2011年10月15日

意味と社会のあいだ  〜 理解社会学ら辺

ここしばらくの興味関心がなんか統合された感じなのでメモ的に



直近だとこの辺でうなうな言ってて


ゲゼルシャフトと母性  (あるいは日本的市民社会と母性の話) - Togetter
http://togetter.com/li/195808


「実存は本質に先立つ」 されど、秘蹟の価値は…? - Togetter
http://togetter.com/li/199311


独我論と言語と自意識と存在への予感(ネコ) - Togetter
http://togetter.com/li/199794



基本命題としては、「自他の境界がないとき、他も自もないのだから自己犠牲的利他行動をとってしまうのではないか?(そこからすると自己保全的利他意識というのは偽善であり欺瞞では?)」、ということだったんだけどすっ飛ばし過ぎなのでちょっと噛み砕いとこう。


まず最初に「ポストモダン的な野放図なエゴの氾濫というのは子供のワガママではないか?彼らは近代はすでに終わったというけど未だ近代は完成していない」ということからゲゼルシャフト的な価値と知識体系、およびそれのテクネーとしての反映を受けて生活が向上することを期待するということが基本線となる。科学+技術の発展と生活の関係、あるいは法制度やその収斂として?の国家の発展と生活の関係。

それに対して「システムと生活世界」的な視点から「政治経済システムの合理性によって生活世界の価値観および個人の実存-価値観が侵食されて行ってしまう」的な問題意識が生じるのだけれど、ではそういった「社会」と個々人の価値観との摺り合わせというか落とし所のようなものはなにか?

たとえば、家族や恋愛といった生活(親密圏)の問題も「社会」的規範がモデルとして援用されていくことがしばしばあるわけだけど、結果として個々人の自由が窮屈になって妨げられてるとあまり意味がないような。。だったら野放図にそれぞれのエゴを追求すればいいか?というとそれではどうも生活の満足が高まらない感じ。なので囚人のジレンマ的摺り合わせがいるのか?というところなんだけど…


そういう自動化された最大公約数的な流れに対して、人は個々人の価値に基づいた行動選択を主体的にしていくのではないか?その相互作用(コミュニケーション)を介してそれぞれの社会(「社会」の素)が作られていくのではないか?



<人の行動選択は既製の社会のコピーやゲーム的な自動化された機構ではない。主体としての意志が関わる>


という問題意識がこの辺



M.ウェーバー、1919、「職業としての政治」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/211827975.html


屈せざるものたち: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212059486.html



大国 対 小国のような国家間のリアリスティックな物量差や、「神は死んだ」という圧倒的なアパシーを前にしても人は自らの意志で立ち運命を変えていく。


「システム」やそのサブディレクトリとしての規範や明示化された法は制度として屹立して当然化し、まるでハードなモノのように人に規範を強いる(物象化)こともあるのだろうけど、物象化しルーチンとして固まる以前のおぼろげな意味の交換が主体としての人のあり方であり、その資源としての意志と根っことなるような価値(エートス)があるということ。個々人間の意味の交換の集積が(制度以前の)社会を作っていく。




独我論的に言えば私を中心としたセカイと世界の関係(妥協?)は「同じ世界にいる」という幻想のもとに成り立っているように思う。論理的に突き詰めていけばどこまでいっても人は「この世が夢ではない」ということから確信を得られないし「目の前にあるモノや他人とされているものが、痛みや喜怒哀楽といった感触や感情でさえなんらかの刺激によって誘発された夢のようなもの」という認識から出られない。「夢と何となく違う」というのは蓋然的な感覚の違いだろうけど、「現実」として認識されている物自体が高次の自分からすると夢のようなものなのかもしれない。

だから<他者>というのもどこまでいってもフィクションなのだろう。存在と時間の関係と同じく。人はその瞬間瞬間に生成されまた消えていく。それでもなお変わらないもの(アイデンティティ)があり、それを中心にたましい(実存)が構成されていく。金剛界の「現実存在」として自らがアイデンティファイした「己」としての肉体と精神の構成。その認識を基本とし、外部からの刺激によってたましい(実存)が構成-了解されていく。「存在」としての「己」はもっと奥のほう、自他の境界のないところで人の基底になってる(のかな。


そして、おそらくそれが存在論的には正しい  (>そこからすると自己保全的利他意識というのは偽善であり欺瞞では?)しかし、「人」としては正しくないのだろう。あるいはエートスとしてはそこに甘んじない。


なぜこんな複雑な「自/他」の形式をとってるのかよくわからないんだけどそれは置くとして、とりあえずの認識としては「基本的に突き詰めれば独我なのだろうけど、それらがまた同じような円として交わるためにコミュニケーションがある」って感じ。言葉は不自由なものだからいろいろノイズがくっついたり、精確に自分の思いを表せなくて話がそれたり、相手の理解度もあって伝言ゲーム的に意味がズレて行ってしまうものだけど。とりあえず、そういう不自由なツールを介してとはいえ、意味の領域で理解が近づいていけば、独我の円はやがて重なっていく。


んでも、システムが複雑化し、システムとして安定すると言葉や制度が物象化され人の理解に慣性を作る。制度が再帰的に参照され「目の前の個人を理解する」ということが軽んじられていく。繰り返しになるけど人の生活というのはそういった制度と個々人の実存の間に作られていくものだと思う。近代的「市民」というのはそういうものなのだろう。たとえ科学(エピステーメー)的に正しくなくても、個々人の生きられた経験から了解されている価値観と哲学がある。それが文学作品なんかで反映されているところなのだろうけど




 米国的には方向性としては、パーソンズみたいな変なのもあるけど(しいて言えばだけどね)、数値で実証的にみたいな方向が好まれるし、ネットなんかでも、数値で統計というのが社会学と思われている。

 まあ、ネットレベルの議論だと物事熟考しない人が多いので、白黒わかりやすいくらいでないとしかたないんだろうと思う。

 が、実は、社会学というのを作ったのは、マックス・ヴェーバーなんですよ、というあたり、まあ、それもドグマでしょみたく言われるけど、なのでもうちょっと限定的にいうと、理解社会学ということね。

 極論すると、理解社会学とはなにかがわかるということが社会学ということなのな。


 いやもちろん、理解社会学なんか無視しても数値だけで社会学はできますよ。しかし、これはちょっとめんどくさい議論になるけど、出てきた数値とやらは、ようするに常識に合致、あるいは驚きの数字であっても常識判断に合致するということが前提になって、ようするにその常識なる社会理解に循環的に包含されてしまう。

 つまり、それは、社会学的な常識が前提になるんだけど、それ自体が近代の特異な現象であることはガチ。じゃあ、そういう近代の特異な合理的常識、つまり社会的定見みたいなものが歴史のなかでどうして出現したのかと問わないと、実は、その合理的常識のなかに潜む社会的な問題に気がつくことができない。

 これに、ヴェーバーが気がついちゃったというのが、彼の天才でもあるし、病理でもあったということで。で、それは何かというと、呪術からの解放ということ。die Entzauberung der Weltというやつね。

 なぜかしらないけど、近代西洋が脱呪術化を行った(かのように見える)ということを内省的に了解していくということが、つまり、世界の文明の総体的な理解になるんだよということ。そしてそこに人類意識に課せられた課題があるんだよということが、ヴェーバー先生わかってしまったということ。


http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20100623/1277252206



Togetter - 「M.ウェーバー、1919、「職業としての学問」」
http://togetter.com/li/131779


実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html


山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html?1318389838




 もちろん、そんなの比較文化論でもわかるし、オリエンタリズムみたいな視点とかカルチャラルアホーズみたいな視点からでもわからないでもない、みたいなフラットなことも言えるけど、その手のポストモダンな阿呆どもは、その内在に潜む倫理性の魔みたいなものを前提に無視したから、むしろ世界の側の力に圧倒されるか、「知性」というかいうお商売に隔離されてしまい、学が学たらんとする世界に起立する意志を失ってしまったのな。

 で、ヴェーバーは、ほいじゃ、このEntzauberungに前段として、理解社会学とはどういうものかというのを示すためにプロ倫を書いたわけですよ。

 で、理解社会学が恐ろしいのは、これをよく主観とか阿呆な理解されがちなんだけど、数値客観とかすると実はそのインタプリテーションは主観的云々というループになる。で、ヴェーバーのいう理解というのは、英語でも、understandingとかinterpretationとかに誤解されるけど、そうじゃなくて、エートスというのが一種の社会意識という特殊な実在性の問題だということ。というか、およそ、存在の意味性の根拠性は、この社会性の意識のなかにある。このあたりは、言葉というものの命名の不思議を考えると、愕然としてくるものがある。

 ということで、基本的に現象学的な構図を持っているんだけど、べたにその方向で進めたシュッツとかは、まあ、ダメ。また、反対にパーソンズとかも一種の神学にしてしまった。

 どっちもそうなるのはわからないでもないというあたりに、ヴェーバー学の深淵みたいなものがある。ようするに、では理解というのは何かというのは、理念型の議論になる。エートスを構造化するということ。そのあたり、実は、構造主義というのとヴェーバー学は近いところにあるはずなんだけど、日本とかおフランスな構造主義はそのあたりわかってないのでうまくかみ合っていない。



http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20100623/1277252206



(この辺の話ぶつけてくりゃよかったんじゃねーの?と思うにまぁあの時点で先験的理解に基づく感情 → メタなところでの知識系の選択のズレみたいなのがあったのだろうから仕方ないと思うに)





Socius_社会学感覚03行為の意味を理解する
http://www.socius.jp/lec/03.html


「社会的存在の客観性を人間の主観性との関係において把える」こと。制度と意味の弁証法としての人の実存を各々の「意味」から捉え直す、ということ。

「めんどくさい」というのは近代の都会人の最大の障壁だし、怠惰とか欲望への流れからの不合理な行動選択なんてのも人類のボトルネックのように思うんだけど、それを突破するためにそれぞれのエピステーメーに沿ったエートスがある、ということなのかな。

だから、エートスというのは一見、現行システムへのフィードバックを促す合目的行動の基本ルールとして捉えられがちだけど、それ以前の個々人の実存を介した内部規律のようなものではないか?それを通じて人は内省し、己の行動に恥や誇りを思い律する。そしてエートスはエピステーメーとの相関かなんかで夫々の時代環境で異なっていく。



 すでにふれてきたように、さまざまな社会的事実を人間の行為にまで還元してその主観的意味[動機]を探るべきだと提唱した代表的な社会学者がマックス・ウェーバーだった。「理解社会学」(verstehende Soziologie)と呼ばれるウェーバーの社会学構想については省略するとして、ここではかれの壮大な具体的事例研究を紹介してそれにかえよう。第二章で紹介した『宗教社会学論集』(全三巻)におさめられている「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」――通称「プロ倫」という――がそれである▼1。

 (1)問題提起――ウェーバーが「プロ倫」を書きはじめた一九〇四年あたりの初発的な問題関心は、近代資本主義の根源の探究にあった。これはのちの一九一九年に『宗教社会学論集』のために改訂されるが、そのときウェーバーの問題関心は、近代資本主義だけでなくそれをふくむ西欧の壮大な合理化過程に拡大され、その人間的な起動力の解明を構想するものとなっていた。いずれにしても「プロ倫」であつかうテーマは明確である。すなわち「インド・中国・イスラムなど高い文明をもっていた文化圏がいくつもあったのに、なぜ西欧世界にのみ近代資本主義が成立したか?」である。

 (2)資本主義と近代資本主義――ウェーバーによると資本主義は中国にもインドにもバビロンにも古典古代にも中世にも存在した。高利貸し・軍需品調達業者・徴税請負業者・大商人・大金融業者たちの「資本主義」である。しかし、これらと西ヨーロッパおよびアメリカの「近代資本主義」――より正確には「近代の合理的・経営的資本主義」――とは決定的に異なっていた。後者は簿記を土台として営まれる合理的な産業経営の上になりたつ利潤追求の営みであり、これは大量現象としては西欧近代にのみ発生したものだったのである。



世俗内禁欲にもとづく積極的かつ合理的な職業活動は、皮肉にも小商品生産者を結果的にもうけさせることになった。なぜなら、かれらは利益の少ない一定の低価格で良い商品を規則正しく販売し正直な取引をしたからだ。これがおなじみの顧客をつかむことになったのだ。こうしてえられた富は天職の結果なのだから神の恩恵として認められた。しかし、かれらは貴族的消費を嫌悪していたから、この富は必然的に投資に向けられることになる。こうして期せずして資本が形成され、合理的産業経営の機構組織がつくりあげられた。このあたりのメンタリティが「資本主義の精神」にほかならない。資本主義の離陸もここからはじまる。




宝くじのように儲けられた富は「ふつう」なら怠惰に過ごされて浪費されても良いものだけれど、それを投資へと誘因したのがその時代の「エートス」となる。当時のシステム的な合目的性では現れていなかったはずの誘因→行動。それが人々の意味の系から現れた、ということか?生物の利他行動における協働関係が1/20で現れたように。(囚人のジレンマ的状況で)各個体が自分と関わりを持つ相手を自由に選ぶことができ[=移動]、彼らの成功を模倣するだけの賢明さを持つ場合、協調行動が発現し、全体に広まっていく。


利己主義と裏切りが支配する世界に「協力」が生まれる条件は:シミュレーション実験 ≪ WIRED.jp Archives
http://bit.ly/ouvcVB


利他的行動 - Wikipedia
http://bit.ly/pfFnil


「利他的行動は戦闘で進化」:コンピューターモデルで分析 ≪ WIRED.jp Archives
http://bit.ly/qPKJ0t



そこからするとここでの「利他」という価値は制度的規範以前の集団的な価値と個人の意味との間のおぼろげな収斂といえるのか。完全に個人の価値的なものでもなく、かと言って社会的なものの単純なインプリンティングでもなく。(もちろんゲーム理論的「適応」というだけでは理解しがたい主体性もある)





Socius_社会学感覚03行為の意味を理解する
http://www.socius.jp/lec/03.html

社会形成のプロセスにとって「意図せざる結果」はつきものだ。なぜなら、そこにはかならず「軸の転回」(Achsendrehung)と呼ばれる現象が生じるからである。「軸の転回」とは、もともとの目的や意図などの内容をふくんだ生の全体から、しだいに形式が分離し、やがて自律性をもつようになることだ。これ自体は社会形成の必然的なプロセスである▼2。

 たとえば、「生きるため」という実践的目的の知識から自己目的的な学問=科学が生じるように、生活全体に融合していた美的要素や遊びから芸術やゲームといった活動が自立するように、また諸個人の活動を相互に規制しあう調整から法が自立するように、そして経済の純粋な手段としての貨幣が今度は絶対目的としての貨幣に転換するように、もともと目的を達成するために生じた媒介手段が、自己目的をもった自律的世界へと転回してしまうことである。

 問題なのは、この「軸の転回」が「文化の悲劇」と呼ばれる事態と表裏一体だということだ。



 ウェーバーがジンメルの「文化の悲劇」概念をうけつぐなかでつけくわえた強調点のひとつに「意味喪失問題」がある。ウェーバーはいう。「『文化』なるものはすべて、自然的生活の有機的循環から人間が抜け出ていくことであって、そしてまさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく▼7」と。

 その典型的事例がほかならぬ近代科学である。科学は「われわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか」というトルストイ的問いに対してなにも答えない。これらは問題外とされる。これについてウェーバーは近代医学を例にあげている。医学は著しい発達をとげた。しかし、その前提には生命の保持という単純な前提があるのみで、生きる意味も死ぬ意味も問題外である。



ここは「物象化」として問題になる部分


ジンメルによると、社会とは本質的には「諸個人間の心的相互作用」だという。これが反復的になされ、さらに緊密化して恒久的な枠組や組織――これを「社会形象」という――へと結晶化するのである。肉体にたとえると、社会形象は心臓・肺・肝臓.胃などにあたる。資本や国家や宗教のような制度とか社会的事実のことである。ところが、ひとたび結晶化した社会形象においても、この心的相互作用は脈拍のようにたえず運動しつづけており、それによってそれぞれの社会形象に統一性と弾力性をあたえている。それは臓器だけでは生命にならず血がかよっていなければ生きられないのと同じである。

 したがって、社会にはふたつの相があるといえる。第一に社会形象に結晶化する相。第二に社会形象をいきづかせている働きの相。ジンメルは後者の側面を「生起としての社会」と呼んで重要視した最初の社会学者である。



ここはメディア論(¥社会情報学)における「コミュニケーションメディア(ハード)の基礎(cf.社会的認識の変化のような受け皿)」に近い(cf.キットラー)


山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html?1318389838



とりあえずそういう形で「システムと生活世界の知の循環、パラダイムの循環作用」という長年のモデルと、「イノベーションや社会運動、あるいは意思決定への誘因とはなにか?」あたりの話が一気にまとめられてるようなのでこの辺中心に見ていこうかと思う。





橋本努講義レジュメ ウェーバー「理解社会学のカテゴリー」
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Weber%20Kategorie.htm


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http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/faqg6.html


あとはシステム論的に理解社会学を組み直して、コンピュータシステム論の理解とか意味論との相対化→統合みたいなのだなー


プログラム意味論 ≪ Cruel to be kind
http://www.funclang.net/cruel/?p=218

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あと、python本とか



posted by m_um_u at 19:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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