2007年02月24日

イデオロギー×イデオロギー

 一個前のエントリ関連で、

 でも、そういう社会政策的なところって結局のところ我々個々人で関与できるところって少ない感じがする。で、閉塞的状況に空虚感抱えた人とか、大学・社会人デビューって感じでいきなりそれまでとは違う環境で自分の知らない情報にアクセスした人が反動なところ(ex.ベタなウヨク、ベタなサヨク、スピリチュアル、オカルト・・)にジャンプしたりする(参照)。そういうことに対する心構えというか。我々、個々人でとれる姿勢いうか気を付けるべき態度とは何か。

 
「啓蒙のイロニーからイロニーの啓蒙へ」さんへのお返事を枕に、最近考えていることをつらつらと。(@成城トランスカレッジ!)
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070223/p2

 ここでは八木さんのとった教育基本法改正のギロンが最初から改正ありきですすめられていた「為の議論」だった、って文脈からお話が展開されてるんだけど、その中で「シニカルへの耽落」って言葉が出てきてchikiさんはそこに引っかかったみたい。

 「シニカルへの耽落」という言葉で思い浮かべるのは、TVドラマ「野ブタをプロデュース。」で出てきたという学校教育に対するシニカルな態度のこと。

 「どーせ高校なんか3年で終わるし、その後は大学、会社って続いてくなんだからとりあえず楽しんじゃえばいいじゃん?」、っていう。いじめという現状に対して、それを変えるにはコストがかかり過ぎるだろうし、コストをかけたわりには報われないことが多いのだろうからとりあえず嵐が過ぎ去るまでじーっとしとくとか、うまく立ち回って楽しんじゃえばいいじゃん?、っていうどこか冷めた態度。

 金八先生世代としては少しショッキングな態度だけどしごく現実的で冷静な態度だし、いまの高校生はけっこうこんな感じらしい(参照

 ポイントはシニシズムではあってもアノミーではないってこと。彼らには彼らなりの価値がある。そういう価値の中ではDQN的保守を着ることも一時的なファッションということなのかもしれない。



 「情報量の増大 ⇒ 各コミュニティの専門分化(コミュニティの中だけで使われる言葉) ⇒ 分散協働(cf.タコツボ化、モジュール化)」、って流れは工場的オートメーションの社会化を想起させる。でも、「モジュール」ということは完全な断絶を意味するわけではなくて、自由な連携が可能ということなはずだけど・・。経営システム論における「モジュール化」の話と同様、いくつかの限定要因があるのだろう。


 で、


 そういったコミュニティは「世代」ではなく「教養」なんかで分化していくわけだけど、マーケティング系の人たちもそろそろその辺に気づいてしかけてくるのかなぁ、って感じがちょっと前のエントリ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/34429617.html


 っつーか、もう仕掛けてきてるのだろう(きみちゃんはあからさま過ぎたけど)



 反動へのジャンプ関連で、ちょうどこれがリンクした


「失われた10年〜Lost Generation Part2」
(@「文化系トークラジオ Life」まとめWiki )


 ここでも閉塞状況(宿命)を前にして、反動へ一足飛びすることが問題視されてるみたい。バックラッシュというのは右傾化ということだけではなく、ベタな左傾化、ベタなオカルトへの傾倒も含まれる。「なにかをベタに信じること(ベタかネタかも判断できないけどとりあえず盲信すること)」。「信じること」とかなにかの価値に対してコミットしたいと思うこと自体はまずい態度ではないけど、やっぱびみょーだね、と。

 現在の情況として、一時はそういったぶっ飛び系(?)、セカイ系(「君とぼくとでセカイを救う」)へ一足飛びすることで世界と向き合うことから逃避(あるいは自己閉塞)した人々が再び情況と主体的に関わっていこうとしているらしい。

 「わにとかげぎす」(古谷実)とか涼宮ハルヒシリーズみたいな一部ラノベにもその傾向が見られるらしい。(※両方未読)
 
 エヴァンゲリオンが今年リバイバルされるのもそういう情況への応答ということなのかもしれない。



 「現状や歴史と断絶して希望へ一気にジャンプ」みたいなこういう流れというのはおーざっぱにいえばイデオロギー(共同幻想)ということなのだろう。
(情況の隠蔽 ⇒ シンボルによる誘導)


 んで、「イデオロギーだったら悪い」かってことなんだけど、それはそれでびみょー、と。



稲葉振一郎『「資本」論』(@生きてみた感想)
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070222#p1

 ここではイデオロギーとしての労働価値説の虚構とその価値について論じられている(てか稲葉さんのほんのまとめ)。「イデオロギーを批判するマルクスの言説自体がイデオロギーだったね」、って話なんだけどここで「マルクスダメじゃん」に行くのもどうか、と。「資本論」は現状分析の本として読むとびみょーだけど、権利主張の地盤として利用する(あるいはその際のモデルケースとしてみてみる)と有効なのではないか、ってことみたい。


 けっきょく、人間はシンボルを操り操られていく動物なんだから自覚的にシンボルを利用してもいいんじゃねぇか?、って感じだろうか。っつっても、シンボルに操られることもあるのだろうけど。その辺は自覚というかバランスって感じなのだろう。



 そういや「共同幻想論」読みかけだなぁ・・(読まねば)



 あと、アレント読まないと

仕事と労働と公共性(@海難記)
http://d.hatena.ne.jp/solar/20070130#p1

 アレントの「人間の条件」について(労働と仕事の違い)

 アレントのこれもいってみれば「ヨイトマケの唄」のようなものなのだろうけど、これでやる気になるんだったらいいじゃん、って思う。




 ってか、あまりキツキツでやるのも苦手なので個人的には江戸期の格差社会的な感じでいこうかと思ってるんだけど、それはそれで「お気楽」とか「江戸がお気楽だと思ったら大間違いだ」とか思われるのだろう・・。




--
関連:

多元的・複合的な「自己」を求めて(@heuristic ways)
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070130

 日本の新卒(男性)信仰に対して。

戦後の日本社会において「新卒・男性・正社員・日本人」が企業の、ひいては日本社会の中核的な「正規メンバー」とされてきたのは、「人種的偏見・性的偏見・階級的偏見」以外のなにものでもない。それは歴史的に形成されてきた社会的・イデオロギー的な「装置」であり*2、「自己」の純粋性に拘泥するこの装置が今やさまざまなところで綻びを見せ始めている。


 効率性 / 生産性の価値から考えても理由がつけにくいのでやっぱイデオロギーなんだろう。

 あと、武田鉄矢というと金八で「ひとというじはぁ〜」って感じだけど、あれ自体も虚像というか誤解なのだろう(ってかいまはあんな感じか)


『プレイボーイの人生相談』を読む。 (@エロ本編集者の憂鬱と希望)
http://d.hatena.ne.jp/erohen/20070216






posted by m_um_u at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
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