2013年10月01日

是枝裕和、2013、「そして父になる」


見てきたのでいちお感想を。というかそれほどエントリする気もなかったんだけどちょっと調べたいことがあったのでそのメモ書きを兼ねて、これまでの是枝作品を振り返るのもいいかと思って。

ついったでもちょっとつぶやいたように本作の印象は「これまでの是枝作品の集大成だなあ。というか、ゴーイング・マイ・ホームに『弱者家族』みたいな点を加えて『勝ち負けではない』ってメッセージをより強く出した感じだった」、かな

フジテレビ系で放送されていたドラマ「ゴーイング・マイ・ホーム」はとても良い配役だったし、テレビで是枝監督のそれをみれたのはあの時期の自分にとって救いだったし、結果的に夏八木勲さんの遺作になって、、それがそのまま作品のストーリーにも重なって印象深い作品だったんだけど、なぜか世間的評価(視聴率)はそれほどよくなかった。さきほども言ったようにストーリーやテーマとしては今作とほぼ同じだし配役も豪華だったんだけど。

まあそのへんは火曜22時(だったっけ?)てあの時間帯が悪かったのかもだし、裏番組的なものの影響かもだし、プロモーションの違いとか、一見地味で「( ノ゚Д゚)<森ワー 生キテイルー」的なゆるふわドラマに見られたからなのかなあ、とか思うわけだけど(あと「賞とった」みたいなのに弱いしあまり知らない人たちは。。)


さておき

ストーリーとかテーマ、設定を言っておけば、「一流企業のサラリーマンとして働いてきた男は、『父親』というステータスに甘えて家庭を顧みず、あるいは自らの過去と向き合って『親を超える → 父になる』ということが主体的にできていなかったため、父親的役割ではあっても父親ではなかった」というもの。

「父親を超える」っていうか「親や子供、妻にきちんと向き合う」ってこと。

昭和の父親にありがちな「仕事に逃げて家庭を顧みない」のではなく。あるいは、そうやってきた完璧主義で強権の父親(社会的強者)を母や妻、あるいはお金を持ってない(お金が全てではない)人たちの立場から越えていく、ということ。それは「誰も知らない」や「空気人形」にも通底してきた「勝手な男たち」「ネグレクトされ人生の光を搾取される子供・女たち」というテーマを背景とする。



その辺りのテーマは「歩いても歩いても」-「ゴーイング・マイ・ホーム」でもゆるやかに展開されていた。


ただ、冒頭でも言ったように、今作では『勝ち負けではない』『負けることで赦すということ』『そこには負けも勝ちもないということ』というメッセージをはっきりと印象付けるためにか、主人公が一流企業のサラリーマンであるのに対して取替え子の相手先の家族はそれほど豊かではない(けれど人情味溢れる家庭)というような対照を明確にしていた。


そして主人公は気づいていく。自らが嫌っていた父親像をより強固に演じていたこと、父や後妻の義母へのわだかまりを超克できなかった自分の弱さに。「一流企業のサラリーマン」「裕福な家庭」という鎧に隠していた弱さ。



印象的だったのは取替え子をした看護師宅を主人公が訪れるシーン。

主人公がうまく行かないむしゃくしゃをぶつけるために正論に偽装したイヤミをつぶやくのに対して、看護師宅の男の子が身を挺して母を守ろうとする。「連れ子でなかなかなつかない」と看護師が言っていた子だったのに。

ここで主人公は「自分になかなかなつかない実子」「自分の酷薄さに愛情を疑い出す妻」「自分が愛せないから愛されないのだ」ということに気づく。

そして自らの弱さと過ちに気づき、「ゆるしてくれ」と電話をする。



あとはゆるやかに愛がふたつの家族を包んでいく(あるいはみっつの)




映画の内容としてはそんな感じだったのだけれど、自分的に気になったのは使われていた音楽だった。


特にエンディングで使われていたゴールドベルク変奏曲のアリア。

あらためてぐぐると全体を通してバッハ-グールドのそれがテーマとなっていたみたい(サントラは「パルティータ第2番 ハ短調 BWV826」「ゴールドベルク変奏曲 BWV988」を主として構成される)。








ゴールドベルク変奏曲はもともとはバッハが弟子のゴールドベルクのために作った曲で「眠りの曲」と言われていたものだったらしい。それをグールドが彼なりに解釈して演奏しなおした。
http://www.geocities.jp/imyfujita/goldberg/


その解釈をめぐって音楽ファンの間では未だにギロンが展開されているのだろうけど、自分的にはこれは「グールドによるバッハの塗替え的な超克」っていうか、、「眠り」であるところも認めている演奏のように感じた。

そういった解釈は映画の雰囲気にも依るのだろうけど…。


バッハを「近代の父」あるいは「厳格な近代の合理主義を完成させていった発端」とすると「昭和の父」の像と重なってくる。


とすると、このグールドの演奏を当てることで是枝監督は「超えるのではなく、ゆるやかに赦し認めていくのだ」ということをなんとなく示していたのではないか、と思った。



そしてこのアリアはヴァイオリンのG線だけで演奏できるように編曲され「G線上のアリア」として親しまれていく


「G線上のアリア」(ゲーせんじょうのアリア[1]。独: Arie auf G)は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『管弦楽組曲第3番』BWV1068の第2楽章「アリア」の、アウグスト・ウィルヘルミによるピアノ伴奏付きのヴァイオリン独奏のための1871年の編曲版の通称。ニ長調からハ長調に移調されており、ヴァイオリンのG線のみで演奏できることに由来する。


http://bit.ly/150r3yA






そこにもなにか込められた思いがあったのかな、と少し思うけど、ここで留めておく。




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関連:
夏八木勲さん死去…未公開の映画6本残し (2/4ページ) - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)
http://www.sanspo.com/geino/news/20130513/oth13051305070014-n2.html



是枝裕和, 2009, 「空気人形」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/134634431.html







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追記:

主人公が取替え子をした看護師宅を訪れるシーンについて。

「ボクらの時代」で福山雅治さんが語っていた内容はこの辺りだったのだろう。

(「小さい時に親父がなくなって、で、近所に空手道場があったんですけどそこの車がうちの目の前に横づけするようになってて、自分はたぶん『オレが守らなきゃ』って思ってたんでしょうね。必死にイキって『ここに止めるんじゃねえ!』って言ってました(笑) 道場主に」)



あと、是枝監督にも女性に対する罪の意識というか後ろめたいところがあるのかなあとかなんとなく思ったけど、、でも「現代女性、子供、生命の生きにくさ」みたいなことを考える場合はこういう語りにはなるよなあ、ってことであまり邪推しなくてもいいかな。

本作の対照として「八日目の蝉」とかもなんとなく

posted by m_um_u at 21:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク
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