2012年04月14日

(自分的に)古代から近世終わりまでの見所復習


たまには久々にお習字的に



休んでる間も相変わらず世界史には興味持ってて流れで歴史小説とかハプスブルクとか100年戦争あたり見てたんだけど、流れで歴史物に興味持ってるので「?あれ?そもそもどういう関心だったっけ?」と思い、新しい鉱脈読み進める前にいちおブックマーク的にまとめとこう。



(現在はどうか分かんないけど)学校の世界史の授業、重大事件とか重要人物、年号の羅列と暗記的なものだと分かりにくいような、「ナニがドウなってこういう結果になった」って歴史的事柄の意味、関係性を物語ってくれるようなもの。最近の関心はそういうものだったのだなぁ、ってあらためて。

その中でも代表的なものとして、<なぜ、科学や資本主義を基本とした市場経済で西ヨーロッパは覇権をとっていったのか?>、というのがある。

ヨーロッパなんかは世界史的に見れば弱小なところで、古代でもローマが興隆するまでは東方騎馬民族や北方のゲルマン、海賊やらに脅かされていたし、中世に入っても北方からの海賊、東のオスマントルコなんかにやられてきた。オスマンに関していえば近世ぐらいまではずーっとやられてきたわけだし。。

なので、「中央アジアや中東に遅れをとってきたヨーロッパがいつの間に?」、ってなる。

そういうのに対しては「火薬と羅針盤ゲットして大航海時代、植民地とってきてなんか産業革命してるうちに科学で先行して(∩´∀`)∩ワーイ ヨーロッパは神に祝福された土地だからハッテンして当然だったもんねー」みたいなのがなんとなくの理解なんだけど、、それだと「なんで植民地とれたんや?」とか「なんで産業革命できたんや?」「なんで科学根付いたんや?」とかの疑問は説明されてない。

なので、その辺も含めて「ナニがドウなってこういう結果になった」って説明が欲しくて世界史見直してる、というか、歴史を見直す中で普遍的パターンを見出して現代に適応できないかなぁ、って思ってるわけだけど。まぁ社会システムの歴史的考察みたいなの。そのあたりの関心で世界システム論とかぶるんだろけど、世界システム論だと世界経済システムが中心で軍事史のほうの理由は弱いように思い不満だったり。なので最近見つけたW.H.マクニールというのは鉱脈だったなぁ、と。マクニールだと「ナニがドウなってこういう結果になった」って説明がありそうなので(ヨーロッパ中心でもなく、中国やらオセアニア、インドも含めた世界の関係性の連関から)。ただ、ウォーラスティンやその元ネタのブローデルも「ナニがドウなってこういう結果になった」って説明を他の角度からしてくれてるみたいなので地味に見ていきたいなぁ


まぁ、なので未読段階でぐちゃぐちゃいうよりもそれらを読んでいって「覚えきれないところ」「書き出さないと自分の中でうまく整理できないな」ってところだけblogにでもしてけばいいのだろうけど。とりあえずおーざっぱなヨーロッパ史(つか、世界史からんだヨーロッパ史)の流れみたいなのでできるだけ資料見ないで書いてみよう。


以前にいちおまとめたのがこの辺


ヨーロッパ中世から近世の終わりまでのおーざっぱな流れ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223715899.html


「古代」だとペルシャがまず強くて、それに対してギリシャとかスパルタがバルカン半島ら辺りでワタワタしてて… そこからしばらくしてほかの民族からは見捨てられてたマイナーな土地からローマが興隆していく。ローマなんかも最初は弱小だったけど、エトルリアとかギリシャとかほかの国の良いところを取り入れてなんとなく強くなっていった(@塩野七生)



(ローマはあまり見てないので飛ばすとして)そんな感じで共和制から帝政経て経済・人口・行政・軍事のバランスがうまく保てなくなったローマが瓦解、西と東の2つに分かれる。そのうち東はそのまま独立してて東ローマとかビザンツ帝国とかになってったんだけど、西ローマは事実上瓦解、後ろ盾を失ったローマ教皇庁が困る。デーン人とか来るし…。ここで北のほうでけっこうな版図を誇っていたフランク王国に頼ることになる。フランク王国も相続問題で国が分かれて西・真ん中・東の3つになる。ネウストリア(セーヌ流域)、ブルグント、アウストラシア(イン側流域)、それぞれ、フランス、イタリア、ドイツの基礎となる。ブルグントはブルゴーニュだけど、アウストラシアなんかもそのまんまオーストリアなんだろか?…まぁそれはいいとして、この内、東フランクのカール大帝がローマ教皇庁の求めに応じてローマに上洛、西ローマ帝国皇帝として戴冠する。と言っても、この頃にはまだ東ローマがあったわけだし、その意味ではほんとのローマ正統は東ローマだったのでローマ皇帝とはいっても偽ものだったのだけど…。ともあれ、「ローマ」の継承が成されて「中世」がはじまる。800年ぐらい。

(神聖)ローマ帝国と並行するように、セルジューク朝(トルコ)をいつの間にかすっ飛ばしてオスマン帝国が興隆、ぢみに力をつけていく。(神聖)ローマ帝国(というか連邦)はそれと競うように発展していく。

東のほうはそんな感じで(神聖)ローマ帝国の皇帝を中心とした連邦国家 vs. オスマン帝国て感じだった。ちなみに「神聖ローマ」の「神聖」は「教皇にご免状もらってなくても最初から神聖なる霊性を備えた皇帝が統べる帝国」の意味らしく王権神授ぽい。教皇 vs 皇帝な叙任権闘争の流れから出てきたもの。「帝国」のほうも後世から見るとそこにつらなる国家(領邦)は特に絶対的忠誠誓ってたわけでもなく、封建領主として皇帝の意にそわないことも多々あったようなので「緩やかな連合」みたいなイメージぽい。オスマン帝国と同じ(か、オスマンのほうが中央集権できてたか)。

中世から近世終わりまでのこの時代の政体は、



神聖ローマ-皇帝      ローマ教皇庁-教皇


選帝侯           枢機卿





伯(公爵>伯爵>男爵)   司教


              司祭(司祭>助祭)



みたいな感じだった


最初に教皇庁がカール大帝に頼ったとき、諸侯から大王→皇帝という権威付けと引換にその要請を受けた。

中世というのは諸侯による下克上上等な暴力世界なので。封建しているからといって単なる土地と軍事出動の双務的契約関係なので裏切るし、二君に仕えたりもするし。なので、王や皇帝というのは常に諸侯による背反に手を焼いていた。そういった背反に対する権威付けとして皇帝の位は必要だった。

また、もう少し時代が下ってからは領邦を守り行政するための監督官として「伯」(日本の守護大名みたいなの?)を置いたのだけど、これらが相続のうちに自分たちの土地を拡大していって王権の対抗勢力になるのを恐れて、「一代限りの監督官」として司教を当てることとした。カトリック司教は妻帯できないので。

こうして皇帝側は司教を地方行政官として自由に叙任したくなったのだけどそれを教皇庁側は許さず、また「皇帝の戴冠も教皇が司る(=皇帝より教皇のほうが上)」としたため「世界のほんとうの王」の座をめぐって皇帝-教皇間の叙任権闘争がつづいていくこととなる(cf.カノッサの屈辱、アヴィニヨン捕囚、薔薇の名前)。この叙任権を基本としつつ実質は荘園や王権などの相続権をめぐった駆け引きが王や諸侯も巻き込んで続いていく。ちなみに司教など坊さんも荘園持つことできて、大司教なんかは実質的には大公みたいなものだから大貴族の次男なんかがなってた。なので「神学を修めて司教になる」は単に「坊さんになる」というよりは政治的な意味があった(cf.「チェーザレ」)


「主権」というのはこういった叙任権やらをめぐって「一定の領邦(cf.国)」に対して皇帝やら教皇やらに文句言わさない、って権利。「オレの縄張りについては他の国から文句言わさない」っていってもいいけど。


しばらく時代が下ると「俗界の王としての皇帝は教皇の叙任を待たず」みたいな感じで皇帝は8人の大貴族や司教による選帝侯から選ばれるようになった(cf.金印勅書)。同様に教皇は枢機卿によるコンクラーヴェによって選ばれる。枢機卿は教皇庁の実質的な行政の最高長官、大臣、外交官みたいなものか。後にリシュリューやらマザランやらがフランスに輸出される。



その他、社会保障-弱者救済のNGOとか、知識・文化の中心として教会が機能してたところもあったのだろうけど



そんな感じでゆるやかに「キリスト教連邦」みたいなのが外枠を包み、その下に「神聖ローマ(元東フランク)帝国領」「西フランク王国領」「ブルゴーニュ-フランドルライン」みたいなのがあり、それらを皇帝や王が封建的に統べ、公爵や伯爵が下克上を狙う。皇帝や王はそれらに対抗するために「特権」を付与する代わりに有力商人や他の貴族、坊主の協力を仰いだ。


そういったヨーロッパ政体システムの相転移みたいな形でオスマン帝国の政体があった。あるいはその逆にオスマンの相転移がヨーロッパのシステムだったか。



なので教科書的に有名な中世の大きな事件というのは「夷狄」「異端」「相続」「新しい領土」なんかに絡む。たぶん、この時代は農業が産業の中心だったから「土地(荘園)」と「人口」=「財産」て感じでほかに財産的なものがなかったので、そのあたりをめぐっての争いが中心になったのだろう。


「夷狄」であり「異端」だったのがオスマン帝国との戦い。十字軍は基本的にオスマンとの争いだったが、東ローマの都コンスタンティノープルの陥落をもって一旦「中世」は閉じる。

「異端」という名のもとに十字軍を派遣しヨーロッパ内の新たな領土統合になっていったのがカタリ(アルビジョア)派討伐とフス戦争だったかな。カタリ派にしてもフス派にしても特に悪魔信仰というわけでもなく、当時、俗に腐敗しきっていたローマ・カトリックに対して原理主義的清貧を説いただけのようだったので後のルター派やカルヴァン派の宗教改革とそんなに違いがなかったように思うんだけど、あの時代では「異端」とされて潰された。多分この辺はそこで語られていた内容の是非ではなく、当時の政治経済的背景から「異端」ということで周りが合意し、戦争を起こして分捕ることで領土を増やそうとしたのだと思う。実際、アルビジョア十字軍の意義は、異端討伐というよりはそれまで手つかずだった南フランス(オクシタニア)地方をフランスが統合できたところにあるようだし、フス派のボスニア(チェコ西)は当時のヨーロッパの銀鉱山の中心だったし。

「相続」に絡んだイチャモンとして有名なのはいわゆる「英仏100年戦争」。100年戦争というのは後世に付けられた便宜的な呼び方で、当時戦ってる人たちにはそういう意識もなかったのだろうけど。発端としてはフランスの西海岸、ブルターニュ・アキテーヌ辺りの相続権問題。当時は政略結婚で近親相姦上等だったんだけど、本来禁じられていたそれを金の力で教皇庁にゴリ押ししつつ、「なんかイケそう」ってときになると外側から「オレのほうがそこを相続する正統な権利がある」といってみたり…。100年戦争ももともとはフランス西海岸の相続権問題だったり、あるいはもっと古い「ノルマンディー公の領土としてのイングランド」絡みな話が掘り起こされたり。イングランド側が「あそこの嫁と結婚してるからアキテーヌの相続権はオレのもの」といえばフランス側が「っつーか、そもそもイングランドはノルマンディ公領だからフランスの領土だろ?」みたいなこといって、逆にイングランドとしても血筋的にフランスの王としての権利みたいなのを主張してぐちゃぐちゃになってたんじゃないかな。。(うろ覚えだけど) なにせ近親相姦上等だから主要王族は兄弟的な感じだったし。 そんでまぁぐちゃぐちゃ長々と継承権戦争、つかなんのために戦争してるのかも忘れた頃にようやくフランスが最後の戦争に勝ってアキテーヌもブルターニュもフランスのものにした。あと、この戦争で騎馬戦術に対する長弓戦術が確立されて行ったり。

なので、俯瞰で見るとハプスブルク神聖ローマ帝国を中心とした連邦がオスマンと戦っていたのに対して、フランスはイングランドほかと戦う中でうまいこと自分の領土を西と南に拡大していった時期だったといえるかも。まぁ、その後ハプスブルクはスペインと婚姻し、うまいこと新大陸の銀鉱やフランドル地方の毛織物技術をゲットしたのだけど…(ブルゴーニュ以外かな)



教科書的にはその辺が中世の重大事件なのだろけど、そういった政体絡みの事件よりも重要だったように思えるのが農業や軍事技術上の革新。

中世はペストなんかで大幅に人口削られたけど、レンズ豆の開発で一旦落ち込んだ人口が回復、さらに倍みたいになったり。あと、麦なんかもあるのかな?まぁ、この辺はマクニールの読むけど

軍事的には馬の鐙(アブミ)が開発されたことで両手を離して馬に乗れるようになり、馬に乗ったまま槍で突っ込むランスチャージ戦法が戦争の中心になった。もそっと正確には「両手を離して馬に乗れるようになり」というよりは「ランスチャージ後の反発衝撃を鐙で受け止められる様になったので、振り落とされず全力突撃できるようになった」。



そんで、コンスタンティノープルの陥落で「近世」になっていくのだろうけど、この時代は政体的には宗教改革が中心事件となっていく。というか、宗教改革を発端とした「ローマ教皇庁-神聖ローマ帝国」の旧体制(アンシャンレジーム)からの脱却。なので「ハプスブルク=神聖ローマ帝国の黄昏」と「絶対王政の確立」辺りが近世の終わり。その意味で30年戦争の決着(ウェストファーレン(ウェストファリア)条約)が「近世の終わり」的なメルクマールになるかと思うんだけど、ウェストファリア条約が結ばれたからといって即神聖ローマ帝国が瓦解したわけではないし、教皇庁の影響力もある程度健在だった。ウェストファリア以降の様子は「ハプスブルクの宝剣」でも描かれれていてハプスブルク-神聖ローマは健在だったし。 

これはあくまで従来の「近世」などの区切りが政体を中心とした話であって、経済や技術などの区切りに依ってないからのように思う。なので、実質的に時代の変化(エポック)としてインパクトがあったことと、いちお教科書的大事件として扱われることに差が出てしまうのかも。なので経済史(世界システム論の歴史観とか)、農業史、軍事史など、なにを中心として見るかによって時代区分は異なってくる。


「近世にあったこと」でふたたびつづけていくと、農業的には三ぽ制とかこの辺だったかな?(うろ覚えで余り覚えてない。レンズ豆の時期だったかも。まぁマクニールのみつつ復習するし) まぁとりあえず農業技術が上がると人口増える。


経済的にはスペインの新大陸-銀鉱発見による貨幣鋳造量の増加が資本主義経済の礎になったみたい。それまではオスマンのほうが商業的にも優れていたようなんだけど、銀が足りなかったので貨幣を多く作れずにデフレかなんかでモノがうまく回らず。対して貨幣を多く作れるようになったヨーロッパでは、人口増加にあわせてモノをどんどんつくっても経済的に勘定が回るようになった。(この辺の事情はヴェネツィア辺りの話に詳しいのだろうか。。) これで貨幣経済や資本主義、市場経済が回るように。


軍事的には長弓と長槍と軽量歩兵の混合運用がランスチャージを破っていった。

これらは独立運用ではなく軽量歩兵と合わせて、騎士の攻撃をそらしふせぎ(軽量歩兵)組織的近接防衛で槍で絡めたり叩き落としたりして足止め(パイク兵)長弓で狙い撃つ、という運用だった。長槍はローマのファランクス(密集)戦術の改良(ex.スイス・パイク兵、スペイン・テルシオ、マウリッツ方式、グスタフ・アドルフ方式)、長弓・長槍ともに農民兵から生まれていった。このように騎兵のランスチャージへの対抗戦術が増え、戦場における騎兵-騎士のプレゼンスが下がっていった。

この時代、騎士は従者などを含めて6人の戦闘員が必要で、騎士=最低5人の戦闘員をオプションする封建領主って感じだったんだけど、ランスチャージ戦術のプレゼンスが下がっていったということはそのまま封建領主の権勢が下がっていったことと相関する。対して、王は特権と引換に商人から借り入れた金で傭兵を雇い諸侯に差をつけていった。


また、王は常備軍を養うことで、あるいは養うために税制を確立させていった。それまで封建領主への年貢みたいなのはあったのだろうけど、定期的な税が当然ではなかった領民に、「王による税は当然」としたのがシャルル5世。これは「イングランドとの戦争のために非常時ゆえにやむなく」というのが最初だったのだろうけど、税によって王が常備軍を組織することが可能となっていった。ちなみに常備軍と傭兵では士気や戦術理解的にも格段の差がある。シャルル5世のときのベルトラン・デュ・ゲクランなんかは2000の常備兵(+封建領主の協力隊)で万の軍勢相手にできたようだし、オスマン帝国はヨーロッパに先んじてそれを取り入れていたのでヨーロッパに先行していたようだった(cf.イェニチェリと税制と中央集権)。常備軍によって戦力的に差を付けた王は中央集権を可能にし、封建諸侯に対して絶対王政として機能するはずだったけど。。フランス的にはちょっとコケる。近親相姦で阿呆のコが生まれていたので。けっきょくフランスの絶対王政は(戦争大好き)ルイ14世 と 官僚宰相コルベールによって達せられる。シャルル8世のときにも惜しかったように思うけど、税制を整えてなかったのかその後に続かなかった。

税制を中心とした「きちんと計画的に経済する」みたいな考えが「国家」て意識にも関係していったか。法制度と経理意識、それを基盤とした官僚制が行政にしっかり取り込まれていった(cf.コルベール辺り)


絶対王政(absolute monarchism)というのはなんか誤解しやすい言葉で、パッと聞くと「国内において王に逆らうことのないほどの強権的な中央集権」のように思えるけど、実質は社団国家だったらしい


絶対王政 - Wikipedia
http://bit.ly/IHQIhy



つまり、中世の公式「皇帝と教皇の勢力争い」+「諸侯の下克上」→「そこから抜け出るために皇帝や王は商人を利用する」なアレと同じく、「絶対王政」とはいいつつ封建的契約内容の対象を「騎士や諸侯に封土を与えることによって戦争時に騎士を派遣することを契約させる」ことから「商人ほか新興勢力に特権を付す(あるいは権利を許可する)ことによって金を出させる(それによって王は傭兵を雇ったり、常備軍を養ったりする)」ということに変えたみたい。いわば封建制度の「封土」の部分「権利」に変え、代価としての「武力」の部分を「金銭」やそれを持続的にもたらす「統治への協力」に変えたもの。背景としては資本主義と市場経済の発展や大航海時代の富によって商人ほかの一部の第三身分勢力が強くなっていたことが考えられる。

なので「絶対(absolute)王政」ってのはなんか変な感じがする。「土地封建からお金・統治協力封建へ(王はちょっと中央集権進んだ)」みたいな感じ。・・端的に「社団国家」でいいか。



あと、近世後期に入って行くと銃や砲などの火器が戦闘に使われるようになっていった。両方とも火薬を移入した結果だけど、この派生として弾道計算が必要となり関連する科学的知識(重力関連)が発達していく。



山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html


重力・引力関連というと火薬のほかに有名な羅針盤なんかも絡む。その中心の磁石-磁力というのはこの時代にはありえない力だった。「触れずに物体が動く」というのが考えられなかったから。なのでそのあたりのことはなるべく考えないように、あるいは神の存在に絡んで説明がつくようにされていたわけだけど(cf.「薔薇の名前」)、実践的な場で方位磁石を使う船乗りが磁石が一定の方角を指すときに常に少し斜めに傾くことに気づいた。これをもとに「地球ってもしかしたらまっすぐ平面なんじゃないんじゃないか?」って考え方が演繹されるようになった。


これらは神学的な考え方に対する科学的な考え方ってことだけど、そういった考え方が可能になっていったのは、アラビア圏から伝わった抽象言語「数字-数学」の影響があったか。恣意性の低い数字を用いることでより多くの数(より多くのエネルギー、資本の流れ)を扱えるようになった。

科学的知識、合理的考え方、あるいは理性に基づき自分で考える思考の下地となったものとして、数字と数学の他に俗語革命の影響も強かったのかもしれない。

それまでは知識というのはラテン語を中心に教会から聖書を通じてしか学べないものとされていたけれど、俗語の文字使用によって自分たちの経験知を反省し、相互共有し、演繹して思考を深め、実践的に確かめ記録していけるようになったこと。それらは宗教改革へと至る検証意識の礎を築いたし、啓蒙主義と呼ばれる理性主義へのきっかけともなっていったのだろう。


ただ、ルネサンスと呼ばれる文芸復興はよくわからないところがあるけど。あれは復興・再生ということだと「(中世の暗黒からの)ローマ(のような文化的豊かさへの)回帰」ということになるのだろうけど、たぶん俗語革命的な時代性も絡んでアラビア圏の知識の応用とヨーロッパ的知識の融合みたいなところがありそうな。透視図法関連の話はちょっと忘れたけどそんな感じじゃなかったかな。。まぁ「ヘレニズムはルネサンスに多大な影響を与えた」とかいうし。あと、やっぱ経済的に豊かになったからそういうのできたのだろうな、と(cf.メディチ銀行とか




この時代で一番重要だったのは「スペインの新大陸-銀鉱発見 → 資本主義経済の礎に」ということだったように思う。



この辺、ふつーは貨幣量上がるとインフレになるだけのように思うけど、


価格革命 - Wikipedia
http://bit.ly/InhWdF


価格革命(かかくかくめい、price revolution)とは、大航海時代以降の世界の一体化にともなって、16世紀半ば以降、メキシコ、ペルー、ボリビアなどアメリカ大陸(「新大陸」)から大量の貴金属(おもに銀)が流入したことや、かつては緩やかな結びつきであったヨーロッパ等各地の商業圏が結びついたこと(商業革命)で需要が大幅に拡大されたことで、全ヨーロッパの銀価が下落し、大幅な物価上昇(インフレーション)がみられた現象をさす。なお、川北稔は、価格革命の要因を16世紀西欧における人口急増に求めている[1]。

これにより、16世紀の西ヨーロッパは資本家的な企業経営にとってはきわめて有利な状況がうまれて、好況に沸き、商工業のいっそうの発展がもたらされたが、反面、固定した地代収入に依存し、何世代にもおよぶ長期契約で土地を貸し出す伝統を有していた諸侯・騎士などの封建領主層にはまったく不利な状況となって、領主のいっそうの没落を加速した。それに対し、東ヨーロッパでは、西欧の拡大する穀物需要に応えるために、かえって農奴制が強化され農場領主制と呼ばれる経営形態が進展した。

また、それまでの銀の主産地だった南ドイツの銀山を独占していた大富豪フッガー家や北イタリアの大商業資本の没落をもたらした。




結果的に落ち着き、その後のヨーロッパのジャンプアップにつながったということはマネーに見合う農業技術の革新、生産増加とかあったのだろうか?(東欧が西欧の食物庫になった、みたいに書いてあるけど)

あるいは、商業革命つか喜望峰ルート確立でオスマン帝国飛ばして商売できるようになったことでマネーに見合うモノを輸入できるようになったのか?


大航海時代 その9 商業革命と価格革命 - 今を知る為の歴史探求
http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/d899f812e848ecca935642185c710f2f


それでも「人口養うだけの食料は?」って疑問は残るけど…プランテーション作物なんかが食料需要満たしていったのかのぅ。。





16世紀価格革命についての疑問(飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」) - 玄文講
http://d.hatena.ne.jp/under5/20070920/119098733


ここ的には「貨幣量の増加は南米の影響以前に中欧の銀採掘量が増えていたこともある。あと、貨幣の改鋳も増えた」ってある






とりあえずこれで「固定した地代収入に依存し、何世代にもおよぶ長期契約で土地を貸し出す伝統を有していた諸侯・騎士などの封建領主層にはまったく不利な状況とな」り、「資本家的な企業経営にとってはきわめて有利な状況がうまれて、好況に沸き、商工業のいっそうの発展がもたらされた」ってことなので、この時代の宗教改革が「異端」で片付けられずに影響力をもっていったのはこういった新興勢力の経済的台頭が背景にあったからではないかの。




ウォーラースティンの世界システム、世界経済の一体化論の見方は「経済基盤が地代収入から資本家的な企業経営に変わっていった」ということなんだけど、これによって「封建騎士的な『土地の地代収入のために戦争する』という考えから、企業経営に有利なリソースを獲得するために戦争も一手段として考える」という風に国家政策のパラダイムが変化したのだと思う。<戦争(暴力)から経済へ>っていうか<直接戦争して略取しなくても稼げることを意識して、戦争オプションを含んだ外交戦略を根本的に変える>というように。





アブミの時代から槍や飛び道具の時代へ変わることで騎士の時代が終わったように、土地とレント(地代)というモノを主な収入源とした時代から権利と資本という概念的なものに基づいた時代へ変わることで貴族から有力商人へと権力のイニシアティブが移っていったか





世界の一体化 - Wikipedia
http://bit.ly/HTnTNr




近世における世界の一体化 - Wikipedia
http://bit.ly/HTnIBZ











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関連:

学校「世界史」のわかりにくさと「歴史の見方」みたいな話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223226126.html


佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html


「近代」と軍隊の官僚制
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/219164793.html



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