2013年11月01日

日用の糧


雑駁だけどなんとなく最近見たもので心に残ったものを日記しときたかったのでそういうものとして。そうはいいつつもそれぞれの関連性や、それをつなぐ物語のようなものを無理から考えてたりもするけど。



私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。

私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。


マタイ6章11−15節





コレに対する解釈はいろいろ分かれるのだろうけど
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130217/p1

自分的にはそれは「肩肘張らない普段の食事」であり「コツコツと普段からやっていくこと」のように思えた。それはこの言葉を知った「放浪の家政婦さん」所収の話にも通じる



なんとなくこのへんの「イズム」みたいなのも思い出したり




料理の話や食事の話がなんとなく好きなのはたぶんそういったことに通じるからかもしれない。それは大げさに言えばウェーバーの言っていたベルーフ(天職)ということ。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
マックス ヴェーバー
岩波書店
売り上げランキング: 11,610


とはいってもプロテスタントの考え方はどうも真面目すぎたようで、いま言ってきた文脈とはいささかちがうようだけど


宗教改革者マルチン・ルターは、「日用の糧」の意味を問われ、次のように答えました。

「私たちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのもの。例えば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、所有物、献身的な配偶者、献身的な子供たち、献身的な雇い人、献身的で信仰深い施政者、よい政府、よい天気、平和、健康、学問、名誉、よい友人、信仰深い隣人、そしてこれに類する他の全てのもの。」

私たちは、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時に、キリスト信仰の最も重要で基本的な態度である「謙遜」ということを学ぶのです。「謙遜」とは、自らを卑下することではなく、自分の存在が神様に100%、全く依存していることを神様に告白しながら生きていくことです。ルターが言った全てのことを含め、自分に必要なものの全てが、神様から与えられるものだということを告白し、神様にこれを求めながら生きることです。

http://bit.ly/19i41Fb


キリスト教の人には不敬かもだけど、自分的にはそれは「神様に感謝」「神様に求めながら」ってのともちょっと違うんじゃないかなあとおもった。

「神に頼る」ってだけだと現世利益をお願いする感じだし、「地獄に落ちたくないからまじめにやる」ってのともちょっと違うだろうし…

単に「日々、コツコツとやっていくとなんだかリズムが良くなるからやる」ってだけのように思ったり。労働とか建築とか作ること、その達成感みたいなのが日々のリズムを作ってくのかなあ、って。そういうのもあって今回コツコツとエントリしたくなってるのかも。



「コツコツとやっていく」「なにかをつくる」「生み出していく」 そうすると 「謙虚になる」って回路はよくわからないけどあるようで、それがそのまま「ヴィンランド・サガ」や「バガボンド」に表れてるのを面白く思ったり。



バガボンド(36) (モーニングKC)
井上 雄彦
講談社 (2013-10-23)


両方とも「戦いで最強になったとしてもそれは本当に最強なのか?」「たとえば自然に対して人は無力ではないか?」「では、本当のつよさ、とはどういうことか?」という問いの末に農業に辿り着いた。


バガボンド36巻のテーマ全体はおそらく「勇気」だった。

武蔵自身はすでに本来の自分を取り戻して、身体的には自分の聲も聴けるようになったように思えるけれど、最後の最後、それでもまだ残ってる我執というかエゴのような部分があった。

それがゆえにか、その強さ自体が周りの人間の弱さを、コンプレックスをかきたてたり、無駄な争いを招いたり


強くなろうとあがくものが一人でもいると
何もしない自分がみじめだもんな

みんな同じなら見えないのに
異質なものがいると浮かび上がってしまう

自分のみじめさが

だから追いだそうとして


それが出来ないと分かると嘲笑い下に見て線引きをして隔てる


それでまた  じぶんを見ずにすむ



そんな武蔵も自然の前には無力でなんども叩きのめされるけど逃げない。その弱さの中の強さを見て村人たちは徐々に武蔵に希望を託すようになる。救世主や英雄にそれを期待するように。

しかし、そんな情に応える予定調和はなしに自然は人の希望を叩き潰していく。


そこでようやくをもって武蔵は重い腰を上げる。自分の剣、誰かや「認められたい」欲のためではなく自分自身のために振るうと決めた刀の道、命やほかのなにもかもを失ったとしてもそれだけは譲れないと最後に決めていた「自分の生き方」を曲げても村の人々のことを助けるために、「助けてくれ」、と言いに行く。

それは「死をも怖れぬ」と誇り高く生きる道には背くものかもだけれど、逆にその場面で土下座のような形で救いを求めること。自分だけのためではなく誰かのために頭を垂れること。自分が悪くないことでも救いを求め謝ること。それこそが最後の勇気であり我執を越えた場面だったのかなあ。


「謙虚」というのはそんな風に昨日の自分を殺して今日の自分をさらに強くしていくことなのではないかとぼーっとおもったりする。


そのための日々の糧、コツコツと自身を反省するための材料がひとにはいるのかなあ。。

世間の承認とか雑音関係なくただ黙々と日々の日課として素振りをしたり、正拳突きをしたり、四股を踏んだり、套路をこなしたり。

武術家やアーティストなら日々の稽古を範や鏡として、そこから反省することがそれに当たるのだろうし、武術とかアートとかでなくてもレッスンはあるだろうし、料理とか仕事とかもそういうものなのかもしれない。





「ただ戦いを極めるよりも農耕などのほうが意義があった」という視点は歴史学や人類史のほうでもあって、W.H.マクニールの歴史観やダイアモンドなんかはそれに当たるみたい。


銃・病原菌・鉄 上巻
草思社 (2013-07-12)
売り上げランキング: 638


銃・病原菌・鉄 下巻
草思社 (2013-07-12)
売り上げランキング: 1,356


世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)
ウィリアム・H. マクニール
中央公論新社
売り上げランキング: 1,175


世界史 下 (中公文庫 マ 10-4)
ウィリアム・H. マクニール
中央公論新社
売り上げランキング: 2,455


(自分的に)古代から近世終わりまでの見所復習: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/264513531.html

『銃・病原菌・鉄  1万3000年にわたる人類史の謎』(ジャレド・ダイアモンド著・倉骨彰訳)|新しい「古典」を読む
https://cakes.mu/posts/225


マクニールの本は地味だから、教科書的ではあるけど教科書的であるがゆえの物足りなさがあるし、視点としては「西欧の勃興は西欧自身のちからではない」+「戦争を中心とした歴史より農耕や家畜のほうが重要」って感じでダイアモンドに共通する。未読だけど「疫病と世界史」としてスピンアウトしてるものはモロにダイアモンドの本と対照(あるいは元ネタ?)されてるだろうし、農耕と家畜の部分だけのスピンアウトもほしいんだけど「戦争と技術」についてはあったり。

そういう視点は民俗史的ということだと網野史学とか、文化人類学的ということでE.トッドとか、ユーラシア大陸の世界史における重要性ということで岡田史観なんかにも通じるのだろう。

そして、世界史における宗教の意味、ということ。


民俗学的史観における宗教的意味論の重要性。


そういうのは最近だとこの本を地味に再読してる。

中世の祝祭―伝説・神話・起源
フィリップ ヴァルテール
原書房
売り上げランキング: 138,130


前回エントリでも少し触れたように

石川雅之、2013、「純潔のマリア(3)」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/378787952.html


昨日から今日ぐらいがだいたいサウィンの時期で、これからしばらくはヨーロッパ圏だと「おとなしく過ごす(荒猟が来るから)」という期間になる。

ただ、前回エントリで書き損じていたことが本書を読み進める内にでてきたのでついでに。


前回も少し触れたかもだけど、キリスト教における聖人は本来、土俗的な神や妖精、キセキのお話に属するものをキリスト教が習合したものらしい。

それもあって頭の硬いプロテスタントだと聖人伝を省くようなんだけど、、

本書によるとマリアもどうもそういった聖人の類ぽい。

May - Maria というつづりの中に含まれる共通音素の関係もそうなんだけど、聖母マリア巡礼をする一般的な時期である5月というのはもともとは5月の女王の時期に当たる。

5月の女王は生命力あふれる春の象徴であり妖精ともされる。それは性と生殖、繁栄にも関わりこの時期、北欧-中欧では昔から5月の柱を立て、街でもっとも美しい若い娘たちがそこに立ち、その周りを若い男の子たちが踊り回る習慣がある。


http://bit.ly/HiXIH0

イエスが復活し再び昇天する。春が来て太陽が再生また死を迎えるように(夏至)。そして、その年の豊穣を祈念するように5月の女王マリアは人々の心のなかに生まれあらたなる希望を生む。

5月の柱と女王を祀り踊る熱狂は魔女狩りのそれと対照にして同位ともいえる。ワルプルギスの夜からつづくサバトもこの時期のイメージだし。魔女狩りの熱狂ももしかしたらこういった習俗が別の形で表れただけだったのかもしれない。都市化などに伴う人の生活の変化を受けて。



熱狂や語気のある言葉は勇気やモチベにつながるのでたまには必要だけれど「日々の糧」とはまた別のものなのだろう。熱狂が聖のうちはよいのだろうけど、それも行き過ぎると魔女狩りのようになるのだろうし。コツコツとした日々を送っていくためにはもっと別の、普段でゆるゆるとしたそれがいるのかなあ。俗というか普段の。


ほほえみの糧となってくれるような日用の糧


ベルーフに関する以前のエントリや、このエントリをしている隣でトドのように寝てるネコを見つつそんなことをおもった。


「ただ、そこに在る」という本質  ポイエーシス-エロース / イデア: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/204824809.html

ほほえみの糧: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/72864397.html





♪ Bonnie Pink / ほほえみの糧
posted by m_um_u at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。