2013年11月25日

笑いの名前


stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus
 
 過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり












笑いについてまじめに語ることぐらい笑えない、という意味で笑える話もないもんで、その辺語るってのは野暮だし、吉本隆明も「タモリが真面目語ったら終わりだ」っていっていたように

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芸人が自分の芸の内実について語るってのはマジシャンがマジックの種明かしをするぐらい野暮なものだと思うわけだけど、「ソースソース!」「コンプラコンプラ!」とスパムだかクレームだかな一億総お客様中流うるさい昨今、マジシャンはただ黙って舞台袖から消えるってわけにもいかないようで


「ふーむ」やめたついでにいろいろ言っちゃおうかなコーナー - jt_noSke's diary
http://jtnoske.hateblo.jp/entry/2013/11/23/230829



この件についてはもう解決しちゃってるんでいいっちゃいいんだけど、なんか昨今ジョークとは思えないものを「これはジョークで高等な笑いなんだ―」っていったり「モンティ・パイソンとか談志のわらいなんだーユーモアがわかんないのかー」とか言ったりしてヲイヲイこっちに飛び火させんな的なアレを感じさせる案件とかあったりしてグズグズついったーでつぶやいてたりしたんだけど、あのへんが笑えねーのはまあ仕方ないし、集団でボコってるのもなんか「…参加したくねえなあ」って感じの野暮さというかカッコ悪さみたいなのあるのでそことは距離を取るとして



そもそも笑いってのはどういうことなのかな?っていう根本的な問いを立てていろいろ調べて自分なりにまとめたほうが俺得だなってことで今日もそういう自慰的な日記


ユーモアの定義はエスプリと比べると漠然としていて、確固とした定義は出来ない。[3]古来、文豪や作家達が、ユーモアに対して様々な定義を付けている。またウィットとの境界線も明確ではなく、両者が混同されることもある。[4] 18世紀後半、ロマン主義が盛んになる中で、哲学者や文学者達は、ユーモアの定義づけと考察に奮励した。その中心人物であったジャン・パウルは、ユーモアについて、世界との関連や、パロディや冗談との差異など、様々な観点から分析、考察を行い、大きな業績を残した。また、ゾルガー、ゲーテ、ヘーゲルらも、ユーモアに対する独自の解釈、研究を発表した。

http://bit.ly/Id4aQr

元々ユーモアとは体液を意味する「フモール」という言葉であった。ヒポクラテスが、人間の健康は四つの体液から構成され、どれか一つの量が基準値を逸脱すると不調になるという『四体液説』を指摘するようになると、次第にユーモアの示すものは体液から人の体調へと変わり、さらに、調子の変わった人物を指す意味へと変化した。医学、生理学用語であった「フモール」を、美学的な用語である「ユーモア」として使い始めたのは、ルネッサンス時代の文芸批評家達であった。[5]そして、17世紀になってイギリスで気質喜劇という形式の演劇が勃興すると、おもしろさ、おかしさ、滑稽さ、特異性などを意味するように、語意は変遷した。エリザベス朝時代のイギリスでは、奇矯であることが魅力的であるという風潮が一部にあり、奇矯な振舞いが横行し、「ユーモア」という言葉も、濫用と言われるほどに流行した。[6]ベン・ジョンソンやウィリアム・シェイクスピアは、こうした風潮に辟易していた。

http://bit.ly/Id4aQr

特定の相手がいる場合が多いが、自己満足的である場合もある。具体的な行動としてのいたずらも含まれる。人間同士のコミュニケーションにおいて、会話を弾ませるための潤滑剤として用いられる事もある。 ユーモアを理解し、創造するには、言葉の教養が必要とされる。[8]また越境性に乏しく、異なる言語のユーモアは理解しにくく、「翻訳が困難である」と考える学者もいる。[9] 相手の立場を思いやり、自分と相手を対等の階梯に置いて接する人にしか、ユーモアのセンスは持てないと言われる。相手を見下したり、逆に卑屈になったりする人には、ユーモアの資質が欠けるとみなされる。

http://bit.ly/Id4aQr

ユーモアに関係する概念としては、具体的な小話であるジョーク、単純な言葉遊びである駄洒落、より複雑で知的な言葉遊び、冗談、法螺(ほら)などがある。風刺の場合は世間の事象に対する鋭い観察や社会的な批判の視点が強い。ギャグの場合はたわいのないおかしさを狙うものである。 人の行為、かかわりについての深い洞察や世知の豊かさが、上品でセンスのあるユーモアを生み出すことが多い。知的な要素が強い場合は、機知(ウィット)と呼んだほうがよい場合もある。

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特定のユーモアは、人によって不愉快、気が利いてない、つまらないと感じられる場合がある。例えば、知的なセンスの誇示の手段としてユーモアが用いられた場合、自己顕示が強くなりすぎるとペダントリー(衒学趣味、知ったかぶり)に堕すこともある。性的なニュアンスを含んだユーモア表現として下ネタもよく使われる。これは行き過ぎるとセクシャル・ハラスメントとなる。 単にほのめかすだけでなく、異様にグロテスクな話題を出す時、宗教・生命・差別などに関する常識的な倫理や禁忌(タブー)にあえて逆らい、世相と人柄を皮肉ったユーモアは「ブラックユーモア」と呼ばれる。穏やかなユーモアと比べて不愉快に感じる人間が多い一方で、その刺激を楽しむ人もいる。または差別の対象となる人間が、あえてブラックユーモアを口にする事もある。

http://bit.ly/Id4aQr


Wikipediaの「ユーモア」のところほとんど引用しちゃったのでタブ2つ開いてそっちみたほうが早いっちゃ早いんだけどまあいちお。


ここからするとユーモアってのはまずもって人間愛的なものが必要ってのがわかる。相手の立場を思いやる、ということ。そのうえでその場を和ませるためにやるもの。会話の潤滑油。なので、それによって場の空気が悪くなったり、嘲笑うような感じになるものは笑い自体は生じるかもしれないけど芸としても二流ってこと。このへんは内海佳江師匠なんかもよくいってることみたいだし芸人話だとふつーにいうことだとおもうけど、「笑わせても笑われるな」、ってのはそういうのも含めた話だと思う。ただ、「芸として一方的に笑わせてやったんやー(`・∀・´)エッヘン」、てのもなんか得意げになっててユーモアのセンスないなあとか思うけど。


上岡龍太郎「芸人論」裏付け - お気楽、お気軽、心置きなく。
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上岡龍太郎も言っていたように「かつては芸人はプロの芸をみせるものだったがテレビの時代になって芸人がしろーとぶりをみせるところが芸になってしまった」って話。具体的にはパペポテレビで組んでた笑福亭鶴瓶なんかが擬音と体の動作で視覚的に状況を表そうとしていたことに対して「君のはプロの芸やない。しろーとのプロや」みたいなこと言ってたような気がする(要出典)。そういう話は永六輔なんかも清水ミチコの人に言っていたように思うけど(「あなたはアマチュアのプロだね」)、まあそれはいいとして、、


そんな感じでしろーとでありチンピラが前面に出てきたのが紳助隆介だったし、それをもっと高速にしたのがダウンタウンだった。横山やすしをして「おまえらのは芸やない。チンピラのダベリじゃ!」みたいなこと言わしめてたと思うんだけど、けっきょくはテレビ全盛時代の高速の笑いに乗っかるようにダウンタウンの笑いは世間を席巻していった。ただ、それは古い形の「噺し家」とか「漫才師」ってものではなく、「テレビのお笑い」という形を90年台的に構築したものだったけど。とにかくテンポが求められたので

速さっていうことだと80年台お笑いブーム時、ツービートの他にB&Bも高速の笑いを得意としていた。そこで求められるのは口承文化圏の語りと抑揚(cf.バナナのたたき売り)ではなく会話のテーマをどんどん切り替えていく速度と機転に変わった。たけしと洋七の両者とも機転の速度、滑舌とも引けをとらないものだったように思うけど、時代はたけしを選んでいった。


ビートたけしの時代、たけしが作り上げていったテレビ芸をして北田暁大は「純粋テレビ」と名づけた。
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録画した映像をタレントがスタジオで観覧するところを愉しむ、という状況。それは少し前ならば考えられないような「芸人が芸を見せるのではなく、ただ芸人が笑っている状況を見せる」という状況で、芸ではなく単なるタレントの普段の姿、楽屋や居酒屋での談笑の様子ってことだった。

芸人、タレント以外のひとをテレビの舞台に引っ張り込むことで芸を持ってなくても「自分はシロートではなく芸人(タレント)」ということをいつの間にか既成事実にしてしまった。そのとき「テレビですから」からという暴力が通じるようになり、そのテレビの暴力によってたけしは殺され、テレビ芸人が残って芸人は去っていった。

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アメトークだか水道橋博士だかも言っていたように思うけど、そうやって芸人の消えた空間に残ったのはサラリーマン化したタレントだけで、彼らは「テレビ」が求めるサイズの笑いを提供するための部品として要求されるようになった。その最たるものが「ガヤも芸」「ひな壇芸人」と半ば自虐的にかどうだか言うようになったことで、それ自体はもはやその辺のコンパのノリと変わらないものになってる(あるいはコンパやホストなんかがテレビの様子を真似てって再帰性もあるだろうけど)。そしてプロデューサーの求める笑いを演じさせられ、キャラや台本も作られ、その部品としてプロデュースされ消費されていく若者たちが増えた。


芸人がいた空間、あるいは芸はテレビからは消えた。もしくは「テレビ芸」と彼らが自らをブランディングするための呼称とパフォーマンスのみが残った。

そしてビートたけしの最後に事故がダメ押しし、北野武が残った

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では芸や笑いはどこにいったか?といえばスタジオにも未だあるのだろうし、そのテレビ番組を見て楽しみ笑う人達もいるのだろう。ただ、かつての噺家や芸人たちの芸や笑いは消えた。


もしくはライブや劇場ではまだそれはあるのかもしれない。



そういった笑いは単なる一方通行の「笑わせ」っていうのとも違った、その場全体の空気を弛緩させ、場の空気を良くするものなのかも。


「笑わせてやったぜー」的な形式にとらわれたそれはいつしか独善に捕らわれておもしろくなくなるものなのだろう。笑いというのは相互作用であり、一人では創りあげられないものだから。

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そしてこれは哲学は体で覚えるものだということなんです.ところが一方で,小三治師匠はこう言っています.「セリフは教わったまんまでもいい.特に,噺の口調もできておらず,人物のメリハリも満足につかない初心の段階では,まんまでなくてはいけないくらいだ」(『落語家論』17頁).これはあくまで修行の段階でして,そういう時期も経なければいけないということのようです.  問いを畳長に繰り返します.〈藝〉が個性的であるというのはどういうことでしょうか.「演者が消えて登場人物が現れる」という言い方がされます.これは個性的ということとなにかしら関係がありそうです.演者の自分を消すことが〈藝〉なのでしょうが,話の中の登場人物をリアルに押し立てる〈藝〉とはいったい何なのでしょうか.  音楽の場合を考えますと,演奏とは楽譜に書かれていることの再現ではありませんし,またどこかの名人の演奏を反復・模倣することでもありません.演奏とは常に解釈なんですね.英語で演奏のことを interpretation と言いますが,そういう事情をふまえてのことです.同じことは落語にも当てはまりそうですね.見巧者・聴き巧者の多いこの世界のこと,私などが大きな口は叩けませんが(冷汗タラリ),さきほど来,引用し拠り所とさせてもらっている柳家小三治師匠はそう言っています.  落語が〈藝〉だというのは,落語が題材の interpretation(解釈)だということです.解釈なのですから,演じるたびごとに違う解釈になってもおかしくありません.解釈,これは頭で解釈することを意味するだけではなくて,身振りや声の出し方まで含めた総合的な実践だと思いますが,解釈の結果現れてくる演技は,解釈の一つの表現ということになります.この解釈が〈藝〉なのではないでしょうか.〈藝〉が個性である以上,他人から教わることもできないということになります.自分で探すしかありません.この辺は,「自分とは何か」という実存的問いにおける「自分」も同じでしょうし,「幸福」や「自分に適した職業」といった言葉で意味されるところもそうでしょう.

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「われわれが、他者がある振る舞いにおいて何をしているのか −何を意図しているかではなく、端的に何をしているか− を直観的に判断できるのは、自分自身の振る舞いとそれによって追求される有効性の関係を規定する、なんらかの法則性を身体的に理解しているためだろう。振る舞いには表れない本来の意図を推測したり、振る舞いの背後の感情に配慮したり、振る舞いの意味を解釈したりすることは、このような直観的な判断に対する事後的な補正としてのみ可能であると思われる。…有効性を追求するさいの振る舞いにおいて等しい身体 −これを「相互身体」と呼ぶことにする− が共有されているという前提に立っている点で、このような直観的な判断を、「相互身体的判断(intercorporal judgment)と呼ぶことにし、また、この判断によって他者の行為に有効性を認め、技法を発見しようとする視点を、「相互身体的視点」と呼ぶことにしたい。」(pp.127-28)

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そういったものを理解していないとテレビ芸人がお笑い番組で内部いぢり的にバスケットボールをぶつけたり、あるいは鬼ごっこ番組で途中で棄権したりしてもみょーなdisりをついったーやネット上で展開することになるのだろう。そういう場面での笑いはまずその場での「お約束」的なものを理解できてないと冗談としても通用しないってやつ。「お約束」というのはメッセージの発信者と受信者との間に、メッセージ発信以前に前提とされているルールのようなものでありKYなんだけど、ここでのわらいというのはそれを前提としつつそこを外したり速度をはやめたりして起こすものだから。

全体的にはまずなんとなく共有される常識-コードのようなものがあって、それを外したり裏返したりするところで笑いは生まれる。

あるいは緊張と弛緩。


桂枝雀はそれを「緊張と緩和」と呼んだようだけど、シンとボケと言ってもいい。あるいは常識とボケ。


ある程度情報を与えて全体の期待(シン-緊張)を高めていって、その予定されたシンから外したり早めたりする所から笑いを生じさせる。あるいは全体を普段の常識からずらしボケを高めていってそれを常識に戻す。ボケが長くなると冗長性が発生する。

桂枝雀は笑いは緊張の緩和によって起こるという理論を立て、それと平行して落語の落ちを4種類に分類した。観客がどこで笑いを感じるかに視点を定め科学的な分類を実現した。[1]

ドンデン 物事の展開がいったん落ち着きや一致を見せることによって観客の心理が一度安定に傾き、その後に意外な展開になって不安定な方向に振れることで、落差により笑いが起きる。逆のパターンが「謎解き」である。

謎解き 物事の展開が観客にとっての謎を生むことで心理が不安定に傾き、その後に謎が解決して安定することで笑いが起きる。逆のパターンが「ドンデン」である。

へん 安定状態を経由せず、通常の状態からいきなり物事が不安定な方向に逸脱してしまう作用によって笑いが起きる。逆のパターンが「合わせ」である。

合わせ 不安定な状態を経由せず、2つの異なる物事が合致してしまう安定化の作用によって笑いが起きる。逆のパターンが「へん」である。

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枝雀のこの説明では話芸の中でシンをつくりあげていき、その落とし方を説明しているけど、そういった話芸的なものがない場合、求められない場合は共有する常識の内容部分だけがシンとなる。その部分をどう裏返していくか。


原理的にはそれは赤ん坊にいないいないばあをしたときの安堵とほほ笑みと同じなのだろう。

ただ、人は言葉と概念を覚えていくに連れ内面が複雑化するので、その内面に合うように話芸を通じて観客のシンを走査(スキャン)し、「掴んだ」と思えたときにそれぞれのパターンで落とす。あるいは冗長性を作り上げてそれを落とす。

ゴムひもを想像するといいと思うんだけど、あれをたわませていくのがボケで張っていくのがシン(緊張)。弛めたゴムを一気にピンと張る=隠れていた常識(ツッコミ)が「バァッ」と姿を現す。あるいはピンと張り詰めたゴムの力がズッコケを誘うボケで一気に放出される。そのときのエネルギー=運動、現象が笑いということ。

あるいは味覚で説明すれば、ベースとなる味が常識や社会規範で、エスプリが香辛料、ウィットは砂糖などか。基本の味の整えは基本的なツッコミという塩で人によっては塩加減が強すぎたり調度良く感じたりする。日本の叩きを中心としたツッコミ(塩味)は一般的には外国人には強いみたい。エスプリは大人の味だから子供にはわかりにくいし効きすぎてても料理の味が悪くなる。「胡椒かけすぎ」みたいに。砂糖ほかもおなじ。


それらをふまえてふたたび冒頭の「ふーむ」やら「これがモンティ・パイソンの笑いだ!」みたいな話に戻ろう。

「ふーむ」を囲む人たちってのはさっき言ったようにjt_noSkeさんがふだんどれだけつまらなくて糞真面目で家族にも「もうダジャレやめて><」いわれてる人間かっていうのを知らずにうんたらいってるのだろうなあってことで、あのエントリ書かせた時点で野暮だなあって思うんだけどぶくまとかで「jt_noSkeさんのはスパムだから見ないようにしてる」とかいわれてそれにショック受けつつ対処してるのすけさんものすけさんだなーとおもって今日もスパム明日もスパム、スパムスパムスパムだらけだ―ッて感じなんだけど、「これがモンティ・パイソンとか談志、たけしのわらいだー」とかゆってたひとも談志とかたけしのわらいわかってんのかなー?ってとこでいちお解説しとくと、あれは下町のファックコミュニケーションみたいなもので、もともと下町の「言わせるな馬鹿野郎///」的な毒蝮三太夫的な愛情とそこからのクソババァ呼ばわりな前提がないと通らない話なのだよね。つまりそういった空気の共有

なので、ああいう笑いをする場合はまずもって毒舌吐く対象との相互信頼みたいなのが確立してないといけないし、ユーモアの引用でも取り上げたように、相手に対する敬意みたいなのがないといけない。あるいは、相手を下げないように自分が最初から下が(自虐)ってる状態じゃないとみょーに凸ってしまう。で、ネット的な■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノ■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノが生まれるのだろうけど、この■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノも観測してる範囲だとみょーに殺気立っててよろしくない。。

ついったで誰かも言ってたけど「寄付金の流れ透明化へ」というネタなら「wikileaksと業務提携! 幹部はすでに透明化している内容であり痛痒だにないと語る」くらいかませばよかったのにってぐらいで終わる話なんだと思う(パクツイ)。

もしくはそういうのでもなくウイットだかエスプリだかブラックジョークだかいうんだったらそれ相応の教養と常識をもち、世論的に尖った対象、凸ったところを笑いというハンマーで■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノするようなものでないとおもしろくない。というかユーモアとして成立しない。

笑いというのはいろいろあるしあれでも笑える人はいるのだろうから相対的なものでどれが「より高度なわらいだー」とかいっても不毛なのだろうけど料理と味覚の話みたいなものだし、少なくともユーモアってのはそういうものだしモンティ・パイソンとかはそういう流れに属するものなので。

加えてダメ押せば、昔風のユーモアの型が要請されるイギリス風ブラックジョークの場面で現代のテレビのわらい的な薄い表面的なボケを展開してしまったので送信者と受信者の間でコードの読み違えのようなものが生じたのだろう。送信者側のそれは現代テレビ風の速度と機転を中心とし、いぢる対象への理解とかはそれほどなくただ「材料」として使っていくタイプの「わらい」ということだろうけど、ああいった型のブラックジョークのコードを出した場合、まずもって「昔ながらの世相批判的な風刺かな?(ジョーク新聞ってことだし)」って期待がかかるのは当たり前だし、モンティパイソン的とかいうのを自負しているのだったらその辺りについての理解がないとおかしいことになる。すくなくとも自虐はないと落ち(サゲ)ない。

そういう意味であのエントリには愛もなければオチもなかったし、jt_noSkeさんのそれにもシャレがない


葛飾北斎が娘の絵に対して「てめえは描いたら描きっぱなし。始末をしねえから悪い」っていってたけどあんな感じ

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なので不肖カッパさんが(`・∀・´)エッヘンと落ちを付けてやると、そもそもあの「ふーむ」っていうのはユーモアの語源「humor」に由来するもので、@jt_noSkeアイコンの不毛(る)っぷりと「ダジャレ不毛」「ダジャレは留保するけど留保のないハゲっぷり」「ハゲててもいい。たくましく生きて欲しい」を掛けた高度な人間愛を示すものだったんだけど、一部のはてな村民にはそれが通じなかったようで不毛でしたねってことでjt_noSkeはダジャレ思いつかないぶこめについてはすみやかに「ふーむ」でコメントするように戻すか別のコメントを考えるように。見てて「はてなの闇」感じて不気味なので。

あと@kotorikoもしょーもないスパムショック引きずってないでさっさと復帰するといい(ハゲつながり)




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「第一部」では悲劇を取り扱い、それが憐憫と恐怖とを掻き立てることによって、どのようにして感情の浄化を行うかについて述べた。先に約束したとおり、今度は喜劇を(むろん風刺劇や無言劇をも含めて)取り扱い、それが諧謔の喜びを掻き立てることによって、どのようにして情念の浄化を達成するかについて述べてみよう。情念が考察に値することは、すでに霊魂論において言及したが、それは・・・すべての生き物のなかにあって唯一・・・人間だけが笑いの能力を備えているからだ。それゆえ以下においては、喜劇がいかなる型の行為を模倣するかについて定義し、ついで喜劇が笑いを掻き立てる手段について検討することにしょう。この手段こそは所作であり話法なのだ。したがって、以下において、所作の諧謔がどのようにして生ずるかを、すなわち、最善を最悪へ同化させたりその逆を行うことによって、欺きながら人を驚かすことによって、不可能なことや自然の法則を蹂躙することによって、無関係や無定見によって、登場人物を貶めることによって、剽軽で低俗な無言劇を用いることによって、不調和によって、無価値なものを選び出すことによって、それぞれに生ずることについて示してみよう。ついでまた、話法のが諧謔、異なった事物に対する似通った言葉と似通った事物に対する異なった言葉の取り扱いから、饒舌や反復から、言葉の遊びから、縮小辞から、発音の間違いや誤用などから、どのようにして生ずるのかについて示してみよう・・・

 「・・・喜劇は〈コマイ〉すなわち農村で、食事や宴会の後に述べられる戯れの祝辞として、発生した。それは知名の人士や取り立てて有能な人物について語ろうとするのではなく、歪小で滑稽な、だだし邪悪でない人物ついて語るのであり、主人公の死をもって物語は終わらない。それは平凡な人間の欠点や悪癖を示すことによって、滑稽さがもつ効果に達する。ここで、アリストテーレスは笑いを誘う傾向を認識の価値さえ高める一つの善良な力と見なそうとしているのだ。なぜなら、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を現実よりも正確にわたしたちに見つめさせ、そうか、本当はそうだったのか、それは知らなかった、とわたしたちに言わしめるからだ。この世界や人間たちを、現実の姿や、わたしたちがそうだと思い込んでいる姿よりも、悪しざまに描き出すことによって、要するに、英雄叙事詩や悲劇や聖者伝などがわたしたちに示してきた方法とはことなり、悪しざまに描き出すことによって、明るみに出された真実。そうであろう?」

バラの名前の謎(2)
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/roze[2].htm
http://bit.ly/1hdhrat




宮田光雄著「キリスト教と笑い」を読みました: 冬に書く
http://bit.ly/1hdhDXn

http://bit.ly/1hdhH9t




























以前の笑いは名に留まり、私たちは裸の名を手にする





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