2007年04月03日

吉田修一, 2003, 「東京湾景」

東京湾景
東京湾景
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吉田 修一
新潮社 (2006/06)
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 少し前に横浜に行って、ついでに東京に行った。それで東京で最初に降り立ったのがこの小説の舞台である品川 (- お台場)。

 ちょうどこの小説を読んでいるときだったのでなんだか運命のようなものを感じて埠頭まで歩いてみた。思ったよりも距離はあったのだが歩きやすい道で特に問題もなく目的地に到着。それで埠頭から対岸のお台場を見ながらいろんなことを思ったり思わなかったり・・。


(※以下、ネタバレばきばきだよ♪)


 巻末にある陣野氏の解説ではこの小説ではまず「持てる者と持たざる者」という対立軸が設定されているということが明らかにされる。対岸の「お台場」はきらびやかなエンタメワンダーランド。対する品川埠頭は港湾労働を中心とした地味な土地。

 ここで「格差」という言葉が頭に浮かぶが評者はその辺りを慎重に迂回する。「当事者間にギャップがあって、それを乗り越えなければならない」なんてのは恋愛系小説の常道であって、近くは「電車男」、古くは「ロミオとジュリエット」辺りなんかに代表されるベタな設定。吉田が表現したものはそのように単純な二元論で割り切れるものではない。物語中のメタ小説は読者にそのことを気づかせるための装置(ベタな恋愛小説という反面教師)として機能することを期待されていたはずなのだが、気づかなかった人もけっこういたみたいだ。

 では、なにが作品のテーマだったか?。ざっくり言ってしまうと「恋愛において<身体>よりも<心>よりも確かなものはあるのか?」ということだったのだろう。(すこし恥ずかしくなってきたが以下、順を追って)


 美緒はウワベの「恋愛」を侮蔑する一方で潜在意識的にプラトニック(心)な恋愛を希求する。それはたとえば高校時代に「失恋したー」と泣き叫び悲劇のヒロインとなることで周囲の同情を惹こうとする友人に放った言葉に表れている。(「いい加減にしてよ!」「そういうとこ見せられると、ほんと、自分が女だってことが恨めしく思えてくるのよね!」)

 しかし、そんな美緒が「カラダ」を基点とするところから亮介との関係を始めようとしているところにアンビバレンス(両義性)が発生する。あるいはダブルスタンダードといってもいい。読者にしてみると少し不条理を感じるところではあるが、その選択が結果的に不条理ではないということが作品後半に向かうにつれ明らかにされていく。


 亮介は高校時代の先生との関係によるトラウマから、カラダだけの関係に対して潔癖性のような感情をもっていた。象徴的なシーンとして、年上の先生との関係を「カラダ(セックス)だけの関係」として先生の親族から揶揄されたことに対して、亮介は自らの体に灯油をかけて火をつける。(「先生はカラダなんかなくたって愛してくれるんだよ!」)しかし、亮介は成長するにつれてそのような感情を「子供の論理」として捨てていく。

 そんな二人の関係も先生が亮介を置いて出て行くことで終わりを告げる。生活の中で2人の心が離れていったということ。あの事件が直接的な原因ではなかったことを亮介自身理解していたが、このことがトラウマとなって亮介の心の中に残っていく。(左胸の傷はそれを象徴するスティグマのようなもの)

 そういったトラウマへの反動・・もしくはトラウマを越えるために、亮介もカラダの関係を優先させる。もしくはそれに付随するオトナの論理を積極的に受け入れる。物語前半の「カラダ」の描写に気を取られてしまうとこういった文脈を理解できないだろう。(村上春樹、「ノルウェイの森」への評価と同じ)

 性的描写(あるいはセックスへの意識)に対して「不条理な快楽主義者」のような通念にとらわれ、まるで汚いもののようにそれを忌避する人には物語の本質は見えてこない。
 
 
 作品を通じて描かれていた、もしくは考えられていたものは「恋愛において<身体>よりも<心>よりも確かなものはあるのか?」、ということ。前者はセックス(性欲 - 快楽)、後者は「相手へのプラトニックな思い」のようなものに代表される。

 こういう書き方をすると<身体>の関係が汚いもののように感じられるかもしれないがそういうことではない。その辺のところをよく表しているのが解説のこの箇所(p329)
 

象徴的な一つのシーンがある。それは、青山ほたるの小説に導かれるようにして、美緒が亮介のアパートのほうへふらふらと歩いていってしまう場面。ゆりかもめの終点、新橋から山手線に乗った美緒は、品川で降りて、港南口から亮介の住んでいるアパートのほうへと、歩き出す。そこへ偶然、スクーターに乗った亮介が通りかかる。そう、あの印象的な場面だ。そして、二人で入り込んだ倉庫の暗がりで、美緒は震える。自分が目を閉じているのかどうかさえ定かではない。「次の瞬間、ふっと潮の香りが鼻先を流れて、いきなり唇が重ねられた。 / 『びっくりした?』 / 亮介の声が、自分の口の中に差し込まれてくる。美緒はゆっくりと口を開いた。亮介の熱い舌がそこにある。まるで広い倉庫の闇の中に、亮介の熱い舌だけが存在しているようだった」



 評者はこれをして「恋人との関係の本質的部分」とし、その後、これに続く形でアルフォンソ・リンギスの散文を提示して、恋愛における表層的な関係(cf.美緒が嫌うような)に対する「本質的な愛」の例証であるとしている。しかし、これは少しプッシュが足りないように感じた。

 もうちょっと言うとすれば「重なって融け合う」ということなのだろう。

 そこでは相手が動いているのか自分が動いているのかなんてどうでもいいし、「<プラトニック>か<カラダ>の関係か」、なんてのもどうでもいい。彼我を越えてただ融け合う


 偏見や通念を嫌う二人が<身体>にたどり着いたのは、そういったコンプレックス自体が一つの通念として自らを縛ることに気づいたからだったのだろう。「プラトニックなものは綺麗」だとか「カラダは汚い」と思うこと自体が一つの通念に過ぎない。<カラダ(セックス)>はそれを破るための入り口として機能していた。(cf.個人的にこの辺りは身体論にも通じる)

 

 と、いうことなのだろうけど、ぼくとしてはここで少し止まる。「<通念や偏見を越えて融け合う>ということが恋愛という対他関係において一義的な価値(最終的な目標)であるとするならば、<カラダ>にこだわる必要はない」、ということか?

 例えば、志を同じくする友人間の魂の交流のようなものでは性交を伴わなくとも交感によって快(エロス)が生じる。そこでのメディアは、「共通した感性」「共通した知」「共通した志」のようなものだろう。

 小説本編でも少し触れられていたが、肉体(あるいはセックス)というメディア(フィルター)を介して融け合う場合、ダウナー系なリスクが伴うことがあるように思う。またノイズやタイムラグによる齟齬も生じやすい。というか、交感に付随したいろいろな自意識(の齟齬)がめんど臭い。ならば、<精神のみの交感は可能か?>、ということになるが、現段階ではムリだよなぁ・・。(宇宙人のセックス?)

 例えば、電脳による直接交流(相互ハック)なんかが思い浮かぶが、それはそれでなんか飛び道具使ってるみたいでヒキョーな感じがする。(<安全で確実な本当の愛>?)


 やはり、現段階では互いのリスクやそれに付随するものも交感要素の一つなのだろう。「キズの共有」と言ったほうがいいか。




 っていうか、そもそもなぜ、<彼我を越え融け合う>、必要があるのかか疑問。


 しかし、それはやはり人間存在の本能というか、生得的(あるいは社会的)プログラムだからなのだろう。簡単に言えば、「それ自体が生きる歓び(エロス)」ということか。


 といっても、いつもそんなパフォーマンスが期待されるわけではないので、こういった考え自体が一つの幻想ではあるのだが、これも「あれか / これか(ある / ない)」的な話ではなく、生活の中での一部というか、一つの価値ということなのだろう。選択肢の一つということ。



 そういったわけで物語は単純な二元論を基にした「ギャップロマンス」のような視点では割り切れないものなのだが、なぜこの話がこんなドラマになってしまったのか疑問



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 単純に「お台場を舞台とした恋愛ドラマ欲しいな。DVDも売れるし、お台場グッズも売れて万々歳だ。目指せ韓国市場!」的な考えだったのだろうが、「在日韓国人と日本人女性」みたいなベタなギャップとかすごくびみょー。まだ韓流が流行ってた時期というのもあったのか?見ていないので分からないけど、ある編さんとこに出てたこのパターンに当てはまっているのだろうか?


ある編集者の気になるノート : ファンならとっくに気づいてる? 「韓国ドラマの7つの掟」。



 まぁ、いいけど




 「(カラダだけじゃない)カラダから始まる恋愛」については木尾士目のこれも面白かったです


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 もうすっかり「げんしけん」作家にされてしまったのだろうけど、あれのヒットは単に「大学オタクマンガ」というジャンルが珍しかったからというだけではなく、木尾がこの辺の繊細な心理描写ができるがためだったからだったのではないか、とちょっと思う。もっともこのマンガは私小説みたいで作家自身は「未熟な作品」として否定しているが。







タグ:恋愛 実存
posted by m_um_u at 13:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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