2007年03月06日

雇用流動におけるアイデンティティー不安と協調の可能性に関して

 予告通り、アイデンティティー関連で。ってかアイデンティティー不安の結果としてのバックラッシュ関連でまとめてみた。本サイトの承前としては以下


最近の格差社会論をめぐる諸々
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/34551889.html

資源最適化としての格差社会と社会保障に関して
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/34581304.html


 まず、バックラッシュについての簡単なおさらい(というかオレの理解)から。面倒なので、前に書いたのをそのまま転載

閉塞的状況に空虚感抱えた人とか、大学・社会人デビューって感じでいきなりそれまでとは違う環境で自分の知らない情報にアクセスした人が反動なところ(ex.ベタなウヨク、ベタなサヨク、スピリチュアル、オカルト・・)にジャンプしたりする

バックラッシュというのは右傾化ということだけではなく、ベタな左傾化、ベタなオカルトへの傾倒も含まれる。「なにかをベタに信じること(ベタかネタかも判断できないけどとりあえず盲信すること)」。「信じること」とかなにかの価値に対してコミットしたいと思うこと自体はまずい態度ではないけど、やっぱびみょーだね、と


 あとは、宮台さんが言うように、「過剰な雇用流動性、代替可能性に対する不安」(平たく言えば、「君の代わりはいくらでいる。今日でクビね」、問題」、に対する不安が反動の要因となっているという側面があるように思う。こういった不安は過剰適応の結果の実存の希薄化、あるいはコミュニティのセクト(タコツボ)化による関係の断絶によってもたらされる。

 「過剰適応の結果の実存の希薄化」とは、社会的な役割への過剰適応ととりこぼしの不安ということ(「『○○力』身に着けないと就職に不利だよ」みたいなやつ)。就職(=社会的役割)に集中するあまり社会から要請されるモデルを意識しすぎて個人の実存(「かけがえのない自分」という意識)を失っていく。

 それと並行する形で失敗に対しての過度の不安(恐れ)があるように思う。それでなかなかチャレンジというか就職できない(しない)人もいるように思うんだけど、これに対して、既に社会に出てある程度の安定を獲得している人は、「マニュアルなんかない。とりあえず失敗したり挫折したりして身に着けていくものだよ」、と言う。でも、一度失敗すると元のレールには戻れないという現状があるので容易に失敗できない(社会的受け皿がない)。
 
 現在はどうか分からないが、「失われた十年」とはそういう時代だったように思う。現在も続いているものとしては、新卒就職失敗すると就職機会一気に減るよ?」、的な日本における過度の新卒神話もそれに該当するだろう。


 で、

 そういった形で不安を抱えている場合、なんらかの形で不安を分け合ったり相談できるような人がいたほうがいいように思うんだけど、前のエントリで見たように若い子の間でセクト化が高まっている(あるいはもっと高まる)傾向があるみたい。ある特定コミュニティで固まってその外には出ないという問題。「若い社員との接し方が分からない」、的な。そういうのは「デジタル世代とアナログ世代」みたいなジェネレーションギャップ的問題としてとらえるだけでは少し足りなくて、宮台さんが言うように「過剰流動性(代替可能性)によって付き合いが取替え可能なので各コミュニケーションがサバサバしたものになってきている」みたいな感じでとらえたほうが分かりやすいように思う(ケータイから登録消して「友人切り」とか)。

 そういうふうに書くと「若い子は情がないのよ(やーねぇ)」みたいなふうに思われるかもしれないけどここはちょっとびみょーで、例えば若い世代のコミュニケーションが希薄だとして、希薄な理由としては「友人とか恋人とか言っても容易にスイッチ可能なので、切られるのを恐れて深くコミットしない」、みたいなのもあるのだろう。「若者は語彙が少ない」とか言われるけどそういうのは「語彙を少なくして情報量を少なくすることで正確な意図が伝わることをぼかし、相手との無用な衝突が生まれるのを避けるために自然に生まれた戦略」みたいな話があったように思う(こういうのはessaさんのところでは「ゆるさ」という言葉で表されていたな)。コミュニティが主な情報源なのでそこからハブられるということは致命的な意味を持つし。

 それは「情報通信技術の発達により以前よりもコミュニケーションが容易になった結果」ともいえるけど、それだと安易な進歩批判(cf.ゲーム脳)に繋がる可能性もあるのでキケン。問題は社会の受け皿的な部分(雇用関係)がそういうコミュニケーション様式をとることを自然とさせていることではないか?

 そういった流れの中、不要なものは排除されていく(情報過多でやることも多いし)。「空気は読めても文脈は読まない」というのはそういうことなのだろう。そこでは文脈や歴史、他者への想像力も排除されていくのかもしれない。

 世代間というか教養(あるいはスキーマ)の同等なもの同士が集まってセクトのようなものが生まれる(参照)。他者への想像力は不要なのでそのコミュニティ内(あるいは自分の生活に関連する世界)での楽しみのためだけに「○○力」が磨かれていく。こういうのについて個人的に、いまのうちはそれでいいかもしれないけど、そういうのが積み重なっていくと世代間、あるいはセグメント間の怨嗟が増す可能性があるように思う。


 バックラッシュというのはその兆しなのだろうか?バックラッシュ関連では以前にあった以下のやりとりが参考になった。


『バックラッシュ!』を非難する(@深夜のシマネコBlog)
http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html

共感はできても賛同してはいけない「『バックラッシュ!』を非難する」(@macska dot org)
http://macska.org/article/145


 最初にこのやりとりを見たときは「バックラッシュ」というのが分からなかったので、「ウーマンリブな人が“男のくせにしっかりしなさい!”みたいなこと言ってるのに対して“たすけてー”って言ってるのかな?」、って思ってたんだけど、そういうことでもなかったみたい。

 以下、個人的推測に過ぎないけど、赤木さん的には「バックラッシュ」本で書かれて批判されていた対象が自分かと思って頭に血が上ったって感じだったんだろう(「クリリンのことかー!」)。で、「なにも分かってないのにー」、って感じで「バックラッシュよりもその背景(経済・雇用・社会保障的問題)をなんとかするほうが重要」って感じで反論していったわけだけど、macskaさんが指摘していたように、それは鈴木謙介さんがバックラッシュ本の中で書いてたことらしくて、バックラッシュ本っていうのは「それとは違うレイヤー(経済問題ではなくシンボルの闘争みたいなの)について考えていこう」って趣旨だったと思うんだけどその部分が伝わっていなかったみたい(って言いつつ、ぼくはこの本読んでないわけだけど・・)。

 赤木さんのエッセーに対する反応としては以下のようなものがある

「不安社会ニッポン」をどう生きるか(@葉っぱの「歩行と記憶」)
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20070303/p1

意地悪化する社会──神戸女学院大教授・内田 樹(@日経ネット関西版)
http://www.nikkei.co.jp/kansai/elderly/37642.html



 それとは別に最初のほうで、「バックラッシュの原因は雇用における過剰流動性への不安」、と設定したけどほんとにこれだけがバックラッシュの要因だろうか?たとえばスピリチュアルなもの(あるいはニセ科学的なもの)へのジャンプもバックラッシュに加えるとして、それもこういうストレスに起因する、と?

 でも、江原をトトロとして気に入っているOL層とか主婦層ってそんなに困窮してるわけでもないような・・。この辺りに小田センセの問題設定が絡んでくるように思う(参照)。でも、スピリチュアルは今回関係ないので置いといて話を進める。


 では、バックラッシュ(あるいは保障不安化社会に対してどのような態度で臨むべきか?いまのところ


(1)格差を是正するように保障を充実させるべき


(2)固有のイデオロギー(思想)をもって自信(実存)を回復すべき
 

(3)それぞれの悩みを理解して連帯すべき


 の3つの道筋があるように思う。以下順番に

 (1)については前のエントリ「資源最適化としての格差社会と社会保障に関して」(参照)でまとめたので具体的なところは触れないけど、関連でこのエントリが気になった。


戦略的本質主義を乗り越えるには(2) (@小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」)
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070127

戦略的本質主義が「本質的アイデンティティ」を必要なものとしているのは、カテゴリーによって差別されたり周縁化されたりしている弱者が、差別している側である支配的マジョリティに押し付けられたカテゴリーの「本質」をいったん引き受けることで、そのカテゴリーに属する他の人々とともに異議申し立てをすることが可能になるからであり、また、そのマイナスの価値を刻印された「本質」を肯定的なものへと逆転させること(アフリカ系アメリカ人の運動での「ブラック・イズ・ビューティフル」という標語が好例です)によって、マイナスの刻印を押されていた自己を肯定できるようになるからです。

 弱者は素のままだと異議申し立てするほどの力がないので、マジョリティから押し付けれた「本質」(アイデンティティラベル)を一度着ることによって異議申し立てのノリを獲得する、と。でも、一回受け入れた弱者カテゴリーは思っているほど着脱可能なものではない。

批判のもう一つは、押し付けられたカテゴリーを(価値を逆転させて)引き受けるとき、そのカテゴリー内部の多様性や異質性を抑圧してしまうというものです。たとえば、同性愛者というカテゴリーを、「同性愛は生まれつきのもので変えられないものだ」という本質主義的言説によってゲイ解放運動をしたとき、異性愛者から同じくそのカテゴリーを押し付けられたバイセクシュアルな者や異性装者や、男女のような異性愛カップルを模倣したゲイ・カップルは、肯定的な価値へと逆転させた「本来的なゲイ」という「本質」に違和感をもったり、あるいは「本来的なゲイではない」として抑圧されたりするということです(ゲイ解放運動の場合、「同性愛は生まれつきのもので変えられない」という本質主義的言説が、ゲイを自然に反するものとか、治療=矯正の対象とする支配的イデオロギーに対する有効な戦略だったということも考慮しなければなりませんが)。

 ラベリング(構築主義)を受け入れることによる代価として。ここでは「ゲイ」が弱者として例示されているがこの部分を「ニート・フリーター」とすると格差社会論におけるラベリングの問題に転用できる。(cf.「ニートって言うな!」

 問題は、ラベリングを着脱可能なものとして安易に受け入れることによって、弱者労働者のもつ多様性というかいい感じの部分が失われてしまうということ。この辺の多様性についてはlife「大人になるということ」で出てきた浮き草生活(フーテンみたいな人)の話を想起する(後述)。

  社会は、まず「現実を直視することが重要だ」として「ニート」というラベリングを施すが、ニートという言葉が持つネガティブな社会的イメージを引き受けることによって、いつの間に弱者労働者自身が「ニート」である自分を汚いもののように感じること。それはモチベーションの低下や、追い詰められた反動として社会に対する過剰な敵対心・逆恨みのようなもの(ルサンチマン)を生む。この辺りのことは注意しておくべきだろう。

 んで、フーテンみたいな人についてだけど。「昔は親戚の家にいくと普段なんの仕事をしているのか分からないようなおじさんが居て、そういう人たちがガンコな“大人”(社会)と子供をつなぐ架け橋になっていてくれたんだと思う」ってやつ。「こち亀」の両さん、「男はつらいよ」の寅さんが例として挙げられていたけど、ぼくなんかは吉田健一の「東京」とか保坂和志の一連の小説に出てくる人々が頭に浮かんだ。そういう人たちが生きている空間というのは、最初のほうに出てきた「社会的な役割」の要請から逃避する場(アジール)、あるいは社会に慣れる前段階の一時的な準備の場のようなものとして機能しているように思う。あるいは、「大人と子どもをつなぐブリッジのような役割を担うのかも」、と番組中では言っていた。「浮き草生活の大人を許容する社会こそ“大人な社会”なんじゃ」、と。

 確かにそういうのは必要かもしれない。


(2)については前のエントリ(「イデオロギー×イデオロギー」)で触れた。でも、ちょっと付け加えると、以下のエントリが参考になった。


「自己本位」というポジション(@heuristic ways)
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070218

 
 フリーターという立場を考え直す姿勢として夏目漱石における個人主義(わががまま)に対する考え方が参考になるのでは、と。漱石というと「高等遊民でろくでなし」的なイメージがあるかもしれないけど、そういう状況には本人が望んでなったものではないということでフリーター問題と絡んでくる。

世間の人々にとって、ホームレスや不法滞在者が「わがまま」にみえるとすれば、それは彼らが「規則に従っていない」からではない。逆である。世間の人々が彼らを受けいれようとしないからこそ、彼らは「わがまま(規則に従っていない)」とみなされるのである。


(3)「連帯」に関しては武田徹さんの以下の日記が参考になった。

戦場は点的ではないような(@武田徹オンライン日記)
http://162.teacup.com/sinopy/bbs?M=ORM&CID=596&BD=2&CH=5

赤木は就職氷河期世代が団塊の再雇用と新卒の就職状況の改善に挟撃されているという構図で現状を見ているが、さて、団塊再雇用はともかく新卒の就職は本当にバラ色なのか。報道では売り手市場のように言っているけれど、ここでもミクロな格差化はすすんでいて、一部著名大学以外では冷え切っていると考えた方が良いのではないか。雇用があるとしても正規雇用のふりをしている非正規雇用しかないというか。そんなわけでメディアの就職戦線バラ色報道によって二重に疎外されている社会層があるように思う。
 渦中の人の赤木にしてみれば自分のメッセージを伝えるために構図を単純化するのは戦略的な要請だし、あまり戦線を広げない方がいいというのも理解できるが、少なくとも渦中にいないわれわれはそのへんは慎重な議論をしたほうがいいと思う。

 同感だけど、こういうのは伝わっているのだろうか・・。

 それぞれの人にそれぞれの修羅(悩み)があるということ。というか雇用問題で「一部インテリは優遇されてる」みたいな視点があるかもしれないけれど、たとえば、東大生卒でもフリーターが多かったり、一流企業の内定基準的には東大生というだけでは足りないという現状もあるみたいだし(参照)って、チュー先生からは「ウラとったのか?」ってイジメられてたけど。

 とりあえず、単なる無理解や収奪・奪還の応酬(憎しみの応酬)では分断統治を加速するだけだとは思う。ただ、連帯というかもうちょっとゆるくやったほうがいいように思うけど。少なくともそれぞれの立場の理解は深めるべきだろう。

 ここら辺で小田センセの一連のエントリ(過剰な関係性(真正な社会)の可能性)が関係してくる。ぼく流に解釈すると、「分裂、断絶化していく社会状況の中でアトム化していく個人の実存の問題がある。それに対して、「人と人との関係性を思い出すべき」、という話。
 
 んで、小田センセは関係性によって突然解雇に対応できる(社会的連帯が突然解雇を抑止する)とおっしゃっているように思うんだけど、

戦略的本質主義を乗り越えるには(3)(@小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」)
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070215#1171548987

「生まれたのはきみではなく誰か別の人物だった」というような根源的な偶然性は、偶然性を運命へと転化すると同時に、自分がその別の人物だったかもしれない、名も知らぬ誰かとの社会的連帯を生み出すのです。

  そもそもこれって雇用主に情とかそういうのがある場合通用するのであって、雇用の現場ではレイヤー分けてるから「情」なんか通用しないケースが多々あるのではないかと思う。例えば「ハケンの品格」についてのこの感想↓


ハケンの品格は涙なしには見れない(@自称(美人)フェミニストが愛を語る )
http://walking.jugem.cc/?eid=546

例えば、休日には剣道の道場で子供たちの先生をする部長。多分子供たちには人の道を説いているんだろう。誠実・正義・清さなどを説いてるんだろう。なのに、その部長が会社内では、会社内のルールで非情に動く。そのためには、それって人間としてどうなの?!ってことを平気でやる。差別だってバリバリやっちゃう。

そこには誠実さ、正義、清さなんてない。トッププライオリティーは会社の利益。なのに、それをうまーくシュガーコーティングして、その場その場で誠実さだの、正義だのを振りかざすだけ。

おそらく、あの部長も剣道場で子供たちに言ってる事と、社内でやってる事が乖離している。

 派遣社員の実情については、他人様のぶくまで申し訳ないが、kmizusawaさんの「派遣」カテゴリぶくまにも詳しい
http://b.hatena.ne.jp/kmizusawa/%e6%b4%be%e9%81%a3/I

 もっとも小田センセは養田季伊さんのコメント(知人の1人がアルバイト先をクビになったという話)への返答としてこのエントリを出しているわけだから派遣社員とは文脈違うし、こんな感じで絡んでくのもどうかと思うんだけど、チューボーということですみません。でも、とりあえず関係性の回復ということで話を進めていくと、


戦略的本質主義を乗り越えるには(1)(@小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」)
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070126

個の代替不可能性(かけがえのなさ)が、顔のある関係の過剰性のある共同体においてのみ肯定されること、そして個の代替不可能性は、「本質主義的アイデンティティ」とは違って、関係を断ち切るのではなく「社会的連帯」を創り出すこと、そしてその連帯は役割連関としての有機的連帯ではなく、類似性による機械的連帯であること、その類似性(家族的類似性)は差異を前提としていること、したがって関係の過剰性による共同体はけっして同質的な共同体にはならないこと

 代替不可能性は社会的連帯を創り出す(あるいはそれに基づく)ということなんだけど、これに関しては少しウザそうな田舎的連帯(cf.ゲマインシャフト)を連想するけど、それとは違うのだろうか?

 よくわかんないけど、そういうことにして話を進めると、そういう繋がりって良いところもあれば悪いところもあるように思う。良いところとしては今までの流れで出てきた感じのもので、悪いところとしては田舎的な共有が前提になってそこに何でもかんでも開示したり共有したりしなきゃいけないという圧力が加わること。で、そういうのから外れるとハブられる(情報・物財などを遮断される)。こういうのに対しては個人主義が絡んでくるように思うんだけど、関連でこんなエントリあったな。


個人主義でも共同体主義でもなく(@Living, Loving, Thinking)
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070301/1172726884


 個人主義ってともすると自己責任論にも繋がる危険性があるようにも思うけど。該当箇所としてはこの辺か

確認しておくと、大まかにいって、政治哲学的には、一方では政府へ参加・介入する権利を強調する人たちがいて、他方では政府から介入されない権利を強調する人々がいる。前者は共和主義とかコミュニタリアニズムと呼ばれ、後者は自由主義と呼ばれる。その自由主義はここでいう「個人主義」と親和性があるといえよう。

 新自由主義的社会において自己責任論が出てくる背景もこの辺りなのだろうか。で、「その道選んだのも自己責任なんだから社会保障しませんよー」というギロンになる。こういう不安に対して、

批判されるのは「個人主義」それ自体ではなく、功利主義的なバイアスのかかった「個人主義」或いは〈徳(virtue)なき〉「個人主義」である

 って感じで、「確かにいいように利用されるのはやばいね」、って確認入れてるけど。んで、「個人」の現れ方として小田センセのエントリに帰ってくる。以下孫引き

アルバイトと雇用者とのあいだでも、一緒にいる以上、なんらかの関係の過剰性は生じるわけです。もっとも、アルバイトや派遣のように非正規雇用の労働者の場合、職場という同じ空間を共有しているという同僚意識が正規社員に比べて「クビにする側」に希薄であるため、代替不可能な関係(関係の過剰性)も希薄となり、心理的にもドライな関係を保ちやすく、クビにしやすくなります。つまりそもそも、非正規社員が増加している理由が、「労働力のフレキシビリティ」、つまりクビにしやすい労働力を増やして、労働力をダンピングさせるためなのですから、そのような目的で雇用した労働者との間に「代替不可能性に基づく社会的連帯」を持とうとはしないのでしょう。

そのようなドライな関係(いま思ったんだけど、「ドライな関係」っていうのはもしかして死語?)のほうが、セクハラやサービス残業も拒みやすくなり、なにより面倒くさくなくていいという利点が、被雇用者の側にもあるわけです。しかし、他方で、労働力のダンピングという不利益も引き受けなくてはならなくなります。正規社員が、非正規社員にしかなれないのはそいつの自己選択の結果で「ワーキング・プア」は自己責任だと思っているあいだは、「代替不可能性に基づく社会的連帯」は生じないでしょう。

 「個人は単体では現れない。社会との関係(他者との差異)の中で初めて個人が浮き上がってくる」、ってことでヘーゲルの関係本質とか金八先生の「人という字はぁ〜人と人が支えあってできてるのですぅ〜」を思い出したけど、政治哲学的にはアレントなの?(間主観性とか?アレント未読)

 で、

 再び関係性の話に戻ってきて、「システム(あるいは会社)以前に人との付き合いが重要なんだよ」(cf.「銀行を信頼してカネを預けるんやない。田中はん、アンタに預けるんや」)、ってことになってくるんだけど、


真正性の水準について:戦略的本質主義を乗り越えるには(4)(@小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」)
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070223#1172246482

ここには、システムに対する信頼(媒体を通した関係における信頼)と、役割や地位といったシステムを介した関係とは別の、〈顔〉のある関係における信頼(きみというリアルな個人への真正な信頼)との違いが示されています。最近、日本社会から信頼が失われているという議論が多くなっていますが、たいてい企業や役人の不祥事などを挙げて信頼が失われたと、システムへの信頼について言っているだけで、このシステムに対する信頼と〈顔〉のある関係における信頼を区別して論じている人はほとんどいません。真正性の水準を区別していないわけです。あるいは、社会というものをシステムに対する信頼だけで成り立っているのだと考えているかのようです。

 これってどうなんだろう?確かにそういう付き合いというのはあるように思うんだけど、派遣社員の現状を考えるとどうなんだろう、と思う。関係性に対して開かれている場(フェアな関係性の場)ならば上記のような設定は有効だと思うけど、正社員と派遣社員のような非対称性をもった関係においては、そもそも関係を結ぶ機会さえなかったり・・(モテモテ派遣社員なんてのもあると思うけどほんとに一部の例外だと思う)。


 そろそろこんがらがってきたのでまとめに入ると、「バックラッシュ的現状に対してどのような態度で臨むべきか?」、ということについて



(1)格差を是正するように保障を充実させるべき(※でも保障受ける側は「ラベリング」の自己言及みたいなのに嵌っちゃう罠があるので注意)

(2)固有のイデオロギー(思想)をもって浮き草生活を貫徹すべき

(3)「正社員/非正規雇用」、「世代間格差」みたいに分かれて対立するのではなく、それぞれの悩みを理解して協調すべき


 こんな感じだろうか。


 ぼくも協調には賛成だけどその際には前のエントリで引いた鈴木さんのコメントのように、協調・連帯が優先的目的になってムダに借り出される危険性も考慮しておいたほうが良いように思う。あと、やっぱまず保障ってことじゃないか。その際、経済的回復が先か保障が先かで論点が分かれるけど、今回は保留ということで(っつーかぼくは後者のわけだけど論拠がたまってないので保留)。

あと、雇用と労働関連だと過去ログでこんなのがある


真剣中年しゃべり場
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm

チュー年とチュー年の情念がはげしくぶつかり稽古していてとても長い。読みづらいのでせめて改行入れて欲しかったです。



--
関連:
葉っぱの「歩行と記憶」 - 団塊フリーター計画
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20070228/p1

「経験も年金もある団塊層がフリーターになって、若年層には正規雇用で馬車馬してもらえばいいじゃん」、と。適材適所(あるいは選択と集中)な正論だと思うけど、ローンがなぁ・・。(見栄も)







posted by m_um_u at 00:22 | Comment(0) | TrackBack(2) | 社会・時事このエントリーを含むはてなブックマーク
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