2013年11月29日

鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」






最初に、

この本は当初「拡張現実の技術動向」を調べる企画だったそうだ。でも東日本大震災を通じて、そして著者の関西-神戸圏の居住による影響なんかで内容が変わっていったみたい。


「拡張現実の未来、というか、多孔化する現実の中で蝕まれている若い子たちや切り刻まれていく公共性や社会性、そして薄れていく震災の記憶を目の前にもっとやれることはないか?」

そういった問いと祈り、あるいは、「娘たちのためにいまできることを懸命に考えていた記憶」として本書は編まれた、とのこと。

なので本書の結論部分は「手堅い分析」や「まとめ」というよりは意志のようなものを感じた。


以下「おわりに」から。

 本書は、震災と、それに続く多くの営みに対するそうした距離感の中で書かれた。現実の多孔化と、それによる共同性の継承の困難という本書のモチーフは、そのまま現在の神戸で起きていることでもある。そして20年近い時間がたてば、かつての選択がどういう意味を持っていたのかも明らかになってくる。
 現在、新長田の商店街では事業採算のとれない再開発を進めた神戸市に対する訴訟も始まり、震災ではなく、震災復興の負債を誰がどう払うのかが争点になろうとしている。しかし、記録を見ると商店主たちが、決して甘い見通しの中で再開発ビルに入居したのではないことは明らかだ。2000年の時点で、店舗経営者たちの四割が「ビルの中での営業がうまくいくとは思えない」と答えていたというデータがある。その人たちはおそらく、状況を冷静に見据えた上で、それでも前向きに、希望の選択として現在の道を選んだのだろう。そうした経緯を知ってなお「復興」を、いま行われている明るい取り組みだけを根拠に「かつてよりもよくなるはず」の選択だと信じられるほど、20年後の被災地の姿は明るくはない。
 だからこそ本書では、現在だけでなく、娘たちの世代が大人になる20年後に読み返されることを意識の根底に置いて執筆した。単純にあたっているか外れているかという、未来予測の問題ではない。20年たったときに、そのときの若い世代が自分たちのために書かれた本があったと思えることが大事だと考えたからだ。
 人が人に遺せるものがあるとすれば、それは物理空間の環境と情報、つまり「場所」と「智恵」だ。場所の復興が進んでも、智恵が継承されないのなら、私たちは次世代に対して半分の責任しか果たさないことになる。そして遺すべき智恵とは、失敗の記録や、そこからの学習だけではないはずだ。現在の時点から20年後に向けてゆっくりと遺されていく、未来の人のための智恵を生み出すこともまた、現在の人々の責任ではないか。








以上を念頭に、改めて本書の内容を振り返っていこう。



以下は本書の射程や問題意識、内容を簡単に。


インターネットを基盤としたコミュニケーション、特にLINEやついったーなどのCMC(Computer Mediated Communication)の発達によって時間や場所を選ばない情報のやりとりが手軽に行えるようになったが、それを複数の人からやられると「送信者は複数」なのに対して「受信者は一人」なので実存が孔だらけになってしまう、ということ。

スマホなんかを介して現実にサイバーな視点をインポーズしていく技術は拡張現実(AR = Augmented Reality)として最初期待されたし、いまも期待されてるのかもしれない。具体的には「攻殻機動隊」で素子なんかが行っているコンピュータにネットワークして検索した情報が脳内 → 視覚に直に反映されるもの。あるいは「ターミネーター」でもいいけど、それを「ニューロマンサー」介してサイバネしてネットワーク化したもの。「電脳コイル」なんかがより日常的な馴染みがある。










スマホなんかだとLayerやセカイカメラなんかが有名で自分もワクワクしたものだった。知らない場所にいっても勝手にウィキペディア連動みたいにしてそこの情報を検索できる、とか。あるいは誰かが書き残したその場所の情報を見られる、とか。「アースダイバー」のネット版だし、実際アースダイバーのそれ系プロジェクトはつづいてたな。
http://e.mapping.jp/


……話戻すと


拡張現実はそうやって「現実2.0」な未来に接続すべく期待されたギミックだったわけだけど、「ある意味拡張現実」ともいえるSNSにネットした現実は却ってそれぞれの生活の時間や余裕、実存を脅かすものになってしまった。具体的には若年層にある「LINEなんかでつながってないとハブられる(´・ω・`)(……って焦り)」「でもつながってればつながってるほど寂しくなる(´・ω・`)(……のはなぜ?)」って現実。ついったなんかでもいいけど。

「自分がTLとかグループチャットにいない間に楽しいことが進んでるかもしれない」「でも、みんなが楽しいことをつぶやいてると自分はそこから疎外されてる気になる」

http://diamond.jp/articles/-/44733
http://diamond.jp/articles/-/43992

ちょっと本書からはそれるけど、おそらくそれはそこで交わされてるのがグループ内でのKYに基づいた言表の交換で、「場の空気に合う話題」に基いて選定された限定された話題カードの中から自分の言うことを選ばなければならない権力ゲームだから。貴族ほかブルジョワのパーティなんかでやっていた衒示的コミュニケーションのコモデティティ化したもの。「わたしこんなにお金持ってるのよ?」「きれいなのよ?」≠「たのしいしキラキラしてるのよ?」を見せびらかし合う。

なので、そういった話題に楽しさを感じなくても、そこではその話題をしなければならないことで実存が削られていくのではないかと思う。あるいは、若いと「自分が楽しくない」「なぜ楽しくないか?」ということまで詰めて考えられず「楽しくないのは自分がキラキラしてないからだ!」って繰り返しになっていくのかもだけど。


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もちろんキラキラした方向、明るいほうへ自らを敢えて投企することでテンションを上げていくってことが功を奏すこともあるだろうけど、キラキラをあまりにも主軸にしすぎてしまうとそのキラキラに自分が食われてしまう。そのキラキラは資本主義的市場原理で設定された価値観に基づいたアイテムや余暇なことがほとんどなので。それをあまりに主軸にすると市場原理のランキング、マトリックスに基づいた価値観を無意識にインストールし、気づかないうちにそういった価値観で他人を査定することを当然と思うようになる。そのマトリックスには自分も無自覚なうちに投入されているので、内側に取り込んだその規範が自らを蝕むことになる。

「わたしこんなにデブだからダメだわ」「わたしこんなにブスだからダメだわ」「もっとキラキラしなきゃ」






ママ友カースト
https://cakes.mu/posts/4071
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女子大カースト
https://cakes.mu/posts/4195



そういった基準は知性面では「他人評価や自己評価を他人、世間の視点に借りてる」ってことで、「他人に地図を借りるのではなく自分で地図を作りなさい」って話になる。ライトを自分で灯して。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380874839.html



…閑話休題

てか、まあ関心が隣接してるのでどうしてもまとめつつ自分の関心がつながるし、流れとしてはソッチのほうが楽なのでこのまま「ウェブ社会のゆくえ」の主題をまとめつつそこで連想したことをリンクさせてくか。んじゃ、つづき。


SNSは現実にいろいろな情報を付け加えて付加価値を与えてくれるもの、という意味では拡張現実といえたけど、そこでの使用の現実、利用と満足は「使えば使うほど寂しくなる。。でも使わざるを得ない」という依存を招くものだった。「害だとわかってるのに使ってしまう(使いたいという欲求が現れそれを抑えがたくなる)」というのは依存。

そういった依存によって自分の心や時間を削られていく。複数の場所から発せられるメッセージをして実存的身体-精神を孔だらけにされる現状をして著者は「多孔化」と名づけた。「拡張現実」に寄せられたポジティブなイメージに対してのネガティブな現実、使用者の現実としての「多孔化」。フォルダ的には「拡張現実¥多孔化」ということになるのだろう。

そういった情況は少し抽象化すれば「価値や意味を複数の他所から一方的に送りつけられている」ということになる。

他人が決めた価値、それに基づいたシンボル、内容をとりあえずは受けなければならないという現状。

「SNSとかは一方向コミュニケーションではなく双方向なんだから返せばよいのでは?」といっても複数に対してそれをやっていると疲れるし時間を食う。特に本心でもなくKY的に気遣いしなければならない話題の場合。「返さない、メッセージをpostしないでTLを見ているだけ」でも「みんなあんなに楽しそうなのにあたしは…」ということで心を削られる。


また、そういった個人的な実存の危機だけの問題ではなく、「現実 < ネット」になることで現実の意味的比重が低くなっていく。

たとえば顔を突き合わせているのに目の前でスマホを使っているパートナーに対して「失礼だな」と思ったり言ったりするとき、「現実の、目の前の自分のほうが優先されるべき」という価値規範が無意識に前提となっているわけだけど、その前提としてあった「現実にそばにいる人のほうが親近感は強い」という論理が崩れていっている現状がある。「顔を合わせていても心の距離ではネットの人のほうが近い」というのは現代家族やリア友な現場でよくある話なので。それは「現実よりネットを優先する、ヴァーチャルを優先するネット中毒…こわいですね…」って単純な話でもない。

ネットの特定の場はコミュニティの一つにすぎないし、ネット登場以前にも「家族」や「友人」とは違ったコミュニティの場はあったし、「家族よりクラブの友人のほうが近く感じる」あるいは「家族より友人のほうが近く感じる」ってことはあった。それがネットに広がっただけ。だいぶ前からネットは現実と地続きだし、単純に分けられるものでもないので。「複数のコミュニティに同時に繋がれる」などの特性から使い方に注意すべきなだけで。

加えて言うと「ヴァーチャルなコミュニティ」ということだとテレビを介した擬似的なコミュニティと参加意識のつながり、「これが日本国民として当たり前の姿」や「これが一般的な日本語」という意識の共有なんかが以前からあった。さらにいうとこういうのは「想像の共同体」ってことでテレビだけでもなく印刷なんかのマス媒体を通じて一気に広がっていった。


そういった場を通じて蓋然的な公共圏がなんとなくつくられていた。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html


親密性も旧来の基準からは変化した。

かつては「家族だから親密」とか「友人だから親密」「恋人だから親密」ということで、制度的な属性、あるいは属性が当然化する距離感(近接性)が親密性を担保するよすがになっていた。それはたとえばセックスをするかどうか悩むとき「恋人だからここまでしても当然」ということだった。

現実のコミュニケーションでは距離や場の選択に制限があったため近接性、すなわち「同じ家族の食卓に付いているのだから」「いっしょに暮らしているのだから」などは親密性と不等号で結ばれていた。しかしウェブになるとその距離のくびきがなくなり関係や場も自分が好きな様に選択できるようになった。これにより近接性という身体的な感覚によるなんとなくの納得は失われ、親密性の判断基準が「愛しているかどうか?」に変わった。

制度的な近接性の区分けという他者によって与えられた規範、から、自身の中での実質的な内容、「本当にそれをするべき親密な相手(関係)なのか?」を問うことになった。

流動性の高いネットのコミュニケーションにおいては関係の切断や切り替え、ペルソナの張替え、黒歴史などの消去が簡単にできる、ということ。


既存の制度的な役割による安心を放棄したこと、あるいは、「放棄する」というはっきりとした選択ではなく、「なんとなく家族だからって仲良くしなきゃいけないってのも変だな…」って居心地の悪さが現れるようになったこと。その背景には産業構造や人口移動、労働や生活環境の変化があるのかなと思うけど、そういった話はとりおえずここでは主題とならない。

「家族なのに半ば他人」的な具体的なイメージは「家族ゲーム」の時代の前後から表れていたようにおもう。それがより先鋭し、新たに意味を組み直そうという試みが「トウキョウソナタ」や「そして父になる」といった作品群に表れている。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html

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「そして父になる」ではウェブの影響は描かれてなかったけれど、個室・個テレビ・個PC(スマホ)が当たり前な現代、現実にシェアハウスのように家族している人たちも当然のように存在する。そういった関係-距離感がウェブによって加速された、のだろうか。

親密性の内容を外部からの意味、場の制約によって規定されるのではなく自身で場を選択し「親密な関係」をより自由に選択できるようになった、あるいはゆるやかに「家族だから」「恋人だから」的な規範からの当然をズラすようになったのと同期するように、ペルソナも複数に分かれている子どもたちも出てきているのかもしれない。

そして「家族」「クラス」「学習塾」「テレビ(アニメ)」「ネット」などといった複数の世界の使い分けの中でペルソナを分けるが、特にネットにおいて複数の場や価値を環境的には選べるようになっても、当人の精神や理知が発達していないためにけっきょくは「自分」と似たような強度と情報の質をもったものを何枚も重ね、複数の価値の中で実存を分断されていく。自分のマイナーチェンジな理知からでは自分を取り囲む重力から脱出できるだけの跳躍力が得られないから。



複数の場で複数のペルソナを要請されるようになったためにそれに合わせて親密性も分岐していったのか、親密性の分岐が複数の場に合わせたペルソナを用意したのか、その因果関係はとりあえず置くとして、

これにより「われわれの」というときに意識するものが複数になった。つまり公共性が分岐した。

それは親密圏での出来事ということで従来の意味での公共圏のイメージとは異なるかもだけど、「われわれ」全体を包んでいた公共性と公共圏が複数に割れた。




そういった公共圏がネットを介して複数つくられるようになり、それぞれが分断され「うちらの世界」の論理に閉じこもっている現状がある。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380332335.html




そうやって「意味が一方的に押し寄せてきて現実や実存が潰されそうになってる」「かつての公共性-現実は解体されようとしている」という情況に対して、「じゃあ、逆に現実に『われわれの』意味を貼っていけばよいのでは?」と著者は言う。


「現実の意味を新たに自分たちでhackしていこう」という基本方針は自分も同じなんだけど
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html


(既存の制度や規範、市場の論理によって押し付けられた「意味」「空気」「役割」ではなく、自分たちで新たに意味付けしていくこと。世界を意味的にhackしていくこと)


「その意味を共同性 → 社会性(公共性)へと繋げ持続していくために忘却の危険性のある歴史や記憶をシンボル(メモリアル)や儀礼的形式として残し反復していくことが大事なのだ」とする結びは少し留保したくおもった。


具体的には震災の記憶なのだけど、その参考として長崎の慰霊碑の記憶の変化、記憶を風化させないための儀礼の変化と対象となる公共性の範囲の変化が挙げられていた。

長崎の慰霊は最初、遺族たちによるもので、そのとき儀礼の挨拶は遺族や死者に向けてのものだった。それが式典の公共性の範囲、対象とされる「われわれ」の範囲が広がるのに加え、式典が実行委員会方式で行われるようになってから挨拶の方向が変わっていった。挨拶は死者から生者(客席)に向けて行われるように変化した。


それは公定ナショナリズムに近い制度的な儀礼の形であり、かつての遺族たちの「われわれ」意識や記憶はその儀礼が前景化するのと反比例して薄れていった。2つの間に直接の関係はなく、被爆者や遺族の高年齢化によって記憶が薄れていった、ということではあるのだろうけど。

遺族の記憶や儀礼への意味付けが薄れていくのは儀礼の内容変化とは直接の関係はないのかもしれない。その意味で「どちらにしても遺族の記憶が消えていくのなら、まずわかりやすい儀礼やシンボルを残し、そこにわかりやすい話を残していくことで最低限『ここでなにがあったか』を忘れられないで済む」という話であれば、それはそれで了解できる。

しかし、、やはりそれは妥協であり、遺族やその周りの「ほんとの記憶」「気持ち」が取り残されていくように思うのだ。特にヒロシマに住んでいた身としては…。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/39864267.html




「そうではない。公定ナショナリズムのように上からの統合でどれかひとつのやり方を押し付け、代わりに何かを後景化するのではなく、それぞれの記憶や思いはバラバラに保っていながら必要とされた時にまとめ上げるような仕組みやシンボルを設定するのだ。

そうやって遺族たちの記憶、死についての思いや記憶、そこに新しい世代の意味を結びつけ現実をhackし、忘れ去られないようにする。震災も、被爆も……あるいはそういった悲しい歴史だけではなく、かつての『われわれ』が生きた喜びや生の躍動、『ふつー』の人々の生活の息づかいを」


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もしそうだとすると、そういったことを期待して良いのだろうか?


あるいは、期待というよりも「われわれ」でそれをやっていく、ということか。



うまくいくかどうかわからないけどとりあえず次の世代につなげるために、われわれがそれをやっていく…。


記憶や<私>、公共性がずっと持続するものではなくそのつど生み出され構築されるものだとしたら、自分たちでそれを意識的に良いほうに誘導することも可能なのかもしれない。



ネットと学校の狭い「世間」の中で自分を削って自殺していく子

歴史修正されるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ウィキペディア界隈の様子

あるいは、「ダークツーリズムってロマンぶち上げるのは勝手だけど持続するには金の問題なんだよけっきょく(どこから金もってくるの?)」って話をTLやぶくまで見つつ、そのことの可能性をぼんやりと思った。




















(「わたしたちであらたに意味を付与して現実をhackしていくこと」の例として観光-聖地巡礼が挙げられていたけど、その元となる日常系アニメとセカイ系のリアリティ、それとウェブの接続について、そのあたりの共同性―公共圏の可能性についてモニョモニョしたくもあるけど項を改めることとする)



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関連:

自殺配信した女子中学生「ろろちゃん」が残した2chやツイッターへの書き込み  彼女はなぜ自殺配信へ至ったのか | ニュース2ちゃんねる
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-3111.html

「クラス」「塾」「親」「ネット(ニュー速)」「アニメ」ぐらいの狭い世界の中で、親と学校の規範へのオルタナをアニメぐらいでしか築けなくて、自分の価値を「そこで認められること(目立つこと)」で置き換えてしまったことに、どうしようもないやりきれなさみたいなのを感じた

「アウシュビッツで生きのびた人は、愛を実践した人々、美を意識できた人々」というわかりやすく切り取られた「過去」と善意の伝言ゲームの - Google 検索
http://twitter.com/m_um_u/status/405826264134467584
http://twitter.com/m_um_u/status/405826628397178880


木曽崇氏(国際カジノ研究所・所長)の福島第一原発観光地化計画の採算性に対する疑問 〜東浩紀氏は返答できず逆ギレ→津田大介氏がとりなして終了〜 - Togetter
http://togetter.com/li/595181

この話自体は「しろーとが口出しすんな」的なお金事情を出してきてて、そういう話は記憶の持続や実際にそこで住む人の生活→持続のために必要だよなあ、とは思うも、だからといって金の問題さえ解決すれば地元民の大切な思い出や気持ちは救われるのか?(満足に至るのか?)ということをヒロシマに住んでた時のヤキモキを思い出しつつ想った。<持続>が金と気持ち的な満足でうまくいってる例としては二子玉川ショッピングモールと地元商店街の関係なんかをちょっとおもったりする。

ガルパン聖地、大洗が成功した理由 - Togetter
http://togetter.com/li/593303

パネルなどのフラグに「ガルパンで訪れてきた人」「話しかけられそう」を判断し話しかけていったことが効いたみたい。



デジタルネイティブを取り巻くコミュニケーションの姿とは?――ネット時代の文化人類学
http://synodos.jp/intro/6299/3

「安心社会から信頼社会へ」でもあったけど別件から「不確実性回避傾向が高い」がでてる。「ネット利用の不安感」「4次ぐらいのところへの薄い紐帯へのアクセスが弱い」も。



近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html


教養市民層が理性・科学を身につけていってハード的なところでは豊かになったけど、宗教・実存につながる精神的なところは回収できなかったために現代でもしばしばその部分の浮遊が問題になる。




笑いの名前: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381152482.html

分人化されたそれぞれの場面で便利に使われていく口語のテンプレとしてのテレビ的「お笑い」の形式。会話の符丁など。
テレビ公共圏で育まれるそれはその形式のみならず価値観や倫理観のようなものまで若年層に影響していく。
あるいは、世間の価値や倫理を取り込み、それを市場向けに「ウケる」用に編集しなおし強調するためにデフォルメしたものがテレビ的「お笑い」の形式。

その形式や価値観はテレビ用に強調、演出されたものだから現実とは違うのだけれど、若年層を中心として再帰的に現実に取り込まれ反映されていく。

その代表例がキャラ問題 → いじめと境界の判然としないゆるやかないじめのように思う


テレビ公共圏と震災について(パペポテレビ)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7931422







フランス革命の背景とか要因について(暫定)   公共圏論を中心に: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381322488.html?1385552172

公共性(共同性)は持続的にあるものではなくそのときどきに創発されるもの





「赦す」のでもなく「忘れる」のでもなく「そういうもの」として流れていく、ということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/221532065.html




posted by m_um_u at 10:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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