2012年04月21日

近世から近代初頭のなんとなくのポイントとして「西欧資本主義が特殊化し近代型国家ができていった背景とは?」



▽土地(戦争)から貨幣(商業)・金融へ


こないだからちょっとモニョモニョしてて、それは近代初頭がなんとも捉えにくく、自分的になんか引っかかってるからなんだと思うんだけど。いちおちょっと前までで近世の終わりまでの自分なりの見方はメモっといた


(自分的に)古代から近世終わりまでの見所復習: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/264513531.html



ここまでは「国」(あるいは皇帝、王、諸侯)、「軍隊」、「土地」という関係が中心でそれらを覆うようにキリスト教的大義があるというだけでけっこう分かりやすい。

「王や諸侯のもとにある領域国家的なものは他国に対して戦争しかけて勝って土地や報奨金を貰うのが一番の政策」みたいな流れ。この時代はお金や金融というのは軍事-戦争の周辺の「手段」である感じだった。

金が出てくるのも「王が教皇などに対抗するために傭兵を集めようと借金する」って場面程度で、国家の商業-経済的関心は低かったように思う。


戦争の形態としても技術よりも人口に頼ったものだったし、それを養うための食糧生産力(備蓄力)がそのまま国力に直結していたような社会。食料生産力はそのまま保有する土地(領域)の広さと等しくなる。つまり保有する土地(荘園)の広さが経済力、武力に直結するような。「力を持っている」というのは土地を所有しているということだったのだろう。土地は第二身分までしか持てないものだったので「力を持つもの」も限られていた。



そういった食料自給に基づいた社会構造に対して徐々に「交換」-「商業」の存在感が大きくなっていった。その過程で交換材としての貨幣の重要性も増して行った。


「力」の指標が土地保有率から貨幣保有率に代わって行くにつれて、土地にバンドリングされていたモノやヒトが土地からアンバンドルされていった。兵も食糧も衣服も土地を離れて交換されるように。そこでは土地をたいしてもってなくてもカネをもっていれば多くのモノ(豊かさ)を所有できるようになっていった。


中世-近世を通じた宗主たちにとっては土地を中心としたヒトと食糧の生産、略取を通じた土地や貨幣の交換が国力という認識であり、それは農本主義的なものといってよかったのだろう。そういった華々しい国際舞台、戦争ゲームの裏で貨幣や為替などを通じて豊かさが擬似的に交換されていっていた。




・・というか、商業は13cからあったか。ヴェネツィアを中心とした地中海貿易とか。そこまで大々的なものじゃなくても貨幣を仲介とした商業はそれ以前にも形成されてきていただろうし。


ただ、地中海貿易を中心としていた時代と大航海時代を通じて東インド洋、大西洋、バルト海などが交換先として加わってきた時代とではヨーロッパ全体の豊かさや国力も違う。それは交換されるモノとカネの総量の違いだろう。





・・なかなか言語化しにくいけど、印象としては1500年ぐらいまでのヴェネツィアを中心とした商業の時代というのは、商業的な物流・それを内部循環させる金融経済はあったにせよ、それはオスマン以西の地中海に鎖国された限定された規模に限界されたものであったように思う。まだ貨幣・金融の自由度が発揮されてなく、ヒトやモノといった生産物が土地の大きさに依存(バンドル)した社会構造。 

新航路・新大陸発見以降は交換されるモノやカネ、それを受ける人口の総量が増えていった。それまでヨーロッパという限定されたものー土壌とそこを基本として生産されるモノ・ヒトの総量に依存していた経済が、アジアのより多くのモノ、富を吸収しふくれあがっていった。

土地の大きさに依存した経済圏という意味では大航海時代、インド航路発見以前は一部の大商人を除けば土地所有者の権勢のほうがまだ強い時代だったといえるだろう


▽工場型タコ詰め労働、ゲゼルシャフト的な分業・規律に基づいた近代資本主義。ヴェネツィア中心のときにもすでに南ドイツ鉱山労働やロードスなどの砂糖プランテーションにみられたが、それが大航海時代を経てよりあからさまに拡大し一部の資本家に富を与えていった(ヨーロッパ近代資本主義の特殊性記述試み)




『要はヨーロッパでだけ土地所有者や王の力が弱くて商人や会議の力が強かったのはなぜか、ということではないか。それがなければジェノヴァやヴェネツィアに始まる資本主義システムもなくオランダ・イギリスに始まるヘゲモニーもなかった。』
http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20120407#1333779588



そうではなくて徐々に商人の力が増していったというグラデーションはあるにせよ、ヨーロッパでも土地所有者や王の力が強かったのだけれど、1500年ぐらいを境にそれが実質的に変わっていった、ということ。タテマエ上はブルジョワ革命ぐらいまでは王権のほうが強い、ということにはなっていたか。


1500年ぐらいまでは「商人の力が次第に強くなり、実質的には王権や教皇権にプレッシャーをかけるほどになっていた」といってもメディチやフッガー、ウェルザーなどといった大商人・銀行家ぐらいしかそこまでの力はもてなかったのだろう。為替を使った富の自家増殖・時間操作も一部の商人にしか縁のないものであったように思う。


対して、インドや新大陸への新航路開発 → 航海のリスクをヘッジするために生まれた株式会社という形態は資本投下先を新たにふやすことで投資家の間口を増やした。新大陸の銀鉱発掘などを通じて貨幣鋳造量を増やし、仮想的にせよ先行されたヨーロッパの富はバルト海周辺の食糧や衣服、武器、インド航路によって開かれたアジア圏のモノを吸い込んでいきヨーロッパの経済圏全体の富を増やしていくことになる。
http://t.co/7dUojzwt


そして貨幣鋳造や貨幣の素となる地金の発掘、投資で膨らんだマネー(富)の先行入力に対応するようにプランテーションや工場労働が自家増殖的な富の開発が進められていったのではないか?スーパーマリオの無限増殖のような富の自家増殖。バルト海やインド航路貿易だけでは贖い切れないほど膨れ上がった富の先行入力を埋め合わせるように。

あるいは計画的で単一の目的合理性に基づいた自家増殖的富の生産体制、プランテーション的なものや工場労働的なものが前時代に比べて展開され根付いていったのは金融と投資というシステムが洗練され先行投資的に膨らまされた富を埋め合わせるためだったのではないか?

の前時代のゲマインシャフト的労働体制に比べたら計画的で型にハマった(≠つまらない)分業体制。フッガー家などが仕切っていた鉱山労働にもその原型が見られる。また、そこから展開される鉱山労働者への日用品販売の経済圏は資本主義的経済システムの萌芽というかビオトープのような役割を担っていたようにも思われる。



ゲマインシャフト / ゲゼルシャフトということだと、後者の目的合理性と工場・軍隊労働に関わる規律、一見つまらない規律を当然のこととして内面化していく精神を涵養する全体的な構造にウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の話が関わってくるのだろう。


フッガー家はもともとは東方に綿と麻をブレンドした織物を売って一財産儲け、そこから鉱山商売に手を出した。ハプスブルクの鉱山、銀行取引を一手に率い、ハプスブルクの没落とともに消えていった(贖宥状を教皇に薦めた、絡み
http://t.co/TccGsGH2


Weber, Max『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
http://www.arsvi.com/b1900/0400wm.htm



ウェーバーの議論において「資本主義的成功者の精神は形式的には複式簿記やそれに基づいた共通取引フォーマット(ex.帳簿、通信文、契約書類)にもとづいた合理主義と、その派生としての啓蒙主義とに基づいている。しかし、その源泉には非合理的合理主義がある」
http://bit.ly/HToIXf
http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/ootsuka-koen/se-koen4.htm


カトリックにおいては「金で金を生むような商売はダメ(金貸しはダメ)」といわれ、それらをごまかすためにメディチに代表される商人たちは美へのフィランソロピーをしていた。「煉獄」という概念はこのような商人たちに向けて生み出された。にもかかわらず、フッガー家のような商人はそこからの救済的タテマエとして「贖宥状」という擬制を自ら編み出した。商人の業というか、商いの合目的性のためには自らの首を締めることも辞さないということで、この辺りも非合理的合理主義とやらにつながってくるのかと思う。


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http://www.rui.jp/ruinet.html?c=400&i=200&m=212134


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まぁ宗教改革を含めてあの辺というのは叙任権闘争を中心に「商人」「王(あるいは諸侯)」「皇帝」「教皇」が固定的な派閥というわけでもなく、仲悪くなったり裏切ったりと政治的に振舞っていたようだから「商人が商人の首しめた」っていうのも変だろけど(しかけたフッガーは贖宥状なんか方便だったのだろうし)



「宗教改革の下地として人文主義があり、その系譜に啓蒙主義がある」ということで言うと人文主義 ← ヘレニズム的に東方からギリシャ哲学的思考が還流してきたということで1453年のコンスタンティノープルの陥落はここでも意味を持ってくる。

コンスタンティノープルの陥落の文化的影響としてはかつて東ローマに流出していたギリシャ・ローマ的思考や美、建築などといったものが再びヨーロッパに還ってきたことにあるだろう。それとは別に経済的影響としてはそれまでヴェネツィアが中心として築いていたオスマンを介したアジア貿易が衰退していったことにある、とされる。これと入れ替わりにスペイン・ポルトガル東インド新航路・新大陸発見のインパクト → 貿易主要港(都市)の変化(リスボンやブリュージュ→アントワープへ)があげられる。

ただ、経済的変化も文化的、あるいはイデオロギー的変化と同じく1453年を境にいきなり「近世」的な先進性をもつようになったわけではない。

経済、商業面でいえば1453年以降もヴェネツィアを中心とした地中海貿易と、リスボン(ポルトガル)・アントワープ(オランダ)を中心とした大西洋・東インド貿易のヨーロッパ貿易全体に占める割合はそんなに変わらなかったようだし。「新大陸発見によって見つかった新たな銀鉱の発掘がヨーロッパ貿易の中心をヴェネツィアからスペイン→アントワープへと代えていった」といっても南アメリカの新鉱山発掘からしばらく10年ぐらいはヴェネツィア-南ドイツ(フッガー家など)を中心とした銀鉱→銀の採掘量とそんなに同じぐらいの割合だったり。


中世末期・近世初頭のドイツ鉱山業と領邦国家(瀬原義生)PDF ※1
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/585pdf/sehara.pdf





こういう流れが数字的に変わるのはおーざっぱには16〜17cのヨーロッパの急激な人口爆発のころ。人口が増加した理由はよくわかってないらしいんだけど、急激な人口増加で食糧と木材が不足にな。このときヴェネツィアの従来の貿易ルートからでは十分な食糧と造船などに使う木材を確保→供給できなかった。それに対してアントワープではバルト海貿易の権益を抑えることでまず食糧(ポーランド産穀物 + ニシン、タラなど)をそしてスウェーデン経由で木材、武器貿易用の武器の材料を集められた。ここで貿易の中心地が移ったと言われる。

このとき相関するように新大陸の銀鉱の採掘総量がヨーロッパの総量に比べて4倍以上になっているので一概に「オランダにヘゲモニーが移ったのは、スペイン・ハプスブルクによる新大陸銀鉱の影響(価格革命)に依るのではなく、食糧危機が起こった際に食糧を集められたからだ」ともいえないかと思うけど、とりあえずここで交換に必要な要素である貨幣(のもとの地金)とモノ(食糧など)の両方の中心がヴェネツィアからアントワープに移った。




このようにして経済の中心地が移行していくのに従って、ヨーロッパはそれまでの資本主義とは異なった規模と性格の資本主義(プランテーションや工場労働、それらを支える投資・金融)、自家増殖・無限増殖型の資本主義を作り上げていった。また経済の中心地の以降にともなって思想の中心地も移行していった



▽啓蒙主義、革命、国民国家をめぐる誤謬  〜資本主義は帝国主義を当然としない?


後期人文主義(1490) → メディチ(フィレンツェ)、ボルジア(スペイン・ローマ)の時代


北方ルネサンス・人文主義:エラスムス、トマス・モア15-16c(1478〜1530)
http://bit.ly/JetYuB
http://bit.ly/Jeu0m2

宗教改革 1517〜28〜
http://bit.ly/nRMpOS

↓ ブルジョワ化

啓蒙主義(17後〜18cイギリスから)1680〜1780
http://bit.ly/JetRiE



これらの啓蒙主義に至る歴史は従来、「旧来のローマ・カトリックとそれを包み込む政治空間の中からできあがっていったイデオロギー(蒙)を啓くべく昔の自由主義が参照されていった」、とされるものだと思うんだけど、実質的に王権や教皇権などといったアンシャンレジームに対して商人が思考し対抗していく際の道具立てとしてどれぐらい有効だったのだろう?

実際に金融や商業などによって権力の中心にいたメディチやフッガー、あるいはボルジアなどにとって「ローマ・カトリックを中心とした教えは汚れている」などということは当たり前のことで、「そういった空間を利用してどれだけ自分たちが権勢を高めていけるか?」ということが彼らの主目的だったのだろう。だから「理性主義によって蒙を啓く」というのは、部外者に向けてのアジテーションやプロパガンダの表象としては便利だったかもしれないけど、当事者であるメディチやボルジアにとってはほとんど意味を持たなかったのではないか?むしろ「それを言ってしまうとKY的に権力中枢から外されるので黙っておこう」ぐらいの言わずもがな。


フランス革命なんかのベタな説明見てると「特権的第二身分までに代わってブルジョワが政治空間で発言力を持つようになっていった」+「第三身分が発言力を持つようになった背景には啓蒙主義による理論武装があった」みたいなのがあるように思うけど実際は逆の順序で、人文・啓蒙主義以前に商人たちが経済力を身につけていく過程で必要な東方伝来の実践的な知や思考を身につけていき、アンシャンレジーム的な主義や思考が結果的に相対化されていったのだろう。

それらは16世紀文化革命の流れにあり、商人や学者のほか職人など非ブルジョワな実際家の仕事の用として広がっていったわけだけど、ブルジョワ的な思想史では人文主義や啓蒙主義が目立つのみでそういったものが取り上げられないように思われる。神学やキリスト教的思考や知識を相対化するために編み出されていった人文主義や啓蒙主義とは別の思考、一部のブルジョワ向け人文哲学思考とは別の実践知とそこから編み出されていった思考や精神の体系


山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html?1318389838


産業技術や商業・金融技術、あるいは軍事・科学技術が生まれていった背景としては俗語革命を基盤とした数式や形式的合理主義的思考の運用があった。それらに基づき近代ヨーロッパはより複雑で大きな数、金、エネルギーを扱えるようになっていった。


そういった実践的リアリズムに基づいた思考と実践からすると、啓蒙主義というのは結果的に一部プチブルの利益誘導のためのイデオロギー的側面があったのではないか。なにせ革命が終わった後に利益を得ていたのはプチブルだけで、プロレタアートな平民は依然として貧乏だったわけだし。フランス革命もその背景としてはオランダに叶わなかった英仏国内で不況→不満が生じ、そのストレスのガス抜きとして生じた一過性の暴力革命のように思える。農民などの平民は不満のターゲットを設定されてうまいこと乗せられただけだったのかもしれない。もっともネタがベタになってその後のブルジョワ革命まで持続的な大義・中心言説として機能し、そこから「平等」的思考が展開され、より民主的な方向へと政体が変化することへ影響した面もあっただろうけど。

ともかくも英仏の2つの市民革命が絶対王政的中央集権と交差し国民国家という半全体主義への道に通じていく。

従来の政治学だと「このように北方ドイツ、イタリアでは王権が弱く都市国家が多かったので中央集権できなかった」みたいな言い方がされる。しかしフランス革命や国民国家の帰結を思うと「できなかった」というよりは「ならずに済んだ」ともいえるかもしれない。英仏に重商主義や農本主義があったことが当時のオランダのヘゲモニーに対して英仏が焦っていたことの証左ともなるだろう。オランダという経済中心主義の国家連合に対してなんかしらないけど「?あれ?なんかうまくいかないぞ? こっちも(軍事だけではなく)商売も重んじてみるか」って保護貿易に走ったのが重商主義であり、農本主義もその亜流といえる。彼らが勘違いしていたのは自由経済・貿易を選択するのではなく、経済を理解しないまま国が経済を保護・操作しようとし、その決断の失敗を補填するように戦争を選択していったことだろう。重商主義といいつつもけっきょくは戦争が基点となっていたという点。それは前時代の領土略取的思考の延長にあるといえる。

しかしこの時代はまだ戦争という選択肢に対して現在ほど縛りがなく、かつ有効性をもった政策であったため戦争に注力するようなシステムに国家組織を集中することでヘゲモニーの転換がはかれたのだろう。絶対王政に基づいた指令のピラミッド化、中央集権、国民国家、税制の強化、徴兵制(銃後の兵も皆兵に)、帝国主義という半総力戦の流れは、前近代的な土地=略取モデルの最後の徒花だったのではなかろうか。


そういった軍国主義的なものに対して、17cのオランダ都市国家同盟は経済的なヘゲモニーがはたらいていたため自由な貿易と経済を展開でき、それに基づいて商業的自治権が固まっていたので中央集権する必要がなかった。もしくは高度に複雑化した商業組織・制度運営が複数に自律していたために、いまさら一つの組織体として中央集権しても効率が悪かったため、ピラミッド構造として中央集権するのではなく、権力をネットワーク化し指令のミスというリスクを分散していたのではないか?


ここで啓蒙主義の掲げる「自由」ということに関して、特に啓蒙主義を掲げていなかった商人を中心とした都市国家同盟のことを思うと中央集権型の国家に比べてよほどローマ・カトリックの教えを相対化し、自らの頭で考え行動し、自由な貿易・商売ができていたのではなからろうかと思う。身分制・階級制などといった自由度の低い組織制の印象も特になく、領域を統べる首長のプライドや人間関係、恣意性などに左右されるところも従来の領域国家に比べれば少なかったように思えるし。

中央集権になれば一定の方針がその時代に適している場合、たとえば「税金を奪取して軍備につぎ込み戦争に勝つ」という方針がその時代にマッチしていれば有利だろうけど、そもそも「戦争をする」ということがひどく不経済なわけだし…。

それに対しては<資本主義は戦争とともに発達してきた>(ゾンバルト)とする見方もあるかもだけど、これは戦争が経済のオプションとして、「昔は戦争という経営選択をとることが他国からも当然とされていたため」、資本主義を牽引する主要アクター(商人)も戦争を前提とし、国家が戦争を選択しても利益をとらるように行動選択をしてきた結果的なもの、といえるか。要するに「まだ世界経済的にも国家経営的にも未完成な時代だったので、戦争という短絡がとられていた」時代があり、そういった時代には中央集権は便利だったのだろう、と考えられる。


イギリスのヘゲモニーとオランダのヘゲモニーの違いは、あるいは「かつてのオランダの状態はヘゲモニーと呼べるのか?」という議論もあるが、そういった議論も含めて両者のヘゲモニーの質的な違いにあるように思われる。

「イギリス型のものが代表的なヘゲモニー状態であるとすると、たとえば英仏植民地戦争-1763パリ条約に代表されるように、ヘゲモニーは、<生産・商業・金融>という勝ちパターンを握る初期段階で戦争を前提に生産面でのアドバンテージをとらなければ成り立たないような、世界経済としては未成熟段階的なものではないか?」という疑問がもたげる。対して、オランダ型のものは生産面でのアドバンテージにおいても戦争を特に条件としない。このことから同じヘゲモニーという言葉でくくられつつも両者の間に質的な違いが浮かび上がる。あるいはヘゲモニー=(軍事的威力による強制を伴わない間接的)覇権にもいくつかの種類があるのではないか?もしくは、そもそもヘゲモニーという未完成な概念でくくる必要があるのか?

その辺りの違いに軍事・経済といったパワーポリティクス的要素だけでは測りきれない文化的要素としてグラムシが従来つかっていた意味でのヘゲモニーという言葉が指す領域が絡んでくるのかもしれない。グラムシ的にはヘゲモニー、ウォーラースティン風にいえばジオカルチュア、ウェーバー的にはエートスといわれる領域。政治体制のいしずえとなるような政治的インセンティブ(大義)を構成する精神と、それらにもとづいてつくられた政治制度や政治制度の素となるような思想・教育(ex.文化教育、市民社会、民主主義)。

そういったジオカルチュアの構成の変化が政治的大義の変化としてあらわれ政治的決断の最終決定のよすがとなっていたのだろう。具体的にはキリスト教的大義から近代国家的大義への変化、近代国家的大義のなかでも「国家的大義の初期としての神授された王権の霊威を受け継ぐ国家の大義」と「商人的自由主義という大義」の相違。そういった違いがそれぞれの国家幻想のいしずえとなり、それをもとに国家体制がつくられ、時として戦争という選択肢もとられても大義のもとに賛同を得ていった。


以上から絶対王政や中央集権、国民国家やそれらの部分条件としての啓蒙主義も「合理主義」や「近代」に向かって絶対に必要だったものではなかったように思われる。それらは戦争がまだ優位な選択であった時代に適した選択肢であっただけで、一定の偶然が絡みつつそれが成功し、相対的に勝ちパターンに達したというだけだったのだろう。

そこからすると啓蒙主義や中央集権、国民国家を歴史の必然とする考え方は、パクス・ブリタニカ時代のイギリスの覇権を<進歩>として後付け的に正統化するためのアングロサクソンを中心とした進歩史観だった、ともいえるかも。





▽ウェストファリア条約を政治史側面からというよりは経済史側面からの近代化の記念碑としてみる



そういった視点から見ると80年戦争、ウェストファリア条約の意義もまた違ったものに見える。

ウェストファリア条約はおーざっぱにはハプスブルク神聖ローマ帝国と教皇権からの他の国の独立(主権確立)であり、それまで父なるキリスト教の家に同居していた兄弟が巣立っていった記念碑と思えるけど、そもそもあの戦争が生じた大きな流れとしてはあらたな都市国家と商人同盟勢力(ネーデルラント→ユトレヒト)がそれまでの皇帝権やその御用同盟(ハンザ)からより自由になることを目指したことにある。

皇帝や王、あるいは教皇といったカトリックの宗主たちがプロテスタント系商人資本にきつく当たったのは、宗旨が違うということもあるだろうが、自分たちが商人に莫大な借金を負っていたことからの引け目もあったのではないか?そこからすると80年戦争は「領邦国家による主権独立の記念碑」のみならず「商人(資本、ブルジョワ)が王や教皇、皇帝といったところからより自由になれた記念碑」ともいえる。それは単にオランダによるスペインからの独立戦争というだけではなく…。

背景として、大航海時代の到来から株式会社が設立され投資先が増え、同時期に新大陸からの銀鉱増加、人口増加に対応してヒト・モノ・カネ(商業)の規模が増え、複雑化し商人のプレゼンスが増したことなども考えられる。

英仏の重商主義はネーデルラント→ユトレヒトに代表されるこのような商人力の台頭についていけなかったことからの対抗策、国家を上げての対商人主義であった、のでは?


商業や金融をもとにどのようにして商人が力をつけ宗主(皇帝、王、教皇、領邦諸侯)の首根っこを握るようになったか。



ここに至るまで「近世→近代化は商業化」みたいな見方、中世のヨーロッパ経済についてはレーリヒの「中世の世界経済」辺りがスタンダードのようだからぼけーっと復習していこう








(借りにくいけど。。)


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※1:「中世末期・近世初頭のドイツ鉱山業と領邦国家」(瀬原義生)PDF

太陽の没せぬ国の頃のスペイン・ハプスブルク、カール5世は南ドイツの大商人フッガー家などに対する独占非難の勅令を出す。鉱山独占非難についての勅令。

当時のヨーロッパの鉱山はケルン周辺・エルベ川流域(プラハ北)・イン川南に広がっていた。具体的な地名としてはマンツフェルト・南ザクセン・ボヘミア・ドイツ(シュヴァルツシルト、ティロル)・ハンガリー辺り。

国は貨幣鋳造用の地金を廉価で購入→地金と造幣金額の差が大きな国庫収入になっていた。ほかに鉱山保有権(税)が鉱山保有者から支払われ後の十分の一税につながる。

商人の方の利益としては鉱物の先買権を利用した利ざや商売、プランテーション的な鉱山労働周辺の日用品販売の経済圏の構築などがあった。

先買権は金融とほぼ近い形でたとえば5グルデンで買った銀の先買権は最終的に10グルデンの価値→2グルデンの儲けに

これらであがった利益でフッガー家などが戦争材用の銅を買い付けたりしていた。

鉱山労働はほぼ工場労働やプランテーションに近く労働者不満が溜まっていった

フッガー家のほぼ排他的ともいえる独占状態に対して南ドイツとヴェネツィア商人は連携して対フッガーラインを築く

フッガー家はヴェネツィアへの銅輸出を禁じられアントウェルペンへ拠点を移すも、ハプスブルクの没落とともに衰退していった








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近世における世界の一体化 - Wikipedia
http://bit.ly/HTnIBZ

この時代の国際関係史、出来事表としては分かりやすいけど、新大陸銀鉱発見からの価格革命中心な感じ。「新大陸の銀発掘が地中海からバルト海沿岸にヨーロッパの貿易拠点を移させた要因となった」とする価格革命は現在あまり信ぴょう性がないみたい。オランダのスタートダッシュに関わるバルト海貿易への記述もない




80年戦争、あるいはオランダヘゲモニーへの経済史的背景として(仮) - Togetter
http://togetter.com/li/290952

※ヴェネツィア+南ドイツからブリュージュ、アントワープ、アムステルダムに移っていった流れに関するちょっとしたメモ。銀鉱の中心地、基軸通貨の中心の変動、フッガー、




「ヨーロッパ中世の手工業と商業(瀬原義生)」
http://t.co/f3Xe4O3G
http://t.co/IDQjPG6H
http://t.co/gZS1yaqg

※フッガー、ウェルザーなど



基軸通貨(商業中心地)の流れ
http://www.onyx.dti.ne.jp/sissi/erz-143.htm

グルデン(フィレンツェ、1252〜)→ターラー(チロル、1486〜)→ターラー(ボヘミア、1520) 以後、当時のオーストリア系銀貨は「ターラー」




なぜ、オランダは17cになって急にイタリア都市国家に代るようになったのか? - Togetter
http://togetter.com/li/289478


※ヴェネツィアからアントワープ、アムステルダムに商業中心地が移る経緯を複数から。フランドル・ブルゴーニュ公が絡んでブリュージュが開発されていったことからの流れぽい。まだ途中なので以下でバルト海貿易との関係とか確認しつつ









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※蔑視の対象だった商人への視線が肯定へと転換していくトポスの変容。利息関連、近代的銀鉱の源流モンデ・ディ・ピエタの設立までの商業精神史


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