2013年11月20日

エンタメ、オタクコンテンツにおける自由の可能性と「ぼくらの。」世界、の話


最近ちょこちょこ触れていた公共圏の話、あるいは、読んでるフランス革命小説でコーヒーハウスのころの公共圏の様子、そこで交わされていた世間話から花咲く政治談義のようなものをおもったり。


17世紀後半から18世紀前半のコーヒーハウス、それはたぶんヴィクトリア朝のサロンのようなものが庶民的になったものだったのだろう。

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まあ時代的にはヴィクトリア朝のほうが後なんだけど、「エマ」で描かれていたような紳士クラブ的な、ウイスキーと葉巻を楽しみながら商売の縁とか政治的な人脈をつないでいく、みたいな


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コーヒーハウスについては残念ながらまだちゃんと読んでないのだけれど、商人を中心とした市民階級の台頭がコーヒーハウスを中心とした公共圏の活性化の背景にあったのではないかとおもう。大航海時代を背景とした商人階級の台頭。コーヒーハウスでかわされる会話は雑談とは言ってもそういった商人層にとっては重要な情報源で、それがゆえに世間話に交えて世界や世の中の情勢についての情報が交わされていたのだろう。そしてそこでの世間話が通信社 → 新聞、保険会社の原型になっていった。


コーヒーハウスはしばらくしてなくなりその場をティーハウス、パブに譲っていったのだろうけど、「マスメディアの公共性」なんて言っても元々はそんな感じの世間話だったのだろう。



翻って、現代の日本でそういった公共性-世間話の場ってどこなのだろう?



twitterやfacebookほかもろもろのネットコミュニティ?

あるいは、昔ながらのカフェや居酒屋での歓談?



できれば「階層とか関係なく自由におしゃべりできる場」「それぞれの層の情報が自由に交換される場」とかがいいけど、そこまでは望み過ぎだろうか。

収入や職種に応じて話の内容や考える事、住んでるところも違うし、、だったら住み分け的にしといたほうが会話も楽だし。


新聞の原型がコーヒーハウスだったように、そういう場はメディア性とでもいうようなものをもっているのだろう。


それぞれの階層やそれぞれの「世間」をつなぐメディアとしての機能。


マスメディアがふつーになっている現代からするとそういった場を「メディア」と呼ぶのは少しおかしな感じだけど、もともとはこういうものほうが先にマスメディア的な機能をもっていて、それを擬似的に集合し、不特定多数を対象にしたのがマスメディアだったのだろう。マスメディア以前の時代、新聞などはなんのために必要なのかわからなかったわけだし、昔から情報をもった人が限定的なマスメディア的な機能をしていた。それを話す人/聞く人が集い生み出される場がマス・コミュニケーション的空間だったのだろう。

熊野比丘尼や暦師、吟遊詩人なんかもそういったメディアだった。


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あるいは中世ヨーロッパの教会なんかも。



そうすると映画やサブカル、オタクコンテンツなんかもマスメディアとなっていく。


ジャーナリズム論を主軸としたマスメディア論だと異端だったけど、利用と満足研究とかカルチュラル・スタディーズが対象にしていた領域。


「新聞やニュースなどといったジャーナリズム的なものではないコンテンツからも公論的空間は生じている」


ってやつ



そういうことを思いつつこの辺を改めて見てみる。




ミリアム・ハンセン「初期映画/後期映画」紹介 | borujiaya
http://www.p-renaissa.jp/borujiaya/?p=865


この辺りで見たきたようにOffentlichkeit(公共圏)はドイツにおける「世間」のように思える。

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380332335.html
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380291057.html
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380636011.html


阿部さんが体感したようにドイツのOffentlichkeitと日本の世間とでは性質が少し異なるのだろうけど、もともとの国民性は似ているので、ここでのOffentlichkeitはフランスやイギリスのpublic sphereよりもより日本の「世間」に近いのではないか?とおもう

ただ、そうはいっても両者に違いはあるのだろう。ヨーロッパ的なこざっぱりとしたところというか、「誰と誰が仲良し」みたいなのやKYみたいなのを気にするあまり人と人との関係が抑圧的になったりとかそういう感じでもないような。陰湿じゃない感じの。関係性検知よりも人間性検知のほうがつよい(山岸俊男)というような。

それは告解をはじめとしたキリスト教文化圏の性格かと思う。

ただ、そのような違いがあるとしてもハーバーマスが理想として描き出していた公共圏とドイツ庶民の実際のOffentlichkeitは実態としては少し異なるのではないか?

もしハーバーマスの言っていた公共圏が理想先行の理性主義だとすると、その理性≠正しいこととするそのモデルが規範として硬直化し、却って現実を圧迫する圧力になることもあるかもしれない。

じっさいハーバーマスなんかを参照した日本の公共圏論にはそういったものを感じるし。


ハーバーマスの公共圏論の本来の目的は「理性としての公共圏の再生」、ということでもなく、「人が活き活きとしてる時を取り戻すこと」であり、そのための暫定的な設定が「理性としての公共圏の再生」であったのだろうから、そこを履き違えるとまずいことになるのだろう。

ハーバマスの方法というか歴史からの語りはイギリスやフランスの市民革命のちょっと前ぐらいのカフェの公共圏での自由な語らいにおける奇跡的な瞬間を切り取りそれを理想としたものだったのだろうけど、リンク先の公共圏論にあるように初期映画との関係を日本にも転用して考えたとき、現在だと映画というよりはロックとかサブカルなんかも交えたほうがわかりやすくなるかもしれない。

サブカルのところはオタクでもいいけど。両方ともメジャー / ポップになってきてカウンターとかサブカルチャーでもなくなり、その領域が接合してきてるから。


サブカル、ヲタ、あるいはLGBTがどうとかな空間でもいいけど、ああいうところで「自由」を叫びなんらかのプロテストを表明すると「あなたがたが求めるものはなんなんですか?」ってなりそれに対する「正しい○○(サブカル、ヲタ、LGBTなんでもいい)」のリストを提示すると却ってそれがそのクラスタの規範となって硬直化し新規参入者を阻害して行ったり。イデオロギー先行になってごく一般の価値観や生活感から遊離していって「繊細チンピラ」みたいなフックをかけて一般人を怯えさせたり、過度に反感を買ってしまうことになったり。


なので、ああいう領域での公共性というか、空間における規範と自由のバランスを保つためには、求めるものを規範-制度として固めることが大事、なのではなく、なんとなくの漠然とした自由な感覚を覚えておくことが大事なようにおもう。


そうしないとエスタブリッシュへのカウンターカルチャーとして立ち上げたものがいつの間にかエスタブリッシュとして壁になって立ちはだかることになる。自分たちの味方になりそうなひとに対しても、自分たち自身の生き方にも。


初期映画におけるモンタージュの手法というのはその辺に対する問題意識を喚び起こすために、規範を押し付けるのではなく観客側からhackさせることで「規範-物語を自由に編成すること」を訓練するものだったんじゃないか?


生活世界の再定義化、生活世界から侵食されるのではなく、自身を生活世界の中に意味づけていく



オタクやコミケ、腐女子やサブカル、ロックやカウンタカルチャーも最初はそういったものだったのだろう。

名付けられる以前の「なんだかわからないけど硬直した現実からあぶれたものたち」、あるいは、「硬直した現実を自分たちで再編集してポロポロと同人していったものたち」


それがいつの間にか規範となり、教科書的にインストールしなければいけないものになり、そのデータベースとアーカイブにうんざりした層、ライフステージや産業構造の変化、地方/都会などの物理的制約によって生活環境が変わった層はそのタスク量をこなせなくなってオタクやサブカルを降りていく。
http://shikisha.hatenablog.com/entry/2013/11/16/091750


「降りる世代」は「うちらの世界」と似てくる。

規範や「やらなきゃいけないこと」から降りて「うちらの世界」に閉じていく。snsでの付き合いなんかも



でも、規範なくても「祭り」的発散はしたかったりするのでたまに集団で跳ねたりする。理性以前のCarnivalの欲動。


その跳ね方がお行基悪かったらネットやリアルで軋轢を生んで晒しあげられたりするのだろう。「世間」が「より非常識な世間」を晒しあげ嘲笑い叩く。理性的・良識的に叩いてる、と思ってもそれ自体が理性以前の欲動に支えられた「祭り」となっていく。


そういった「祭り」はなんだか陰湿な世間的な性格も持っていて、見ていても「これがネットの集合痴?w」って気分になる。

ガッチャマンクラウズでベルク・カッツェが2ちゃんのニュース板の悪意を戯画して「wwwwwwww」ってわらったように、クラウドの力、集合のちからってのはしょせんそのような陰湿な嘲笑的なものに過ぎないのだろうか?


正しさを超えていく - 狐の王国
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20131101/1383311147


ガッチャマンクラウズ最終話: 一ノ瀬はじめはなぜベルク・カッツェを殺さなかったのか? - 文化的生活。
http://dokaisan.hatenablog.com/entry/2013/09/28/135539


イントロダクション|ガッチャマン クラウズ|日本テレビ
http://www.ntv.co.jp/GATCHAMAN_Crowds/intro/index.html




carnivalはもともとゲマインシャフトの聖性、異界に通じ、それは聖俗の両義性をもっていた。「俗」ははじめから誰かを嘲笑いというようなネガティブな属性を帯びてなかった。

はじめが偏見なくベルク・カッツェに接していったようにネットのクラウドでも無属性な集合の起爆的な瞬間がある。たとえばtwitterのラピュタ祭りの時のような。あとはそれをうまく良い方に誘導できれば良いのだろう。

クラウズではそれをゲーム的インセンティブで誘導していった。



世界を生きていく際、あるいは、人生をより楽しく生きていくためには自分をとりあえず世界に投げ込んで、そこで日々の暮らしの中から絶えず新しいものを見つけていく、という方法があるようにおもう。

絶えず、というほどではなくてもすこしずつ固まっていく自分を越えて行くような。

新しいことにチャレンジするために自分の日々をゲームとして捉え、日々の生活、イベントに自分でポイントを振っていく。そこで得られたアイテムに特別な意味付けをしたりして。



そうやって少しずつ自分の生活・実存を窮屈な世間査定 / ランキング / カースト / 市場からずらしていく。



大切なのは「こうしなきゃいけない」ではなく「こうやったらたのしい / より自由になれる」ということなのだろう


そうやって「たのしい」や「自由」の直列で、「うちらの」並列を超えて「ぼくら」で世界をつくっていければいい





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サブカル世間
http://togech.jp/2013/08/13/3013


「地方で一人、ヲタクやるのも案外楽しいよ」 - 小娘のつれづれ
http://drifter-2181.hateblo.jp/entry/2013/11/16/020524






タグ:公共性 世間
posted by m_um_u at 21:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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