昨日ようやく読了。ついったでもちょこちょこ感想をつぶやいてきたけど、やはりきちんとしたエントリとして留めるのもいいかと思ったので。
そう思ったのはやはり弁当ヲチャーとしてこの10年ぐらいの自分の思い出も含まれてるというか、、「ああ、あのときこんなこと思ってたのねえ。。そして自分はこんなだったなあ」って気持ちが出てきて、それをとどめたかったからかもしれない。要するに「自分語り的なことがしたくなったから」ってことかと思うけど、、まあそんなにベタベタにならない程度に。
一読した印象で思ったのは「ああ、プロのライターとして読みやすさ考えてはるなあ」とかそういうの。内容や構成としても特に日記やブログを読んでなくてもとっつけるように。まあそれらはあとがき的対談からも伺えるわけだけど、
何のために学ぶのか、何のために考えるのか? | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/newbook/185
全体を通じての印象は大衆賛歌というか、「ふつーの人たちの生き方をもっと盛り上げる」ッて感じの。体裁としては教養書であるとおもうし、言ってしまえば「新教養主義宣言」(山形)辺りと対比されるかなあと思うんだけど、山形本や他の本が上からの啓蒙的なものをはらむのに対して、もっとゆるく、「自分もふつーの、っていうかどちらかというと負け組ですよ(トホホ)」って語りのようにおもった。<「負け組(トホホ)」であっても人生を愉しむことはできる。そのために考える-知を愉しむ>ということへのきっかけをできるだけゆるやかに示しているように。
そして、それらを包むように「finalventの日記」では語られていなかった私的事情が書かれていて、弁当ヲチャーとしては愉しむことができたし、またそれらを通じて等身大のひとの語りのようなものが読者に伝えられたのではないかなあ、とかなんとか(まあ伝わったり伝わらなかったりだろうけど)
「大学院を辞めて就職も決まらず放り出されるように社会に出たこと」
「結婚を半ばあきらめていた30代後半に差し掛かって、降ってきたようにあれよあれよと10歳下(!)の女性と結婚し沖縄に渡ったこと」
「沖縄を通じて日本の中の外国を再発見し、そこに都市に回収されていない普通の人々の生活や時間、思考があることを感じられたこと」
「病を得ることによって家族のことや『生きる』ということを再び考えなおしたこと」
「それらを通じて最終的に残っていたこと、勉強し、知ることを通じて得られたもの」
「それが単なる『おベンキョー』ではなく齢を重ねて実感として自分の中に降りてきて、それを通じてあらたな自分や社会、世界を発見できるようになった、ということ」
はてな日記で漏らしていた孤独や不安、それへの向き合いや思考の転換、成長の仕方に関する断片たちに色が付され、立体的に配置されていった感じがした。
商業用、というか一般向け教養ということで重たくないように配慮されたのかそれぞれの場面での思いのようなものは書かれてなかったけど、そのときの温度というか、、「ああ、このときも家族がいてくれたんだなあ」と確認できて、なんか却って安心した。
というか、かなり自分の人生や思いにダブるところがあり「お前は俺か…」感があったけど、、まあそれは優れた本がよみやすいわりに「お前は俺か…」感を強くするってアレ効果ともいえるかもしれない。実際、狙ってそういう構成もされてたようだし。
まあとりあえず、本書後半でも書かれていたように、この本自体が自分のこれからの人生の指標の一つになるようなところがあるように思う。そっくりそのまま真似る、というわけでもないし一般的に正しいとかそういうのでもないと思うけど。
先日終了したテレビドラマ「Woman」のセリフにこんなのがあった。
「オレ、わかった。人生に答えなんかないんだよ。答えは子どもたちが持ってるんだ。オレたちはその本を見ていく。あるいは子どもたちはオレたちの生き様を見ていく。そうやってずっと、その答えは継がれてきたんだ。最後のときにオレたちを見て子どもたちがどう思うか…それがたぶん答えなんだよ」
そうやって自分も過去の人が紡いできた人生の本に連なっていけるのかなあ、とかそんなことを思った。
かみさまが残してくれた最後の弁当を通じて


