もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかがやく
天の仕事もするだろう
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村の一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがように
それらのどの人もまたどの人も
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
「10年…10年だ
どんな才能もその持続は10年がやっとだ
その10年の間に、すべての生を燃焼させるのだ」
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしょに
至上福祉にいたろうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもうひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ
もしもおまえが
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光の像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
死ぬといふ いまごろになって
わたくしを いっしゃう あかるく するために
こんな さっぱりした 雪のひとわんを
おまへは わたくしに たのんだのだ
ありがたう わたくしの けなげな いもうとよ
わたくしも まっすぐに すすんでいくから
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
ああ あの とざされた 病室の
くらい びゃうぶや かやの なかに
やさしく あをじろく 燃えてゐる
わたくしの けなげな いもうとよ
この雪は どこを えらばうにも
あんまり どこも まっしろなのだ
あんな おそろしい みだれた そらから
この うつくしい 雪が きたのだ
(うまれで くるたて
こんどは こたに わりやの ごとばかりで
くるしまなあよに うまれてくる)
おまへが たべる この ふたわんの ゆきに
わたくしは いま こころから いのる
どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に 変わって
やがては おまへとみんなとに 聖い資糧を もたらすことを
わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ
みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだ
もしも楽器がなかったら
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできた
パイプオルガンを弾くがいい
見てきたので感想を。結論から言えば予想以上によかった(何回か泣きそうになって我慢した)。
小難しい批評だの感想だのを別にして、この映画でもっとも印象に残るシーンがあるとしたら、それは夏の日にたなびく飛行機雲のきれいな線であり、大きく立ち上った雲に向かってきれいに羽ばたいて行く紙飛行機の風の軌跡だろう。
それで十分だし、それ以上なにも語るべきではないのかもしれない。
しかし、きちんと感想を書いておきたいので、全力で謎とこうと思う。
物語は第二次世界大戦前の日本、「ゼロの奇跡」と讃えられたゼロ戦を開発した飛行機技師の話。
日本のその頃の国力ではまともな飛行機を作ることさえ難しかった中で、ゼロ戦は驚異的な性能を発揮し、一部で称賛と畏怖を集めていく。
しかし、その称賛が破滅への道だということを、技師は設計の段階から予感していた。
そして、さらにはるかな昔の幼少期から、少年は自分が天の仕事を手がけることを、そのために一切をなげうって尽くす必要が有ることを、預言されていた。
しかし、それ自体は彼の喜びであり、そのときが来たら全力を尽くし「きれいなもの」を作り出すことこそが、彼の本望であった。
一人のやさしい娘に出会うまでは
二人の出会いは風から予感され、風がもたらしたものだった。
そういった意味ではこれも天啓であり、「預けられたもの」ということではあったのだろうけど
やがて、そんな二人の蜜月に陰が差し込んでいく。
結核という当時の不治の病
これにより二人の将来は予め短いうたかたの夢であることが決定されていた。
それでも
二人はお互いがお互いを必要とし、あるいは、自らのもっともきれいな季節を良人に与えることによって「より高く飛べるように」と女は願い、風となって去っていった。
それが男に一刻の修羅をもたらしたか映画のなかでは語られていない。
しかし、男はより一層、自分の生を「天の仕事」をまっとうさせることにのみ費やしたのだろう。
だからこそ、映画の最後に「生きて」といわれることで、この男の生はようやくにして開放される。
もはや天の仕事のためにすべてを投げ打つ必要はないのだから。
まだ、自分自身の生をいきる意味が残されていたのだから。
そのようにしてこの作品では風が「生きろ」と囁いていく。
では、「生きる」とはどういうことなのか?
人は自分自身の物語、人生に向き合いそれを超克していくことで光り輝くことができる。
堀越二郎にとってそれは天の仕事をする(きれいなものをつくる)こととまったく同じ意味であった。
なおこにとっては自分の最もきれいな季節を悟り、それを良人に与えることが、もっとも生きた瞬間だった。
人は単に物理的寿命によって生きるのみにあらず、まさに生きられた時間によってその生の在り処が決まるのだろう。
二人の登場人物の人生のアウトラインとしてはこのような形になると思うが、それとは別に物語を包むテーマとして「科学者と技師(エンジニア)」というものがある。
科学者は理論やデータに基づいた科学という方法(数学的演繹や帰納)によって事象の科学的な未来を予想したりhackしたりする、のに対して、エンジニアは現場の職人として実践的に事にあたり、研究室では回収され尽くせない先端のアポリアを現実との試行錯誤の中からhackしていく。
それはまさに2011年の地震のときにも見られた構図である。
エンジニア(現場の経験知)の意見は上層部に通る過程で濁り、曖昧にされ、結果として原子力発電所のあの惨事をもたらした。
それをして「人類は、あるいは日本という国は原発を持つには早すぎたのだ(すくなくともいまのままではまた繰り返しになる)」という言説がある。それには一旦首肯する、が、それをしてそれまで積み重ねられた実践の知や、経験、歴史を反故にしてしまうのは極論というものだろう。たしかに、現状では利権-政治的な複雑さによって透明な意見が通らない。だったら、そのように問題が見えているのだったら、全てを放り出すのではなくその部分をhackしていこうとするのが考える葦たる人のあり方のように思う。ヴェーバー「職業としての政治」を引くまでもなく、政治的な空間にもプロフェッショナルなエンジニア-テクノクラートは存在する。その部分、日本の政治的なエンジンが十全に発揮されるような環境を作ることこそが重要なように思う。(エンジンに善も悪もなく、きれいなものはきれいだし、きたないものはきたない)
閑話休題
もうひとつ、物語を包むテーマとして気になったことがあった。「結核」という「となりのトトロ」の頃から続くキーワード。
当時の不治の病であり呪われた毒、現在の放射性物質汚染と同様のもの。
それは、本編の重層的な文脈である宮崎家の物語と関わるのではないか?
そのように直観したけれど、その部分は特に詰めないでおく。
そうであっても、そうでなかったとしても、宮崎家の鬼の血、というか、「天の仕事をすること」への情熱はそのまま宮崎吾朗へ受け継がれた(奥歯を砕きながら作った「コクリコ坂から」)。
コクリコ坂からの主人公の一人の青年がもっていた将来への夢の内容はにわかにはわすれてしまったけれど、同様の物語構造をもつ「耳を澄ませば」で青年がもっていた大志(きれいなバイオリンを作るという天の仕事をすること)にも相応するものと思われた。
宮崎吾朗はそのような「大志」「天の仕事」の犠牲となって幼少期に親の愛を受けられなかった子、だったのだろうか?
あるいは、そのように了解されていたのかもしれない。
ある時期までは
宮崎駿があるインタビューに答えてこう言っていた。
「わたしは自分の仕事を幼い吾郎のためにやってきた。吾郎がよろこぶように。なかなか一緒にいてやれないけれど、、たとえばパンダコパンダはわたしたちの物語なんです」
吾郎がそれをほんとうに実感するためには自らも天の仕事に就く必要があったのだろう。天から与えられた作品を削りだすまでは己の身体など顧みないテンションを生きる天の仕事に。
それをしてようやく、吾郎は当時の父の愛を確かめることができる。本当にあのとき、父が自分に向けて物語を紡いでいてくれたのか、母のことをどう思っていたのか…
自分は、父から期待されてない子供だったのか?(「ジブリを継ぐもの」とは誰なのか?)
「ジブリを継ぐもの」
それは単にアニメーターとしての才能や想像力があるということにとどまらず、ジブリが抱えてきたエートス、あるいは、そこにかけられた思いを継ぐことができるもの、ということになる。
ジブリ中興の祖である近藤喜文さんの、あるいは、ジブリが世界にはばたく際の架け橋となってくれたアルパートさん(本編ではカストルプさんの声を当てている)のそれを。
もしくは世間的には名前も知られないうちに去っていった仲間たちの思いを。
それらを、ジブリ外で継いでいるものが庵野秀明(堀越二郎)だったのだろう。
ジブリ作品(「ラピュタ」「ナウシカ」)から「ナディア」-「エヴァンゲリオン」-「オネアミスの翼」へと継がれたアトランティスの夢。そして、「飛ぶ」
ことへの意志。
アトランティスの夢は人の理想を映した風と火と水の物語の暗喩であろうが、ここではこの記述に留める(cf.「百億の昼と千億の夜」)。
「庵野を主人公にした」というのは一見すると「ジブリを継ぐもの」として庵野を選んだ、かのようにも見えるがおそらくそうではない。
「外にあってジブリ(シロッコ=熱風)の意志を継ぐもの」として庵野が次の作品できちんと羽ばたけるように、というエールだったのだろう。
そして、おそらくは次の大作を持って宮崎駿の作品作りは終わる。宮崎がかつていつかは作りたいと言っていた「方丈記私記」の反映をもって。
あるいは今作がそうだったのだろうか?
であったとしても、宮崎の父への思いはここに昇華したように思う。飛行機技師であった父への思いは、こういった形で人々の間に残されていく。
それはまるでかつてのゼロの記憶が、新幹線という世界最高の技術として戦争のない世に遺されていったように。
風の意志は
継がれていく
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関連:
グスコーブドリのように: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/163308380.html
G戦場経由、蒼い月行き (赤い戦車風味): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/36439208.html
「さあ、ちからのかぎり、そらいっぱいの、光でできた、パイプオルガンをひくがいい」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/205662291.html
「風立ちぬ・・・」 - Togetter
http://togetter.com/li/538292
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個人的には「しっかりと生きろ」と後押しされたように思いました。
「しっかりと、大人として、やるべきことを、きちんとこなせ」、と。
「どうせ自分は嫌われる」などと拗ねる前に自分が嫌われないように、断片化して大事なところは隠したりせずに、人に伝わるように話せ(態度で示せ)、と。
ありがとうございました


