2011年10月10日

山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」



<ヨーロッパ近代の覇権の礎となったものとはなにか?>と問われたとき、「科学」は間違いなくその答えの一つとなるだろう。「科学」というか「科学技術」。

ただ、「科学技術」といっても単に知識体系が変わっただけでは構造的には宗教と変わらない。では、科学と宗教を分けるもの、とはなにか?


山本は応える、「それは単なる理論部分の挿げ替えではなく…


「科学」と「技術」ではなく、客観的法則として表される科学理論の生産実践への意識的適応としての技術



こそがこの時代のパラダイムシフトであった」、と。



こちらの言い方をなぞればエピステーメーとしての理論(体系)とテクネー(技術)としての実践知



一六世紀文化革命 - 池田信夫 blog(旧館)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/88ea8eb285d35a891527985519ab84fd

16世紀というと、ルネサンスなどの芸術や人文学についてはよく知られているが、近代科学はまだない時代だと思われている。著者は一次資料を使ってこうした通説をくつがえし、16世紀に起こった文化革命が科学革命の基礎になったとする。その最初のきっかけはグーテンベルクによる印刷革命であり、それによって起こった宗教改革、そしてラテン語から日常語による出版という言語革命である。


それまで職人の勘と経験で継承されてきた技術的知識(ギリシャ語でいうテクネー)が、日常語で出版されることによって学問的知識(エピステーメー)と融合したのが16世紀の特徴である。特に経験を実験という科学的方法に高めることで、それまでの演繹的推論だけで構築されてきたアリストテレス自然学を帰納的に反証する方法論が確立した





ちなみに「エピステーメー」という語彙を使用した時点でこの捉え方は間違ってるわけだけど



エピステーメーというのはこちらにもあるように


ミシェル・フーコーの「エピステーメー」について誰か分かりやすく説明していただ... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218534207

http://bit.ly/qyjjOT


メタ認知領域での一定の知の枠組みがあるとして「それが時代ごとに変わる」という問題認識を含む語彙。だから、この語彙をつかった時点で「科学」も「宗教」(キリスト教)も構造的には同じという相対主義的感覚がでてこないとおかしい



実際、西洋の知というのはそういうふうにできあがってきたようで、理論-論証知の領域としてはキリスト教-神学の文化圏が担ってきた知の表出された部分が科学的な語彙に変わったにすぎないところがあるように思う。おーざっぱな理解だとラング/パロールのパロールの部分の語彙が変わっただけ。知のディレクトリ構造としてはそんなに変わってない。

また、神学の内部でも近代哲学や科学に通じる形而上学と経験主義間の論争(闘争)が行われていた。


坂部恵『ヨーロッパ精神史入門――カロリング・ルネサンスの残光』、坂口ふみ『〈個〉の誕生――キリスト教教理をつくった人びと』 - 旅する読書日記
http://d.hatena.ne.jp/katos/20111007/1317981119


「薔薇の名前」と普遍論争
http://bit.ly/qpyBvi

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本書の問題意識というのは「エピステーメー」の説明リンク先にあるような単純な進化論的視点、知の単線的進化論的視点への相対主義も含み、同時にエピステーメーとしての「科学」がいかに偶然的に時代を代表する知の体系となっていったか、ということを改めて素描しなおしているところにある。


大事なのでもう一度言うけど「進化ではなくて適応」であり「必然ではなくて偶然」なのだ、現在我々の居る科学文明とは。



科学とは科学的なエピステーメー(理論)と、その樹形図的知識を掘り下げていく技術的な知の実践といえる。前者は数学(抽象言語)や自然言語によって論証過程を経た後「科学理論」として体系づけられ、後者は実験やそれぞれの専門職でしかるべき過程を経た後に実証されていく。後者の「しかるべき」過程が複雑なため専門的な知識、すなわち技術的な知識が必要となる。


一部の理系は「科学=実験的実証」としての認識しかないため後者の過程ぐらいしか頭にない。実際は物理学でもおーざっぱに理論と実験に分かれるようだけど


大学の物理学科について急に語りたくなったので語る。
http://anond.hatelabo.jp/20110929232831






さきほど「科学と宗教は構造的にはそんなに変わらない」「時代を代表する知の代名詞がすげ変わっただけ」みたいな言い方をしたけど、「現場・実証的知識が理論にフィードバックされるようになった」というところでは違いがある。それまでは形而上に造られた神の法としての自然の摂理、完全なる「第一原理」を読み解くことのみが「学ぶ」ということで「それを修正する」という発想はなかったので。あとは物語的恣意性のもとに限界が定められていた抽象的思考の領域(ディレクトリ)が拡げられた、ということ。この辺りが前時代の知識体系との違い、といえるのかもしれない。



そういう意味で言えば16世紀周辺におこった宗教改革的ラディカリズムもそういった「実践知の理論への反映」という機運を受けたものであったと言え、「宗教の時代から科学の時代へ」とトレードオフしたのではなく、宗教も含めて知の体系全体に変化があったのだといえる。だから「科学/宗教」っておーざっぱな区分けもおかしくて、知識体系の変化、として考えたほうがスマートなように思う。おそらくウェーバーが射程に入れていたと思われる知の体系の根本的変化と社会構造の変化の相関。あるいはマンハイムの知識社会学 / 構築主義的な「社会のその時点での知のパラダイムは一見定式的で固定的、必然的なものに思えるが幻想である」という認識


社会構築主義 - Wikipedia
http://bit.ly/hwhkko


知識社会学 - Wikipedia
http://bit.ly/qg1Sp7

カール・マンハイムはシェーラーの非歴史的な人間論に批判を加え、歴史的に拘束される知識を分析しようと試みる。またマルクス主義のイデオロギー論を発展させて知識社会学の柱とした。マルクス主義のイデオロギー論では、自身の立場に敵対する思想が存在の拘束を受けたイデオロギーとして暴露される。マンハイムはそのような党派的な論難の道具としてイデオロギーを捉えるのではなく、自身の立場をも含んだあらゆる思想的立場をイデオロギーとして把握する。意識の存在拘束性という観点を党派的な立場から解放し、研究方法として用いようというのである。すなわち、自己の立場にも存在拘束性を認める勇気をもつことで、イデオロギー論は一党派を超越した一般的な社会史・思想史の研究法としての知識社会学に変化するというわけである。

こうして、マンハイムの場合、イデオロギーは思想的武器としての意味合いを払拭され、存在に拘束された一般的な「視座構造」を意味するようになる。マンハイムはこうした知識の存在拘束性の理論としての知識社会学の担い手を、階級的帰属による束縛から免れていると彼が考えた〈自由に浮動するインテリゲンツィア〉に求めた。組織化されたインテリゲンツィア(マンハイムが念頭に置いていたのは修道士)は権力を有する特権的な知識人の学説に追随することしかできないが、組織から解放された自由なインテリゲンツィアは、特権による知識の改竄の呪縛から逃れて自由に発言できるというのである。




形而上的な思弁的知識、論証知(理論)は本来「イデオロギー」のように「権力の一定の座から一方的なベクトルで発せられる恣意的なもの」ではなく、もっと中立的で構造的な運動性を持つ。それが一定の座に固定されてしまうのは知の希少性と権力-組織的理由に依る、ということ。現在だと被曝や原発に対する不安を契機とした専門知に対する希求と、知の権力の関係から知識共有がうまくいかない現状があるけど


民主主義と学者・専門家の役割 - Togetter
http://togetter.com/li/195281




おーざっぱにはゲマインシャフト(農村的社会における思考および価値の体系)からゲゼルシャフト(都市型社会における思考および価値の体系)への変化。そして、あるいはその先の知の枠組みの大々的な変化(弁証法的発展)があるのか?と予感させるもの




それが某人に「何がいいたいのかさっぱりわからず」「大して斬新な話ではなく」といわれた山本の問題射程のように思うけど、これも個人的な関心が挟まってるので勝手な読み込みと言えるか。




とりあえず以下は上記してきた大風呂敷の各論に移る。











▽形而上学から形而下学、ギリシア的「頭」の理論から手の技術の再評価へ



中世の知や行政組織などの体系はローマのそれに依る、ということで。行政組織はローマに倣っただろうけど学問的な体系の基本はギリシアに依る。人文知の基本はギリシア的な「神-自然の法則を読み解くこと」であり、そのための術理として自由七科が設定された。「文法・論理・修辞(レトリック)」という自然言語を使って思考するための基本「3学」と「音楽・数学・天文学・幾何学」という自然を知るための「4科」。前者は内面からアウトプットするための学、後者は環境からインプットするための学問(術理)といえる。


リベラル・アーツ - Wikipedia
http://bit.ly/o7RJ6X


いわゆる「教養」はこれらを処源とするわけだけど、以前に見たようにもともとギリシアのストア学派から収斂していった弁論術ほかの思考の技術は実践的な知を目指していた


古東哲明、2005,「現代思想としてのギリシア哲学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html


中世のそれはソフィストの精神を忘れ、ギリシアのものが表面的に受け取られ教条化し固定化してしまったために当初の目的の実践知から外れて行ってしまった。「中世の暗黒」のままヨーロッパ内部は混乱したまま、ヨーロッパの外界からの知識は「蛮族のもの」としてなかなか受け入れられず知識・文明的に周辺地域に対して劣位にあったのが中世→近世までのヨーロッパ。ギリシアの知はイスラム的マイナーチェンジを受けつつスコラ学に受け継がれ「大学の知」として継承されていった。つまり、ギリシアの知を形式的にのみ踏襲し、学としての内容を深めないまま教条化していたのが中世→近世の形而上学。そこでは医学も絵画も数学も製鉄理論も実践的な感覚から遠のいていた。



「神が作りたもうたものは完璧」「技術はそれを模倣するのみ」(人は自分では作れない) → 「神の理論(考え)、第一原理を理解することこそが本質的に意義をもつ」 → すなわち「手技は模倣に過ぎず、神の付された法則を読み解く頭脳の技こそ尊いものだ」

そういった考えに従って職人的な知識や外科医の技、商人的な実践数学も軽蔑の対象となっていた。絵画においても大部分は教会からの一定テーマの依頼であり、絵師はそれらのテーマを象るだけの「職人」であり、現在のような「芸術家」的な認知のされた方ではなかった。

絵師が芸術家として認知され始めたきっかけとして、当時の南イタリアが貿易的に栄え始めていた、ということもあるだろうけど「絵師が独自の専門知と専門技術を身につけ、模倣とは言わせないだけのオリジナリティを発揮しだしたから」といえる。その基本となったのが透視図法(遠近法)という絵画技術の開発であった。


二次元平面に3次元空間の情景を射影する技術、遠近法(透視図法)の発見はブルネレスキに始まる。最初は絵師ギルドの秘伝的技であった透視図法に幾何学的な基礎を与え、絵画を学問たらしめていったのはアルベルティ。職人と言うより人文主義的学者であった。


遠近法 - Wikipedia
http://bit.ly/q0iRfK

レオン・バッティスタ・アルベルティ - Wikipedia
http://bit.ly/n039V0


後にサミュエル・エドガートン・ジュニアをして「16世紀知覚革命」といわしめた遠近法の発見と理論化により、透視図法は分解組み立て図法、断面図砲、透明図法、画法幾何学などに応用され工学や機械学、建築設計の基礎を作っていった。

数学としての幾何学的な空間把握 → 2次元上での3次元把握はルネサンス当時ですでに現在のコンピュータグラフィックに通じる表現を可能にしていた。デューラーによる直行三平面への平行射影や図像の回転変換は、現在のコンピュータグラフィックにおいて一度ひとつの物体を措定すれば数値変換によって様々な角度からそれを投影できる技術に通じる。


アルブレヒト・デューラー - Wikipedia
http://bit.ly/oF0Day


アルブレヒト・デューラー-主要作品の解説と画像・壁紙-
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/durer.html


ルネサンスの代表的偉人はレオナルド・ダ・ヴィンチのように思われがちで、レオナルドの代表的な仕事は絵画や彫刻などといった芸術作品にあると思われがちだけどこれは二重に間違っている。

たしかにレオナルドはある意味天才であったが、それは分析的な探究心を中心にした野放図なものであり、それらを通じて蒐集していった知識は体系だてられず、ほとんどは彼のみが判読可能なメモのようなものたちだった。レオナルドは芸術家というより職人であり技術者であった。その上に博識がくっついたわけの分からない香具師。なので、いっときイタリアの傭兵成り上がりスフォルツァに仕えていた時のセールスポイントはすべて技術者としての能力や発明の才能であった。絵画や彫刻は末尾の付け足しのように書かれているに過ぎない。そのときの様子は「チェーザレ」にも少し表されている。





レオナルドの知が解剖学的探究心に通じていたことから芸術的なものの骨格は解剖学と捉えられる向きもあるのかもしれないが、それはレオナルド個人の科学的・技術的興味・探究心に終始し、そこからの発展は望めなかったものといえる。


大事なところなのでもう一度きちんと言えば、絵画が「学」としてきちんと体系付けられ、定式化した基礎は解剖学ではなく数学(幾何学)にある。


レオナルドの解剖学的関心は解剖学そのものとしては意義があったともいえるけれど、3次元投影技術の透視図法の理論的発展にはあまり意味を持っていない。解剖図においてレオナルドが編み出した前面、背面、側面の三方向からの視点をならべて表すレイアウトや、骨格図にたいして、射線で陰影をつけることで立体感を表現する手法は解剖図の描写にとってエポックであったといえるが、その段階ではこの方法はまだ彼独自の職人的な技であり、知識として敷衍していなかった。透視図法の理論的発展と敷衍に役立ったのはデューラーの書物であり、それは従来秘密にされていた絵画ギルドの専門知、直行三平面への三次元物体の投影法をオープンソースとした。レオナルドはどちらかというと印刷や「他人に伝えること」をバカにしており理論の発展には寄与しなかった。



透視図法の工学や機械学、建築設計、解剖学への応用は当時まだ字が読めなかったり、あるいは文字だけでは伝わりにくい技術を絵画表現によって伝えることに役立ち職人の知識共有を助けていった。これらは後の外科医や建築家の専門家的地位向上に寄与したといえる。




もうひとつそれぞれの職人(ギルド)の知識が専門知として認められるようになった基礎となったのは知としては数学がある。

当時を代表する数学は神の意志を反映すると思われた恣意的な形而上学であった。そういったいわば衒学的な数学と商人たちが実践的な計算手法として必要とした数学は異なったものであり、後者は軽蔑の対象となっていた。

商人の数学を代表するものがインド・アラビア数字を中心とし数字それぞれに記号としての中立性をもたらした単なる計算のための道具としての数学。それに対して当時の形而上学的な数学は自然をひとつの生き物(神の生んだそれぞれに意味的連関をもった物語)として見、物の本質と原因を問う定性的なものであった。そういった世界観においては例えば「3は三位一体の数」、「6は完全数であって神が天地創造に要した日数」、「10は十戒の数」などとそれぞれの数字に恣意的な意味が付され、それに基づいて抽象的思考や計算の自由が奪われていた。

しかし、おそらく王権と豪族との関係から商人の権益が高まったり、戦争などを通じた中東世界との接触を通じて貿易の富と商人的知としての算術計算が広まっていった。


学校「世界史」のわかりにくさと「歴史の見方」みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223226126.html


ヨーロッパ中世から近世の終わりまでのおーざっぱな流れ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223715899.html



そこで必要とされた実用的な数学は代数学だった。貿易を通じてより大きな富、数字を扱う必要が出てきたために代数学が発展していったのか、それとも代数学が発展いったからより大きな貿易ができるようになったのか定かではないが、ここで編み出された2次方程式、3次方程式を通じてヨーロッパはより大きな数を扱えるようになっていった。









▽パラダイムシフト、あるいはエピステーメーの変化はいかにして起こったか?




上記で駆け足で説明してきたように絵画にせよ商業にせよ、その界の知が学として体系化していった礎は数学と実践知、実証過程にあった。あるいはギリシア、ラテン語といった「高尚な言葉」からドイツ語、フランス語といった俗語への知識ツールの変化、もしくは詳細な絵画を介した伝達手法の研鑽、あるいは印刷技術+出版取次の発達…などなど。「知の枠組みが変化する礎となったもの」と思われる要因としてはおーざっぱにこれだけある。

そして、こちらのエントリにも記したように


bunkamura「ブリューゲル 版画の世界」展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158036122.html


明示的なモードやリテラシーの変化に対応するためには、社会的認識の変化のような受け皿側の変化のようなものが必要だったりする。おーざっぱに「時代精神」とでも言えるような。あるいは、キットラーだったらより細かく「新しいモードが浸透するためには、その前のモードを介した何回かの反復が必要 (ex.文字メディアの下地の音読による浸透)」というところか



むーたん:キットラー概説メモ + 音読・黙読 ら辺
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

メモ2:たんぶらーのキットラー関連のつぶやき再考
http://tinyurl.com/3oj5v4c

ルーマン周り
http://morutan.tumblr.com/post/21158375
http://morutan.tumblr.com/post/21160877


キットラー対話―ルフトブリュッケ広場
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ただ、それらはある程度規定要因になったかもしれないけれど決定要因ではなかった、ということに留意したい。本エントリ冒頭述べたように、活版印刷や俗語への変化といった明示的なわかりやすい要因だけでは歴史は必然的に変化したとは言えない。明示的リテラシーの受け皿としての下地のモードの変化などといったいくつかの要因が偶然的に絡まって、すべてのメーターがちょうどいい具合に高まった所で現在の文明(システム)からすると「進化」ともいえる変化が起きた。


具体的に言えば外科的知識や職人知が共有されるためには印刷技術の発展、ラテン語から俗語へのシフトのみならず「ペスト、80年、30年戦争などの影響により実践的な医術(外科医)が見直され、社会的評価が高まっていった」ことや、その前段階として「火砲が主力武器となっていったことにより高度な計算式がいるように成った → 16世紀軍事革命 → 近代力学の形成へとつながる数学的な力学と機械学 → 戦争の拡大」などがあった。知識は「知識の系内部で自律的に発展していった」というよりも偶然性の高い外部要因によって医術や数学が発展、再評価されていった所がある。そういった機運を受けて専門知の需要が高まっていき、需要に応じてより多くの職人が必要になった。そのため元来ギルドの閉鎖的知識とされていた職人知の印刷→出版というオープンソース化が許された。単にハードとしての印刷技術ができあがったからといってトントン拍子に知が普及し発展していったわけではない。

加えて言えば活版印刷の主要技術である鋳造活字のための父型製作には金属の取り扱いに習熟した甲冑職人の技術が応用された。戦争と鉱山の街(ex.ニュルンベルク)が活版印刷を産み、この街で印刷と職人的気風に幼少期から慣れ親しんでいたためにデューラーは知識を職人に敷衍することに抵抗がなかった。




そういったいくつかの偶然のめぐり合わせで職人・商人・医者の実践知の基礎として数学や透視図法が発展していった。それらが礎となってやがてくる大きな波、後世に「科学」(science)として伝わっていく知の体系や考え方の大元を構成していったのだ。












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実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html


ギリシア的なイデアを目指す知と実践知の関係。学問が知の権力に流されてしまわないために




中世ヨーロッパの都市世界 - Togetter
http://togetter.com/li/170441


流通・知識職人としての商人とその知識伝承のために要請された大学(ユニバーシティ)の成り立ちなど



スティーブ・ジョブズはどこにでもいる
http://research.ascii.jp/elem/000/000/066/66264/

直近だと「ジョブズってレオナルドみたいだったな」ということで。パッケージャー+ディストリビューターということだとヒエロニムス・コックのほうが近いか




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posted by m_um_u at 21:23 | Comment(1) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
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Posted by 気になるね at 2012年03月09日 02:27
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