2013年11月19日

阿部謹也、1998、「物語 ドイツの歴史  ドイツ的とは何か」


物語 ドイツの歴史―ドイツ的とはなにか (中公新書)
阿部 謹也
中央公論社
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(4) ドイツという表記の現れる限りで最も古い形は、786年にアミアン司教ゲオルクがローマ教皇ハドリアヌス一世に宛てた書簡の中で、教会会議において「ラテン語と theodiscus によって決定事項が読み上げられた」と伝えている文章の中の theodiscus である。この言葉を巡って議論が沸騰しているのである。この言葉はゲルマン語の theudo-volk 民衆を意味する語に、出生、起源、所属を示す接頭辞 iska がついており、意味は「民衆の」「民衆に属する」となる。したがって lingua theodisce は民衆の言葉という意味になる。


なんのことだかわかりにくいけど要するに、

<「民族とは言語である」ということだし国民以前に民族があったってことを前提にしてる。で、そこで使われてた「われわれ」を表す言葉、と、「われわれ」意識をもっていた人々が「ドイツ」の初源>

、という筋に沿った話。

フランク王国とローマ、フランク語とロマンス語、二つの言語のヘゲモニーの中でフランク人とガロ・ローマ人の間に民族対立が起こり、ロマンス語化優位の状況の中で危機にひんしたフランク人の一部が「われわれの言葉」を意識していたのだという(レオ・ヴァイスゲルバー)。


ヴァイスゲルバーの「民族=言語」という見方に阿部は少し距離を置きつつ「しかし、theodiscus が後のドイツ語となっていったとはいえるだろう」という。ドイツ語はもともと「民衆の言語」という意味であったし、「民衆の言語」がそのまま国号「ドイツ」になっていった。・・といわれてるけど 「theodiscus」と「deutsch」が直ちにつながらないのでぐぐるに

英語でオランダ語のことをDutchというが、これは「ドイツ」を意味するDuitsという語が変化したものである、と前回のオランダ語の記事にて書いた。では当のドイツ人達は自らの国および自らの言語のことを何と呼んでいるのか。
答え。彼らは、自らの国のことはDeutschland、言葉のことはDeutschと呼んでいる。Duitsは無論このDeutschと同語源である。
では更にこのDeutschの由来を探っていくとどうなるかといえば、最終的にはラテン語のtheodiscusなる語に行き当たる。これは「民衆の」という意味の古高ドイツ語の形容詞diutiscから派生した語である。
これはなんとも象徴的なエピソードであって、ドイツ語は歴史的に見た場合、「庶民の言語」、あるいは「文化レベルの低い言語」として馬鹿にされてきた年月が長い言語なのである。啓蒙専制君主として名高いフリードリヒ2世(大王)が後進的なドイツ文化を嫌い、フランス語で日記を書いていたのは有名な話であるが、もっとひどい話もある。

【言語散歩】ドイツ語(1) - 言語散歩
http://d.hatena.ne.jp/jfurusawa/20100413/1271175660


さらに詳細だとこの辺(内容としては同じ感じ)

「deutsch」の語源とその周辺 Lingua-Lingua/ウェブリブログ
http://lingua-lingua.at.webry.info/201009/article_2.html




いずれにしてもこういう「われわれ」なぼんやりとした民衆意識、民衆言語なドイツの時代は8世紀末、ドイツ史が歴史上に姿を表すのは9,10世紀以後


<カロリング王国が崩壊したとき、その東半分に住む人々がそこで用いていた言葉によって「ドイツ人」と呼ばれるようになった>


とのこと




「ドイツ人とは何者か」「ドイツ的とはどういうことか」

「生物学的答えはないが、その民族的個性は歴史的に形成されてきたものとして歴史的に答えが出されなければならない」


ノルベルト・エリアスによると「ドイツ人」「ドイツ的」とは「かつての帝国の斜陽、とそのプライドに基づいたコンプレックスやねじれ。現実的視点を欠いたロマンティシズム的な反動」ということになりそう。

神聖ローマ帝国としてヨーロッパの中心だった「ドイツ」は宗教改革 → 主権国家形成の動乱において中央集権化におくれをとった。ほかの諸国が中央集権国家を形成していくときにドイツでは逆に中央集権国家を解体していた。そして30年戦争によって人口の3分の1を失うという実際的なダメージを負った。

エリアスによると、この不幸な体験がドイツ人の飲み方にも影響した、とかなんとか。ドイツ人の宮廷でも上流社会でも泥酔するまで酒を飲むことを認めながら自分を抑制し、羽目を外さない飲み方はこういう深い不幸感から生まれたものだという。

 オランダやイギリスでは市民は貴族に比べて二流の位置にあったが、都市だけではなく、共和国を代表して中世以来の自治の伝統を引き継ぎ、武器ではなく、言葉によって意見をまとめる集団として形成されていった。
 それに対してドイツでは、命令と服従という軍事的モデルが都市のモデルを圧倒していったのである。こうしたことからエリアスはドイツとオランダの親子関係の違いを説明できるという。オランダ人はドイツ人よりも子供を放任しており、オランダの子供のほうが行儀が悪いのは、こうした関係の違いによるというのである。
 またドイツのブルジョアの代表者たちには、政治の重要な地位に達する道は閉ざされていた。ドイツの文化がもつ非政治性は、そこにも原因をもっていたのである。ドイツが長い間求めてきたものはドイツの統一、分邦体制の終焉であった。


その悲願を軍事的に解決していったのがプロイセンだった。それはドイツ市民階級に対するドイツ貴族の勝利であったという。


「市民階級に対する勝利」という言い方をすると民主主義に対して否定的なニュアンスがあるけれど、実際、フランス-イギリスと違ってドイツ圏域では市民階級が近代的理性をもったものでもなかったので。

市民というか手工業者と商人ほかの准貴族・貴族階級との差がはっきりしており、市民は政治参加の意識やセンスが薄く、せいぜい読書協会・音楽協会を通じて文芸的理知を深めていっていた、ぐらい。

そういう背景もあってビスマルクが出てきた時には「鉄血主義」的なところが目立った。現在から考えれば単なる現実主義な実務家にすぎないんだけど、当時のドイツからするとそれでも冷酷なそれに見えたのだろう。

ヒトラーとナチスが受け入れられたのもこういった背景からのように思われる。

つまり、文芸的ロマンティシズムに基づいた理想的ではあるけれど非現実的というドイツの国民性は実務的なところは「外部のもの」として預けるところがあったのではないか?そしてプロイセンのフリードリヒ大王ほか一部の実務的カリスマがそれらを引き受けたので、ドイツの実務的な面も外国から印象として残っていったのだろう。


ハーバーマスの公共圏論がドイツではなくイギリス発祥のカフェ文化に公共圏の理想を見るのはそういった経緯もあるのだろう。ドイツでは一部のエリートは理性的で現実的な面をもつが、市民社会的なものは文芸以外では駆動しなかったので、文芸的公共圏の語らいがそのまま政治・経済的なセンスに繋がっていたイギリスやフランスの例は理想的に思えたのではないか?かつてヘーゲルがナポレオンに自国を侵食されつつも「世界精神が行く」として精神の現象学の理想としたように。


そして、そういった現実感を欠いたロマンティシズム先行の酔っぱらい主義は同時にマッチョイズムも帯びる。

決闘の慣習はかつてヨーロッパ全域の貴族に見られたものだったが、他の国では市民階級の台頭とともに廃れていった。しかしドイツでは中産階級が貴族モデルを引き継ぎ決闘は中産階級の学生の間に広がった。


エリアスによると、このような「幻想 → 暴力的即断」なロマンティックなマッチョイズムが暴力行為や社会的不平等を公認する背景となり、ヒトラー登場の前提のひとつになったことは確かだ、とのこと。(文献目録にどこからの出典か見当たらなかったけど「ドイツ人論」かなあ)

ドイツ人論―文明化と暴力 (叢書・ウニベルシタス)
ノルベルト エリアス
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彼は母親の命を奪ったナチズムや1970年代のテロリズムなどドイツの「暴力」に解明を加える。『文明化の過程』第二部以降と同じ「ふるまい」の水準で、国家統一=国家の暴力独占が遅れ、貴族と市民が交じり合わなかったドイツで「決闘」など戦士的行動基準が残り、1871年の統一後市民層に広がったと、彼は論じる。「外的強制」に依存するこのハビトゥスが暴力を可能にしたと、ある程度はいえるだろう。だがこの本がより強く照準するのは、むしろ『文明化の過程』第一部で検討を中断した「自己意識」の水準である。// 彼は、ドイツ市民層が「文化」=人類に妥当する「ヒューマニズム」から「ナショナリズム」の自己意識へと移ることを描く。暴力独占の存在する国内空間だけに生きていた彼らが、「民主化」により国家間の空間を担うとき後者に近づく。とくにドイツでは、神聖ローマ帝国以来の敗北と縮小の歴史による「傷つきやすい」自己意識、分裂を恐れて「完全」で「理想主義的」なナショナリズムを抱く傾向(より安定的な国家形成過程の結果、葛藤を可能にする議会制と両立しえたイギリスのそれと対照的に)が生じる。この理想は統一以後膨張するが、第一次大戦の敗戦で「挫折」する。その後だれも提供できなかった「新しい誇り」を与えたのがヒトラーであり、その「夢の帝国」は「認識のショック」から人々を守る「集団的幻想の繭」として機能する。国家間で自己意識が相互エスカレートする過程、ワイマール期にテロリズムが拡大する過程などを描きながら、エリアスは「挫折」によって膨張したこの「夢」=「他民族を排除したドイツ」を部分的にでも実現するためにユダヤ人の虐殺が行われたと指摘する。

UT Repository: 文明化と暴力の社会理論 : ノルベルト・エリアスの問いをめぐって
http://bit.ly/1hTnthE


つまり、文芸的ロマンティシズムに基づいた強権的父権主義+マッチョイズムがドイツの国民性ということ。それは日本における頑固親父的なものだし、古い日本人男性の心性と近いもののように思える。


プライド高く、外面的にはカタカナ的なタテマエ(理性)を理想的に説くが、それは生活的実感から離れた理想論であり、実務面は他者に丸投げ。タテマエとしての理性と理想なだけなので実際的な運用や必要性としてはきちんと理解してるわけではなく、そこにプライドが憑依するのでタチがわるくなる。加えて言えば、そういった土壌にドイツの不幸な歴史、マルクス当時の無産市民層の悲惨が加わり表面的理想論を唱える際の感情的資源となっていったのだろう。

マルクスの生きていた時代は「ブルジョワのせい」ってよりは30年戦争や宗教改革による価値の転換とそれを受けたアノミー、ナポレオンの侵攻を受けてドイツ国内はドタバタな情況になっていた。ドイツが社会構造の転換、リソース配分に失敗した結果だったと思うけど(実際、イギリスやフランスでは理性的ブルジョワ層がきちんとした舵取りを先導していったようだし)。

少し本題から離れるけどマルクス当時のドイツの状況について。フランス革命の影響は未だ身分分化のはっきりとしていたドイツに身分制約の解体をもたらした。突然の「自由」の導入は一部の資本家には利益となったが従来型の暮らしに慣れていた農民や手工業者に身分や仕事が固定していた時よりも不幸を強いるようになった。農村ではわずかの土地しか持たない小農は農村プロレタリアートとなり日雇い、ケッター(土地なしのアルバイト農民のようなもの)なとになっていった。都市でも同様で零細手工業者たちはすべてを失いブルジョワ上層部に不満を募らせていった。この状況に反して人口は増加した。しかしその人口を養えるほど農業技術は進歩していなかった。都市でもベッドもなく家具もない家で昼食もなしに過ごさなければならない人々があふれた。

旧来の領邦都市の囲いが未だ強かったドイツ内部では都市ごとに関税も違っていた。これをようやく修正できたのは鉄道敷設の影響に依る。鉄道を敷くときにも旧来の非合理的なドイツ人はその有用性を理解せずビスマルクに反対した。しかしなんとか鉄道を敷いたことによってようやくドイツがそれまでの「領邦都市(国家)ごとの小宇宙」ではなく「ひとつのドイツ」となる産業的土壌ができた。

ドイツにおいては特に都市の囲いが強力だった。都市はローマ衛星都市「キヴィタス」から発生したということも影響してか、都市の外部、「都市以外」を「異界」として閉めだしていった。教会圏≠文明圏の外の「異界」として。

そして、都市の上層市民の人生観は、「他の都市」や「都市以外の棲家」をショートカットして、「宇宙」へと直接につながっていった。たとえばカントなどもそういったリアリティから例外ではなかった。

そこから生まれた理性は、見えている範囲や神学的に教えられた範囲では優秀であったのだろうけどそれ以外の外部、自分の住む都市以外の現実に対する認識は低かったのだろう。

つまり、政治や経済的現実認識に欠いた人文的セカイ認識、ということ。

ドイツはフランスやイギリスと違って政治的には一国の体をなしていなかった。人々は読書協会や音楽協会であつまり、文化的な活動の中に自己のアイデンティティをもとめていたが、それは政治に期待が持てない人々の自由を求める運動であった。逆に言うと、この土壌があったのでドイツ的な人文領域が拓けた、ともいえるのだろうけど。

ゲーテの才能が際立ったのも、ニーチェがやたらペシミスティックな地点をスタートとしたのもこういった背景がある。


バラバラだったドイツはナポレオンの侵攻によって逆説的に「ドイツ国民」としてまとまっていった(cf.フィヒテ「ドイツ国民に告ぐ」)。



「政治オンチでプライド高く、外面的にはタテマエ(理性)を理想的に説くが、それは生活的実感やリアリズムから離れた理想論であり、実務面は「えらいひと」に丸投げ」

そういった国民性は当時の日本を思わせる。

ゲゼルシャフトをタテマエ的に移入し、実質的運用は「えらいひと」に任せてゲマインシャフト的なところを理性化(文明化)できなかったところも。

結果として理性が暴走していった。



そして、そのような土壌、背景から生じた不満をナチスのやり方(魔女狩り促進的なそれ)やデフレが後押ししていった。


「ヒトラーを支持したドイツ国民」ロバート・ジェラテリー 著 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2985

ラルス・クリステンセン 「ヒットラーを権力の座に押し上げたのはハイパーインフレではなくデフレである」 − 経済学101
http://bit.ly/1hTqcaY



この辺りの話は「日本が全体主義に向かったのは軍部だけのせいではない(むしろ新聞も含めた世論がオーバードライブしていった)」というのと似ている。監視の内面化と市民側からの能動的な密告の様子も魔女狩りに近い。


主要な点は、<「ナチスが全て悪い」「新聞などで知らされていなかった」ではなく、かなり知っていて、ヒトラーに同意を与え、支持していた>、ということなのだろう。

その意味ではアーレントのアイヒマンレポートとも通じる。


映画「ハンナ・アーレント」オフィシャルサイト
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

ヒトラーは、決して、始めから強権的だったわけではなく、圧倒的多数の国民の支持を得ることにもかなり配慮していた。 そして、圧倒的多数の国民が賛成する、少数者、つまり、犯罪者、病人、外国人、共産主義者などなどを、排除していった。
ドイツのユダヤ人は、要職など、それなりの地位を占めていて、いきなり反ユダヤ主義を激しく活動したわけではない。 すこしずつ、徐々にアウトサイダー化されていった。


ドイツは権威主義家族の類型に入る。 カインのアベル殺害が失敗しなかったように、権威主義家族の中の兄弟は、ひとりが選ばれ、もうひとりは排除される。 長子相続など、分割せずに父の財産を相続するメカニズムは、継承と同程度に排除でもある。 兄弟の不平等であり、すべての個人は、同等の場所と価値をもっていない。 つまり、すべての人間が平等であるとは考えない。 更に、すべての民族が平等であるとは考えない。 「そこには、あらゆる特殊主義、自民族中心主義、普遍の拒否が凝縮されている」と、説く。


ナチズムは、「社会民主主義イデオロギーの激烈な解釈であり、国家原理と外国人嫌いを究極的な狂気にまで突き進めた」ものと、説く。 

映画「白いリボン」と、エマニュエル・トッド、ロバート・ジェラテリーにみるドイツ Dora_PaPa_san's_Page
http://bit.ly/1hTqYop


ヒトラーだけでなくビスマルクも大衆に訴えてそれを正当な手段とすることに長けていた。

ビスマルクをはじめとした実務家に共通していたのは過去の独裁支配を未来の大衆民主主義と結びつけたところにあった。

イデオロギーに基づいた夢よりも冷静な計算に基づく政策、官僚制と軍隊を政治の道具として用い、王権や貴族、時には議会などの障害となる勢力に対しては大衆に訴えた。

ナポレオン三世やディズレーリ、カミロ・カブールのようなリアリズムに基づいた実務家たち。

広範な視野も併せ持つこういった政治家の資質をマルクスはボナパルティズムと呼んだ。



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補遺1:
教会が入ってきたことに依る変化メモ


カトリックの教義の中には様々な形で贈与慣行がはいっていたので一般の人にも馴染みやすかったが、ルター以後贖宥は否定され人と人との関係が神に対する絶対的帰依を基準にされるようになった。

このようなキリスト教の変化も社会的不安の背景になったと考えられる。

かつて教会が担っていた結婚、家族、学校と教育制度、ならびに貧民問題や社会福祉を領邦国家が担うようになった。それは国家の要となっていった。

不安定な人間関係の中で生きなければならない人々は疑心暗鬼となり、特定の人を魔女として指弾し、そこに恐怖の原因を求めるようになった。



cf.
石川雅之、2013、「純潔のマリア(3)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/378787952.html





--
補遺2:
中世の音楽メモ

天上、地上、人の音(キリスト教展開以降)
それぞれに楽器が異なり、たとえば天上の音を表現したのは竪琴

グレゴリオ聖歌
モノフォニー

カール大帝はグレゴリオ聖歌を全域に伝えた(音楽で伝導)
「聖歌はこの世のものとは思われない雰囲気をつたえ、ひとびとの信仰心を誘った」

モノフォニーからポリフォニーへ  → 交響曲



もともと大宇宙(≠自然ほか異界)と小宇宙(≠人間の世界、都市)にわかれていた世界をキリスト教は一元化し、グレゴリオ聖歌でその世界を表し支配した。



音楽の世界においてもルターの影響は大きかった

ブルゴーニュのシャンソンなどに比べるとドイツは音楽において後進的な土地であったが、ルターによって新しい流れが生まれた。

都市の手工業者のあいだではマイスタージンガーが独自な歌唱世界を作っていたが、都市を超えた広がりは持っていなかった。

ルターの万人司祭制では会衆全員が歌う形式が必要とされた。ルター自らがそのために作曲を行った(「神はわがやぐら」「あまつ御空より」など)

カルヴァンが音楽を拒否したのと反対にルターは積極的に音楽を取り込み、そこからカンタータやコラール、オルガン曲が生まれる母胎となった。ルターの他にもハンス・レオ・ハスラーやミハエル・プレトリウス、ハインリッヒ・シュッツなどがバッハの生まれる基盤を作った。



17c後半から19c初頭にかけて生まれたドイツの代表的な音楽家たち、あるいはドイツ観念論の哲学者たちはいずれも都市から一歩も出ずに一生を終えることがザラだった。

ニーチェはバッハの音楽をして「彼はヨーロッパ音楽の敷居に立っているが、そこから中世を振り返っている」と評した。


その言葉はバッハにとって教会音楽と宮廷音楽は別のものではなく一体であったことを示している。


中世ドイツの都市は世俗も教会も宮廷もすべてを含んだセカイであった。強力な中央集権を欠いた中世のドイツにおいて都市か領邦が国家だったのである。


近代以降、それらのセカイは分離していったが、バッハの生涯はそれを惜しんで中世の都市に思いを馳せた、いわば職人としての生涯であった。



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posted by m_um_u at 15:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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