2007年03月22日

大学教育について(上下分離の必要性など)

ちょっと前からこちらのblogをちょくちょく見させてもらっている。


福耳コラム
http://d.hatena.ne.jp/fuku33


 経営学系の人らしい。んで、同年代、と。そういうこともあってかなんか読んでて楽というか分かりやすい(って、ぼくは経営学プロパーではないが)。特にこの記述で「おまえはオレか?」的既視感を感じた。

まだまだ書こうと思えば書けるのですが、書きながらあれ、と思ったけれど、ずいぶん生産管理論の用語で戦争って語れるもんだなあ、と思いました。これは思い出してみれば、アメリカでOR(オペレーションリサーチ)の研究が始まったのが戦争中の米軍の兵站の研究でだったからかな、と思います。と言ってもこれはわたくし噂で聞いただけで、経営学史をひもといたわけではないですが。でも、経営学で現在自分が使っている資源の最適配分とか、成果の極大化とか、そのまんま軍事に使える概念である気がしてきた。ていうかもとがそこから来たんだからこれは当たり前か。

福耳コラム - 軍事研究の経営学的意味より引用】


 
 そういうことなのだ(って偉そうだが)。昔から経営の専門家(社長)が孫子の兵法なんか呼んでたのは伊達ではなかったのだろう。

 んで、ぼくもちょっと前にクラウゼヴィッツの理論をモデル起こししてそれを基調に軍事戦略・戦術の変化を追い、経営学系の理論と合一させようと思ったのだけれど中途になっている。(伊丹センセの「新・経営戦略論」を基本にいまのところここまで↓)



経営学.JPG


経営学2.JPG


 そんで、こういうのを作りながら思ったんだけど、経営学って体系的理論がないのね。いや、御大級の人が最後の一仕事って感じでつくろうとはしてるんだけど、びみょーというか、クラウゼヴィッツ級の確定したやつがない。そんなことを思ったわけだけどやはりご同輩というか↓

ある文脈の中で戦略という語彙が使われて、つまりどういう意味かと読み込むと、単に「目的」という言葉の代わりに戦略と言っていたり(例:売上増戦略)、「手法・商法」という意味で戦略と言っていたり(例:現金掛け値なし戦略)、なんか巧妙な巧いやり方で敵を楽に倒す「計略・戦術」という意味で戦略と呼んだり、あるいは「戦略とは差別化のことである」という学者がいたり(マイケルポーターお前のことだ)、それはいろいろある戦略からあなたの選んだのがそれであるというだけで、戦略一般の定義とは違うでしょ、と言いたくなったり。

つまり経営学者やコンサルタントたちはみんな好き勝手に戦略と言っているだけで、クラウゼヴィッツの「戦略とは個々の戦闘を戦争の目的に結びつけることである。」という定義がいかに優れているかは、それより百年もあとに生れたはずのおじさんたちがそれに追いつけてさえいないことで明らかではないか。だって個々の活動を目的に結びつけることが戦略なら、経営学の都合で人事戦略だ販売戦略だ生産戦略だってばらばらに考えること自体が戦略的ではないのではないか。戦略論は突き詰めれば全体論になるのじゃないか。

福耳コラム - 「戦略論」の混乱より引用】



 分かるわぁ。平気で戦術と戦略をまぜこぜで使う人とかいるし、マーケの人でも自分の業界のカタカナ言葉をフル稼働で話すんだけど、それって経験則にすぎないんだよね。いや、経験則は経験則で重要かもしれないけど、でもそれ短期的な効果しかないし、なんつーか判例みたいなもんだから。「それじゃ先見えないよ」って感じなんだけど、MBAはMBAで資格取るのも大変らしいのであまり言うまいw


 んで、まぁ、「お仲間かなー」って感じでニコニコ見てた福耳さんのところでちょっと悩みが


福耳コラム - 素質論に逃げまい


 「学生が大根ばかりでもあきらめまい!(それがワシらの仕事や)」、と。若手講師にありがちな悩みというか、責任感強い人ほどこうなるんだろうな・・。非日常さんとこのスーパー講師の人に相談したいようなヤマだ。

大学教員の日常・非日常:昔の日記:ミスター非常勤

大学教員の日常・非日常:さよなら非常勤先生



 もしくは、こういう問題って塾講師とかのほうが割り切っててうまかったりする。ってか、ぼくはこの部分の教育ってもう塾に外注していいんじゃないかと思ってるけど、そうすると若手に仕事が回ってこないか?5号館さんとこにそんな話題出てたか。


5号館のつぶやき : ポスドク1万人計画の次は早期退職教員1万人計画


 5号館さんのところは「ヤル気のない教員辞めさせてポスドク1万人採用したほうが有益」ってスタンスだけど、そのポスドクが塾講経験もあると良いのではないか?ってか、ほとんどのドク(ポスドク)って塾講(ないしそれに準ずるもの)経験あるだろうけど。


 あと、関連で、「専門知識を分かりやすく解説する能力を持った人がいるだろうね」、ということでこのような提案をされている

5号館のつぶやき : 科学技術コミュニケーター利用のすすめ

 これなんかも「教育特化」(もしくは上下分離的に「教育」と「研究」、「経営」を分ける)と考えると分かりやすい。余談だが、桂(スラヴォイ)ジジェク師匠は研究ばっかやってればいいんだそうだ。「年に2、3回講演したらほかの人の半分のきゅーりょー貰えるよ。それでそんなのをいくつか掛け持ちしてる。だから一杯本書けるよ」、と。うらやましい限りだがご本人もありがたがってた。そんな感じで最適化を測って、能力がある人の能力をフルに活用したほうが良いだろう。誰とは言わんが、大学院とか大学の講義とかでもぶーたれてやってる大御所とかいるわけだし・・。ああいうのは学生に悪影響だと思う(その分野に対する好奇心とか魅力がなくなる)。


 んで、福耳さんの件に戻るけど、

 そういやちょっと前に意味不明なTB送って混乱させてしまったかもしれない(ちょっと反省)。

 muse-A-muse 2nd: 教育とか教養について

 
 言いたかったのは上記してきたようなこと。つまり、「基本的なところは塾講師的なフローで良いのではないか?」、ってこと。この部分の知識は本来の意味での大学的知識ではないけど、素養ができていないのだから仕方がない。現在は学級崩壊世代よりもちょっと下か。そういう世代がてきとーに「ゆとり教育」とかで育ってきてるわけだからもうアレだ。ちょっと前の世界史履修漏れ問題のときに、「現在の大学ではそういうことに対して大学教員が大学以前の基礎的知識についてフォローしている」、みたいな話を聞いたけどそんな感じで仕方ないのではないか?だってできないんだもん。できないってことは話が通じない(プロトコル≠インターフェースの統一してない)んだもん。読み書きソロバンができないんだもん。っつーか、それ以前にヤル気ないんだもん。

 そういう部分のリテラシーってのはアレだ。短期集中で詰め込みさせるしかない。その際の「インセンティブ」がポイントなんだけど、これはプロの塾講の人たちはどんな感じで設定してるのかな?

 伝え聞いた話だといわゆるスーパー塾講と呼ばれる人にはそれぞれ得意技というようなものがあるらしい。生徒はそれを見たさに講義に通ってる面もあるのだとか。えーと例えばこんなの↓




pya! この点はでねぇよ!

荻野RAVE




 愛されている



 って、ここまで来る必要はないかもしれないけど、個性は必要かな、と。学生を引き寄せる個性のようなもの。ぼくはそういうの苦手だし講師してないのでアレなんだけど、とりあえずこの辺とか参考になるかもしれない。


塾講師のつぶやき


理科塾講師のつぶやき



 あと、こんな感じで「基礎教育」部分を外部化する場合、平行して経営に特化した人員の採用が必要になると思う。大学長なんかそういうセンスない人ばっかなわけだし、学内政治なんかしてたら少子化に向けてほんとに生き残れないのではないか?経営系の人はそういうのに借り出されてるみたいだけど、それに加えてやっぱ社長とか企業トップの経験のある人がいてくれると心強い。「学校教育への経営的意識の導入の必要性」については(中学校ではあるが)この辺りに詳しい


バックナンバー - 今、学校で何が起きているのか - nikkei BPnet






 ってなんか書きたいことから大幅にずれてしまったな・・。


 ほんとは「教育」の参考として野中センセのSECIモデルをスキーマアレンジしたものをアップするつもりだったんだけど・・。まぁ、あれはあれで教育学系の人から見たら「なんじゃこりゃー」((C)松田優作)とか言われるかもしれないからいいや。んじゃ、とりあえずSECIモデルだけ↓


パターンエンジン

SECIモデル(JPEG 画像, 694x485 px)


知識創造の「SECIモデル」


 knowledgeの効率的な運用に関して。これをそのまま教える必要はないけど、少しは意識したほうがいいように思う。具体的に言えば、「input」 ⇒ 「書き出し(あるいは描画)確認 (ex.ノート)」 ⇒ 「外部知識との連結 (ほかのテクストとの連携)」 ⇒ 「消化吸収 (自分の内部のサブシステムみたいなものを構築。しばらく寝かせて次のサブシステムと繋げる ex.自分なりの言葉に直して認識をhackする)」、という過程になる。


 あと、軽く言うと、教育というと勘違いされているようだが、一方的なコミュニケーションではないので。マスコミュニケーションの効果研究でもこういう勘違いがまかり通ってきたみたいだけど、情報の伝達過程というのは声を出しているほうばかり目立つけど、受容するほうも受容の時点でコミュニケーションを行っている。声を出したりしない暗黙的なもの(Read Only)なので誤解されやすいが、教員なりメディアなどがなげかけてきたコード(スキーマでもいい)に対して、それを受容するコードを設定しないと何を言っているのか認識できないので、受容する側がそのコードを設定した時点で消極的だがコミュニケーションを行っている。この認識に立てばメッセージの受容過程とは単なる一方的なコミュニケーションではなく、受容者のコードをいかに刺激するかということが肝要となってくる。つまり、「いまはこういう話をしているんだよ。これは全体から見るとこの辺に当たる話で、こういう意義を持ってるんだよ。んで、今日はこの辺まで講義するつもりです」、というふうな感じで受容側にコード設定させてあげるのが良いように思う。




 あと、蛇足



 話とあまり関係ないけどこういう話ってなんかいいですよね(ほのぼの)


asahi.com:84歳の修士学位 さいたまの宇都宮さん「次は博士号」 - 暮らし



 ついでにトリビア

 学校教育法では、

小学校に在学するものを児童

中学校に在学するものを生徒

高等学校に在学するものを生徒

大学に在学にするものを学生

と区別する。

大学教員のトホホな日常? - 児童と生徒と学生より引用】




 知らんかった




--
追記:
それとは別にマーケティングのほうちょっときちんと体系化してみよう思ってる。とりあえずこの辺からかな


行動に対するマーケティング: mediologic.com/weblog



それとは別に教養のようなものの必要性(意義)があるわけだけど、これは長くなるのでやめとく。簡単に言うと、自らがもっとも重要とする価値の根幹に関わってくる知識、が教養だと思う(人生をコントロールするための指針のようなもの)。なので個々人によってなにを「教養」とするかは変わってくる。



--
追記(2007.3.23):
なんか誤解されるとアレなんでいちお言っときますが、ぼくは管理教育大嫌い派です。

「プロトコルとかリテラシーをがしがし詰め込めばいんだよ!」とか言ってるとスパルタ型管理教育推奨派のように見えるかもしれないけどそういうことではなくて、語学とかPCのタッチタイプでもそうですが「基本的な覚えもの」ってあると思うんです。その部分は本人にがんばってもらうしかない。この部分について、教員のほうはそのヤル気を高めたり、ちょっとでも覚えやすいように関連付けたり、とかそんな感じのことぐらいしかできないかも。

で、

それ以前の基本的な「知」というか「学」へのスタンスみたいなのがあるように思います。思うのは、「正しい問題設定ができるかどうか?」、ということです。「知識」以前にある関心領域に対して正しい問題設定(あるいはそこから派生する複数の疑問の立て方)を知っていれば、答えは自然に集まってくるように思います。「自然」というか情報検索とか図書館など情報機関の使い方などについても教える必要があるのでしょうが・・。

で、なにをもって「正しい問題設定」とするかですが・・・ムズイですね。自分の頭で考えて、突き詰めていけば出てくるはずだけど・・。


「この問題を解決するにはどのような方法が妥当か?」、「問題の障害になっているのはどのようなことか?」、「障害を取り除くにはどのような方法が考えられるか?」、「そのコストとリターンはどの程度のものか?」、「現在、この問題に取り組んでいる先行事例はあるか?」


などは論文書きにとってはふつーのことだけど・・いきなり論文ってのもムリだよなぁ・・。とりあえず「自分の頭で考えさせる」(問題設定をさせる)ということではないでしょうか?








posted by m_um_u at 18:46 | Comment(4) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
こちらでは始めまして。どうも、いろいろ宿題を頂きまして。思うところいくつかありますが、確かにプロトコルの統一は教育のある段階で必要なことですが、僕が手を焼いたのはその手前で、「知識を身につけようにもそれが自分に出来るとも思えないし役に立つとも思えない」学生達を癒し、励ますことがどうも必要なんじゃないか、ということでした。メンターというかコーチングというか、まずその段階でつまづいている相手にはそういうアプローチが有効ではないか、とか思います。某ノナカ先生よりは某カナイ先生的切り口、でしょうか。

予備校の先生のスタイルが参考になりそうなのは(荻野先生ほどパンチはないですが)、新年度やらせて頂く、かなりレベルの高い女子大での「中小企業論」の講義の方です。ここでは思い切り知識伝達の方に意を注げるかな、と思います。その手前のメンタル面でつまづいている学生達は、確かに不憫でこちらも焦るのですが、どうしようもない気もするのです。

野中先生的にいうならば「内面化」、なかなか難しいですが、やるとすればこういうことか、と思いました。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20060727/1154084447

どうも問題山積で、疲れていてなにかこうちゃんと考えをまとめられなくてすみません。
Posted by 福耳 at 2007年03月22日 20:45
はじめまして。どうもセンシティブな問題を外野から突っつくような形になってしまって申し訳ない。そして(エントリには書き忘れてしまいましたが)おっしゃることも理解しているつもりです。

モチベーションというかモラルというか、「何のために勉強するのか分からない」、ということだと思うのですが、そういう学生を教えていくというのは大変なことだと思います。(ぼくは大学での経験はありませんが塾の講師の経験はあります)

学生達が分かりやすいような言葉や学生達が好むようなキーワードから話をつなぐというのも考えられるのですが、それだと講義自体があそびになってしまいかねない。

教養へのモチベーションというか教養を身に付ける必要性については分裂勘違い君劇場のエントリがまとまっていたように思いました。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070121/1169414343

ただ、これも専門分野というよりは学問全体についてという話なので個別の講義のモチベーションを高めるのは難しいかもしれません。


福耳さんは優しい方のようだからいろいろ考えると学生が不憫に思えてしまうのかもしれません。で、引っ張られてしまうというか、そういうことがあるのではないかと思います。しかし、学部の授業は言ってみれば基礎的なところですからその部分はなんというか、教科書的に一気に教えてしまうことが必要なのでは、と思います。

とは言っても、それを受け入れるようなやる気がないということなのでしょうか・・。分かりやすい講義を心がければ学生がついてくるのかどうか、それとも一気に詰め込むべきか、この辺りはほんとにクラスの性格にもよるのでしょうから一概には言えないものかもしれません。

ただ、塾講師の時代にちょっといわれたことですが、「最初になめられないことが重要」、というのはあるように思います。コワモテというのとも少し違うのかもしれないけど、公私混同的なところを避けるというか、それでその後少しずつゆったりとした授業プランにしていくというか・・。


あと、最後に少し。エントリ中で「大根」などという言い方をしてしまいましたが、言い過ぎてしまったかと反省しております。学術面では才能が見られなくても、ほかの部分で素養がある学生もいるかもしれない。(演劇方面では大根と揶揄されても、おでんの大根はおいしいですしね)

あるいはそういう部分への関心が学生との接点となり得るかと思います。

非常勤に関する知識・経験は本エントリ中でも紹介いたしましたフラスコさんのところが秀でているように思います。(ご一読を)
http://blog.livedoor.jp/yahata127/

Posted by m_um_u at 2007年03月22日 22:16
ゆとり教育が生まれたとき,「学力」というものの定義付けが見直され,
なんだかよくわからない定義を一生懸命理解しようとしました。
その時は文科省に始まり,大学も,評論家も,こぞって「進学力観」を書いたはずです。
ところが,世の中の流れが変わると,そんな定義付けは吹っ飛んでしまって,
昔の「学力=点数」に一挙に立ち戻っている気がしてならないのですが,
学力ってほんとはいったい何なんでしょう。
Posted by すずめ at 2007年03月23日 00:31
>すずめさん

難しいですね。ぼくはそれを答える立場ではないかもしれませんが、自分なりに思うところを述べさせてもらえば、まず、ガッコの「学力」(点数)とほんとの「学ぶ力」は違うように思います。

前者はクイズのルール(あるいはスポーツのルール)のようなものではないでしょうか?なのでガッコ側がそのときどきに設定したルールを「そういうもの」として受け止めてクリアしていくしかない。
ぼくは通常の学校教育(高校までを想定)が設定する「学力」(学校教育で身につけさせるべき力)のようなものには懐疑的ですので、その部分では読み書き算盤のようなリテラシーと最低限のプロトコルが身に付けばいいと思っています。

リテラシーのほうは現代においては読み書き算盤だけではすまないでしょうからパソコン使えたり、ノートをかけたり、板書の意味を追えたり、文章の意味を追えたり、そういったことを想定しています(ほかにもあるでしょうが最低限と思われるリテラシーです)。

プロトコルのほうは、「授業中は立たない」「先生が言っている内容の背景を理解する(世界史なら世界史のバックグラウンド)」、「授業中はしゃべらない」、「ケータイを使わない」、「寝ない」、などといった講義の空間を活かすための最低限の共通規則のようなものを想定しています。

そのような最低限のものを身につけた上で、たぶんすずめさんが想っておられるような「学力」というものへの道が拓けると思っています。

文科省的にはなんでしたか・・「生きる力」だっけ?(人間力とか?)

よくわかりませんが、ぼくとしては本当の意味での「考える力」と「教養」がそれに当たると思います。

前者は自分で考えるための枠組みのようなものが必要に思います。それについては以前のエントリで少し触れました
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35779724.html

簡単に言えば、「目的とする知識にたどり着くためには必要な問題設定(フレーム)」、のようなものがあると強いように思います。


教養について。エントリ後段でも書きましたが、ぼくが想定する「教養」は個々人の価値(興味関心)に基づいた知識です。

いわゆる芸術的なもの、スポーツ、文学、文学の中でも個人の実存に関わるもの(生きる意味)、社会的な善性に関わるもの、音楽・・・なんかいろいろあるでしょうが、そういった実学的なもの以外の部分で人生を豊かにするもの(あるいは実学の下支えをするもの)が教養ではないかと思っています。そしてそういったものは本人の価値に依存するものですから、「これがいま必要な教養だ」というような押し付けによって身につけさせることはできないように思います。本人のヤル気次第ということではないでしょうか。



Posted by m_um_u at 2007年03月23日 03:22
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[学び・教え]学力の問題以前の自己承認の問題
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