2007年03月18日

被爆のマリア

 人間には赦されない罪のようなものがあって、そういうものに対して救いを設定しているのがキリスト教(あるいは宗教全般)の意義のひとつとしてあるように思う。ぼくはクリスチャンではないし、聖書の教養もないので分からないのだけれど、原罪の設定と救済とはそういうものではないのか?

原罪(げんざい ラテン語:peccatum originale)とは、キリスト教の多くの宗派において共有される思想で、アダムとイブがエデンの園で犯した罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の助けなしには克服し得ない罪への傾きを持つことになったという思想。キリスト教の中でも教派によって原罪の理解には大きな差があるだけでなく、中には原罪という概念を持たないグループもある。

原罪 とは げんざいより引用】



 無知を晒して恥ずかしいし、一部の人にとっては不快な解釈かもしれないけど話を続けさせてもらう。

 「人は生まれながらに罪を背負っている」とする原罪の設定に対して、処女懐胎の聖母は超然として原罪の穢れを越えていく。

無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり)はカトリックの教義。1854年決定。聖母受胎とも。 処女マリアは原罪の穢れなしにイエスを孕んだとする考えで、イエスを孕んだときに原罪が潔められた、という意味ではない。

無原罪の御宿り とは 「無原罪懐胎, 聖母の無原罪の御宿り」より引用】



 聖母とその御子は「聖」の象徴であり、信仰の対象として一切の穢れもあってはならない存在なのだろう。実際、そういった清らかさが人々を勇気づけ導いてきたのかもしれない。


 しかし、中にはこの清らかさがまぶしすぎる人々もいる。


 穢れを廃して超然と立つマリア像の姿。そこから発せられる「正しさ」になにか拒絶されているように感じる人が。

 今思うと、「被爆のマリア」とはそういう小説だったのだろう。


被爆のマリア
被爆のマリア
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田口 ランディ
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 こちらの要約にもあるようにこの小説自体は失敗作だ。それは著者も認めている(参照)。「失敗作」というよりは「実験作品」と言ったほうが適切かもしれない。

 タイトルとなっている作品では、被爆とは全く関係のない情況の中で被爆のマリアに救いを求める女性の姿が描かれている。歴史や世間的に負わされてる意味とは関係なく、ただ自分の情況と直感のみによって被爆のマリア像に結びついた女性の話。

 虚栄、依存、無神経、裏切り・・・様々な葛藤が入り乱れる現代社会の中で疲れ果てた彼女はペットの亀と被爆のマリアにのみ安らぎを求める。信仰的な理由ではなく「ただ、なんとなく安らぐから」というような理由で。
 

 長崎の浦上天主堂に安置されている被爆のマリア像
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/5hibakuseibo.htm

 
 マリア像の身体は原爆の力で破壊され、汚れたままだ。そして、その顔には虚無のような空洞が穿たれている。「愚かな我々の代わりに人類の一切の穢れを負ってくださったのだ」、そういった解釈が一般的なように思う。

 先月、ハウステンボスに行ったついでに「被爆のマリア」を見てきた。

 実際に見るマリア像は思ったより小さく、遠くに祀られていた。それを見て、自分の中になにかが湧き上がってくることを期待しているのだろうなと思いながら現地に行ったのだけれど、もう一つの予想通りなにも感じなかった。


 「ただの石だ」


 その言葉が頭に浮かんだ。それを悲しく思うセンチメンタリズムとか、そこから出発してさまざまな歴史や人の思いを想像するということも考えたのだけれど、なんか嫌になってその回路は意識的に遮断した



 そのときはそう感じたんだけど、最近になってなんとなく彼女のことが気になる。彼女というよりもその目、深い虚無のような双眸が頭の中に残ってなにかを吸い取ってくれているような、そんな安心感を覚えることがある。

 それ自体がなにかを期待した物語の上乗せのような気もするのだけれど、なんとなくそんな感じがある。


 

 ぼくの中にある2つの罪。1つはおそらく一生消えないものとして諦めていたが何か少し楽になった気がする。それでもそのことを忘れたわけではないし、それに対する自分なりの責任は全うしていくつもりだ。それでもなお「楽になった」と思ったのは、自分の中になにかそういう気持ち、「赦しを求めるような気持ち」があったからなのかもしれない。だからこそ長崎に向かったのか。


 もう一つの罪はぼくの責任ではない。でも、たぶん一生残っていくし、その不安は拭えないだろう。ヒロシマの人間にとってそれは一生残っていくものなのだ。(生き残ってしまった罪


 そのことに対して、ぼくはもう何かを言う気力はないし、ただゆっくりと時間が流れていけばいいと思っている。じっちゃんやばっちゃんたちの悔しさや、その記憶は途絶えてしまうのかもしれないけど、それはそれで仕方がないのかな、とも。


 意外に感じる人も多いかもしれないが、ヒロシマは一度捨てられた土地だから、また裏切られてもその覚悟はできているのかもしれない。一部の人はがんばって声を上げているけど、ただ安らかに時間が過ぎていくのを望んでいる人も多いのではないか?

 声を上げても共産党などの運動に利用され、一時の加熱が過ぎればまた単調な生活が始まるだけで・・・あるいは加熱の反動で寂しさを感じることもあったのかもしれない。

 願うのは保障が何とかならないかということだけど、そういうのも進展ないだろう。国というのはそういうものだし、それはもう何度も経験してきたことじゃないか?だったら「運動」とか言ってる人たちが少しでもなにかをしてくれたらいい、形になる何かを残してくれたらいいと思うけど、それもたぶん無理だろう。

 
 そうやって様々な思惑に巻き込まれ、表面上は裏切りとはされない裏切りにあうくらいなら、もうなにも期待しないほうがいい。


 ただ、安らかに日々を送っていけばいい。



 
 差別やいじめの廃絶を唱える人が「絶対的な悪」と認定する人たちに対しては線引きをすること、そして断罪が見過ごされること。そのことに対して少し心が揺れるけど、下手に飛び込んで行っても邪魔なだけなのかもしれない。





 でもやっぱり気にかかる








タグ:ヒロシマ
posted by m_um_u at 19:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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