両センセの主張に従えば上祐さんを信じるべきなのだろう。信じるまでいかなくても匿名よりは胡散臭くない、と。
池田センセと小倉さんにはそういう方向でがんばっていただくとして、われわれとしてはどう対処すべきか・・。
<「匿名 / 顕名(実名)」ではなく、言説の信頼性に重きを置く>、というのがテキストを主体としたネットワークの作法としてあるように思う。で、あるならば、上祐さんも「言説」のみによって判断すべきか?しかし、上祐さんというと例の過去が思い出される。そして「私はうそつきだ」と言い切る自己言及トラップもある。
「匿名 / 実名」、「ある / ない」のデジタルな二元論で判断する人たちはこの辺りでショートしてしまうのだろう(ネットワークに対してフランケンシュタインコンプレックスを持つ人々が一番デジタル的発想をしてしまっているというのは皮肉だが置く)。あるいは上祐さん側としたらショートさせた後にハックするというのが目的なのかもしれない。
「その時、一回だけの発言ではなくて通時的な発言(発言の履歴)によって信頼性を測る」、というのは、「特定ネットーワーカーのネットワーク上での発言の履歴(歴史)からその人の信頼性を測る」、という考え方と同じように思う。「ネットはリアルワールドの写し絵」なわけだから当然といえば当然だが・・。
それとは別に、「匿名による暴力」、という問題の蓋然性というのもけっこう高いように思う。ただ、これは「匿名だから」という単純な理由ではなく、リアルにおいて、「落書きが多いところ(放置してあるところ)は犯罪率があがる」、というのと同じことなんだろう。匿名というのもその一部なのかもしれない。こういうのはセキュリティの問題ということでこの辺でも読んどいたほうがよっぽど示唆に富みそう。
犯罪不安社会 誰もが「不審者」?
posted with amazlet on 07.03.13
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それにしても、なんで池田センセとか小倉さんみたいに頭動かすことができそうな人がこういうトラップに落ち込むのか・・。「情報量が増大して簡単に判断しないといけなくなったんだよ」とか頭に浮かぶが、小田センセ的にはオリエンタリズムの罠(二元論の罠)ということなのかもしれない。
「共同体」のイメージ(@小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」)
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070306#1173156967
「なんで二元論というステレオタイプが流行ったか」「(有効性があるとすれば)その有効性とはなんだったか」とかについては書かれてないけど、この辺はサイードでも読めばいいのか。(ってか、オリエンタリズム批判で終わってるかもしれないけど)
栗原さんとこにも似たような懸念が出てた。わりと冷静っぽい
ネットの匿名性を議論する際のフレームワークについて(@栗原潔のテクノロジー時評Ver2)
http://blogs.itmedia.co.jp/kurikiyo/2007/03/post_be7d.html?ref=rss
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追記:
ひろゆきが2ちゃんがサツバツとした空間になった理由について語ったみたい
2ちゃんねるを殺伐としたサイトにしたほんとの理由(@歌田明弘の『地球村の事件簿』)
http://blog.a-utada.com/chikyu/2007/03/post_921a.html
『殺伐としたサイトにしたのは簡潔なやりとりが交わされるようにするため、ということらしい』、ということだけどこれって軍隊(実戦)規律じゃん?(※「実戦では敬語のようなあいまいな表現を使ってると対処が遅くなるので使わない」、ってやつ)。単純化による効用ということでは今回の二元論の話とも絡むな。
「サバイバル化する社会(デジタル化する社会)」とか頭に浮かぶけど、短い言葉によるコミュニケーション問題ということでは以下が関連する
blogジレンマとゆるい繋がりの可能性
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35452876.html
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追記(2007.3.15):
続き↓
市民社会と制度について(ジャーナリズム論承前)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35911907.html
まん延する「匿名ネットこわいね」論について
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35955798.html