ショックと世界同時不況、覆いようのない格差の広がり。戦後日本社会が最大の危機に陥っているという認識がようやく浸透しつつある。

http://longfish.cute.coocan.jp/swimming/index.php/page/2

物語性の排除

舞台の大半が現代日本の日常的な生活空間(しばしば学校や登場人物の家の周辺[6])に限定され[7]、困難との対峙や葛藤・極端に不幸な出来事・深刻な家族関係の描写・本格的な恋愛といったドラマツルギーを極力排除することで物語性が希薄化されている[8][9][10]。これは、原作が4コマ漫画であるという形式上の理由による面もある[8]。 ドラマツルギーを排除した結果、作品内で描かれるのは実質的には無内容なとりとめのない会話の繰り返し(社会学者の北田暁大がつながりの社会性と名づけたような、自己目的化した形式主義的なコミュニケーション)となり[11][12]、例えば空気系アニメの火付け役とされるアニメ『らき☆すた』の第一話では登場キャラクターの女子高生らがチョココロネなどのお菓子の自己流の食べ方について雑談するさまが延々と描写される[13]。視聴者はドラマチックな展開ではなく、作中で描かれる楽園的な世界の永続を願いながら視聴を続けることになる[14]。一方でこうした、自己目的化されたコミュニケーションを愛して狭義の物語性を決定的に排除するという態度は、一見すると物語性がないようでありつつもイデオロギッシュな物語であるとも言える[15]。

http://bit.ly/InpmTZ

  世界は滅亡しないまま新世紀を迎え、すでに最初の十年さえ過ぎた。古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』によれば、現代の若者たちはコンサマトリー(自己充足的)化しているという。  内閣府の「国民生活に関する世論調査」によれば、二十代の約七割が生活に満足していると回答している一方で、同時に半数以上が不安を訴えている。幸せなのに不安という矛盾した回答の背景について、古市は大澤真幸の説を紹介している。  高度経済成長期やバブル期であれば、今日よりも明日がよくなると信じることができた。しかしバブル崩壊から続く長期経済低迷は、そのような希望を奪った。これ以上の幸せが来るとは思えない将来への不安が「今の生活こそ幸せだ」という回答をもたらしたのだという。  

  乱暴なまとめ方をすれば、九〇年代の不安とは高度経済成長期の「良い大学に入って良い会社に入れば生涯安泰」という、どこまでも人生のレールが敷かれ抜けだすことのできないイメージの残り火だった。安定した、しかし閉塞感漂う日常が終わりを迎えること。突然レールが途切れ虚空へ放り投げられることへの畏れと期待がないまぜになっていた。
 しかし現在、もはやそのような極端な途絶のイメージはどこにもない。仲間たちとのんびり満ち足りた生活を楽しみつつも、同時にそれが永遠ではないと感じている。等身大の日常に満足しつつも、同時にそれが虚しく苦痛であるかのような日々。華々しく世界の終末が降臨するのではなく、ごく現実的な、みじめで卑近で当然すぎる不幸な結末へと向かう、長い長い衰亡期にあるのではないかという不安。  いわば九〇年代が「終わりが来る」もしくはその裏返しである「永遠に終わりが来ない」ことへの不安だったとしたら、ゼロ年代に幕を開けたのは「終わってしまっている」ことへの不安だった。

http://bit.ly/InprXW



虚構への現実の混入

しばしば現代日本を舞台とすることもあっていわゆる聖地巡礼(アニメファンによる作品舞台の探訪)を誘発することがあるが、評論家の黒瀬陽平はそれと関連して「現実風景をトレースしてアニメの背景として利用する」という製作手法の存在(つまりアニメという虚構作品の中に現実の風景が侵食している)を指摘している[注 2]。ほかにもアニメ『けいおん!』の作中に登場する楽器などのアイテムが実在のものをモデルにしていたためそれらの商品の売り上げが一時的に上がるという動きがあったり[注 3]、『らき☆すた』においてオタク文化に精通している者でなければわからないようなパロディネタが作品に多数仕込まれるなど[注 4]、空気系作品ではその虚構世界の中に現実の要素が混入されており、それが消費されている面もある。

http://bit.ly/InpOSl



「コンサマトリー」とは

アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの造語であり、道具やシステムが本来の目的から解放され、地道な努力をせずに自己目的的、自己完結的(ときに刹 那的)にその自由を享受する姿勢もしくはそれを積極的に促す状況のこと。対義語はインスツルメンタル(化)。非経済的な享楽的消費の概念を「消尽 (consumation)」と呼び、非生産的な消費を生の直接的な充溢と歓喜をもたらすもの(蕩尽)として称揚したフランスの思想家・作家ジョルジュ・ バタイユの考え方とも相通ずる現象解釈といえる。

http://bit.ly/InpGlC



セカイ系それ自体は昔は小説がやっていた役割でありロマン主義的想像力の日本版コモディティといえるのだろうけど、だからこそその部分の経験知や実践知への接続のなさ、あるいはある程度その部分を認識しつつもどうしても情緒的なところに傾いてしまうところに不安を持ってしまう。


そういうのは自分との感覚の違いであり価値観や見え方の違いによる偏見とも言えて、なにも大声で太字的に「( ゚Д゚)<あいつらゼロ年代ヲタどもは政経とか実務とか音痴だからぜーんぜんダメだぁ!」って決めつけも現状を外していることろがあるのかなと思うけど、ドイツ国民の心性、ロマン主義のダメダメ感なんかも振り返ってそんなことは想ってしまう。あと、同族嫌悪的に
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380636011.html


オタクというのはいわばアイロニカルな知性主義とも言えて、知性のバロック的になにか普遍的でまっとうな理知のあり方から生まれた奇形のようなもので、バロックはバロックで江戸の出目金のようなかわいさや魅力はあるのだろうけど、やはりそれはリアルな世界認識の場面ではズレるところがあるのではないか?

日本の現状は会社公共圏を中心としたタテマエ的なものがスタンダードになっていて、それが「世間」的な矛盾や嫌な部分、タテマエ的な嘘くささをもっているにもかかわらず「ふつー」として公共してるものだから。そういった世間にプロテストするでもなく、サボタージュとしてココデハナイどこかへ接続し、せつなみなどをブリコラージュしてアニメ空間を永遠していくのだろうけど、やはりソレハソレとしてわける回路が必要なように思う。

訓練、戦略段階では兵站などを整え最悪の場面を想定してもいいけれど、戦術・実行段階においては楽天的に、特に考えないでスタンダードを重ねて処理していく必要がある。あるいはスタンダードなカードを幾つかか抱えておいて、レイヤーを切り替えるなどして効率の悪くなったスタンダードは切り捨て、つぎのスタンダードを選んでいく、というような。


そのスタンダードは100%完璧ではないかもしれないけれど、60%の完成度でも対象に対して有効であればそれでいいわけで、何も最初から100%を目指す必要はない。


自分の目からはああいったサヨク的な辺りはそういった瑣末な「完全」を追求しているように見える。あるいは100%正義というか…。「ニュー速で1000PV行くかなあ?」って自殺した子にしてもセカイ系やゼロ年代のロマン主義にしても、現状認識の部分で厳しい日本の政治経済な現実な現実やつまらない世間の同調圧力があるにせよ、悲観しすぎてほかの世界やスタンダードを知ろうとせずに一気に自分たちのロマン主義な想像力に閉じてしまい、内部でみょーに強度を高め、結果としてそこで作り上げた自分の檻に閉じ込められていくのはあまりよろしくないように思える。

それはナイーヴさを持て余したナルシシズムであり、そういったナイーヴの行き過ぎは毒になる。吉田健一が言っていたように「人というのはもとから悲惨なもので、それを殊更に覗くのは人の裸を覗くようなもの。人が裸になった時のようなものは見るに堪えないのであるよりも見るべきでない」ということ。「そこに深淵が覗いてる」などと殊更に追求すべきではないものがある。


少しそれたので再びオタクの話に戻ると、オタクというのはそういう形でもともとは知性主義のアイロニカルな反転であり、それ自体は知性主義だったわけで彼らの内部で理知のピラミッドを紡いでいくところがあった。しかしそのデータベースが飽和になったのと時代精神の変化が合わさって「データベースを継ぐ(ことが正しいオタクのあり方)」ではなくなったのだろう。それはサブカルも同様で、そういう形でそれらがコモディティなポップに吸収されていった。


なので「オタクの変化」や「サブカルの変化」はそういった一連の現象として現れたものででしかなく、問うべきなのは「時代精神の変化」とその要因なのだろう。ヤンキーの変化なんかにしても同様だけど。


ヤンキーへの注目は自分たち知性主義-文明圏-インターネット圏の住人との感覚の違いへの関心からなのかなあと思う。少し前に「うちらの世界」な文化資本が低い層の生態への関心があつまったように。もしくは「ここにほんとの大衆の群像があった」的な関心。

「ハマータウンの野郎ども」なんかに代表される「少しやんちゃしててもいずれは労働と社会に包摂されていく層。やんちゃはそのための通過儀礼のようなもの」辺りで、そういった物言わぬ大衆、革命時の荒ぶる民衆の準備段階のようなそれが90年代、00年代を通じて消えていったのはその元となる反発する対象としての会社公共圏の規範、および、それを継いだ家庭での倫理意識、規範のあり方が変化したからではないかと思う。

それらはさきほどいった「時代精神の変化」と同じもので、その要因としては労働や居住の形態、経済環境の変化などが基盤となるのだろう。


金の変化が居住や親密性のあり方に影響し、親密性の変化が性のあり方やコミュニケーションのあり方に影響する。それらの変化の中で、取りこぼされた親密性の欲、あるいはコミュニケーションへの欲にもとづいたプロテストや、寂しみやつらみ、せつなみのoutputが「あの辺り」なのかなあと思うんだけど、それらも市場を通じて出されている限りはいずれコモディティとして形式化され古び古典となってあらたな世代にとっては窮屈になっていく。

もっとも窮屈になる前に捨てて自分たちにマッチするものに切り替えられるのがあのあたりの楽なところだろうけど。そうやって特に自分を変えずに、自分の意味の複製のようなものをスイッチしてシミュラークルし、永遠をブリコラージュしつつ自らの価値観をマイナーチェンジするんだかしないんだかぐらいの消費積み重ねてても、どこかで人生のドストレートな問題に向き合わないといけない時が来るのだろう


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あるいは「いつかは向き合わないといけない」といった主題でさえコモディティにされ反復され「○○系」として消費されている、か。




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そこまで悲観的に見なくても、たんに彼らの一時の休息の場として見ていけばよいのかなあ、とも思うけど。。


あるいは村の祭りと同じようにネットの祭りを村落共同体の祭りの規模の小さなものとして捉える。

ネットの祭りの共同性、直列に繋がれたエネルギーやそれをめぐる循環(永遠)する時間。その時間と人口やエネルギーのようなものがもうすこし外に向く契機として儀式やシンボルのようなものを設定できるのかもしれない。


ガルパン聖地、大洗が成功した理由 - Togetter
http://togetter.com/li/593303

聖地巡礼とは (セイチジュンレイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://bit.ly/InnWZL



北欧やケルトの神や慣習、信仰が「聖人」として回収され巡礼というイベントとしてシンボライズされ儀式化され、村や都市の外の世界との接点をもたらしていったように、現代の「聖地巡礼」にもそういった効果が期待できる。

それは地域還元的な経済性もさることながら、むしろそれよりもバラバラだった世界をつないでいく文化装置としての可能性があるのかも。自分と「違う」おばちゃんおっさん層とのゆるいつながり。

そうやってつながった「うちらの世界」同士がすこしずつ円環の理を脱するためのきっかけになっていくのかもしれない。


社会がつまらないのなら単に逃げるのでもなく自分たちで少しずつ変えていけばいい。変えるにしても自分たちの論理を正義正義と過信せずに。自分と相容れない層の合理性も吸収するようにして。スタンダードなものも吸収しつつ。誰かを蔑んだり糾弾するためのつながりではなく自分たちを守るためのつながりとして。











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関連:
エンタメ、オタクコンテンツにおける自由の可能性と「ぼくらの。」世界、の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html


フィリップ・ヴァルテール、2007、「中世の祝祭」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379285806.html




視点・論点 「"さとり世代"の本音」 | 視点・論点 | 解説委員室:NHK
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/173883.html

コンサマトリーなわたしたち消費な日常系で、経済のボリュームが小さくなったのに対して情報量が高くなったために情報の非対称性がhackされ、それまでの幻影に基づいた消費への判断保留 → 「世間的ステータスよりも自分たちのコンサマトリーなマンゾクのほうが大事」となったからだと思うんだけど、なぜかこのひとは「横の空気を読むのは得意だが縦は不得意」とか「情報を消費しただけでやったつもりになる」とか決めつけるみたい。「縦」の空気読むのは不得意っていうかサボタージュしてるだけかもだし、「やったつもりになる」のも幻影消費的な部分を自覚してるからだろう(cf.食品偽装という幻影


posted by m_um_u at 15:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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