2007年03月25日

教養について ver.2.0

 教育とか教養について。自分でエントリ起こしたり福耳さんとこにお邪魔してるうちにそれなりにまとめとかなきゃなぁ、というか、投げっぱなしも良くないなぁと思うのでいちお整理しとく。っていっても、本来ならこういう話は教育学部とかそれに準ずるもの(教員免許とか?)に関わる人が発すれば良いと思うし、ぼくはこういうこと言う立場でもないのだろうけど、まぁ「オレ様教育論」ということで。

 上記の理由でエントリには少し消極的だったんだけど、今日lifeの教養の回を聞き終わってなんかふつふつと来るものがあったのでそういうのもやっつけまとめとこうか、と。


 まとめサイトの人がテキスト起こししてくれてたのでとりあえず


「教養」 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


「教養」Part2 - 「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - livedoor Wiki(ウィキ)


 特に驚きはない、というかこの人たちとは気が合いそうなので最初から答えがシンクロしてたんだろうけど、大体同意な内容だった。以下、論点箇条



(1)いわゆる「実学」に対する「教養」とはなにか?


(2)Google時代の「教養」の意義


(3)世代間の共通言語としての「教養」の意義


(4)抑圧(権威の象徴)としての「教養」


(5)それでもなお「教養」というものに意義があるとしたら、ほんとの「教養」とは?



 まず、(1)について。これは象徴的な言葉としてこんなのがあった。


 「教養の反対語はホリエモン」


 おっさん達年長者の方々がエスタブリッシュな閥の共通言語として「古典文学」とかその他諸々を身に付け、そういうのに共通していたエートスを身につけていったのに対して、そういうものとは早い段階で縁を切り、合理的な方法でプロパティを獲得していった堀江さん。彼の合理性を如実に表すものとして、最近では以下のエントリが印象深かった。


堀江貴文逮捕による本当の損失


 要約すれば、「新しいことに対する偏見がなく判断スピードが速かった」、ということ。その後の彼の経営の舵取りについては評価が分かれるところだろうけど、ことこの部分については正当な評価を受けて然るべきなのではないか?どうも、「合理主義でIT風吹かしてるヤツなんかは経営に対する思い入れというものがないんだよ。拝金主義ってヤツ。やっぱ必要なのは倫理と教養だよね」、みたいなお年寄りの声が聞こえてくる感じでイヤなのだが、拝金主義と合理性って結びつかないから。たしかに仕事においてお金というのは第一義的に目指すものではなく付いてくるものだとは思うけど、合理性=拝金主義のように捉えて変な教養主義のバックラッシュとか起こったらたまらん。お金と仕事についてはこの辺に詳しい


極東ブログ: [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)


 エントリの本筋ではないのでサラッと引用だけさせていただく


カネを儲けることは、世俗内的禁欲の結果であって目的ではないということ。なによりそれが現世ではなく来世に結びつけられていることが重要。
 ではなぜそれが職業を通して現れるかというとその背景に社会構成の原理としての隣人愛の特有なモデルがある。
 いずれにせよ、こうした内面化された行動規範をエートス(倫理)と呼ぶ。エティーク(倫理)とイコールではないというのが難しいのだがそれ以上は踏み込まない。



カネ(資本蓄積)は結果論であり、重要なのは、職業(ベルーフ)を神の呼びかけ=天職としてただ実践するだけ。



よく誤解されるのだが、天職とは、自身に適合した職業とかいう意味ではぜんぜんない。この世に置かれた状況が強いる職業そのままを指す。これは結果としては、多少意外な印象もあるだろうが、共同体(ゲマインデ)の解体をもたらす。
 もう一点、言うまでもないが、こうしたエートスは富裕者と社会的低階層者とを区別しない



 あと、この辺とか、


石黒憲彦氏の「志本主義のススメ」

そして、山本氏は、日本人の職業観、倫理観と、マックス・ウエーバーが指摘するプロテスタンティズムの倫理とのアナロジーを指摘しています。マックス・ウエーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、ベンジャミン・フランクリンに代表される、禁欲的な生活態度を保ちつつ、正当な利潤を使命(すなわち職業として)として組織的かつ合理的に追及するという「資本主義の精神」の起源をプロテスタンティズムに求めました。


プロテスタンティズムは、「目的としての富の追求を邪悪の極地」としながらも、「職業労働の結果としての富の獲得を神の恩恵」と考え、奢侈的な消費を戒める一方、営利を開放することで、禁欲的節約強制による資本形成が進むのです。



山本氏は、戦国時代武士として生き、その後禅僧となった鈴木正三が説いた世俗的な職業倫理としての「万民徳用」という世間法の中に、「世俗的行為は宗教的行為である」というプロテスタンティズムと共通の発想がみられると指摘しています。正三は、「農業則仏行なり」、「何の事業も皆則仏行なり」と説き、「分業は、本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したもう」ためであり、「武士は秩序維持、農人は食量、職人は必要な品々の提供を、商人は流通をそれぞれ担当するのが宗教的義務になる」(「勤勉の哲学」P73〜74、PHP研究所、 1979年)と説きます。こうして「職業に貴賎なし」、「一意専心」それに従うことが仏行であり、働くことで精神的安定と充足感が得られるとする職業倫理が確立していきました。そうした職業観は「道」という考え方に通じます。さらに、正三は、利潤を目的とせずただ一心不乱に仕事をしていれば結果として収入増となり、利潤が生まれるとも説いているのです。



 こんな感じで合理性そのものは悪ではない。「目的ではない」というだけのこと。ツールみたいなもんだ。福耳さんところで「お金儲け(≠経営)を悪徳と考える人多くね?」的エントリがあったけど同様のことだと思う。(だいたい経営学の目標とする価値は効率化による利潤の最大化なのだから合理性を否定してどうするのだ、と)

 たぶんなんかがまざってるんだと思う(サラッというとマルクス主義の形式知が暗黙知化できてない。つまり自分の言葉にならず単なる呪いとして機能しているのだろう)



 で、実学と教養の話に戻ると、実学的なものの象徴としてMBAが出てきてて、さらに大学の経営レベル(学部改革)の象徴として慶応のSFC(総合政策学部と環境情報学部)が挙げられてた。元から実学というか財界のトップのほうとのルート作るのがメインで創られた学部ということで、創った人たちもそういう方面でのフィクサー的な存在だった、と。んで、「社会に出て役に立つような実学」をメインで教科編成したらしいんだけど、結局なにがメインか分からないヌエみたいな存在になったらしい(cf.東大教養、ICU)。それはそれでよいのかもしれないけど、やっぱそんなもんかなぁ、って感じだ。(ところでSFCをして「ホイチョイ的世界」と称する柳瀬さんの表現は絶妙だと思った。大学堀越!)




 んで、次。(2)Google時代の「教養」の意義、について。

 「検索エンジンあっても調べる言葉がわかんないと意味ないじゃん」、ってやつ。山形さんの新教養主義みたいなのもそういう文脈だったらしい。それに対して、「ほんとの教養を身につければいろいろ調べれるようになるぜ」、と。「ほんとの教養」は後述

 加えて言うなら知識データベースを内部化しておくと検索スピードが向上、思考のリズムが生まれやすくなり創発(アイデアがわく)が起こりやすいというのもあると思うけど、その辺理論化されてないのでいいや。(cf.茂木さんの「アハ体験」でもいいけど、理論っぽくなさそうだしなぁ)



 (3)世代間の共通言語としての「教養」の意義、について。「若い社員との接し方が分からない」問題は切込隊長のところでも出てたな。


切込隊長BLOG(ブログ) - 続・「若い社員との接し方が分からない」って悩みはほぼ全員が持ってると思うんだけどね


 いまの子たちって合理的なので「飲む・打つ・買う」なんかしないし、そういう意味ではプライベート的なところで接点がない(飲みニュケーションがない)。 いわゆる素面男子ってやつだ。

第19回 素面男子〜なぜ「飲む、打つ、買う」?意味わからないです (U35男子マーケティング図鑑):NBonline(日経ビジネス オンライン)

 ってか反応みると強烈に批判されてるのでびみょーな感じがするけど、でも世代間をつなぐ共通言語がなくなってきてるってのはあると思う。昔はそういうのを「教養」というコモンセンスがつないでいたらしい。「代表的な小説」とか「代表的な歌」とかそんなの。んでもそういうのもなくなって久しい、と。

 で、そういう部分を担っていた「代表的な小説(いわゆるブンガクみたいなの)」は昔は帝大の文学部を中心にスタンダード化されていってたみたいなんだけど、その理由として「文学部に通ってた連中は地方出身の田舎者(豪農とか?)が中心だったからです」((C)竹内洋)というのが面白かった。田舎者が見栄を張るために(その時代で)日本の知よりもそふぃすてぃけーとされた西洋文学を身につけて威張る必要があった、と。

 なるほど、そんなものだったのか・・。で、そういったものがエリートの象徴というか、エリートプロトコルとして生き残っていった、と。



(4)抑圧(権威の象徴)としての「教養」、について。

 上記の話にそのまま繋がるんだけど、そういう共通言語(プロトコル)を身につけてないと話通じないよ、って感じがあったのだろう。番組中ではそこまで言ってなかったけど、教養による権威性と優越意識(排他意識)みたいなのには触れてた。学問領域だとゲーガク的なジャーゴン(専門用語)とかそれに当たると思う。

 ジャーゴンは情報圧縮率が高いので専門家同士の話だと必要性があることは認めるけど、それを障壁として使うのはどうかなって思うことがある。(もしくは中身のないギロンの煙幕とか)。本エントリ前段で出てきた(たぶん)よくわからないマルクス主義かぶれの人たちもそういう呪いを受けてたのだろう。



(5)それでもなお「教養」というものに意義があるとしたら、ほんとの「教養」とは?

 煙幕とかゲーガクみたいな教養ではなく真の意味での教養があるとしたらどういったものか?、といった問いかけ。これについては本サイトでは既出なので特に言うことはない(参照参照2)。

 いちお要約すれば、「個々人の人生にとって重要とする価値観に沿って集められた知識」であり、「その知識を吸収・整理・参照していくための思考の枠組み」ということ。後者については「答えよりもむしろ問題設定のほうが重要」って感じ。あとは専門知的なところから出てくる知見とかcritical wordか。Googleで調べる場合そういうのが必要だろう。

 んで、専門知をただカタカナ的に覚えてジャーゴン談義してるだけではほんとの知ではなくて、それを自分の言葉に置き換え生活の中の具体的な事象と連結し、他の分野の言葉(概念)との共通性を探り包括的な理論を作る、って感じ。ってか、最初からどれもこれもってやってたら足場できないだろうけど。そういう意味ではある程度のタコツボも必要だと思う。なんつーか、専門知もある程度に達したら勝手にほかと繋がるように思うので。きちんとした思考回路を持ってたら繋がると思う。(「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」)


 付け加えるならば「地力」のようなものもあるように思う。福耳さんのところでも少し触れてあったが、ほんものの経営者の人の人生観から出てくる言葉に含まれる経験知というか、人生の重みというか・・。「人格」と言ってもいいかもしれない。そういうのは限界状況で身につけていった「地力」と、限界状況でも手放さなかった矜持(プライド)のようなものから構成されるように思う。そんで、そういったものはやっぱ単に個人の欲得というところから離れたもので構成されるのではないか、と(そういうわけでエントリ前段の仕事のエートスに還る)。「エートス」というよりは「覚悟」と言ったほうが良いかもしれない。


 「そういうところから短期的な儲け(単なる投機目的の株買い)と長期的視野に経った投資との違いが出る」、みたいな話を柳瀬さんがしてた。デイトレみたいな単なる投機はなんつーかパチンコみたいなもんだと(もっとリスク多いかもとも)。長期的に見れば伸びるところが見れない、みたいな話をしてた。

 これは前半の「Google的知」と「根っことしての教養」みたいな話とも繋がる。

 もうちょっと別の言葉で言うとinformationとinsightの違い。前者が単なる形式知的な情報なのに対して、後者は情報を編集・整理する過程で自分の言葉(暗黙知)に置き換え、最終的に確かな知として吸収している。

 テスト前の詰め込み的な単なる形式知ではほんとの知としての応用は利かないし、すぐに忘れる。後者の知というのは血肉となって人生に役立っていく。


 教養については大体そんな感じか。


 ってか、またしても前置きの話が長くなった・・(ほんとは「極(私的)勉強法」とかアップしたかったのに)。




・・長くなったので別の機会で(やんないかも)




タグ:教育
posted by m_um_u at 15:11 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
ちょっと話が広すぎて、僕なんか怖気づいちゃいますが、「職業生活上のマナー」「経済人としての倫理」「コミュニケーションツールとしての共有話題」「個人としての行動指針になる社会観・世界観」というものがごっちゃにされすぎじゃあないでしょうか。僕はそれに加えて、「クリエイティブなアイデアの源泉としての雑学」としての教養に注目しています。
Posted by 福耳 at 2007年03月25日 17:08
いや、やはり雑でしたか(笑)悪い癖です。
とりあえずギロンのたたき台程度に捉えていただければありがたいです(叩かれてなんぼ)

雑学がクリエイティブなアイディアの元になるというのはGoogle(?)の社訓みたいなのでありましたね。「どんなくだらないアイデアでもなにかに繋がるかもしれないので軽んじない」みたいなの。

システム論系では多様性の導入ということになると思います。(多様性を導入せずに固まっているシステムは死ぬので)
Posted by m_um_u at 2007年03月25日 17:49
いま見返してみると福耳さんのおっしゃるようにごっちゃって感じですね。ムリに「教養」という言葉にまとめなくてもいいのかもしれない。
Posted by m_um_u at 2007年03月26日 08:40
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