2013年11月15日

公共性、あるいは、世間の構造転換(世間のトポス)


このエントリをしつつ気になっていたのは「世間≠公共性的な話だとして、じゃあけっきょく日本の現在の世間とか公共性の構造、トポスってのはどうなってるの?」ってことだった

阿部謹也、2006、「近代化と世間」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380240593.html


公共性のトポス、構造では基本としてハーバーマスのモデルを参照してる。つまり



政治・経済圏(システム)


政治的公共圏(議会)

文芸的公共圏(マスメディアほかのメディア)


親密圏(家族、対幻想、個人幻想)



というアレ

ハーバーマス的には18cぐらいのカフェにあった自由な気風と政治参加への理性とモチベみたいなものを理想的なモデルとし、ローマ時代の広場の開かれた議論の様子も参照することでこういった「市民的公共性」のようなものが連綿と続く歴史であるかのような歴史哲学(フィクション)をつくりだしていた。

中世のことをしばらくみて来た現在からするとそれはちょっと都合が良すぎるようにおもう。

阿部さんもいっていたように、ヨーロッパの中世にも村落共同体を中心として世間的なものはあったし、近代にはいってもそれはあった(cf.ミル)。ミルが言っていたのはキチキチうるさいヴィクトリア朝のsocietyに対するlibertyの不安だったようだけど。言ってみれば近代都市の「世間」に対する違和感のようにも見える。


そのような「世間」の利害関係の中からフランス革命なんかも生まれたわけだし、純粋な理性の勝利ではなかったみたい。ほかの市民革命はどうかは未だ検証中だけど、すくなくともフランス革命は。世間≠権力+理性教のオーバードライブだった。



そういった世間の暴走を留めるのも世間的な知のあり方だったはずだけど、理性はそういったものを弾き、前近代的なものとしてしまった、がゆえに却ってそれを認めて抱きしめることが出来なかったのかもしれない。

ただ、ヨーロッパ的な世間においては「個人」の自立やロゴスに対する信頼というものがあったようだけど。


まあとりあえず公共性の構造の話に戻ろう

以上からすると、日本のマスメディア論で言われてきたような公共性の規範というのは眉唾な感じになる。


「マスメディアは公共性に適う必要がある」「社会の公共性に配慮した、適切なジャーナリズム・コンテンツを排出すべき」といっても、すでにしてそれは為されているのだから。

さきほども少しいったように「公共性」という言葉が指す領域と「世間」という言葉が指す領域は重なりあう。

「公共性」のほうが「公共に適う」などの語用からもわかるように「最大多数の最大幸福」的公益性を指すのに対して、「世間」は複数のクラスタの中からもっとも最大公約数的なコード、や、蓋然的なクラスタ同士のつながりの場のようなものを指す。そして、そこにおける人の関係も。


なのでマスメディアが対象にするような日本における公共性とは、複数のクラスタが重複する場における最大多数に共通するコードや関心に配慮したものとなる。つまり世間。

平たく言えば、テレビも新聞もそういった世間のコードを理解してるし再生産してるので。とはいってもエリート産業的になってしまったマスメディアの人々の感覚は庶民的な世間とは解離してしまったけど。


なのでマスメディアの規範論としては「公共性の復元」というようなあいまいな標語が必要なのではなく、より多くの界・世間の現状を解説し情報交換するセンター(ハブ)として機能すべき、ということになるだろう。

そのうえで再びこのモデルに戻れば、


政治・経済圏(システム)


政治的公共圏(議会)

文芸的公共圏(マスメディアほかのメディア)


親密圏(家族、対幻想、個人幻想)


というのは違和感がある。

親密圏の内部でも世間がある、、というか、もそっと個人と家族との間に壁がある感じ。



家族-親密圏(対幻想、個人幻想)

あるいは

家族-対幻想(親密圏(個人幻想)

ぐらいの


家族や恋人や友人というのが衒示的あるいはある程度のタテマエを基本としたコミュになってるひとたちがいるのが日本の現状だから。家族は単に親密圏というわけではない。なので「親密圏」や「家族」が「システム」に対して単純に「生活世界として守られるべきもの」として二元論的に対照されるものでもないようにおもう。


まあ、そういうのも個人の成長や親子の関係、恋人、友人との関係(成長)の中で変わっていくものだろうから固定化はできないし、人それぞれだとは思うけど。

あと「日本は」ていうかわりと世界的にそうなのかなとか想ったりもする。都市化→分業化が進んだところは特に。

んでもそれも個人に対する考え方(人格の認め方や尊重の仕方/責任)の認識が異なる西欧圏では異なるからかもだけど。



ハーバーマスでは「システムに侵食されつつあるまもるべき空間」として提示されていた「生活世界」。その中の「家族」という領域が他所他所しくなってしまったのは特に日本に関して言えば「公共性/世間」の部分が「タテマエ/ホンネ」的に機能してしまっているところも関係するのだろう。

「世間」と「個人」と「告解」あたりの話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/379707101.html

そして論理ではなく場の凝集性や権力、KYなどが優先されていく。


「日本では公共性は会社を中心としてつむがれているのではないか?」「会社を中心としたそれは理性(タテマエ)を中心とした社会主義であり、会社公共圏ではないか?」

会社公共圏においてタテマエな他所他所しさが横行し、それが家族における他所他所しさにもつながり、それらの歪さが学校のいじめとして反照される。


タテマエ的にはカタカナ的な正しい規範が説かれてもホンネのところではゆるやかな差別と幼稚な距離感を当然としてる大人たちと育てば子供がいびつになるのは当たり前だろうから。

いじめは学校という閉鎖+タテマエ空間におけるストレスの結果ともいえるけど、そのストレス発散の際の権力の表し方がそのままオトナの世間におけるそれと同じになってるのだろう。あるいはそれらのオトナ的距離感を取っ払ってナマの暴力性を見せてるだけ。

このエントリとその周辺をみつつぼんやりと「ああ、世間教の神学みたいだあ」とおもった


「お世話になっております」の世界 - Ohnoblog 2
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20131114/p1

はてなブックマーク - 「お世話になっております」の世界 - Ohnoblog 2
http://bit.ly/17y8jK8


ぶこめにもあるように「お世話になっております」なんて言葉そのものにはそれほど意味がなく、厳密に語義を追求していけばおかしくなるだけだし、単なる「世間」的なプロトコルなので。

歴史的にその根拠を探そうとすれば先日こちらのエントリでも表したような「豚やユダヤ人は差別して当然」みたいな俗流神学的解釈が出てくるだけだし…。


阿部謹也、2006、「近代化と世間」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380240593.html


そういう意味で「世間教の神学みたいだあ」っておもった。




別件で世間の話をあさりつつこの辺が改めて気になった

『「うちら」の世界』についての一私見 Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2991


大人の社会の方もその差異そのものに無自覚であるし、しかも、ほんの小さな、しかし決定的な変更だけで成り立っているから、非常に困難なのだと思います。大人の社会と子供たちのその社会との差異というのは、別に市民社会がとか責任ある自立した個人がとかではなく、「うちら」集団に対する外部の目の存在を意識して成り立っているかいないかという違いでしかない。子供の社会が後見的権力に対する無自覚さによる平等な関係の享受で成り立っているとすると、大人の社会は相互に外部の目を意識しあうことでの複合的関係性によって虚構の後見的権力を生み出している、といえるのではないだろうか。一般的にいうところの「世間体」「世間の目」ですね。



まあ「うちらの世界=子供のあれげってバカにしてても大人もけっこうウチラってるんじゃないの?(そしてその構造の違いってのは? → 世間体)」って話なのだろう。


「うちらの世界」というのは最初にリンク先のコンビニ店長のひとが話題にしてた「深夜のコンビニ前でたむろってる若者」の話。彼らはコンビニ前でたむろしてほかの客を無視した横暴な振る舞いをしていて、それは彼らの「うちらの世界」に閉じこもってるからだろう、って話だったようにおもう。


そういうのに対してこの時期に話題になってた冷蔵庫に入ってはしゃぐバイトの話も引きつつ

うちらの世界の系譜 Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2013/08/08/studies-of-youth-and-our-world/

(1) 内集団の結束を強めるために逸脱行動に出るという一般的な心理
(2) 社会的な包摂の力が弱まり、社会全体への想像力が欠如した層の増加
(3) 若者のコミュニケーションの内輪化と差異化圧力がもたらす「内輪受け」行動


の分類で考察。


エントリ主的には(3)を推していた。自分的には、(2)社会的包摂性が弱まり、の視点のほうが気になったけど。

ギロンの発端のコンビニの前でたむろする「うちら」については(3)だろうけど、その後に出てきたいわゆる「低学歴の世界」とかいうところの関連エントリなんかも含めると、彼らの間にあるのは「低所得・文化資本社会資本との断絶 → あきらめ」ということだと思ったから。


んでもいまから「世間」の文脈も加味して考えると(3)の性格が強いのかもしれない。

(2)も背景としてはあるだろうけど、彼らの世界(世間)内への閉じこもりと、そこで目立とうっていう欲からのイキった行動。


そういうのは後見的権力、っていうか世間と権力を自分たちで模してつくっていってるのだろう。そしてそこで権力を集めるために内部で承認を得られる範囲での奇抜な行動をとる。


そういう承認欲求と同調圧力、そのなかで承認をえられる範囲での奇抜な言動というのはそのままついったーやSNSほかのネット空間にも溢れてきているようにおもう。

「リアルが侵食してきたから」ってより母数が多くなった+彼ら内部で世間が出来て規範や振る舞いが固定化してしまったから

毛づくろいのように規範(プロトコル)を交換し、そのために叩きやすい対象を叩く。インナーサークル内ではもうすでにわかっているような規範や論理を外部に出すのではなく、内部に向かって殊更に繰り返す様は「叩く必要のある話題が出てきたから」というよりは「叩きたいから」「叩いて自分たちの規範を確認(毛づくろい)したいから」のように見える。


KYという言葉が登場したとき、大人たちも当初はただの流行語だと考えた。まさかKYという語に社会構造のひずみが投影されているとは、考えてもみなかった。

世間が消え始めてから20年が経ち、世間を知らず、空気のみを知る世代が、どのような社会を作るか、心配がある。かつての世間を復活させればいい、と簡単に述べる人たち(ネット右翼がその代表)もいるが、世間が大手を振っていた社会は、米国ならば人種差別・女性差別で白人男性だけがいい思いをしていた社会、日本ならば婚姻を家柄で決められた社会である。

世間 - Wikipedia http://bit.ly/176jEyW

ウィキペディアにしてはけっこう恣意性のつよいまとめでブログエントリかと思ったけど、「世間を知らずに空気、KYのみが残った世代」という問題はあるのだとおもう。世間がなくなったり「知らない」っていうより、昔、「世間」として対象にしていた大文字の「世間」みたいなものがイケナイモノみたいにされて後景化し、結果的に隠れてしまったということ。やってることは変わらないのだから彼らが新たな世間と権力の流れを作ってるだけなのだろうけど、それを認めないので対象化できない


SNSを含めたそういった世間と公共性の現状に対して、どのような未来が描けるか?



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「世間」は広い意味で日本の公共性の役割を果たしてきたが、西欧のように市民を主体とする公共性ではなく、人格ではなく、それぞれの場をもっている個人の集合体として全体を維持するためのものである。

公共性という言葉は公として日本では大きな家という意味であり、最終的には天皇に帰着する性格を持っている。そこに西欧都\との大きな違いがある。現在でも公共性という場合、官を意味する場合が多い。「世間」は市民の公共性とはなっていないのである。



日本では母親に限らないが自分の子供を自分のものと考えている。そうでない場合でも子供は未成熟な存在で、大人と対等ではないと考えている人は多い。

「世間」を構成しているのは大人なのである。子供が「世間」に受け入れられるまで子供は大人とはみなされない。






市民、ということをもう一度考え直す必要があるのかもしれない。

市民というと市民社会論的に手垢がついた言葉だけれど、そういうのではなく、これまでのエントリで述べてきたような「自立した個人」とそれを基本とした大人同士のある程度距離をもった関係。相手を尊重し「個人」としての距離をもった関係。その上で肩書きや仲良しズムだけではなく論理を基本として話せるような関係。その結果として生まれてくるゆるやかな連帯のようなもの。

もしくは連帯とかしなくていいので、そういった「個人」たちが理性的にそれぞれの場でふるまっていけるということ。

その結果は非論理、非合理なそれよりは良いものになっていけるかもしれない。

論理や理性っていうか、理知だけではなく人を尊重していけるような。そういう関係性。



不況のなか、かつての城塞は崩れていきスプロール(ブール)に住む人達が増えてくる。それはデフレとか下流とかなネガティブな面もあるだろうけど、そういったブールの中からかつてのブルジョワの理想が新たに立ち上がっていくのかも



そのためにはまず家族や友人や恋人から、なのだろうな


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関連:
林香里、2011、「<オンナ・コドモ>のジャーナリズム」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/195893083.html


親密圏は、林-ハーバーマスが期待してるようにそんなに純粋無垢なものでもなく、親密圏自体がシステムによって汚れている。というか、システムも親密圏も「世間」的な価値観に覆われているのだろう。



「世間」という言葉の由来についてもろもろ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/380291057.html?1384486198



中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129773060.html


中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話  (応用編): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129946855.html



是枝裕和、2013、「そして父になる」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html


タグ:公共性 世間
posted by m_um_u at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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