2007年03月28日

差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)

 センシティブな話題で当事者の気持ちもあるのでどうしようかなと様子見してたんだけど、そろそろいいかなっていうか、特定の事件とは結び付けない形の一般的(公共的)なギロンといった感じになってきたのではないかと思うので、某所にアップして保管していたエントリを一部修正して出してみることとする。

 始めに断っておくけど、これは別に一部の人を貶めようとか、誰かの主張に対して「それウソじゃん。オレのが正しいよ?」とかいうくだらない優越ゲームをするためのものではないので。ぼく自身の考えが正しいとは言い切れないし、あくまで「考えの一つとて参考になるかな?」ということ。もしくはオープンソースのようなものとして捉えてもらうとありがたい。

 「間違っている」あるいは「違和感を覚える」と思う箇所については各人で修正してもらえば良いし、論理的・建設的な批判であればその修正をフィードバックしてもらうとありがたく思う。



 では、以下、差別に関する試論



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(以下、2007.3.20アップ。一部修正)

 なんか、例の「差別」に対するごにょごにょがまだ続いてる・・。

 いちおエントリ立てて前提とか、前提とされていない部分とかはにおわせたつもりなんだけど・・


muse-A-muse 2nd: フーゾクという職業と差別意識について



 ポイントは(蓋然的に)社会に共有されていると思われる「正当性」ということで、差別うんぬんはその正当性に対する綱引きということなのだが・・。どうも「人権デフォルト」みたいな感じ。


 具体例としてはこちらであがってる


*minx* [macska dot org in exile] - 侮辱しても差別にはあたらない集団


 これだと事例に終始して一般理論にまではならない。(ノイズが多い)

 macskaさんはいちお正当性の線引きの基準として、「法的に正しいとされるかどうか」と「階層への意識」という軸を提示している。「法的に正しいかどうか」(国家的審級)のほかに「世間の一般ジョーシキ」(社会的審級)のようなものも加わるだろう

 んで、これらの要素を元に「ある特定の集団に対してもっても良い感情(意見)」というラインのようなものが設定される。

 差別というのはそのラインをはみ出すかどうか、(蓋然的な正当性に対して)はみ出しすぎかどうかという問題なのだろう。要するに過剰性の問題。

 そのラインに乗るか、ラインから少ししかはみ出してない場合は「区別」として世間的に認定(妥協)される。対してラインをはみ出しすぎる場合は過剰性ということで「やり過ぎ」「言い過ぎ」ってことになる。

 んで、「逆差別」のような特定集団への過剰同調なんてのも過剰性ということになる。


 これだけだとちょっと抽象的で分かりづらいかもしれないので、こちらのエントリの表現を借りることとする。「過剰性」についてのい数式的説明


文化は様々な二項対立的なペアの集積からなっている。例えば、男/女、健常者/障碍者etc。これらのペアは決して平等に対立しているのではない(8≠4+4)。二項のうちの何れかが優位に立っている(8=5+3)。だから、優位な側を「侮辱」するというのは不均衡な対立を4+4に近づけていく試みでもある。

Living, Loving, Thinking - 差別について形式的により引用】




 んで、これをもうちょっと詳細な数値で追えるのが「ヤバい経済学」2章中盤に載ってる「ウィーケストリンク」の例。これについてはmasckaさんがエントリまとめてくれてたので借りる。


macska dot org » Blog Archive » 「蔑視」と「偏見」/自衛的行為を装う「合理的な差別」に対抗するための倫理


 すげーおーざっぱに言うと、「生理的に受け付けない」系の差別と「なんかコイツ弱そう?」みたいな見下し差別があったとして、後者の差別は合理的な判断によって構成されている、ってこと(前者はなんかよくわからん嗜好)。んで、そういった「合理的判断」の元となっているのが社会構造(「ビジネスで使えるか使えないか」)だとすると、ビジネス的には「あり」な判断ってこと。だからビジネス的には正しい。でも、「差別」なので社会的にはどーなの?、ってことになる(※その辺については後述)

 で、なにが数値的に分かりやすいかっていうと、「ウィーケストリンク」において選考の基準がクイズの正解率という形で明示化されているから。この辺りで個人の能力値が客観的に判断できるわけ。んで、それがそのまま「客観的な基準」(「区別」と「差別」の基準点)に繋がる。でも、「差別」というのはその「客観的な基準」を越えちゃうので「差別」として客観的に認定される、ってこと。




 一部フェミの人のギロンを少し覗いたら、「差別との戦いは非対称性との戦いです(女性に対する不当な抑圧の回復を!)」みたいな言説があったけど(参照)、これなんかも要するに「過剰性をめぐる争い」ということから見ると分かりやすい。

 んで、そういう過剰性の審級というのは、最初に述べたように、法的・社会的な線引きから決まるわけだけど、それらの審級を決める要因がポイント。



 ぼくのエントリではそういうことを解説したつもりだけど、伝わってないのかなぁ・・・。(まぁいいけど)


 フーゾクの例だと、法的なラインというのはおそらくビジネスとセキュリティから決まる。

 「サービス従事者の安全、顧客の安全を守らないと客が寄りつかなくなって、結果的に市場狭くなっちゃいますよ」、ということ。

 んで、ビジネス的な理由で法が設定される。

 あとは人権的な意識がちょこっと。


 ビジネス的なもの(市場)を法的に守る必要性というのは国家にとってその市場が重要だから、ということ。なので統制を加えてつぶれないようにコントロールする。


 逆に、国家にとってそれほど重要でなければ放置するか、モラルハザード的な理由(リスクヘッジ)からつぶす。



 こんな感じで、法的なラインを決めているのは国家なわけだが、フェミの人のギロン(非対称性がどうとか)を見るとどうもその辺は念頭にあるのかなって不安になる・・。


 「人権回復〜!」っていうけど、その人権を設定しているのは国家であり、国家は上記してきた理由で主にビジネス面からセキュリティのリスクヘッジを行うわけだから、ビジネス面のインセンティブみたいなのをみない限り、法的なラインは動かないと思うのだが・・。(フーゾクの場合は)


 情状を汲んで、みたいな人権意識も少しはあるかもしれないけど、それはタテマエだと思う。


 んで、市場とは関わらないところでの人権回復の例もあるけど、これも「基本的人権を尊重したいから」という理由からではなく、「モラルハザードで社会統制がむずかしくなると困るから」という理由で人権への配慮が為される。
(※なので市場的に大きくない階層の人々の人権うんぬんは後回しにされる)



 あと、「女性の人権」関連では女性の社会進出とのかかわりが深いように思う。市場の構成員として、女性を無視するわけにはいかないし、あとは世間的な人権意識の高まりも鑑みないとモラルハザードになるな。
(※そういう意味で「(元からあった)人権の回復」ではなく「人権を獲得できるぐらいに女性がプロパティを獲得してきた」ということ)


 ・・・そういうのは頭にあるのかな・・(って、オレの考えも一つの解釈に過ぎないわけだが)





 そういや、桂(スラヴォイ)ジジェク師匠が「人権と国家」なんて対談集出してて、いま手元にあるな。そういうわけでジジェク師匠に聞いてみたよ(本で)


人権と国家―世界の本質をめぐる考祭
スラヴォイ ジジェク Slavoj Zizek 岡崎 玲子
集英社 (2006/11)
売り上げランキング: 52169



 以下、「人権と国家(p155-170) より確認。

 第一に権利は力(暴力もしくは経済力)を持つものに集まり、残りの部分が配分されていた。それが現在の普遍的権利(基本的人権)にまで高まった過程についての記述はびみょーだったけど、ジジェク師匠は歴史学者(あるいは法学者)ではないので仕方ないか。




 あと、個人的に国家の役割として、「市場(ベヒーモス)の暴力」に対抗するための「リヴァイアサン」って考えもあるだろうけど、ちょっと置く。国家の本質的暴力性についてはギデンズかな(「国家と暴力」)。


 リヴァイアサンとベヒーモスの争い(拮抗)についてはここに詳しい


 「グリゴリの捕縛」
http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/kenporon.htm


 著作権について、国家と市場の綱引きを描いた話だけど、法制度全体の成立過程を考える上でも参考になる。もっとも、厳密に言えば著作権とそれ以外の領域での法制度の成立過程は違うのだろうが・・・おーざっぱに。





 んで、こういうギロンってやっぱ公共性関連(※公共性は社会的なエゴの妥協点) なんだなぁ、って思ってたところで分裂君エントリ発見


分裂勘違い君劇場 - 新しい時代の道徳はどのようにして生まれるのか



 全体の論旨はぼくの書いてることをもっと具体的に語った感じ。んでも、分裂君の場合は<「道徳」的なものが「エゴ」に優位する>という視点をとっているけど。


 この辺りは経済学の古典的な視点(<「エゴ」と「道徳」どっちが優位?>)みたいなやつだろう。「ヤバい経済学」によるとアダム・スミス以来の課題らしい。

 ってか、政治学における「リアリスト(現実主義者) vs. アイデアリスト(理想主義者)」論争とも通じる。「システム vs. 主体」と見てもいい。



 ぼくは本来、理想論者であり主体(人間の意志)を信じるけど、最近ではシステム的な視点をとることが多いのでちょっとリアリスト的な見方になってしまうことが多い。それで誤解されてしまうかもしれない(ってか、このエントリも長文だからかなりの確率で誤解されてるな。別にいいけどw)。


 とりあえず、この辺り(「理想は現実に優位するか」「人間はシステムにに勝てるか」)は今後の課題。メモ的に思うのは二元論ではないのだろう。



 あと、社会的審級のもうちょっと下というか細かい群島のところでのルールの決まり方について、内藤さんのこれが分かりやすかった


いじめと現代社会BLOG - 秩序の生態学


 これはこれで突っ込みポイントというか改善点が感じられるけど、長くなりそうなのでやめときます。(ってか、実証を通じて要素を精緻化していけばいいかな、と)




posted by m_um_u at 22:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク
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