2013年11月22日

山岸俊男、1999、「安心社会から信頼社会へ」


安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)
山岸 俊男
中央公論新社
売り上げランキング: 30,622




世間的なものへの関心から読んでみた。あとなにか不安が生じたらすぐにガタガタビクビクする世間の心理構造というのはどういうものか?の解説として
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379707101.html

詳細な解説はこちらの方がしてくれてるので任せるとして
http://ameblo.jp/dhrnj522/entry-10629182108.html
http://ameblo.jp/dhrnj522/entry-10645964157.html

自分的には本書の中心は5章の「社会的知性と社会的適応」であるようにおもった。


社会的知性というのは簡単に言ってしまうとIQテスト的なところで測られる以外の知性、いわゆる「お勉強以外のえらさ」と現在いわれてるところに関係するもの。「人間力」「コミュ力」とか曖昧な言葉で対象にされてる範囲にも重なる。

その中でも社会性動物としての人間集団のなかでうまくやっていくために必要な知性が「社会的知性」ということになる。

山岸はサーストン、ガードナーから人間の知性は大きく7つに区分けできることを示す。

サーストン的には「言語理解能力、言語流暢性能力、数能力、空間視覚化脳能力、記憶能力、推論能力、知覚速度能力」。ガードナー的には「言語的知能、論理/数学的知能、音楽的知能、空間的知能、身体運動的知能、そして二種類のパーソナルな知能」。二種類のパーソナルな知能は自分の心を理解する能力(自省的知能)、他人の心を理解する能力(対人的知能)。

<頭のえらさ> ― <他人や自分はえらいかどうか?>みたいな話題になると理知の判定を基準とした差別が関わってくるので感情的な紛糾があるんだけど、そういうのは一旦置いておいて、<えらさとはなにか?>と問うたとき、とりあえずのアナロジーとしてPCが思い浮かぶ。「CPUが発達していれば処理能力が高くて、メモリが多ければ単記憶ストックが強い。HDDが多ければ長期記憶に強い」的なの。CPUだけ発達しててもメモリがなければ作業効率悪くなるし、HDDが多くなければ長期的な作業には向かない。ひとの「えらさ」も似た基準で測れる。

先ほど記した知性に関わる7つの能力はそれぞれ独立して測るのは難しかった。それがゆえに「人とコンピュータは違う」ということにはなっていたけど、近年その分野の心理学と関わりある脳神経科学の発達で「わりと独立して測れるみたい」ってことになってきたらしい。なのでさっきの7区分でのけっこう有効になる。

ただ、PCの場合はひとつのCPUですべての情報処理を行う、のに対して、人の脳は並列分散処理型ぽい。おーざっぱにはさっきの7区分を司る機構が同時に働き、並列分散処理してる。

「でも、人とコンピュータは違う」ということに加えて言えば人の場合は感情が合理的行動選択の邪魔をしたりする。それはもともと「本能」ともいえるような適応選択が脳の古い部分にプログラムとして残っており、その「適応」プログラムが特定場面で自動的に呼び出されてしまうかららしい。たとえば狩猟と採集を中心にしていた昔の原始な食生活環境では目の前の食料をすぐにゲットできなければ次にいつ採れるかわからない。そういう場面で理性的に検討していたのでは目の前の機会が失われてしまう。なので、感情的に行動するほうが有効ということになり、そのような感情→拙速な機構が残った、のではないか、ということ。

まあそのへんの真偽は保留として、とりあえず人の心には感情があるので、それが邪魔をして合理的、論理的、長期理性的な判断ができなくなることがしばしばある。短期では論理を紡げ、そのスコープ内では自身や他者に論理的・合理的な説明をできるんだけど、それも大局で見ると誤っていたり。まあ部分合理性と全体合理性の違い、合成の誤謬と言ってもいいだろうけど。そんな感じで、我々の脳内はおもったより感情的な偏向があり、それに駆動された論理・理性は我々自身を騙す。それはいちおう心に留めておいたほうがいいのだろう。


再び社会的知性の話に戻ろう。


「世間」との関連性でいえば、社会的知性とは「人付き合いの知性」ということになる。ただその知性も二種類ある。「人の人間性を見抜く能力」と「場の関係性を見抜く能力」の2つ。前者はだいたいわかるだろうから省略。後者は「誰と誰が仲が良いか見抜いて、その場の関係にうまく合わせていく能力」といえる。まあ「世間づきあいの能力」。

日本はとくにこのような世間づきあいの知性が要請される。それは理知的な見地からは拙速には「フェアではない」と遺憾されるところだろうけど、そういった知性を要請したのは日本の社会構造、というとこがある。その辺りについて山岸は経営学的視点と用語から説明する。

情報の不確実性が高い社会、つまり人が信じられない-安全性が低い社会において、人はその不確実性を埋めるために人と人とのコミットメントを強める。ルート営業みたいな感じで「おなじみさん」しておけばその「おなじみ」を裏切らないような行動をお互いにするから。それによって「相手が信頼できるかどうか?」を探る探索コスト(取引費用)を抑えることができる。なので世間づきあいというのはそのような閉鎖社会、「おなじみ」社会においては「信頼を測る」「信頼に足る人を探す」という取引費用を抑えるための合理的選択の結果、といえる。

ただ、そうやって「おなじみ」が固定化してしまうとより取引のコスパが良い相手が現れたときになかなか「おなじみ」の取引を切ることができなくて相対的に損をすることになる。このような状況を「機会費用の発生」「機会費用の損失」という。


そんな感じで、日本の「世間」づきあいでは一度内部に入って馴染んでしまえば居心地よく暮らせるけれど、そこでトラブルが生じるなどして別の界(世間)に行こうとするとなかなか離れがたいような構造になっている。あるいはそういった「おなじみ」構造を前提とした社会構造をしているため、たとえば転職・就職の際にも個人の情報処理能力よりも「それまでの世間の中でどう振る舞ってきたか?」的な点が評価基準になる。あるいは就職における男女差別もそういった構造が絡む。個人の能力としては一般的な男性に優る女性でも「女は子供産んですぐに辞めるから」的な理由で差別される。あるいは「結婚すればいいから、で逃げるから」とか「身体的に男よりも弱いから」などの理由がそういった論理を補強するように後付けされる。それ自体は論拠を示しつつ論理的に示していけば不合理な考え方となる。
http://morutan.tumblr.com/post/67691557008
http://morutan.tumblr.com/post/67691788636/3-2


ただ、さきほどもいったようにそれは個々人の偏見やーねー、ってはなしでもなく、日本社会の構造に要因があるみたい。


労働環境も含めた日本の社会構造が不確実性に対して個々の審査基準・能力を高めることによって対処していないので、審査の基準はより世間的な基準、「それまでの女性はだいたい30歳まえにはやめっていったからー」的なあいまいな統計に依ることになる。

そして「メンバーシップ型雇用」という集団性重視の制度が全体をゆるやかに包み「無能社員」でも男性で正社員であればそのステータスに合わせた俸給が出るようになっている。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/161854839.html


けっきょくこの辺は外圧によって相対的に人件費-労働パフォーマンスのコスパが高まり、機会費用が失われていかなければ構造転換されることもないのかなあとおもうわけだけど、、


現状としてはそんな感じでゆるやかに「和を持って尊しと為す」なうつくしい日本が大体の人にインストールされている。論理的にただしくても場を乱す人は感情的なところで嫌われるし、「感情的ではない」と思ってる人も思ったよりそういうエートスだかハビトゥスだかの影響は受けてるわけだし。そうやって個人の内容・本質ではなく、場の関係性やステータスという「ガワ」を半ば無意識に重視していることの戯画的な表象がミスコンなのだろうから、そんなにとり立てて批判することもないんじゃないかと思うんだけど。。(根本的な構造問題のほうが重要だしね。) まあそれはいいとして、、


本書の内容に戻れば、<集団主義的組織原理に基づいた地図作成型の社会的知性(仲良しくねくね測り能力)よりもヘッドライト型の社会知性(個別の人格を見抜く能力)を磨くべき、集団主義的な組織原理に基づいた日本社会を変革スべきだ>、が主旨になる。集団組織原理は個々人の人格判断能力、ではなく、集団のアーキテクチャに依存した規律訓練の結果といえる。コミットメント、契約には制約・リスクが伴う。そのコミットメントをやぶったときには罰が科せられる。人はそういった状況で、自らの意志ではなく、罰を怖れて機械的にその場の律に従うことになる。


「ヘッドライト型知性に基づいた組織原理をもった社会を目指そう」という主張には大いに賛同する、のだけれど、筆者もいっていたように、「日本の「仲良しKY」は日本の社会構造に起因しているものであり、それは日本社会で不確実性が低減していないから、環境的な対処として集団的組織原理が適応されている」、という不安がある。つまり不確実性が低減されなければいきなり「ヘッドライト型知性にすべき」っていっても誰もとびつかないだろ?って話。

このへんは「卵(不確実性の低減)が先か、にわとり(不確実性を低減させるためのヘッドライト知性)が先か」ということであり循環論になりそうだけど、「(誰かが損しそうな不確実なサバイバル環境があるとして)誰が先にやるか?」ということだと囚人のジレンマ(社会的ジレンマ)の状況になる。「全体が協力すれば良い方向に向かうのがわかっている状況で、個々人が猜疑するので、けっきょくは全体的にパフォーマンスが下がって個々人も損をする」というアレ。ネットにおけるゴミみたいな情報や無駄にネガティブな感情の氾濫もそういったものだろう。


ゲーム理論的にはそこで「なんらかのインセンティブを外部から設定すれば、良い方向に向かう(均衡がみえる、かも)」ってのはあるのだろうけど、そのインセンティブの設定が難しいのだろう。あるいは人為的にインセンティブを設定することは難しくてもなんらかの「均衡」が発生する兆しをつかむことも。



まあとりあえず自分としてはいままでどおり「人間性検知(ヘッドライト型知性)」中心でやっていこうかとおもう。

こうやって「地図作成型社会知性も知性のひとつではあるんだよ?」って示されたことで「いいかげんおっさんなんやからもそっと『世間さま』配慮してうまいことやってくべきだよなあ。社会≠労働≠お金なわけだし」とは思うようになったけど、それとは別に世間教というかお仲間クネクネ中心のひとたちというのはやはり苦手だし有効でもなさそうなので。

その辺をなんとなくふまえてるひとたちとだったら「自由」に「たのしさ」中心でやっていけそう。あまりくっつきすぎない距離感で

エンタメ、オタクコンテンツにおける自由の可能性と「ぼくらの。」世界、の話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380740959.html


若い子たちが、ミクシ → LINE世間無限地獄≠ネット時代の穴だらけにされる自我・プライベート / 承認欲求・KY・「いい人」規範のひっぱり愛情況のなかで、他人の内心や人格を測る能力に欠けるためビクビクと怯え、その怯えや不安を補填するために関係性のなかにアイデンティファイしようと承認をもとめ、結果的に限定された「世間」規範を無意識に内面化し、「世間」の同調圧と実存的「孤」の部分とのコンプレックスで人に過剰にくっついたり、逆に過剰に冷たくしたりって中で自らの心を凍てつかせたり、うまく人格形成できなかったり、あるいはみょーに反省して傷ついたりしてるのを傍目にそんなことを思いました


(あるいは精神年齢的にうまく成長できてなければ年齢関係なくサブカル・ヲタ・ママカーストでも同じこといえそうだけど)











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関連:
病みツイートで救われながら承認も得られる ソーシャルメディアとの正しい距離感 ソーシャルメディアと承認【後編】|認められたい私、認めてくれない社会〜「承認不安時代」の生き方〜|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/44733

「バカッター」「LINE既読」問題はなぜ起こる?ソーシャルメディア時代の同調圧力 ソーシャルメディアと承認【前編】|認められたい私、認めてくれない社会〜「承認不安時代」の生き方〜|ダイヤモンド・オンライン
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http://morutan.tumblr.com/post/67608019022



信じるということ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/44278479.html

<『人を見たら泥棒と思え』というひとは現実主義と自認してることがしばしばだけれど、実際は信頼をポートフォリオしていけるひとのほうが現実主義かつ社会的知性も高い>関連で



EQ こころの知能指数 (講談社プラスアルファ文庫)
ダニエル・ゴールマン
講談社
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感情的知能指数(感情などの内省と他者の心への共感力)について


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追記:
<心理学はもはや進化生物学と経営学的な視点の中間にある>みたいな本書のあり方を見て、「そういや社会学なんかも進化生物学と歴史学の間みたいなものなのかもなあ。文化人類学とか」思いつつこれ読んでたり

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
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草思社
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ある意味、構造主義的アプローチなのかなこういうのは


posted by m_um_u at 13:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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