2007年03月14日

市民社会と制度について(ジャーナリズム論承前)

 小倉センセからお答えいただいたので明示化しておく。(どうもあちらのコメント欄は不可視になってるようなので。ただ、仰るようなことは分かるつもりなので・・・お察しいたします)

 匿名の悪意については現在体感中です(些事ながら)。



 本サイトの承前はこちら


「匿名 / 実名」の二元論トラップ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35837424.html


 釣り狙いというかちょっと煽りが過ぎた感もあるけど・・すみません、癖で(改めたほうがいいよなぁ)


 で、小倉センセからのお答えはこちら


発言者の属性の真正性の検証可能性
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2007/03/post_472e.html


 これの要約も含めて、コメント欄にぼくが書いたものをそのままコピペさせていただく↓

はじめまして。突然の不躾なTBにお答えいただきありがとうございます。

なるほど、つまり、「実名の場合、発言者のプロパティがはっきりしているので追跡可能性を担保できる(ばっくれることがない)」、ということですね?そしてそれにより「責任感(あるいは内的規律)」のようなものが発生し、自然とネットでの行動や発言に責任を持つようになる、と。

まずはこの部分について、納得いたしました。

その上でやはり質問なのですが、私見ではやはり小倉センセや池田センセの匿名性に関する話題は「匿名ではダメ」というところが際立っているように思います。匿名ということの可能性についてはどうお考えですか?ここでの論点としては「追跡可能性」がポイントのようですが、固定ハンドル名や、対価によって発言の責任を担保するようなシステムの可能性についてはどうお考えでしょうか?(「実現してないものについて言われても」と感じでしょうが)

また、たとえば、固定ハンドルで何年か個人サイトを運営している人はそれ自体が財産となり、すぐになにか問題が生じたとしてもすぐに脚きりできない(言説に対して責任を負う)という心情があるように思います。これについてはどうお考えでしょうか?(「そんなものは個人の裁量によるものだから当てにならない」ということかもしれませんが)


また、私見ですが、実名となんらかの社会的権威(地位)などを表明しているがために俯瞰で見れば正しくない発言に対しても信頼が集まる(つまり言説そのものよりも社会的地位や権威のほうが優先される)というようなことがあるように思います。その時点では専門家の発言としてある程度の有効性を保っているように見えても、後から見ると正しくなかったり・・(ありていに言えばニセ科学的問題ですが)。これについてはどうお考えでしょうか?もちろん、たとえばTVなどでニセ科学的な番組を作る場合、編集によって言説がゆがめられウという問題もあるのでしょうが、その場合「実名」というのは言説の質を上げることに貢献しているといえるのでしょうか?

「実名により追跡可能性が担保されるため最終的には責任追及できる」ということで堂々めぐりかもしれませんが)


すこし長くなってきたのでもうちょっと手短にしたいのですが(すみませんもうちょっと続きます)


また、これが「実名 / 匿名」問題で最も肝要なことかと思いますが、「匿名でなければ話せない」というようなことがあるように思います。自分がある組織を代表していることが分かると内部告発したときに首を切られるかもしれないという問題。これについてはどうお考えですか?「内部告発をしても守ってやれるような制度を作ればいい」ということなのかもしれませんが、実際問題として制度ができるまで時間がかかるように思います。あるいは制度ができていても機能していないという場面がいくつかあるのではないかと思います。そういうのは(レイヤーが違うのかも知れませんが)パワハラ・セクハラ系の問題とも重なります。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35578446.html


このあたりについてはどうお考えでしょうか?

長文になってしまって申し訳ないのですが、最後に、あちらの元エントリでも少し触れましたが、ぼく自身、「匿名の暴力」という問題があることは理解しているつもりです(音羽さん関連のことも見ていました。それへの是非は別にしますが)。そして、それに対してなんらかの対策をしなくてはならないということも分かります。しかし、その際、あまりにも「匿名 / 実名」というフレームが強調されているように見えるのです。その結果として匿名の可能性を否定しているように。このような問題を論じる場合、「匿名 / 実名」ではなく「ネットセキュリティの問題」と銘打っていただいたほうが良いように思うのですが。
(って、小倉センセはそのように提言されてきたのかもしれませんが、こちらのサイトは通時的に見ておりませんので誤解があるようでしたらあらかじめ謝罪しておきます)



 それで、今朝また小倉センセからお返事いただいた。


固定ハンドルの抑止力
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2007/03/post_23b2.html



 まだ見てないけど、ちょっと時間がないのでまた後で拝見いたします。(拝)


 その前にちょっと書き足りなかったので。この分野はたぶん公共哲学(あるいは法哲学)に関わるところで、「個人の裁量に任せる(≠市民社会論) / 制度的に対策する」、というところで分かれるのだと思う。


 ぼくはメディア者として市民社会とジャーナリズムの意義を信じている立場をとるので、小倉センセとは少し見解が違うのかもしれない。「違う」といっても小倉センセも言論の自由とか自主性は重んじるのだろうけど、それに対してリアリスティックに対処するか、理想を重んじるか、という感じ。


 両方の妥協点を探るのが公共性というものなのだろうけど・・。


 それとは別にジャーナリズムという活動それ自体の意義(理想とする地点)のギロンもあるけど、それはまた別の話ということで。




(では、また)





posted by m_um_u at 09:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアこのエントリーを含むはてなブックマーク
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