2007年03月17日

フーゾクという職業と差別意識について

 ひじょーにデリケートな問題だし途中から見た部外者なのでよく分かってないのだろうし、野次馬的になんか言うのは下品だなって感じの問題なのでびみょーなんだけど、自分なりにふつふつと思うところがあったのでエントリを起こしてみる。上からの主張とか意見とかそういうのではなく、なんとなく思うこと。(こういう前置き自体が「逃げ」の確保なのだろうが・・まぁ、逃げるw)

 発端はこの辺


わたしもたいがい育ちが悪いがそれに輪をかけておまえはほんとうに育ちが悪い反吐が出る(@顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える)
http://yuki19762.seesaa.net/article/35621477.html


 現在はこの辺


黒人や障害者、被差別部落と売春婦蔑視を一緒にするな、という発想。まさにそれこそが差別。差別とはそもそも「差異を理由に」生じるもの。
http://yuki19762.seesaa.net/article/36170622.html


 んで、対象とされてるのはこの辺


Pat Metheny Group (1995) / いませんよ。(@Je vous en prie(※元エントリがなくなってるコメント欄指摘により修正))
http://d.hatena.ne.jp/arisia/20070309


差別との戦い、差異を求める戦い
http://d.hatena.ne.jp/arisia/20070316/1174010990



 どうも、「元売春婦ということに対して見下し(差別)的意識があったかなかったか」、「売春という職業に対する差別はどうか?」、などが問題になってるみたいなんだけど、個人間のネット作法(コミュニケーション)の問題と、売春(?)の是非の問題、差別の問題の3つの層がごちゃごちゃにまぜて語られているので分かりにくい。それぞれのレイヤーは違うものだと思うのだけど・・。

 まず、前提として、

 ぼく自身はいわゆる風俗産業に関わる人を蔑視する意識はない。心の底にあるのかもしれないし、もしくは逆差別的な憧れのようなもの(cf.「歌舞伎町の女王」)はあるのかもしれないが、それはちょっと置く。少なくとも表面的コミュニケーションの部分では蔑視する気はない。

 理由として、風俗のサービスに従事する人はそのサービスにおける労働契約において責任を全うしていると思うから。

 一部の人は風俗産業というのを軽々しいものとしてみているのかもしれないが、風俗の仕事というのは日本でももっとも気を使わなければ成立しないサービス業だと思う。面倒な客の機嫌を損ねないように、かといって相手に変な劣等感とか与えないように満足させないといけない。相手と話を合わせねければいけない。そして、ヘルスとかの場合は健康面での自己管理も行き届いてなければ勤まらない。「フーゾクのサービスって大変なんだねー」についてはこの辺に詳しい↓



オトコとオンナの深い穴
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 これに加えてセキュリティの問題がある。直接交渉系のサービスでは客に病気を移されないように気を使わなければいけないし、そういうのを気にして「ゴムつけてください」とか言うと怒る客もいるのでその辺配慮しながら客の機嫌を損ねないように誘導しないといけない。

 そんな感じで「客の機嫌を損ねないように満足させる」わけだけど、こういうのは高度なコミュニケーションスキルを要していないと成り立たない。
 
 風俗というと肉体接触が最初に思い浮かぶかもしれないが、コミュニケーションサービスをメインで来ている客も多いみたい(お話だけして帰る)。


 そんな感じで、「高度なコミュニケーションスキルに基づいたサービス」と「性病(あるいは客からのストーキングなどへの配慮)などへのセキュリティ不安」を基本条件として労働契約が組まれ、店主とサービス従事者、あるいはサービス従事者と客との間で契約関係が成立している。


 で、

 こんな感じで労働契約は成立しているので、それに対して外から「インバイ」だの「フーゾクってどうなの?」だの言われてる筋合いはないと思うのだが。(繰り返しになるが)フーゾクに関わる人がある程度の高給を貰うのはサービスとセキュリティ不安への代価であってそれは正当な労働契約として成立している。労働契約が結ばれ、サービスが実行され、代価が支払われた時点で法的な責任は果たされているわけだから、それに対して外野がガタガタ言うのはどうなんだろうと思う。


 んで、件のエントリの場合、これとは違って「売春」という言葉が使われているわけだけど、これはどうなんだろう?現行法的にはいちお「売春」(いわゆる本番行為)というのは規制されているわけだが(参照)、そうするといままで述べてきたような「正当な労働契約が果たされているだけなので法的責任は全うしている」という主張が通らなくなる。まぁ、だとしても少し歴史に詳しい人なら「売春」というものがそれほど「正しくない」行為ではなかったということぐらい知っているわけだが。

 「人類最初のサービス業は売春」なんてのはよく聞くし、日本でもちょっと前(明治以前ぐらいかな)は性風俗は多様だったわけだし、言ってみれば売春なんてのよりもエグイことも日常的にあった。女が一人で旅に出ると犯されるのが当たり前だし、そういう時には「むしろ命があっただけでもめっけもの」なんて思われてたらしい(cf.網野本かな)。そういうと「不当に女性の性を貶めている(男性優位社会を創りたいだけだろ?)」とかフェミの人から言われるのかもしれないけどそういうことではなくて、単にそういう事実があったといいたいだけ。そこでは「性」はいまほどに重要な問題ではなかった(というと語弊があるか、まぁいい)し、なんというか「コミュニケーションの一部」的な意識が強かったのだと思う。

 で、こういう例を出してくると「だから昔と同じように大らかになればいいんだよ」って言う感じになるんだけど、そういうことでもなくて、価値観なんてのは時代時代で多様なものだと言いたいだけ。

 でも、現代では「性」的なものはある程度重要視され「慎まなければならない」と近代教育されてるわけだから、それに従うのはふつーの社会生活を送る上では重要なことなのだろう。(ってか、ぼくもふつーモードではいちおそんな感じだ)


 でも、ちょっと気になるのは「売春禁止法があるから売春は社会的に悪」みたいな言説があること。これはちょっと違うくて、売春禁止法というのはむしろ風俗サービス従事者のセキュリティを守るために設定されたものなのではなかったかな?いわゆるウラ営業的なものをはびこらせておくとあぶないので管理基準を高めた、みたいな感じだったと思うけど。そう考えると「売春が悪」だから取り締まったではなくセキュリティ面とかビジネス面での統制を加えるために現行法が設定されたのであって、それも現時点での線引きのひとつに過ぎない。実際、フーゾクに関わる法律はけっこうゆるく設定されててあいまいな解釈によってその時点時点で統制バランスが変えられるように設定されている。

 まぁ、とりあえず「売春が悪だから法律ができた」のではなく「セキュリティとビジネス面で管理しやすいように法律ができた」ということ。以上が売春の是非の問題の前提。この背景を知っているとフーゾク(あるいは売春)という職業に対する差別意識も少しはやわらぐのではないか?

(※もちろんフーゾクと売春は違う。売春はフーゾクの中でもリスクが高いものだなので、そのぶん対価が大きなものになる)



 んで、次はなんだっけな?「元売春婦ということに対して見下し(差別)的意識があったかなかったか」、か。


 この辺りは継続的に見ていないのでよく分からないけど、yukiさんが言いたいのは「スカしてんじゃねぇよ」ってことなんだろう。「きれいな言葉で飾ってもお前らの裏にある偽善的な心性はお見通しだぜ」、と。そういわれるとぼくなんか真っ先にそういう対象になるのだろう。(それでも別に良いのだが)

 (こちらの推測から出発した設定ではあるが)ここで言う偽善とはなにか?yukiさんが問題としている点を見てみると、この辺か。

これを、ビジネスとして売春の経験が無い女が、自ら、まるで売春みたいって言うのと、不特定多数を相手にする元売春婦がいけしゃしゃーと言うのとでは違う。それを、元売春婦であるというポジションをわきまえずに、世の中の女性を自分と同じポジションに引き込むような発言には反発を覚えます

顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える: わたしもたいがい育ちが悪いがそれに輪をかけておまえはほんとうに育ちが悪い反吐が出るより引用】



 この『元売春婦であるというポジションをわきまえずに』というのはちょっとアレだな、と思う。arisiaさんもyukiさんの煽り口調に釣られてって発言だったのだろうけど、yukiさんから見ると「本心出しやがったな」って感じだったのだろうか。

 ならばその時点で言いすぎを謝罪すればよいのだと思うのだけれど、その辺は見ていない。あるいはyukiさんがさらに突っ込んだかな?


 よくわからないのでなんとなくで判断すると、arisiaさんのブログを見ても別にそんなに変な人という感じもしない。ご近所さんでいてもふつーにご近所付き合いできそうなタイプだと思う。ご近所付き合い関連だとむしろyukiさんのほうが難しそう。エキセントリックな感じなので。でも仲が良くなったらすごく仲良くなるタイプなんだろうけど(ツンデレ?)

 って、この辺単に印象論なのでギロン全体には関係しないんだけど、2人ともなんでそんなにカッカッ来てるのかなぁと思って。yukiさんの煽り口調かな? アレは確かに直接喰らうとダメージが大きそうで、端から見てるぼくもちょっと引くけど、煽り口調が問題ならその部分だけを抗議すればよかったのであって、それを職業と絡める必要はなかったんじゃないかな?

 「主婦という職業を冒涜された」ということかな?それは「冒涜」として受け取ってしまう時点で職業に対する階層意識が存在していたわけで、その部分が問題だったのでは?

 表立っては「わたしは職業差別はしません」(どんな職業も平等に意義あるものと思います)というスタンダードをまといつつ、実はある職業(あるいは生業)に対しては特別な意識を持っている。そういうところにyukiさんは偽善の匂いを感じたのではないか?


(って全て推測だけど)


 ここまで言うとなんか一方的にarisiaさんを罵倒してるみたいだけどそういうことでもなくて、なんというか・・・むずかしいな。


 とりあえず主婦という職業の売春性というか、その辺りの葛藤、<世の中全ての主婦が「主婦という職業は売春なんかとは違う」と思っているわけではないのでは?>、ということについてはこの辺に詳しかったと思うので興味があれば読んでみてください。


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 文庫でもあります。


 

 で、最後に差別の問題。



 これはyukiさんのエントリに対して誰か言ってたけど、<個人の葛藤の問題に「民族・人種差別」といった公の問題を持ってくるのはどうか?>、という視点はあるのではないかと思う。最近の問題としては、「小倉さんや池田センセがアクセス集中でひどい目にあったからってなんでわれわれまでID登録しなくちゃいけないの?」、的な問題。なんというか、「個人間の葛藤を公共的な話題にすり替えるのはどうなの?」ということだろう。

 個人間の問題の連続が公共的な問題なわけだからそういう設定もどうだろうとは思うけど、その言わんとするところもなんとなく分かる。(ちょっと違うが、子供のケンカに親を出す、みたいな感じだろうか)

 あと、逆差別の問題。差別(攻撃)されている人に対する過剰な思い入れ(特定のロマンティシズムの上乗せ)みたいな感じ。「かわいそうって思いたいんでしょ?」的なやつ。そういうのはぼくが一番引っかかりやすそうなのでいちお注意してるんだけど、めんどうなのであまり気にしてなったりもする。そういうこといってるとなにもできなくなるので。(所詮、自意識だし)


 んで、「娼婦という職業に対する差別」ということについて。どうも差別の定義がはっきりしていないようだけど、ここでいう「差別」というのはある「過剰性」を前提としているのだと思う。(その意味で差別と区別は違う)

 「不当な蔑視」とかそんな感じ。娼婦(あるいはフーゾク産業のサービス従事者)ということに限って言えば、上記してきたように労働契約とサービスの実行、対価の受け取りによってその責任は果たしているわけだから、それに対して外野からなんかいうのは「過剰」ということに当たるのだと思う。




 あとはなんだろ? あぁ、「娼婦という職業に対する引け目」みたいな話か。


 これもなんか勘違いした言葉を見かけたんだけど、上段でも説明したように、「世間から差別されるのも含めて娼婦は高い金を貰っている」のではなく「(娼婦が高い金を貰っているとして)高給はサービスとセキュリティの正当な代価」、なので。サービスが果たされ代価が支払われた時点で労働契約は成立している。その契約の中に「娼婦は引け目を感じるべき」などという条項は含まれていないと思う。(特殊なサービスとかにならあるのかもしれんが・・マニア?)

 んで、それとは別に個々人の実存の問題がある。いわゆる着脱可能アイデンティティの問題


戦略的本質主義が「本質的アイデンティティ」を必要なものとしているのは、カテゴリーによって差別されたり周縁化されたりしている弱者が、差別している側である支配的マジョリティに押し付けられたカテゴリーの「本質」をいったん引き受けることで、そのカテゴリーに属する他の人々とともに異議申し立てをすることが可能になるからであり、また、そのマイナスの価値を刻印された「本質」を肯定的なものへと逆転させること(アフリカ系アメリカ人の運動での「ブラック・イズ・ビューティフル」という標語が好例です)によって、マイナスの刻印を押されていた自己を肯定できるようになるからです。

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 戦略的本質主義を乗り越えるには(2)より引用】




 
 差別抵抗運動などで弱者は素のままだと異議申し立てするほどの力がないので、マジョリティから押し付けれた「本質」(アイデンティティラベル)を一度着ることによって異議申し立てのノリを獲得する。でも、一回受け入れた弱者カテゴリーは思っているほど着脱可能なものではない。

 それと同じように「娼婦のアイデンティティ」もその仕事をしなくなったからといってすぐに着脱できるかというと難しいという問題があるのかもしれない(ぼくはやったことないので分からないけど)。中にはそういうことを気にしない人もいるだろうけど、そういう人はやはり強い人というか、あらかじめ契約関係というのを意識して(プロ意識を持って)職に携わっていた人のように思う。

 
 で、


 そういうアイデンティティを脱げるかどうかなんていうのは個人の問題であって世間がとやかくいうことではないのではないか?脱げれば強い人というだけだし。






 ・・なんか長くなったな。てか、個人的にはこの話は前置きで、「偽善と善」「聖と俗」がバラバラなものではないということについて被爆のマリアの体験から語っていくのがメインなんだけど・・・。

 長くなったので分けよう(ってか書くかどうか分からん)




--
追記(2007.3.18):
着脱可能アイデンティティ(「娼婦であること/あったことに対する良心の呵責」のようなもの)について。そういうものを捨象するためになんらかのイデオロギー(本質主義など)を着ることの問題点として↓


それに対する批判は、たいてい次の2点になります。一つは、自分は(脱)構築主義に立つのに、周縁化されている他者に対して本質主義を認めるという態度には、「そのような段階も君たちには必要だよ、けれども、その段階を過ぎれば、その本質主義的言説を卒業するんだよ(自分たちはとっくに卒業したけど)」といった、シニカルないやらしさがあるというものです(フランツ・ファノンのサルトル批判はそのいやらしさを批判したものでした)。そして、批判のもう一つは、押し付けられたカテゴリーを(価値を逆転させて)引き受けるとき、そのカテゴリー内部の多様性や異質性を抑圧してしまうというものです。たとえば、同性愛者というカテゴリーを、「同性愛は生まれつきのもので変えられないものだ」という本質主義的言説によってゲイ解放運動をしたとき、異性愛者から同じくそのカテゴリーを押し付けられたバイセクシュアルな者や異性装者や、男女のような異性愛カップルを模倣したゲイ・カップルは、肯定的な価値へと逆転させた「本来的なゲイ」という「本質」に違和感をもったり、あるいは「本来的なゲイではない」として抑圧されたりするということです(ゲイ解放運動の場合、「同性愛は生まれつきのもので変えられない」という本質主義的言説が、ゲイを自然に反するものとか、治療=矯正の対象とする支配的イデオロギーに対する有効な戦略だったということも考慮しなければなりませんが)。

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 戦略的本質主義を乗り越えるには(2)より引用】




ひとつは上から目線のシニシズムの問題。

もうひとつは具体的に言えば、なんらかの主義・運動を用いるということはそこで語られている別の文脈も引き受けなければならない(あるいは「引き受けているもの」と他者から見られる)という問題。

特に後者は運動(もしくは募金などの活動でもいい)の内実を見たことがある人にとっては思い当たるところが多いだろう。そんなに「聖なるもの」でもないし(cf.特定被差別民による過剰要求など)


運動に関わらなくてもなんらかの言説を着るということはそういう危険性を持つということを自覚しておいたほうがいいと思う。




タグ:偽善 差別
posted by m_um_u at 22:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
言及ありがとうございます。いったんアップしたエントリは、削除することはしません。(誤字を訂正するくらいで。)今、私もびっくりしました。
http://d.hatena.ne.jp/arisia/20070309
へリンクへしていただけると、エントリはちゃんと読めます。
Posted by arisia at 2007年03月18日 08:21
ありがとうございます。本文修正いたしました。

Posted by m_um_u at 2007年03月18日 09:22
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